郷が杜備忘録

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相模のもののふたち2

2022-09-24 | 読書
前々回紹介した永井路子さんの「相模のもののふたち」のなかで、8編の中の残りの4編についてその後読了したので、感想をお知らせします。

残り4編とは、
3、地下に歴史の館は眠る  土肥 土屋 岡崎
4、中世ロマンのふるさと  曽我 二宮
5、宿命の明暗を背負って  大庭 懐島
6、山の武士団の興亡    波多野 河村

前回読んだ三浦半島の三浦、和田は、頼朝の挙兵時に最初から頼朝側についたが、中央部の梶原、海老名、渋谷は始めは去就を明らかにしていなかった。
それは、中央部の今の藤沢近くに平家方の大場景親がいたからかもしれない。

今回読んでみると、伊豆と相模の境のところにいた、土肥実平が大きな働きをしていたことがわかった。
頼朝挙兵にあたって、相模の三浦一族と土肥実平が大きな功績があった。土肥は相模の南西部に勢力を張っていた中村宗平の次男で、戦いのあった石橋山の近くの今の湯河原あたりを拠点にしていた。
石橋山で敗れた頼朝は付近を逃げ回り大杉の洞窟に隠れていたところを梶原景時の機転で救われているが、それ以上に地元の土肥の働きと真鶴半島に用意した船による脱出で命を救われている。
土肥実平はその後も頼朝近くで仕え、平家追討では軍奉行や軍監を務めている。
なお、土肥は所領を土肥郷、早川荘、小早川荘も与えられ、その後裔は安芸国の沼田荘、竹原荘にもおよび、そこから後代の小早川氏につながっていくという。

ところで、なぜ伊豆との境にいた土肥実平が頼朝側についたか、相模中央にいた中村景平は中村氏本家、土屋宗遠は中村氏の三男、その近くにいた岡崎義美は中村宗平の娘を妻としており、三浦義明の兄弟でもあった。
中村氏は相模川東部の大庭氏と境を接し、相模川西側では北部の波多野氏とその一族の河村氏、松田氏とも土地争いをしていたという。波多野氏は源氏とはそりが合わず、反頼朝側についたようである。
中村氏周辺の状況と岡崎義美が三浦氏につながっていたということもあり、中村氏、土屋氏、土肥氏は頼朝側に加わったようである。

また、曽我物語で有名な曽我氏は伊豆の伊東氏に近い存在であった。
なお、相模中央部の大場景親は反頼朝、伊豆の伊東祐親も頼朝に娘をとられたこともあり反頼朝であったので、頼朝挙兵時に東側の大庭勢が西に駆け付け、伊豆から頼朝を追った伊東勢とが追いかけ、石橋山の合戦になったという。

しかし、頼朝が房総半島にわたり東国武士団を結集して鎌倉に戻ってくると、大場景親、伊東祐親もとらえられ処分されることになった。

ところで、この大庭景親は大庭氏の次男で、兄は景義といった。頼朝挙兵時、兄景義は頼朝側に加わっている。兄景義は代々源氏に仕えていたから源氏につくと言ったら、次男景親は平家に恩があるので平家側につくといい、恩を大事にしたという。また、景親は都で平家の繁栄を見ており、流人の頼朝に平家を倒せようとは思っていなかったようだ。

そしてもうひとつわかったことは、この大庭氏は鎌倉権五郎景正の子孫であったということである。景義、景親は権五郎景正の孫の子供たちのようである。
実は宮城県の蔵王町に「鎌倉温泉」というのがあり、そこが権五郎景正ゆかりの温泉と言われていたのである。











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