気の向くままに

山、花、人生を讃える

「自由」

2010年07月24日 | 人生
「あなたは今までの人生で、何を学んだか?」と、もし人に聞かれたら、わたしは即座に「自由」と答えるだろうと思う。

これを学んだのは実に大きかった、と自分でも思う。
これほど自分自身を即効的に「楽」にしてくれたものはありません。

家内に対して自分が思っていた「こうでければならぬ」が解けた時、即座に、自分自身が解放されたように楽になりました。

家内がそれによって変わったかどうかということはぜんぜん関係ありません。
だから、相手に対する「こうでなければならぬ」という縛りは、実は自分自身を縛っていたことが本当によくわかりました。

他に対する「こうでなければならぬ」がほどけたとき、はじめて、自分自身が「自由」に生きる権利を与えられていることが実感としてわかり、その「自由」に神に感謝したくなりました。

おかげで、職場でもこれによって自分自身が楽になり生かされてきたことがたびたびありました。


「相手を自由にしてあげる」


まだまだ序の口程度のものですが、これからも、さらに諸々の事柄に、あるいは子供に、また他の方に、どれだけ、自分の中に潜んでいる「こうでなければならぬ」をなくしていけるか、これは、自分の課題というよりも、楽しみです。

一つ一つほどけていくたびに、さらに自分自身が生長し、大きくなっていくことでしょう。
想像するだけでも、うれしくなってきます。

孫の誕生日セレモニー

2010年07月23日 | その他
各地に災害をもたらした豪雨も、わが地域では比較的穏やかな、そして珍しいぐらいに梅雨らしい梅雨となりました。そして、梅雨明けと同時に、これも珍しくいっぺんに夏の太陽が照りつける真夏がやってきました。

17日は孫の1歳の誕生祝いで、我が家にやってきました。
5月の連休にも来ているのですが、まだ記憶がないので、「誰?」という表情でしばらくジーと私たちを見ます。そのあどけない澄んだまなざしの愛苦しいこと!

家内が「一生円満に過ごせますように」との願いを込めて一升餅をつき、それを背負わせるのだ、と来る前から張り切って準備しておりました。重さ1.4キロあるとのこと。
長男からは、最近ほんの数歩歩けるようになったと連絡があったばかり。
そんな孫に一升餅を背負わせるというので、「本気か?」と聞くと、「本気」と言う。
「ギャクタイじゃないか!」と言っても「セレモニーだからいいのよ」と一向気にしない。

昼食が終わってしばらくしていよいよそのギャクタイセレモニーがはじまりました。

かわいそうに孫は、寄ってたかって何をされるのかと不安そう。
言葉は話せなくても、気持ちがそのままあどけない表情に現われる。

そして、とうとう声を出して泣き出してしまった。
大人たちは、「首が絞まるから」と、また餅を包む風呂敷を解いて包みなおし、首が締まらないよう後ろから餅を手で支えつつ背負わせようとする。泣きやんでいた孫が再び顔を赤く染めて思いっきり泣き出します。

ああ、かわいそうに。
泣きやんでからも、孫は「いったい、何をしてくれるんだ!」という表情。

     

ご機嫌取りに、
「いない、いない」と言って私がテーブルの下に隠れると、孫もしゃがんで探そうとします。
「ばあ!」とやると、孫が笑う。笑うと嬉しいので、また繰り返す。
遊んでやっているつもりが、どちらが遊んでもらっているのかわかりゃあしない。

翌日、家内がパソコンで孫に写真を添付してメールを送りたいから、そのやり方を教えてくれというので教えてやったが、そのときの孫宛てへの文言にはちょいと感動とさせられました。
その中には、
「○○くんが泣いているときも笑っているときも、じいちゃん、ばあちゃんは嬉しいからね」というような文言があり、男も、女も、このような感情からこそ人は豊かに育てられるんだなあと感じ入りました。

誰だ?女は感情的で困る、なんて言っていた輩は。
えっ、俺? いやあ、オレは知らないぞ!


その後すぐに、長男の嫁から孫の写真を印刷したはがきが届きました。
それには、
「お母さんの暖かい手料理と、お父さんが入れてくれるおいしいコーヒーが、育児に追われる今の私にとって、何よりの栄養です」とあり、また、ちょいとほろり。

そんな自分に年を感じて、ちょっと寂しさも・・・。

神なり親父を取り戻さねばと、あら違った、カミナリ親父を取り戻さねばと思った次第。

夢の中で

2010年07月21日 | 人生
(夢の中で)

おい、アゲハ、お前、青虫から変身したんだろう?俺にその変身の仕方を教えろよ。

いいわよ、簡単だから。
「汝の心を肉体より一層高きものに一転せよ」ですよ。

なんだ、それは聖経の言葉じゃないか。

そうよ、不満?

いや、不満じゃないが、それで変身できるのか?

あら、信じてないの?
勿論できますとも。
あなたは、あなたの真の姿はともかく、あなたが思う通りの人間なのよ。だから、一層高き真の姿を見つめれば、その時、あなたは一層高き別の人間になっているのよ。ただ、その後ですぐ俺はダメだと思ったりすれば、その時は、別だけどね。

そう、そう、それが問題なんだよね。どうすれば、その気持ちが持続できる?

う~ん、それは、あなたがその気持ちを持ち続けるしかないわね。

だから、どうすればできる?

自分で決意するんですよ。あなたそれを求めているんでしょ?
だったら、決意してそうしなさいよ。
これはワクワクする冒険よ。
だって、変身したかったら最初から羽根があったんでは変身できないよ。
変身するためには、最初は青虫になって地面を這わなきゃダメよ。
地面を這う虫から、空を舞う蝶になることはとってもワクワクすることよ。

なるほど、おもしろいことを言うじゃないか。

あなた、山が好きなんでしょ。だったら話が早い。
はじめから、誰かに山の頂上にひょいと置かれたら、どうなのさ?ちょっとも嬉しくないでしょ。
やっぱり下から登れば登っただけの楽しさがあるんじゃないの。
空を飛ぶ鳥だって、はじめから飛ベる鳥なんていやしないわ。
初めて空に向かって飛び立つときのあの不安とトキメキ、あの昂揚感があなたに分かるかしら。
あなただって本当はそうなのよ。
人間はそうしたいから、自ら望んでこの世に生まれてきているのよ。
それを忘れてしまっているから、人生は苦だ、なんて言い出すのよ。

じゃあ、今のこのままでいいというのか?

大丈夫よ。「神の子」が「神の子でなくなる」なんてことはできないわ。
そのまま一歩一歩進んで行けば、ちゃんと見えてくるんだから。
それに、青虫だから、まだ麓を歩いているから、「神の子じゃない」なんてこともないわ。
動かない一粒のタネだって生きているって知ったばかりじゃないの。
今、その花を毎日見てるでしょ。

お前は気持ちが暗くなることはないのか?

ないわよ。
だって私たちは「蝶の道」と言って、ある範囲の明るさのところしか飛ばないんだもの。

へー、そうなのか?

そうよ。

ところで、なんとかという蛸が、ワールドカップのドイツの試合をみんな当てたそうだし、決勝戦までも勝敗の行方を当ててしまったそうじゃないか。あれはどうしてだい?

そんなこと私に聞かれたって知らないわよ、蛸に聞いてちょうだいよ。

なんだ、蝶のくせに冷たいじゃないか。

「チュウ、チュウ、チュウ、蛸かいな」の、当てずっぽうが時たま当ったんでしょ。

う~ん、当てずっぽうで的中率100パーセントとは確率が良すぎる気がするんだが、本当に超能力があるんじゃないか?

うらやましい?

いや、うらやましいわけじゃないが、本当にそういう能力があるじゃないかと思うんだが・・・。

それなら、あなただって、それに誰にでもあるわよ。すべては神さま、仏様の示現じゃないの。
それより、さっきの「汝の心を肉体より一層高きものに一転せよ」というのは、わかったのかしら?
どんなときにも、あなたの真の姿は、罪なき、穢れなき、そして、傷つかざる、病まざる、喜び、ときめき、ワクワクし、眩しく輝く「神の子」なのよ。いつも、それを思い出し、忘れないことね。

お前、どこかで立ち読みしたな。

あら、ばれてしまったわね。
まあいいじゃないの、幸せならば。
じゃあ、またね。バイバ~イ。

(目が覚める)

「山頂に達しないでも・・・」

2010年07月16日 | 人生
伊吹山に登って9合目に着いた時のこと、バスで来たらしいおばさんの一人が、下から登って来る登山者たちを見おろしながら仲間の一人に、「あの人たちは何が楽しくてしんどいのに歩いて登るんだろうねえ」言っているのを偶然後ろから耳にしました。
その実感のこもった言い方が可笑しくて,思わず噴き出しそうでした。

家内は結婚前は山登りが大好きだったようで、彼女のアルバムは山の写真が多く、その家内から、よく山登りに行こうと誘われました。が、その頃はわたしも「この暑いのに、何が悲しくて荷物を背負って山登りなんかしなきゃいかんのか。裸になって海で泳いでいた方がよっぽどいい」などと言っていたものです。

また、雨降りや寒い時期にバイクに乗っている人を見ると、いかにも大変そうに見えて、わたしは「もの好きな人がいるもんだなあ」と思っていました。
ところが、自分が(50CCですが)いざ乗るようになると、これが実に楽しいのに驚きました。
寒さものかわ、雨ものかわ、という感じでした。
乗用車だと眺めのいいところがあっても、なかなか立ち止まりにくいものですが、バイクなら、いつでもどこでも、良いところがあればすぐ立ち止まって眺めることができるし、風を切って走っていると、乗り物に乗りながら、そのまま自然と一体となって走っているようなところが何とも言えずいいものだと思いました。
そして、バイクの楽しさを味わいつつ、我ながら照れ臭く思いながら「今まで、もの好きだなんて言ってごめんなさい」と、心の中で謝ったりしました。

春先のこと、わたしが庭で草むしりをしていると、隣の主人が「それ、草生えてるの?」というので「生えてるよ」というと、「そんな小さいもの、もっと大きくなるまでほっておけけばいいのに・・・。大変だねえ」と言いました。
なるほど、隣の主人から見れば「大変」に見えるらしい。
ところが、やっている本人には、これも気分転換になってなかなか楽しいもの。

側には大変そうに見えても、当人には「楽しい」ということはよくあることだと思う。
また、本人にとって昔は大変と思っていたものが、今は楽しくなったということもよくあること。
そして、逆も真なりですね。

以前、「いろどりひかる」さんのブログで、
「以前は女に生まれたことを悔やんでいたが、今は喜べるようになった」という意味のことを書いておられて、大変感動しました。
これは右から左へと言うように簡単なことではないと思いますが、このような話は聞くだけでもこちらの気持ちが鼓舞され、壁のように見えていたものが、越えられそうな気がしてきてうれしいものです。

「喜べるようになる」というのは人間が共通に持っている「願望」ではないかと思う。

生まれたことを喜べるようになりたい。
仕事が「楽しい」と言えるようになりたい。
神想観が「楽しい」と言えるようになりたい。
それから、何にも心配しなくていいようになりたい、とか。

先日、山登りで疲れない登り方という番組を見ましたが、要は、「登りも下りも急がないこと」でした。
人生も同じだなと思いました。気持が「急くのは禁物」ということかなと思いました。
事が成るのに時期があることを信じて、「待つ」ということも大切ではないかと、わたしなどが偉そうなことを言えたものではないですが、振り返ってそう思います。

昨日、テレビを見ていたら、駅員に理由もなく暴力をふるう人が増加しているというニュースがありました。30代、40代が多いらしいですね。なんだかちょっと気の毒な気がしました。心理学者は、この年代が子供を抱え、職場でも一番大変な時期でストレスが多いのだろうと話していました。

『生命の実相』の中には「人間が心配していることは、重要なことの前には吹き飛んでしまう小さなことばかり」という意味のことが書かれていたのを思い出しますが、実際、わたしの経験からしてもその通りだなあ」と実感させられます。
とは言っても、このような達観した気持ちを持ち続けられたら苦労はないと思いますが。

しかし、たとえ心配していることが現実になったとしても、それが現実になったから大変かというとそうでもなく、谷口雅春先生が教えて下さっているように、心配している間は想像して大変そうですが、当事者になってしまうと、たいしたことはなかったということはいくらでもあると思います。
わたしも心配したことのほとんどがそうでした。振り返れば、ずいぶん、無駄な心配をしてきたものだなと思います。

私の自宅は、7年前の年末の昼間、子供の部屋の電気ストーブの過電流が原因で出火して家事になりました。
(わたしは長男にはよく怒りましたので・・・。そして怒らない人になるというのも切実な願望の一つでした)
わたしも家にいたのですが、カーテンに燃え移って天井まで火が上がり、結局消し止めることが出来ずに消防車のお世話になりました。

経験した人でないと実感として分かりにくいと思いますが、わたしは燃え上がる火を見ながら、「すべてが変わる!」という予感に、未知へのときめきを感じていました。

また、その後は家が焼けたことでリセットされたように空っぽになり、軽くなり、それだけでなく、「失ったものは何もない!自分のうちにすべてがある!」という実感も湧いてきて、今は黙阿弥となりましたが、ともかく、ちょっとした悟りの境地にさえなりなりました。

職場の代表で見舞に来てくれた人が、わたしだけならともかく、家族みんなが楽しそうに焼け残った使えそうなものを干したりしていたのを見て、あれには驚いた、ということを後で不思議そうに話してくれました。(念のために言えば、保険は入っていませんでしたよ。)

ただ悲しかったのは、位牌を焦がし、神棚まで焦がしてしまったことが、自分の不徳で本当に申し訳ないことをしたと、それだけが悲しいことでした。


なんだかあらぬ方向に話がそれてきましたが、最近、聖経を読んでいて、
「汝の心を肉体より一層高きものに一転せよ。一層高きものこそ真の汝なり」という言葉が、心に響きます。と同時に、「山頂に達しないでも、麓の一歩一歩にも星の光は射す」の先生の言葉がしみじみ思い出されます。

その部分を調べてみると、次のように書かれていました。

○山頂に達しないでも、麓の一歩一歩にも星の光は射す。どこにいても神を拝することはできるのである。何処にも天国がある。渓川のせせらぎに宿る星の光にも、草の葉末の露に宿る星の光にも天国は宿っている。
                         (『生命の実相』37巻 107ページ)

とありました。

すべての人が心穏やかでいられますように。

有難うございます。合掌

昨日の記事への追加

2010年07月10日 | 映画
滝村 仁さんのサイン入り「地球交響曲第七番」のパンフレット表紙。



写真に写っているのは、この映画の登場人物の一人であるアンドルー・ワイルさん。
この映画ではじめて知りましたが、早くから統合医療、自発的治癒力を提唱・啓発している人らしい。
日本教文社からも「人はなぜ治るのか」という本が出版されているようで、滝村さんの推薦図書に挙げられていました。

「地球交響曲(ガイアシンフォニー)」第七番

2010年07月09日 | 映画
先日のしじみさんのブログを読んで、映画「地球交響曲(ガイアシンフォニー)第七番」が始まっているのを知りました。

この「地球交響曲(ガイアシンフォニー)」という映画は、多くの映画館から「こんな映画では観客が集まらない」というので、上映を断られ、やむなく有志による人たちによって自主上映されている映画です。

しかし、わたしも第一番から四番までは見ていましたが、とても良い映画で、今回しじみさんのブログですでに「第七番」が上映され始めているのを知って、是非見たいと思い、さっそくネットで近くでの上映日を調べ、今日見に行ってきました。

いやあ、良かった!
どう良かったかは言わないことにします。(実は言えないのですが)

画面は通常の映画の半分ほどの小さなサイズながら、映像も内容もとても素晴らしく、是非、お薦めしたい映画です。
今日の「第七番」も良かったのは勿論ですが、はじめての方には「第一番」「第二番」もお薦めです。
興味をもたれた方はネットでお近くでの上映場所や上映日を検索してみてください。

そして今日は映画の後で思いがけないサプライズがありました。
監督の滝村 仁(70歳)さんの1時間の講演もあり、第七番のエピソードなどを聞くことができました。
監督には「ガイアのささやき」という本がありますが、これも素晴らしいものです。

終了後、パンフレットを買って滝村さんにサインと握手をしてもらいました。
サインは「魂の友へ」と書かれ、日付と監督の名前が書かれていました。
家内に、「ミーハーだね」と笑われました。ははは。


以下は、パンフレットの滝村監督の言葉より抜粋したものです。


「神社は日本人にとって、原始的直観を新たにする霊的元気回復の場である」
日本の神社に関してこれほど明快・的確に表現した言葉を他に知りません。彼が(註:ジョセフ・メイスンのこと)外国人であり、ジャーナリストでありながら、ケルトの魂を内に秘めていたからこそ言い得た珠玉の言葉である、と言えるでしょう。

「第一番」のエンヤの章で触れたように、ケルトの自然観と日本神道の自然観の間には、深く通じるものがあるのです。
「原始的直観を新たにする」とか、「霊的元気回復の場である」とか言うメイソンの言葉は、まさに私が「第七番」を通して、観客おひとり、おひとりの中に甦ってほしい、と願っていることでした。そこで初めて「第七番」の中に「霊性の原風景」という章を設け、日本神道の源流を描いてみたい、という発想が生まれたのです。

しかし、この発想はもともと矛盾に満ちています。神道には「神ながらこと上げせぬ」という考え方があります。その意味は、神道の真髄は言葉で解説したり、説明したりできるものではなく、ただひたすら、気配によって感じ取るものである、というような意味です。すなわちメイソンの言う原始的直観が冴えわたって来たとき、自ずと感得されるのが神道の真髄なのです。それを、ドギュメンタリー映画という目に見える世界、耳に聞こえる世界で描こうとするのですから、初めから無理と言えば無理な話です。

しかし、振り返ってみると、映画「地球交響曲」は「第一番」の時から、目には見えないもの、耳には聞こえないものを描こうとしてきた映画でした。だからこそ逆に、わたしたちにとって最も生々しい存在、すなわち、今この地球に現実に生きている人の生き方を通して描こうとし続けてきたのです。
以下略。


今回は伊勢神宮の月次祭、他の神社の神事の様子なども収録されていて、「目に見えないもの、耳に聞こえないもの」が今まで以上に強く感じさせられるものでした。

そうそう、滝村さんは「こういう時代だからこそ、“生かされている”ということを思い出してほしいですね」と言っておられました。

ついに花が・・・。

2010年07月06日 | 
今朝、待ちに待った朝顔がついに花を咲かせました。


先ずは全体図を。
こんなに茂りました。朝顔が二輪咲いています。
 

裏から眺め、表から眺め・・・。
 

フウセンカズラ(ようやく伸びはじめてきました)


フウセンカズラの花と実。花の直径はわずか5ミリ程度。
風船のような実は3センチ程度で、今はまだ4個のみ。
 


2日前には、家内が朝日のあたる東側にネットを2つ張り、一つはゴーヤ、一つは昼顔を植えたとのこと。麻のネットは大きなホームセンターで二か所とも売り切れになっていたそうで、最後に個人経営の園芸の店でやっと買えたとのことでした。


追伸
今14時30分ですが、花(朝顔の)を見に行ったらもうしぼみ始めていました。

あら~、なんとはかないこと!
これから、午後からは見ないようにしま~す。