人は生活している時の自分と、思ったり考えたりしている時の自分と、二つの自分がいる。
例えば、部下に対して怒ってしまった自分。その一方、あとで悔やんであれこれ考えている自分。こういう場合、どちらがより本当の自分だろうか?
あるいはまた、毎日神想観をしようと思っても、ついついさぼってしまう自分と、どうして、自分はこうなのか、自分は意思が弱いのか、どうしたら毎日できるようになるのか、などと思いつつ、とにかく毎日神想観ができるようになりたいと考えている自分。こんな場合、どちらが本当の自分だろう、とわたしは考える。そして、後者が本当の自分であるとわたしは思いたかった。
つまり、生活している時の自分と、思ったり考えたりしている時の自分と、どちらがより本当の自分かといえば、わたしは、思ったり考えたりしている時の自分こそ、本当の自分であると思いたかったのである。それは、外見にあらわれている自分ではなく、思ったり考えたりしているそちらの方の自分も見てもらいたい、わかってもらいたいという神への無意識の願望があったかもしれない。そして、その考えはまちがっているとも思えなかった。ならば、他に対しても同じである。結論は、「外見では人はわからない」ということになる。そんなところから、自然に、人は何を思ったり考えたりしているのだろう、などと、思うようになった次第である。
しかし、その一方で、「行動を見ればその人の性格がわかる」とも言われる。わたしもそう思っている。これは先に書いたことと明らかに矛盾している。
すると、また振り出しに戻る。人は生活している時の自分と、思ったり考えたりしている時の自分と、二つの自分がいて、この場合、どちらがより本当の自分といえるだろうか?
あなたは、どう思いますか?
ところで言いたいことはこういうことなんです。
人の寂しさというのは、思うようになれない自分への寂しさと、互いに理解し合えない、誰かとピッタリと心が重なり合わない、そんな二つの寂しさがあるんだろうと思います。
さて、こんな記事でも、もし、俺と同じことを考えているなどと思ってくれる人がいたら、とてもうれしい。