先週行った船岡城址公園の本丸跡には、船岡平和観音像の他に二等三角点と顕彰碑があった。
この二等三角点「船岡」は明治30年(1897年)に設置された。
北緯38度3分13秒、東経140度45分18秒
の位置にあり、標高は136mです。
各々の説明板にもあるように、この供養塔は寛文11年の寛文事件時の原田甲斐宗輔と柴田外記朝意の供養塔です。
寛文事件は「伊達騒動」ともよばれ仙台藩伊達家分裂の危機でもありました。
この事件は、仙台藩三代藩主伊達綱宗の不行跡から始まりました。
その解決のために藩内には綱宗を隠居させるべきとの意見が強くなりつつあるとき、幕府周辺からは伊達家分割の
話が聞こえてきました。そのため、仙台藩の一門・奉行らは綱宗の隠居願と綱宗の実子亀千代の家督相続願を幕府に
提出し、ひとまず危機を脱出しました。
しかし、亀千代擁立による政治は、伊達兵部と田村宗良の後見政治となり、特に伊達兵部による後見専制は藩内一門・
一族との確執が強まり藩政は乱れました。
そのため、一門の伊達安芸は後見政治の非を幕府に訴えるに至り、幕府大老酒井歌雅楽頭邸で裁きが行われることに
なりました。そこで起こったのが寛文事件であり、奉行の原田甲斐が伊達安芸に切りつけ、自分も殺されました。
その時、柴田外記は原田甲斐と斬り合いになりましたが、駆け付けた酒井家の家中の者に原田ともども切り殺された
ということです。
伊達兵部というのは、伊達政宗の十男宗勝で、後見となり一関三万石を治めていました。田村宗良は政宗の次男忠宗の
息子(三男)です。宗良は後見で、岩沼三万石を治めていました。宗良は政宗の妻、愛姫(めごひめ)の実家田村氏を
継いでいました。
伊達安芸宗重は涌谷伊達家四代で、後見による藩政の乱れを谷地の区分問題を材料に、幕府に訴えていました。
この寛文事件をもとにして、山本周五郎が「樅の木は残った」を書き、NHK大河ドラマにもなりました。
この小説により、原田甲斐は逆臣から忠臣に見直されましたが、その中身は小説も読みましたが、私にはいまいちよく
理解できませんでした。
今後もう少し調べてみたいと思っています。