20、21日と一泊見真会、そして21日の夜は出講。明日からは3日続きで剪定の仕事が入っています。暇なようでわたしもけっこう忙しくしていて有難いことです。
昨日の誌友会参加者は男5人、『神真理を告げ給う』の第五章をテキストに、ところどころを輪読しながら話を進めさせてもらいました。そして帰りの車の中では、良い話が出来たといい気持ちになって帰ってきました。
≪神は愛であり、神罰はない≫
○”わたし”は”愛”であるから、誰に対しても苦しみを与えるような神罰を課するように宣告を下したことはないのである。
「神は神罰を下さない」というのは、生長の家では当たり前のようになっていますが、これはとても大切なところで、こういう考えがあると、自分自身を責めたり裁いたり罰したくなったり、また他をも罰したくなったりするわけですから、当たり前のように聞き流していてはいけないところだと思います。神が神罰を下すという誤った信仰が、人間の「悪い奴は罰しなければならい」という考えになり、暴力を肯定するようになるんですね。それが度を超し、集団的になってきた時、テロや宗教戦争へと発展するんですね。
以前、ある会場ではじめて生長の家の誌友会に来られた方がいて、その人は宗教は大嫌いだが、友達に誘われたので仕方なく付いてきたということでしたが、その人が、わたしに「世界の歴史を見ると、いろんな時代に宗教戦争というものがあるが、それについてどう思うか」と質問されたことがあったのですが、宗教戦争は「神は罰するものだ」という考えが原因なんですね。しかし、それは神に対する間違った信仰であって、神はただ愛する。無条件に愛するというのが、神様の愛なんですね。
たとえばわたしが友達に2回、3回と忠告して、相手がその忠告をきいてくれなかったとしたら、わたしなら「あんな奴はもう知らん、ほっとけ」となりますが、神様はそうじゃないないんです。わたしたちが神様の「こうすると素晴らしくなれるよ」という教えをいくら無視しても、神様は「あんな奴はもう知らん」などとは思わない。人間でも、良い母親なら、いくら子供が不良に走っても、その子供をみ捨てるどころか、ますます愛せずにはいられない。人間の母親でさえそうなら、神様の愛ならもっと深く大きいはずで、そのことを親鸞聖人は「大悲倦くことなく我を照らす」と言われたそうで、私の好きな言葉の一つになっています。
≪泥中に咲く蓮華≫
○泥中にある蓮が、時来れば、美しき葉茎(ようけい)を水上にあらわし、宇宙の実相をあらわす蓮華荘厳の姿の花を開くのである。これが神の御業である。すべての人間はみな荘厳なる神の子の実相の花を開かす時が来るのである。あなた達よ、恐れず、憂えず、悲しまずに進み行け、必ず神の御業があらわれる。そしてその神の御業は、あなた達の実相の中に既にあるのである。
そろそろ蓮の花が咲く季節になってきましたが、ここは、とても美しく感銘させられるところですね。谷口雅春先生の『実相研鑽』という本がありますが、その中に、「宗教体験を得るいろいろな道程」という小見出しがあり、そこにも感銘させられることが書かれているので紹介させてもらいます。
そこには、まず釈迦やキリストが一生懸命修行をして悟りを開いたことを典型的な宗教体験として話され、その次に、パウロは何も修行せず、反対にキリストの伝道の邪魔ばかりしていたこと、また、スター・デーリーも修行どころか強盗犯だったこと、それにもかかわらず、パウロも、スター・デーリーもキリストの幻を見て、いっぺんに心が転向して、キリストの福音を述べ伝える者になったことを述べられ、春に咲く花もあれば、夏に咲く花もあるという具合で、それぞれに花咲く時期があり、そして各人のそれぞれの神の子なる実相が花開く時期が来たら、修行も何もしないでも、パッと宗教的体験を得るのだと書かれていました。そして、わたしが感銘したのは、その次に書かれていることでした。
○われわれの天分が熟してきたら、われわれは、本来神の子なんですから、自然と宗教的体験を得るわけでありますが、それまではそこへ到達するための過程として準備的にわれわれが日常生活中で何かさせられているのであります。結局われわれは自分が生きているようですけれども、本当は日々の日常生活の中で神様に導かれ生かされているのであります。この日々の生活の中のあらゆる大小の体験は、普通は宗教的体験と認められないけれども、日常生活そのものの中に自分の内部に宿る神性仏性が顕れてくる尊い道程――道すがら――みたいなものがあるわけです。
ですから、私たちが失敗したり、落ち込んだりするようなことがあっても、そういう日常体験の中に、「自分の内部に宿る神性仏性が顕れてくる尊い道程――道すがら――があるわけです」ね。だから、「恐れず、憂えず、悲しまずに進み行け、必ず神の御業があらわれる。」と示されているわけです。
とまあ、こんな話をさせてもらいました。さも自分が知っているように話していますが、断るまでもなく、みんな本で読んだ知識ばかりで、話しながら、自分が教えられているような有難い気持ちになり、その一部をここに書いておこうという気持ちになったしだいです。書きながら、また神の愛に包まれているような気持になってきました。
さて、話は変わりますが、今朝、家内が「これ、タカシ君からの父の日のプレゼントだって」と言って、テーブルの上の小さな包みを指差しました。それを手に取って見ていると、目がうるうるしてきて、こんなことで目がうるうるとは自分も年をとったと思いました。以前ならプレゼントのその包みを開いて、すぐに何が入っているのか見るのですが、今回は恋人からのプレゼントでもあるように、まだ開かないでいる。息子は今34歳。来年6月に結婚予定。まだ早いが、おめでとう!
息子からのプレゼント