偶然、ここへきて下さったあなたへ。
電球が明るく灯るのは、発電所から電気が送られ、電球の中を電気が流れているからであり、水道の蛇口から水が出てくるのは、水源地から水道管を通って水が送られているからです。
ところが、ここに笑い話のような面白い話があります。東京オリンピックのとき、ホテルに泊まったあるアフリカ人選手が蛇口をひねると水が出てくるのに驚き、「世の中にはこんな便利なものがあるのか、是非国へもって帰りたい」と思ったらしく、「あれはどこに行けば買えるのか?」とフロントスタッフに質問したとのこと。これは蛇口が水を生み出す機械と勘違いした笑い話のような実話だそうです。
わたしは19歳のとき、ある宗教の門を叩いたのですが、その時、地元の青年幹部らしい人と喫茶店で話をしました。その時、話のきっかけは覚えていないのですが、多分、「人間とは何か」について話をしていたのだろうと思います。わたしが「いや、片手が無かろうと、片足がなかろうと、そんなことは人間の値打ちになんの関係もないはずだ」と言うと、相手の人は「いや、片手、片足がないよりも、やはり五体満足の方がいい」という話になったことがありました。
相手の青年幹部は、「人間の値打ち」を「人さまのお役に立てる」という意味に解して五体満足の方がいい、と言ったのだと思いますが、わたしの方は、もっと本質的な意味での「人間の値打ち」についてでしたが、わたしも、なぜ「片手、片足がなくても人間の値打ちに関係がない」と言えるのか、その理由は説明できませんでした。
ところが、のちほど生長の家の『生命の実相』を読むことになり、その理由がとてもよく解りました。
人間は平等だといいますが、肉体が人間なら平等であるはずがありません。男と女は、肉体の面から明らかに平等ではないし、また同性間で比較しても、運動能力や知的能力、その資質等、明らかに個人差があって平等とは言えません。しかし人間は、そういう個人差があるのを認めながら、一方では本来的と言ってもよいほどに、平等であることを要求する気持ちがあります。これは何故だろうか。
それは「本当の人間」は、そのような外見的なものではなく、肉体を超え、美醜を超え、運動能力や知的能力をも超えて、その奥にあって流れている「いのち」であり、しかも、その「いのち」なるものは等しく神のいのち、仏のいのちだからではないでしょうか。
例えれば、電灯の形はいろいろ違っても、その奥に流れている電流(いのち)は同じ源から来ているのであり、その電流に匹敵するものこそ、人間の本質だから・・・。
と、生長の家ではこのように教えていただいているのですが、あなたはどう思われますか。