ある人のブログの「『人生案内』なぜ自死はいけないのか」と題する記事を読ませてもらった。
それによると、読売新聞に次のような投稿があったらしい。
「自殺はよいことか悪いことかと問われれば、もちろん悪いこと、ただ自死を考える人はものすごく悩んで生きるのがしんどくなってその道を選択してしまっているのではないでしょうか、なぜ自死はいけないことなのか教えていただきたいです」(50代前半 パート女性)
以前にもこのブログで書かせてもらったことだが、当時福島大学で「経営学」の教授をしておられた飯田史彦さんの話によると、学校で先生が子供たちに「いじめは駄目ですよ」「自殺はいけませんよ」というと、子供たちは素直な気持ちで「どうして?」と聞いてくるらしい。そして、その「どうして?」に対して、先生たちも答えることができないらしく、飯田史彦さんに、答えられるように何か参考になる本を書いて欲しいと多くの要望が寄せられたとのことだった。そして出版されたのが「親が子に語る人生論」と題する本だった。その後たしか題名が変わっていたと思う。(わたしは3度読ませてもらいました)
悲しいことに、わたしはいまだかつてマスコミに登場する著名人も、あるいは他の誰であっても「なぜ自殺はいけないのか」その理由を語っているのを耳にしたことはただの一度もない。口では「いけない」と言いながら、その理由について語らないのは、「人間は死ねばおしまい」と思っているからに違いない。「死ねばおしまい」なら、「死ねば、それとともに苦しみも消える」わけだから、「自殺はいけない」という理由もみつからない。だから、その理由を語ることもできないということになる。そのくせ、多くの人が「自殺はいけない」と言うのは、口では「死んだらおしまい」と言いつつ、心のどこかに、「死んでもおしまいではない」という思いがあるからだろうと私は思う。
さて、それはともかくとして、私の大好きな本『神との対話』という本に書かれていたことだが、人間は「善」とか「悪」とかについてのこだわりが強い。そしてその為に人類は多くの争いを起こしているとのこと。
そして、それに対する神の処方箋は何かというと、善悪で物事を考えるのではなく、「自分が目指している方向に照らし合わせて、そう考えることは役に立つか、役に立たないか」、つまり「善悪」ではなく、「役に立つか」「役に立たないか」で考えることを提案していた。
それでいくと、いろいろ原因があるにしても、自殺は今の苦しみから逃れたいという願望から自殺という考えが浮かぶと思うのだが、しかし、「楽になる」ことを目指して自殺するというのは、どうやらあまり役に立たないらしい。楽になるどころか、むしろ反対に、死んだ後、「とんでもないことをしてしまった」という強烈な後悔と、人前に出ることもできない恥ずかしさから、文字通り「穴があったら入りたい」心境で、自ら真暗闇の中に閉じこもり、長い間、後悔の念で苦しむらしい。
だから、自殺は「いけない」というよりも「役に立たない」というのが正解のようだ。
もし、自殺願望のある人、あるいは自殺願望なくとも、死んだ後どうなるかについて興味ある人は、飯田史彦著『生き甲斐の創造Ⅱ』を読まれることをお勧めしたいと思う。
此の本の中に、失恋して発作的に自殺してしまった青年が、是非とも父母にメッセージを伝えてほしいと飯田史彦に依頼してきたこと、そして父母と自殺した青年との幽明を境にした会話が詳しく書かれているし、もう一つは自殺した夫が、自殺してしまったことをひたすら奥さんに謝りたくて飯田史彦にメッセージを頼んできた夫のこと、そして残された奥さんとの会話が詳しく紹介されていて、どちらも涙なしでは読めない感動があるし、とても興味深いものがあります。
感動的というと誤解を与えそうですが、それは苦しみを乗り越えた後の話であることをお断りしておきます。
ちなみに飯田史彦は「魂のメッセンジャー」として若い頃から、無料で自殺した魂から頼まれるままに全国に出向いておられ、そんなことが10年前で100回を超えると書いておられた。40代半ばごろまで福島大学で「経営学」の教授をしておられましたが、今は大学教授を辞してフリーで活躍されている。
以前に書いた記事ですが、よろしければお読みください。