気の向くままに

山、花、人生を讃える

シルバーのこと

2010年01月29日 | その他
シルバー人材の仕事をするようになって2ヶ月が過ぎました。
剪定班ですが、わたしは見習いということで、まだ剪定には携わっておらず、午後から剪定された枝をかき集める下積みの仕事をしています。つまり、枝をかき集める仕事をしながら、先輩たちがどのように剪定するかを見て覚えるというわけです。しかし実際には自分の仕事をしながら先輩たちの仕事を見ている余裕はないので、9時過ぎには自分の勉強のために作業現場に出て、剪定の仕事を見せてもらっています。そして、ただ見ているだけというのも退屈なので、見ながらぼちぼちと仕事もさせてもらっています。

時給は750円と安く(段階的に上がりますが)、頭で考えたらバカらしいようなものですが、これがまた楽しいときているから有難いですね。人生は頭で想像しているだけではわからないものだとつくづく思います。まさか時給750円で、しかも60になって、こんな下積みのような仕事をして楽しいとは、普通なら想像できないですよね。まさに身体が喜ぶという感じです。

シルバーというといかにも年寄りくさい感じがしていましたが、実際に仕事を始めてみたら年寄りくさいどころか、みんな「元気はつらつオロナミンC」のCMに出演してもらいたいぐらいに元気で、本当にこれもうれしい誤算でした。見ていて気持ちがよいぐらいで、まだ2ヶ月ではありますが、シルバーで働くようになって本当に良かったなあと思います。

剪定班は自分以外で6人ですが、それぞれに当然ながら個性があり、そのキャラクタの違いを見ているだけでも面白い。65歳を超えた人たちの、このような生き生きと働く姿を見て、この年代の人達の魅力を初めて知りました。今までは、余生を送っているというイメージでしたが、余生というイメージではないですね。まさに第二の人生を歩んでいるという感じです。第一と第二の違いをあげれば、家族の長として一応の責任を果たし気軽になっているということでしょうか。しかし、働き、学び、技術を磨くという意欲には何の違いもありません。

「ところ変われば品変わる」と言いますが、まさにその通りだなということをつくづく感じました。
若い人たちの中では、良いにつけ悪いにつけ「年配者」にならざるをえませんが、シルバーは皆その年配者だから、その「年配者」ということもなくなってしまう。だから、みな若い。(笑)
まさに相対的です。

先日、はじめて知って驚いたのですが、剪定班の一番の年配者は、班長をしていますが、80歳でした。いやあ、驚きましたねえ。働きぶりから、とてもそんな年配者とは思えませんでした。それを知って、わたしなど本当に小僧だなと思いましたよ。

正直、「ああ、60になっても働かなきゃあいかんのか」と思っていましたが、今はそんな気持ちはどこかえ吹き飛んでしまいました。そして、すっかり「よーし、俺も負けずにやるぞ!」という気持ちになっています。

ただ、剪定作業はあと3回残すのみで、次の再開は9月からとのことで、半年遊んでしまうところや、今回風邪をひいてしまって、冬の寒さなどの心配な面もありますが、ともかく今は、楽しみな方が断然勝っていて、9月からは私も午前中は剪定作業に加えてもらえるとのことなので、それまで、できるだけ木の名前を覚え、剪定の勉強もしておこうと思っています。そして、今から9月を楽しみにしています。




     天地の創造主は
     唯一つの神にませば
     天地はただ一つに
     いと妙に調和満つる   (「実相を観ずる歌」より)


これを見ていて、「見れば見るほどいい男・・・」という昔の古い歌を思い出しましたが、これは、見れば見るほど、いい歌詞ですね。

もやもやしていても、いっぺんにスキッとするような・・・。
混沌が、たちまち一本に統べられる感じがします。

読んでいただき、ありがとうございます。
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実相を観ずる歌

2010年01月27日 | 信仰
咳が出るので、神想観を休んでおりました。
代わりに、椅子にもたれたまま「実相を観ずる歌」を繰り返し念じていましたが、これはいいですねえ。
この歌詞のスバラシサをあらためて思いました。

どの一節もそれ自体で完結しているのにはじめて気づきました。
完結しながら、次の小節へとつながって行くんですね。
だから全体を繰り返すのもいいし、ある一節のみを繰り返し念ずるのもいい。

毎日家にいるようになって、ニュースを見るようになりましたが、最近は特に鳩山さんの答弁にはイライラさせられるばかりで心の健康によくない。小沢さんの答弁には・・・いや、よそう。

みんな影の世界のこと。
影を見て悪い方にいちいち心を動かされていては、イライラが募るばかりである。
いっそ見なければいいのですが、気になるので見てしまう。というより、見る暇があると言った方がいいかもしれないが、一つイライラしたら、二回は「実相を観ずる歌」を唱えつつ、実相へと心を転じましょうと思ったことでした。

それにしても、沖縄や八ッ場ダムに関わる当事者の皆さんは、国の政策に翻弄されつづけて大変なことだと思う。誰もが、賛成だ、反対だの運動に巻き込まれずにはいなかっただろう。そして、自分自身でも考えなければならない。考えて結論を出しても、二転三転する。
「もう、翻弄されるのはごめんだ。何にしても早く、決着してもらいたい」「住民同士で争うのはもう嫌だ」という声も聞かれた。よくわかる気がします。自分が、そんな立場に立たされることがあったら、今の自分ならあっけなく、巻き込まれて翻弄されてしまうことだろう。ニュースを見ているだけでもそうなのだから。いつでも青空を映しておける自分にならなければ、そして、そのためにも、いつでも心を一層高き所へ転ずるよう訓練しておかなければと思いました。



       握手して別れ惜しむや鰯雲   (59年)


昭和59年と言えば、まだ、35歳。
まだまだ、新婚だったな。(笑)
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古い句帳から

2010年01月21日 | その他
先日、寝る前に本箱の中をのぞいていて、使っていた俳句帳が目にとまったので、寝床に入って見ました。俳句帳と言っても、大部分は船員の機関誌から気に入ったものを抜き書きしていたものですが、自分が作っていたものもけっこう入っており、見ていたら懐かしいやら、可笑しいやらで、大いに楽しませてもらいました。

今日はその中から自分が可笑しくなったもの、なかなかいいじゃないかと思ったものをいくつか紹介させてもらいます。

      ハイテクや変わらぬものは冬木立     (昭和62年頃)

      あじけなやテレホンカードの冬景色    (昭和62年頃)

      師走ゆえたまるも早き埃かな       (昭和62年頃)

どうです?
「なんでもいい」とばかりに詠んでいて初々しいじゃありませんか。

      乗船の日を間違えて初時雨        (昭和62年頃)

そそっかしくも乗船日を間違えて1日早く出かけたことがあるのですが、岸壁にいるはずの船がいないので、乗船は明日だったと気づいて、休みを1日得したような気分になって、喜び勇んで名古屋港から引き返しました。そうしたら、ちょうど初しぐれが来たというわけで、その時の様子が昨日のことのように思い出されてとても楽しかった。

      二日酔い見あげる朝の冬の雲       (昭和61年12月)

いやあ、こんなこともありましたねえ。
乗船中のことで、仕事の前に寒いデッキに出て酔い覚まし・・・。

      清原が泣いて深まる秋の色        (昭和62年)

これは、清原が西武在籍中の日本シリーズで、9回裏の巨人の攻撃で打者あと一人という時、守備についていた清原が感極まって涙顔になり、それが印象的だったもの。とは言っても、これでは説明しないとわからないのでその頃はダメだなと思っていましたが、今見ると、わかっている自分には、これも楽しくていいじゃないかと思いました。

      中国人、日本人?お国聞かれん若桜    (昭和61年12月)

練習船ではオーストラリアのシドニーへ行きましたが、土産物店では、よく「チャイニーズorジャパニーズ?」と聞かれました。それを思い出して作ったもの。

      秋雨や異国のシーマン傘持たず      (昭和60年11月)



      海草の標本綴じて夏終わる        (昭和60年11月)

これは小学生の夏休みの宿題で、親父に教えられて海草の標本を作ったのですが、それを思い出しながらひねったもので、今回、一番のお宝発見と喜んだものでした。

これらは、それまで自分が句作してもなかなか俳句になってくれないので、めったにつくらなかったのですが、それでもこの頃の2,3年は、練習として比較的作っていたようでした。
今回、それらの句を見て、自分が作ったものながら、あの小学生の俳句に接したときのような、新鮮な楽しさを感じ、また懐かしい思い出でもあり、本当にお宝を発見したような気持になりました。メモ用紙でなく、ノートに書いたおかげだなと思いました。

またこれからも、気が向いた時に紹介させてもらいます。
見ていただき、有難うございました。
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こころ

2010年01月16日 | 信仰
いやあ、毎日寒いですねえ。
今日も朝から日が射していますが外気は冷たく、予想最高気温は6度とのこと。
さすがにちょっと風邪気味で喉を痛めました。
しかし、たいしたことはなく、昨日も午前中剪定しました。
いよいよ来週からシルバーの仕事が始まりますが、来週は寒波も去って暖かくなるとのことなので、やれやれです。

正月明けから毎日昼食は焼き餅を食べていますが、我ながらよく飽きがこないものと感心しています。昨夜は家内がまた餅をついてくれました。これで追加のもちつきは二度目です。

     餅焼いて食べる幸せ知る今年

ハイチの皆様、すみません。不況で路頭にさまよう皆様すみません。


さて、聖経には「こころ」とフリガナされているところがたくさん出てきますが、使われている漢字はいろいろです。何種類あるか、ご存知ですか? と言っても、わたしも数えたわけではありませんで、徳久先生の「真理教室」と題する連載を読んではじめて教えられました。

○まず『甘露の法雨』から。

     想念(こころ)に従い
     時に従い
     必要に従いて
     肉体と境遇とに様々の状態を顕せども、
     生命そのものは病むに非ず、
     生命そのものは死するに非ず、
     想念(こころ)を変うることによって
     よく汝らの健康と境遇とを変うること自在なり。

ここでの「こころ」は「想念」が使われています。


○次は『天使の言葉』から。

     汝ら近頃の心霊科学の実験を見しことなきや。
     ・・・中略・・・
     尚、凝念(こころ)の力によりて   (以下略)

ここでの「こころ」は「凝念」が使われています。

     肉体を去りたる『念』は、
     その念の力にてなお一つの個性を持続し、
     幽界に於いて生活をつづけん。
     汝らの霊魂と称するもの是にして、
     『念(こころ)』の浄まるに従って
     それ相応わしき高き霊界に入り、
     『念(こころ)』の浄まらざるものは、
     それに相応わしき環境を『念』の力にて仮作し、
     その環境にいて苦しまん。        

ここでの「こころ」は「念」が使われています。

     人この理をさとれば
     意(こころ)のままに自己の肉体を支配して変化せしむることを得ん。
     ・・・中略・・・
     万のものことごとく意(こころ)に従って出現し、
     用足りておのずから姿を消す。       

ここでの「こころ」は「意」が使われています。


○次は、『久遠いのちの歌』から

     この身は心性(こころ)なし、
     心性(こころ)ありと見ゆれども
     瓦礫の如く心性(こころ)なし。

ここでの「こころ」は「心性」が使われています。


○次は『続々甘露の法雨』から。

     すべての病を癒す道は
     先ず汝の感情を平和ならしむるにあり。
     ・・・中略・・・
     悲しみによる心の傷より生じたる病いは
     悲しみに代うるに悦びの情(こころ)を起こせば癒えん。

ここでの「こころ」は「情」が使われています。

     病気の伝染を聴きて恐るれば
     恐怖の心境(こころ)の影としてその病気はあらわれん。

ここでの「こころ」は「心境」が使われています。


以上をまとめると、同じ「こころ」と読ませていても、「想念」「凝念」「念」「意」「心性」「情」「心境」とあり、さらに「心」もあり、8種類が使われているとのこと。
また、「こころ」が二行並ぶところには、一行目を「心」と表記し、次の行では「こころ」と表記されているところもあるとのこと。

     彼の肉体の耳は聾いたれども
     心の耳ひらけたれば、
     こころの耳はピアノの鍵盤に触るるに従いて
     その微妙なる奏曲を分別し得たるなり。

徳久先生はこのような事例を示されたのち、谷口雅春先生が「私たちにその真意を教えるために、いろいろの字を、そのところに相応しく使い分けておられるのです」と書いておられましたが、わたしもこれを読ませてもらって、谷口雅春先生の「道を伝える」の真剣さに、あらためて頭が下がる思いがしました。ありがとうございます。
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甦る古代のハイ・ウエイ

2010年01月08日 | その他
今日は寒い北風もおさまり穏やかに晴れたので、朝から我が家の剪定。
今までは、剪定するだけならまだしも、剪定したものをかき集めてゴミ袋に入れるのが面倒で、シルバー人材に頼んでいました。今回も昨年の早くから頼んでいたので、今さら自分でやるというのも申し訳ないので、自分でやりたいのを我慢していましたが、構わないとのことなので年末からぼつぼつやり始めたという次第です。

今までは面倒とばかり思っていたのですが、これからは自分も剪定の仕事をしていくとなれば話が違う。面倒どころか練習を兼ねて自分でやりたくて仕方がないのだから、我ながら可笑しい。

終えた後で、仕上がった木をながめている時の気分がまたいいですねえ。
あそこがもうちょっとという感じはあるけれども、ともかくやったなあ、という満足感があります。
描き終わったばかりの絵を見ている時と同じ気持ちかな。


話は変わりますが、年末に「古代のハイ・ウエイ」とかいう番組があったので、録画して見ました。
見る前はどこか外国の話かなと予想とていましたが、日本の話でした。

正確なことは忘れましたが、飛鳥時代、都から東は東海道、中仙道、北陸道、そして関東からは奥州まで延び、西は山陽道、四国を通って九州太宰府まで、幅10メートル以上、場所によって多少の違いはありますが、道幅が13、14メートルもある、ほぼ一直線の道が通じていたとのことでした。その道路が、あちらこちらで見つかっており発掘されているとのこと。

航空写真に一直線に伸びる黒っぽい二本の線が映っていたので、何だろうというので発掘してみると、地表に埋もれていた古代の高速道とも言うべきものが出て来て、黒っぽく写っていた二本の線は、道の両側に造られていた側溝だったとのことでした。

その道は何層にも突き固められて、水はけもよく、雨が降ってもぬかるんだりしないとのことで、まさに古代ハイ・ウエイ。その総延長距離は、北海道を除く現在の高速道路にほぼ匹敵する6000㎞とのことでした。いやあ、すごいですねえ。

このような幅の広い道が、直線的に都から地方へ延びていたとのを想像すると圧巻ですね。
車もない時代に、何のためにこのような道が・・・という話が出ていました。
それは今となっては謎とのことでしたが、一つの推論として、朝鮮半島の白村江の戦いで敗れ、高句麗が日本へ攻めてくるかもしれず、その備えとして、大量の人や軍需物資を速やかに九州まで移動できるようにということで、造られたかもしれないという話が出ていました。

この道の建設を企画推進したのは天智天皇あるいは天武天皇だろうということでしたが、まあ何にしても、その頃に、このような道が造られ、今もその道があちらこちらに眠っていると思うと、ロマンをかき立てられますね。当時の荷車の音が聞こえてきそうじゃありませんか。
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明けましておめでとうございます。

2010年01月05日 | 信仰
明けましておめでとうございます。
皆様、今年もよろしくお願いします。

大晦日には雪が降り、元旦、起きれば10センチほどの積雪でした。





昼過ぎには子供たちがやって来て、揃って初詣をし、夜は義母も迎えてスキ焼でワイワイ。
今年は孫が主役で、孫(5ヶ月)が笑うごとに「笑った、笑った」と、大人たちがはしゃいでいました。

娘からはお年玉をもらってしまいましたが、恥ずかしいやら嬉しいやら、複雑な気持ちでした。(笑)
生前は父親から最後までお歳暮(お金)をもらっていましたが、こちらがプレゼントしたことは一度もなかったので、それに比べて、娘の親思いのやさしさには感心させられました。同時に、「喜んでいただくのが親孝行」とばかり思っていた自分をいたく反省させられ、親孝行を娘に教えられた気がしました。

さて、NHKでは新しい大河ドラマがはじまり、その第1回目が放送されましたが、最初から魅せてくれましたねえ。これからが楽しみですが、同じく年始には「知られざる決断」という番組があり、録画していたものを昨日見たのですが、これは幕末の尾張の殿様、徳川慶勝(よしかつ)の「知られざる決断」を紹介されたものでした。

その「知られざる決断」とは?
徳川慶勝は、官軍がまもなく江戸攻めに京から押し寄せてくるという時、岩倉具視から「徳川方に味方されるならそれもよろしい。お好きになされよ」というような手紙を受取り、自分の立場としては、徳川方として一戦交えたいのは山々だったのでしょうが、内戦を拡大して虎視眈々と日本を狙う外国の餌食になってはならないとの考えから、官軍側に付く決断をし、それだけではなく、東海道、中仙道の諸大名を説得し、すべての大名が官軍に味方することになり、官軍は争わずして東海道と中仙道を進軍することができ、それだけ新政府樹立が早くなったのでした。

もし立場に執して、一戦を交えることになっていたら、他の諸大名も呼応したりして、その影響ははかり知れないものがあったと思います。

また、その前の長州征伐の折には、徳川慶勝が幕府側の総大将になっていたのですが、ゆるゆると進軍し、広島城にも好きな写真を撮りながら1ヶ月も滞在したりしているので、わたしは幕府も、この頃には本当にだらしなくなっていたんだなあと思っていたのですが、実際はそうではなく、この大切な時世に無益な内戦をしている時ではないという考えで、ひそかに、薩摩の西郷隆盛に手紙を出し、裏から長州藩に和平交渉に応ずるよう説得を頼んだりしていたとのことでした。
もし、総大将の徳川慶勝が平和的でなく好戦的だったら、外国連合軍との馬関戦争で力が衰えていた長州は決定的なダメージを受けていたかもしれません。

また維新後には、財政に困窮していた新政府に、少しでも役に立てばと金の鯱鉾を新政府に寄進したとのこと。また、職を失った藩士たちのことを心配し、北海道開拓の道を開き、私財を投じて彼らの生活を助けたとのことでした。

いやあ、志士たちも素晴らしいが、殿さまも素晴らしい人がいたもんですねえ。
さすがは日本! と思いました。
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