最近読んだ雑誌、本から2018.2.4
司馬遼太郎さんの本もたくさん読んできた。でもすべて読んでいるわけでもない。
戦国時代、幕末維新期、日露戦争期、「この国のかたち」などの随想、「街道をゆく」など
好きな本ばかりである。
その博学な知識には驚かせられるし、知らなかったことがいろいろ知れるのが楽しみでもある。
以下の雑誌は、父の蔵書の中から出してきて読んでみた。父も好きだったのである。
1.中央公論 平成8年9月号臨時増刊
1996年9月1日 発行
「司馬遼太郎のあしおと」
司馬遼太郎の短編
(1)「割って、城を」(初出 『別冊文藝春秋』昭和38年3月号)
関ヶ原の戦いで主家を失った、善十こと鎌田刑部左衛門と茶人大名古田織部正との話である。
河内と大和の境の竹内峠に世から隠れていた善十のところに、仕官を勧めに使者が来た。
鎌田刑部左衛門には百戦不敗の閲歴があり、槍組を指揮させては、絶妙の戦上手であった。
旧主宇喜多家で大禄を食んでいたころ、故太閤から「天下第一の物仕」という褒辞さえもらった
ほどである。
古田織部正は、太閤の茶坊主であったが、利休七哲の一人であり、太閤在世中、御伽衆という役で
三千石にまで累進した。慶長五年の関ヶ原の役では東軍につき、役後家康から元の知行地である
伊勢松坂で一万石に加増され、諸侯に列した。
茶人が乱世生き残りの武者を求めるのは何故か、善十は古田織部正に会いに伊勢松坂に向かった。
織部正に会い仕官した善十は、善十の持っていた飯茶碗を異国渡来の陶器と目利きされ、「軒蓑」
と名付けられた。そしてその茶碗を取り上げたのと交換に、越中則重の脇差をいただいた。
元和元年五月、大坂夏の陣のとき、大坂城落城の直前に、古田織部正は京都にあって身柄を
拘束された。織部正が大坂方に内通していて大坂方と共謀して東軍を挟撃する計画があったらしい。
娘婿の鈴木左馬助は断首、その子はじめ一族も同様、しかし織部正は事前に逃げている。
古田織部正として、元和元年六月堂々と切腹したのは、ありようは善十であった。
織部正はのち薩摩に流寓し、その墓と言われる石が西南の役前まであったという。
※戦国大名と茶道、利休と秀吉など、城や合戦だけでなく、戦国時代には現代にもつながっている
ものがあるようだ。
織部正には、茶器を割って金で継ぐという技術というか、好みがあったようである。
芸術を突き詰めると、創作されたものを割って、つないで自分のものにするという暗い愚劣な
行為を行うこともあるようだ。だが、そこに前衛というものがあるのかもしれない。
織部正は家康が固めた天下を割って、作り直してみたかったのかもしれない。
(2)「雨おんな」(初出 『講談倶楽部』昭和36年12月号)
おなんは出雲の歩き巫女であった。村々を歴訪して、出雲大社の神符を売ったり、死者に祈祷し、
口寄せをして金をもらうのである。
時は関ケ原の合戦の直前、戦場となる美濃関ヶ原の近くの牧口村に、おなんと老人の与阿弥、
童女の市の三人が遭遇した。
村人が逃げてしまった屋敷に仮の宿としていた三人だが、夜中武者の行軍に目が覚めたおなんは
宇喜多中納言家の家来、稲目佐馬蔵に犯された。稲目は「合戦の前におなごができると、よい武運
に当たるという、縁起が良い」といって出ていった。
その後、後からその家に入ってきた福島左衛門大夫家の家来、尾花京兵衛に「戦場を前に女と
ちぎると、よい武運がつく」といわれ抱かれてしまう。
後から分かったことだが、この日の朝から昼過ぎにかけて、関ヶ原の野で、天下分け目の大合戦が
あったという。
それから半年たって、おなんらは伊勢、志摩、紀州を経て大坂に出て、備前岡山の城下に入った。
岡山城には宇喜多家はなく、小早川秀秋が57万石の大封の主となっていた。
おなんは稲目の消息を訪ねた。しかし、宇喜多家の御家中は離散しており知るものはなかった。
しかし出入りの商人たずねると、あまりいい評判はなかった。おなんは稲目の武運が良かったかが
知りたかった。
それから冬を越して、また廻国の旅に出て、安芸広島の城下に入った。尾花京兵衛の消息を訪ね
たのである。尾花の場合は、彼の主人、福島正則は関ケ原の勝者であり、功により尾張清州から
安芸49万8千石の太守に栄達しているので、尾花京兵衛は足軽大将になっていた。
訪ねて行ったおなんに、はじめは思い出せなかったようだが、関ヶ原での戦ばなしをしている間に、
初戦の大乱戦の中で生き残ったことに、その武運はおなんのおかげがあったことを思い出していた。
そして、そのままおなんは尾花の女になって広島に落ち着いた。
それから二年後、広島城下に一人の乞食が現れ、相生橋のたもとに寝転んで、「この首進上」の
高札を立てて、槍での勝負を挑んでいた。
この乞食を打ち取るように命じられたのは、尾花京兵衛であり、打ち取りに出かけたが相手が
手強く、顔を見られたうえ逃げられてしまった。その時の乞食は関ケ原で戦った稲目佐馬蔵であった。
稲目佐馬蔵は関ケ原で敗退ののち戦場を離脱するときに、尾花京兵衛に遭遇し一騎打ちをして
尾花を仕留めようとしたが、それをやめて尾花を残して戦場を去っていたのであった。
おなんは二人のいきさつを聞き、佐馬蔵を追っていこうとするが、佐馬蔵は「おれには武運が
なかった」と言って去っていった。
司馬遼太郎さんの本もたくさん読んできた。でもすべて読んでいるわけでもない。
戦国時代、幕末維新期、日露戦争期、「この国のかたち」などの随想、「街道をゆく」など
好きな本ばかりである。
その博学な知識には驚かせられるし、知らなかったことがいろいろ知れるのが楽しみでもある。
以下の雑誌は、父の蔵書の中から出してきて読んでみた。父も好きだったのである。
1.中央公論 平成8年9月号臨時増刊
1996年9月1日 発行
「司馬遼太郎のあしおと」
司馬遼太郎の短編
(1)「割って、城を」(初出 『別冊文藝春秋』昭和38年3月号)
関ヶ原の戦いで主家を失った、善十こと鎌田刑部左衛門と茶人大名古田織部正との話である。
河内と大和の境の竹内峠に世から隠れていた善十のところに、仕官を勧めに使者が来た。
鎌田刑部左衛門には百戦不敗の閲歴があり、槍組を指揮させては、絶妙の戦上手であった。
旧主宇喜多家で大禄を食んでいたころ、故太閤から「天下第一の物仕」という褒辞さえもらった
ほどである。
古田織部正は、太閤の茶坊主であったが、利休七哲の一人であり、太閤在世中、御伽衆という役で
三千石にまで累進した。慶長五年の関ヶ原の役では東軍につき、役後家康から元の知行地である
伊勢松坂で一万石に加増され、諸侯に列した。
茶人が乱世生き残りの武者を求めるのは何故か、善十は古田織部正に会いに伊勢松坂に向かった。
織部正に会い仕官した善十は、善十の持っていた飯茶碗を異国渡来の陶器と目利きされ、「軒蓑」
と名付けられた。そしてその茶碗を取り上げたのと交換に、越中則重の脇差をいただいた。
元和元年五月、大坂夏の陣のとき、大坂城落城の直前に、古田織部正は京都にあって身柄を
拘束された。織部正が大坂方に内通していて大坂方と共謀して東軍を挟撃する計画があったらしい。
娘婿の鈴木左馬助は断首、その子はじめ一族も同様、しかし織部正は事前に逃げている。
古田織部正として、元和元年六月堂々と切腹したのは、ありようは善十であった。
織部正はのち薩摩に流寓し、その墓と言われる石が西南の役前まであったという。
※戦国大名と茶道、利休と秀吉など、城や合戦だけでなく、戦国時代には現代にもつながっている
ものがあるようだ。
織部正には、茶器を割って金で継ぐという技術というか、好みがあったようである。
芸術を突き詰めると、創作されたものを割って、つないで自分のものにするという暗い愚劣な
行為を行うこともあるようだ。だが、そこに前衛というものがあるのかもしれない。
織部正は家康が固めた天下を割って、作り直してみたかったのかもしれない。
(2)「雨おんな」(初出 『講談倶楽部』昭和36年12月号)
おなんは出雲の歩き巫女であった。村々を歴訪して、出雲大社の神符を売ったり、死者に祈祷し、
口寄せをして金をもらうのである。
時は関ケ原の合戦の直前、戦場となる美濃関ヶ原の近くの牧口村に、おなんと老人の与阿弥、
童女の市の三人が遭遇した。
村人が逃げてしまった屋敷に仮の宿としていた三人だが、夜中武者の行軍に目が覚めたおなんは
宇喜多中納言家の家来、稲目佐馬蔵に犯された。稲目は「合戦の前におなごができると、よい武運
に当たるという、縁起が良い」といって出ていった。
その後、後からその家に入ってきた福島左衛門大夫家の家来、尾花京兵衛に「戦場を前に女と
ちぎると、よい武運がつく」といわれ抱かれてしまう。
後から分かったことだが、この日の朝から昼過ぎにかけて、関ヶ原の野で、天下分け目の大合戦が
あったという。
それから半年たって、おなんらは伊勢、志摩、紀州を経て大坂に出て、備前岡山の城下に入った。
岡山城には宇喜多家はなく、小早川秀秋が57万石の大封の主となっていた。
おなんは稲目の消息を訪ねた。しかし、宇喜多家の御家中は離散しており知るものはなかった。
しかし出入りの商人たずねると、あまりいい評判はなかった。おなんは稲目の武運が良かったかが
知りたかった。
それから冬を越して、また廻国の旅に出て、安芸広島の城下に入った。尾花京兵衛の消息を訪ね
たのである。尾花の場合は、彼の主人、福島正則は関ケ原の勝者であり、功により尾張清州から
安芸49万8千石の太守に栄達しているので、尾花京兵衛は足軽大将になっていた。
訪ねて行ったおなんに、はじめは思い出せなかったようだが、関ヶ原での戦ばなしをしている間に、
初戦の大乱戦の中で生き残ったことに、その武運はおなんのおかげがあったことを思い出していた。
そして、そのままおなんは尾花の女になって広島に落ち着いた。
それから二年後、広島城下に一人の乞食が現れ、相生橋のたもとに寝転んで、「この首進上」の
高札を立てて、槍での勝負を挑んでいた。
この乞食を打ち取るように命じられたのは、尾花京兵衛であり、打ち取りに出かけたが相手が
手強く、顔を見られたうえ逃げられてしまった。その時の乞食は関ケ原で戦った稲目佐馬蔵であった。
稲目佐馬蔵は関ケ原で敗退ののち戦場を離脱するときに、尾花京兵衛に遭遇し一騎打ちをして
尾花を仕留めようとしたが、それをやめて尾花を残して戦場を去っていたのであった。
おなんは二人のいきさつを聞き、佐馬蔵を追っていこうとするが、佐馬蔵は「おれには武運が
なかった」と言って去っていった。
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