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松本清張記念館を訪れた写真を載せたが、そのとき購入してきた「松本清張記念館図録」を見つけた。
松本清張アルバムからはじまり、
Ⅰ小倉時代
Ⅱ芥川賞受賞
Ⅲベストセラー作家へ
Ⅳ新分野への挑戦
と綴り、
「松本清張主要作品系統図」、「松本清張年譜」とまとめられていた。
「松本清張主要作品系統図」をみると、
1951年の「西郷札」からはじまり、未完で終わった1992年の「神々の乱心」まであり、
私の読んだものは、フィクションの1970年前のものが多かった。主に推理小説、「点と線」や「ゼロの焦点」であった。
その他、ノンフィクションの「日本の黒い霧」や「昭和史発掘」も読んだ。
清張作品からは、歴史も学んだが、人間の奥深くに潜む情念や過去の記憶への執着など、表には表れてこないところにも
目を向けさせられたと思う。
まだまだ読み込みが足りないし、もっと多くの作品を読みたいと思った。
清張さんは、1909年の生まれで1950年41歳の時に作家デビューした。
遅咲きではあったが、その後の作品数が多く、日本から世界へ、古代史から現代史へと、
広大な範囲の興味と知識のあった、素晴らしい作家であったと思う。
最後は1992年、82歳で肝臓がんで亡くなった。
先に投稿した松阪市に旅行した時に、本居宣長記念館で購入した本である。
この本の最初のページには「宣長の不思議な世界へ ようこそ norinaga・world 2013 」
と書いてありました。
次のページの館長のあいさつに、その説明がありました。
本居宣長は江戸時代の国学者です。
伊勢松阪の商家に生まれ、34歳で賀茂真淵との出会いを契機に「古事記」研究を本格化させ、
35年の歳月をかけて「古事記伝」44巻を執筆し、72歳でこの世を去りました。
その生涯には、一見すると何も謎はない。本居宣長記念館は多数の資料があり、宣長の家庭環境や少年時代の様子、
古事記研究の動機など、その行動や考えを教えてくれる資料があります。
でも立ち止まって見ると、なぜ200年以上も前の人のことがわかるのでしょうか。
記念館にある「古事記伝」の宣長の筆跡に驚く子供たちがいます。家計簿からメモ、遺言書まで残っています。
ごく普通の生活を営む宣長がいる一方、「物まなびの力」に駆り立てられた、学ぶ歓びに満ちた人生がありました。
この二つを融和させる工夫こそが不思議の正体なのかもしれません。
宣長の不思議は、私たちの人生の不思議でもあるのです。
以上が、館長あいさつの概要でした。
この資料には、宣長の日記や手紙、絵や図など詳細に載っていました。
宣長の生きた時代は18世紀でした。時代は国内も海外も大きな転換点の時代だったようです。
全てを熟読したわけではありませんが、先達の業績の素晴らしさを感じることができました。
この記念館でお土産に「駅鈴」というものを買ってきましたの。
宣長の学者としての象徴ともなった「鈴」は、今も松阪のシンボルとして愛されています。
この「鈴」は宣長が鈴が好きなことを聞いた石見国浜田藩主松平康定公の心尽くしのプレゼントだったということです。
「駅鈴」とは、古代、地方に派遣される役人が身分の証としたもので、隠岐の国造家に伝存したものを模しているといいます。
この像は、「本居宣長六十一歳自画自賛像」といい、宣長61歳の時(1790年)自分で写した肖像だといいます。
この絵に「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」の歌が添えられています。
先日の九州旅行写真には続きがあって、熊本駅に着いた後、鹿児島本線で大牟田へ出て、そこから西鉄天神大牟田線で
福岡県の柳川市に寄った。柳川は水郷の町という知識だけはあり、一度行ってみたかったのである。
駅前の観光案内所で街中案内のパンフレットをもらい、川下りの乗り場へ向かった。
川下りの船に乗り込み、堀の中の水路を船頭さんの案内を聞きながら進んでいった。
その後、船の終点で降り、「御花」(おはな)というところを見学した。
ここは、柳川藩の別邸があったところで、当時この辺りは「御花畑」といわれていたことから「御花」と呼ぶようになったという。
明治時代には立花伯爵家の邸宅となり、池庭「松濤園」を整え、「松濤園」は国指定名勝となっている。
この「御花」のなかに御花史料館というのがあり、そこではじめて「立花宗茂」という武将を知った。
そこにおいてあった特別展「立花宗茂」のチラシによると、立花宗茂は豊臣秀吉による九州平定の先陣として活躍し、
筑後柳川の大名に取り立てられたという。関ケ原の合戦ではその恩義から西軍に加担し、柳川の領地を失い浪牢の身となった。
しかし、その器量を惜しむ徳川家に重用され、改易から20年後、旧領に奇跡の復活を遂げたという。
そこで、トップ写真の雑誌が「立花宗茂」を特集していたので購入した次第である。
その記事の「総論」によると、立花宗茂は「乱世を真っ直ぐに生き、『武人の鑑』と謳われた快男児」だという。
また、豊臣秀吉は「その忠義、鎮西一。その武勇、また鎮西一」と激賞したという。
宗茂の略歴を示すと、
1567年、豊後国国東郡筧にて誕生。実父、高橋紹運。
1581年、立花道雪の養嗣子となる。
1586年、島津軍により、岩屋城陥落。高橋紹運、自刃。
宗茂は立花城を死守。島津軍を追撃し、痛撃を与える。
1587年、独立大名として柳川に封じられる。
1593年、文禄の役、碧蹄館の戦いで、勝機を作る。
1598年、慶長の役、第二次蔚山城の戦いで加藤清正を救援。
1600年、関ケ原の役で、西軍に属す。大津城を攻撃。
西軍敗退で柳川に帰還。加藤清正の説得で開城。家臣とともに、肥後国高瀬に移る。
1604年、5千石で幕臣に取り立てられる。
1606年、奥州棚倉1万石で大名に復帰。
1614年、大坂冬の陣に出陣。
1615年、大坂夏の陣に出陣して活躍。奥州棚倉4万5千石に加増。
1620年、徳川秀忠から柳川への再封を申し渡される。
1621年、柳川城に入る。
1638年、72歳の時、島原の乱鎮圧のため出陣。
1642年、76歳、江戸にて死去。
各地を旅行すると、今まで知らなかったことを知る楽しみがある。
そしてまた調べる。雑学ではあるが、いろんなことを知れるのが私の楽しみである。
先日「絶景」ランキングを記事にしたので、続いて「温泉」のランキングを見てみます。
1位は草津温泉、2位、有馬温泉、3位、別府温泉でした。
いずれも大きな温泉街をもつ温泉地が上位であった。
4位、下呂温泉、5位、箱根温泉、6位、乳頭温泉
やはり、大消費地から近いところが多かった。
ただ6位の乳頭温泉は秋田県であるので、首都圏、中京圏、関西圏からは遠い。
何が良かったのだろうか?
私の持っている「本物の名湯ベスト100」(講談社現代新書)という本では、
「自然環境・滞在ソフト」指標のランキングで1位であった。乳頭温泉郷といって、7つの自家源泉一軒宿が集まっている。
7つは、休暇村乳頭温泉郷、妙の湯、大釡、蟹場、孫六、黒湯、鶴の湯である。国立公園内の美しいブナの森に点在する
一軒宿の集まりである。
四季の変化も美しく、泉質も7種類あり、湯治場、隠れ家的な環境を保っており、貴重な存在である。
私も田沢湖に行った時に寄ってきた。鶴の湯、黒湯、蟹場温泉にはいってきた。
6位まででは、有馬温泉、別府温泉が行っていない。
7位、道後温泉
8位、酸ヶ湯温泉
9位、城崎温泉
10位、登別温泉
ここまで入っている中で、東北の温泉は秋田県と青森県で、大きな温泉街のある温泉ではなく秘湯である。
この後、11位以降には東北から、11位に鳴子温泉、15位玉川温泉、17位蔵王温泉、18位銀山温泉、20位秋保温泉と
ぞくぞく登場する。
わたくし的には、東北にある11位以降では、玉川温泉以外は行っている。
鳴子温泉と秋保温泉は宮城県なので日帰りでも行きやすい。
蔵王温泉と銀山温泉は山形県、これも山形自動車道をつかえばスムーズに行ける。
蔵王温泉は高原にあり、泉質も良く、避暑にもスキーにも行け、多彩な楽しみ方ができるので、好きなところである。
銀山温泉は、大正ロマンの雰囲気の川を挟んだ温泉街が素晴らしい。また、周辺にはそば街道というところがあり、
食の楽しみもある。
東北以外では、12位に由布院温泉、13位が熱海温泉と黒川温泉(熊本県)、16位が白骨温泉(岐阜県)、19位に万座温泉
(群馬県)、20位に伊香保温泉(群馬県)がある。これらのうちでは、黒川温泉と白骨温泉、万座温泉が行ったことがない。
今後の楽しみである。
温泉は日本全国多数あるので、人それぞれにお勧めがあると思う。健康にもよく、人との出会いや交わりもあるので
これからもいろんなところに行って、日本の良いところをたくさん見つけたいと思っている。
それにつけても、早くコロナの影響が少なくなることを祈っている。
この後、このランキングは「町」、「食」、「鉄道路線」、「神社仏閣」がある。
またそのうち書いてみます。