郷が杜備忘録

旅行や読書と日々の行動の記録。
日常のできごとや思い出の写真が中心。 たまに旅行の記事も投稿します!

グルベンキアン美術館(リスボン)

2023-01-09 | ミュージアム

年末から足の負傷のため自宅静養中である。1日も家から出ないで留守番の毎日であります。

本を読んだり、部屋の整理などしていますが、外に出ないのでブログの記事が書けません。

また以前のように過去に出かけた旅行の写真を持ち出し、投稿しようと思いました。

 

今日は、2005年に出かけたポルトガル旅行から、グルベンキアン美術館です。

残念ながら美術館内部の写真はありません。

パンフレット表紙と入場券、地下鉄のチケットなど紹介します。

グルベンキアン美術館は、石油で財を成し、晩年をリスボンで過ごしたアルメニア人グルベンキアンの

コレクションを収めています。1969年創設で、メソポタミア、古代ギリシャ・ローマの古代美術、

イスラム・仏教美術、中世ヨーロッパの美術、19世紀印象派と、その内容、幅、量とも驚くべきコレクションは

遺言によって膨大な遺産とともに、ポルトガルに寄贈されました。

ツアーの中には含まれていなかった場所で、フリーの時に一人で出かけました。

ホテル近くから地下鉄で出かけたようで、チケットが残っていました。

なぜ残っているのかはわかりません。通常は回収されてしまうと思うのですが。

いずれ美術品は素晴らしいものが多かったと思いますが、もう忘れてしまいました。

なぜここに投稿したかというと、海外に行くと有名な美術館は多いですが、例えばルーブル美術館、プラド美術館、

ポルトガルのこちらの美術館はあまり知られていないと思ったので、投稿してみました。

ポルトガルはほかにもたくさん素晴らしいところがありましたので、また次回以降紹介します。

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大隈重信旧宅(佐賀県)

2021-08-16 | ミュージアム

2010年、長崎出張の帰り、佐賀市に立ち寄った。

JR佐賀駅からタクシーで佐賀城跡に立ち寄り、大隈記念館に向かった。

記念館の隣に大隈重信旧宅(生家)があった。

生家の前に、大隈重信の銅像が立っていた。

大隈重信は世界的政治家として、また早稲田大学の創設者として知られる。

 

 

大隈重信誕生の地の記念碑

 

大隈重信は、天保9年(1838)この生家で生まれ、この生家は国の史跡にも指定されている。

大隈は日本初の政党内閣を組閣、早稲田大学の創始者で、佐賀の七賢人の一人でもある。

他の6人は副島種臣、鍋島直正、江藤新平、島 義武、大木喬任、佐野常民である。

 

大隈は、明治元年徴士として政府に召し出され、外国事務局判事となって長崎に勤務する。30歳であった。

翌月、イギリス公使パークスと論争して名を上げたという。12月外国官副知事となる。

明治2年大蔵大輔、明治3年参議、明治6年大蔵卿となる。

明治14年国会開設問題で伊藤博文と対立、10月政変により参議を辞任する。

明治15年立憲改進党を結成し、その総理となる。東京専門学校(のちの早稲田大学)を開校する。

明治21年外務大臣となり、条約改正に取り組む。

明治22年玄洋社員来島恒喜に爆弾を投げられて負傷し、右足を切断する。

明治31年憲政党を結成、第一次大隈内閣をつくる。(日本初の政党内閣)

大正11年1月10日死去、84歳、日比谷で盛大な国民葬が行われた。

 

 

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高野長英記念館、後藤新平記念館

2021-05-30 | ミュージアム

2014年、岩手県奥州市水沢に出かけた。トップの写真は後藤新平記念館です。

奥州市は、かつては伊達藩の一部で、水沢といった。

水沢城は、伊達藩領の北辺鎮護の任に当たり、留守宗利が初代城主となり、明治維新まで約240年続いた。

 

高野長英、後藤新平、斎藤實(まこと)の故郷である。この3名は「水沢の三偉人」と言われています。

記念館前に「高野長英の碑」がある。

高野長英は、1804年水沢で生まれ、世界に目を開き日本の夜明けのために生涯をささげました。

17歳で江戸に出てオランダ医学を学び、さらに長崎に行き、シーボルトの鳴滝塾において、医学と蘭学を学びました。

その後江戸にもどり、開業しながら翻訳を続け、庶民の要求にこたえる学問を続けました。

1838年「夢物語」を書き、これが幕府を批判したとして投獄されました。

1844年脱獄し、数多くの門人や宇和島藩主や薩摩藩主に守られ潜行千里その間も医療や天文学、兵学などの

著訳に力を傾けました。

そして、薬品で顔を焼き、人相を変えて医療を続け、1850年江戸で幕府の役人に襲われ自刃しました。

47歳でした。

上は、後藤新平の像

後藤新平は1857年水沢に生まれる。

1869年安場保和の学僕となる。1874年福島県の須賀川医学校に入学、

医学校卒業後、医師として愛知病院に勤めることになる。オーストリア人のローレツ博士から

西洋医術と衛生学を学びました。24歳で愛知病院長と医学校長を命じられました。

その後、内務省衛生局の仕事をし、ドイツへの私費留学により、衛生制度や社会政策を学び、

帰国後衛生局長となりました。

1898年、台湾総督府民政長官を命ぜられ、新渡戸稲造とともに製糖業の振興にあたりました。

1906年、南満州鉄道株式会社の初代総裁

1908年、逓信大臣となり、その後内務大臣、外務大臣をも務めました。

1920年、東京市長

1923年、関東大震災が起こると、帝都復興院総裁になる。

1924年、東京放送局初代総裁となる。

1929年、71歳で亡くなる。

近代日本を築くことに活躍し、東京の近代都市化、都市計画の推進、ラジオの普及と放送の活用に努力した

東北の生んだ偉大な巨人でした。

 

斎藤實の銅像

斎藤實は1858年水沢で生まれ、海軍兵学校を卒業、アメリカ留学を経て、

日清、日露戦争のあと海軍大臣、海軍大将となりました。

1919年朝鮮総督を勤め、1932年第30代内閣総理大臣となりました。

1935年、内大臣となりましたが、その翌年の2・26事件で凶弾に倒れました。78歳でした。

 

 

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世嬉の一 酒の民族文化博物館

2021-05-09 | ミュージアム

岩手県一関市にある博物館です。

昔ながらの酒造りを紹介する施設、昔の農機具や生活器具も展示されています。

東北最大級の酒蔵で登録有形文化財にもなっています。

この中に日本一小さな文学館「文学の蔵」があります。

「いちのせき文学の蔵」は、2006年4月開館。1989年から市民運動で文学館づくりを

続けてきて開設したといいます。

一関は、古都平泉への文人の頻繁な訪れや藩政時代からの学問・文学の伝統など豊かな文化水脈の

慈育のせいか、多くの文学者を輩出しており、またゆかりの文学者も多彩です。

・ゆかりの文学者

 島崎藤村、井上ひさし、色川武大(阿佐田哲也)

・一関出身の作家

 加藤楸邨、三好京三、光瀬 龍、遠藤公男、及川和男、内海隆一郎、中津文彦、星 亮一、馬里邑れい

 

この中には、私も知っている作家の方もいました。

星 亮一さんは会津関係の本などを書いているので会津の人かと思っていたら、一関出身でした。

中津文彦さんも義経北行伝説や歴史物を書いているので読んだことがありました。

勉強になったよいところでした。

また、この一角にあるレストランで地ビールも飲みましたが、美味しかったことが忘れられません。

 

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斜陽館

2021-04-30 | ミュージアム

2010年12月、津軽鉄道ストーブ列車に乗って、太宰治記念館の「斜陽館」に行ってきた。

 

五所川原市の「立佞武多の館」では、勇壮なたちねぶたの山車も見た。

撮る位置が近すぎて、山車の迫力がそがれて、うまく写せなかった。残念

実物はもっと大きくて迫力満点でした。

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