今まで知らなかったという人の参考になれば幸いです。
左から順番にアヤメ、カキツバタ、花菖蒲です。
下の写真はそれぞれの花の模様をアップにして違いをわかりやすくしたもの。






アヤメは黄色の網目模様、
カキツバタは白、
花菖蒲は黄色、とのことです。
昨日は名古屋でも最高気温31度を記録した。
また街なかの太陽の下でニュースキャスターが持っていた温度計では36度だった。
その暑い中、昨日はグリーン・カーテン用のネットを張った。
まだネットを張るには早かったが、とにかくはじめてのことなのでどんな感じになるか見たかったし、うまく張れるかも早く試したかったので、思い立って昼過ぎからやり始めた。
スムーズには行かなかったが、15時30分には終了した。
暑い中の作業だったが、できあがったのを見て大満足。
これです。
ネットはうっち~まま様にいただいた助言を参考にして、市販ですが麻ひものものを使用しました。
写真は外から見たものだが、内側の部屋から見ると、これだけでも気分的にけっこう涼しい感じになりました。
右側の小さく葉を出しているのはフウセンカズラで一週間前に芽を出しました。
エアコンはほとんど使いませんが、暑いのは暑いので、どんな涼し気な感じになるか今から楽しみです。
今、庭にはニッコウキスゲの仲間のエゾカンゾウが目を楽しませてくれています。
妹が北海道旅行に行った時のお土産で、もう20年以上になりますが、このレモン色が良く、朝夕は特に目に沁みるようにきれいです。
今月の9日には、家内の母の米寿の祝いがありました。
義母は若い時から生長の家に触れていて、おかげで今も健康そのもの。
上品でいつも笑みを絶やさず、孫たちからも好かれ、いてくれるだけで有難いおばあちゃんです。
義兄が用意したビンゴケームもあって、ひ孫から大人まで、めでたく楽しいひと時でした。
右はカメラを向けられた時、わざとおどけた顔をしたのですが、できあがったのを見たら、普段の顔よりずっと良かった、というわけでご披露します。
ケッサクの一枚、笑っていただければ幸いです。
手元にある『量子論を楽しむ本』(理学博士・佐藤勝彦)には、量子論の導き出した自然観を紹介して、次ように書かれています。
○私たちはあまり疑うことなく、「客観的な事実」というものが存在することを信じています。古典物理学でも、自然界のあらゆる事物は私たち人間と無関係に存在していて、私たちはその様子を客観的に観測できるものだと考えていました。でも、量子論はそうした客観的事実の存在を否定しました。自然は観測によって状態がはじめて決まるものであり、誰も観測していない時にはすべては決まっていない。確定した事実は何一つ存在しないというのです。
また、次のようにも書かれています。
○物と心、自然と人間などを分けて取り扱うのが二元論であり、これらを不可分のものとして取り扱うのが一元論です。客観的事実の存在を否定した量子論は、自然と観測者を分けて考える二元論的な世界観を退け、観測対象である自然と観測する私たちとを一つのセットとして考える、一元論的な自然観を示すのです。
というように、「観測対象である自然と観測する私たちとを一つのセットとして考える」と書かれています。つまり、「物心一如」を説いているわけですが、生長の家では立教のはじめから、谷口雅春先生が「自然は外に対立的に存在するのではなく、自分の内にある」、あるいは「観ることは創ることだ」と教えて下さっているので、なにも驚くには当たらないかもしれません。しかし、ここに引用したのは、一般向けにやさしく書かれているものの、まぎれもなく物理学を紹介した本ですから、ちょっと驚きます。
私たちが学校で学ぶ物理はいわゆるニュートン力学で、量子論に対して古典物理学と呼ばれるそうですが、こういう自然観を導き出した量子論があることも若いうちに教えておくべきだとつくづく思います。そうであれば科学信仰の人にも、仏教の「三界は唯心の所現」の教えや、またイエス・キリストの数々の奇跡も、科学の世界に反するものでなく、でたらめな空理空論でもないことが納得されやすいと思います。
量子論というと、あまり私たちには身近でないように思えますが、このように自然観の変革を促したばかりか、私たちの生活をも大きく変えてきました。いろいろなエレクトロニクス製品、携帯電話やパソコンなどは量子論の産物だし、大きくは宇宙の始まり、星々の生成の過程などの研究にも大きく貢献しています。
しかし、量子論といえどもまだ完成された理論というわけではなく、一つのことが分かれば、また新たな疑問が出てくるという具合で、そこからいろいろな世界観が生まれ(多世界解釈など)、ますます神秘の様相を帯びてきている感があります。
さて、前回の記事にも書きましましたが、アインシュタインは、そのような量子論の自然観に納得できず、量子論発展の親であるニールス・ボーアと議論を戦わし、その論争は興味深いものがあるのですが、最後はニールス・ボーアに軍配が上がったとのこと。
(アインシュタインの指摘した疑問に対して、ニール・スボーアが会心の答えを見つけ出し、アインシュタインはそれに反論できなかった。)
しかし、それでも、アインシュタインは「神様が未来を予測できず、サイコロを振ってAが出た、Bが出たなんてことは、納得できない。私たちが見ても見なくても、変わらない真実存在するものがあるはずだ」というので、最後まで量子論に懐疑的だったとのこと。
さて、本当はいったいどうなのでしょうか。
私たちが見るから月はそこにあるのでしょうか。
それとも、私たちが見なくても月はそこにあるのでしょうか。
生長の家を信仰するものとして、このアインシュタインの発した疑問についてどう考えたらよいのか大いに興味があるところですが、坂本竜馬のような歴史の一方で、このような科学世界での歴史物語があることにもワクワクを覚えずにはいられません。
ミクロの物質についての物理学を量子論とか、量子力学といわれますが、1920年頃からその方面の研究が急速に進みました。
そして、それ以前の物理学は古典物理学といわれますが、その古典物理学では「見る」「観測する」ということを、重要視されていませんでした。
ところが電子などのミクロの物質の研究が進むにつれて、「見る」「観測する」という行為が無視できないことがわかってきました。
例えば1リットル水の温度を計測しようとして温度計を差し込むとき、水と温度計の温度差によって水の温度に与える影響はほんの微々たるもので無視できるものですが、ごくわずかな水の中にその温度計を差し込めば、その影響は無視できなくなってきます。
これと同じように、電子のような極微の世界の物質を観測しようと光を当てると、光の粒が電子に当たって、その運動の方向や速度などの運動量が変わってしまって、観測された電子は、観測前の電子とは違うものになってしまうのです。
しかし、これだけならまだわかりやすい話ですが、電子のようなミクロの存在は研究が進むにつれて、いろいろと常識を覆す、理解しにくい不思議な性質を持っていることが分かってきたのです。
例えばその一つ、ある瞬間における電子はどこにいるかというに、観測前の電子(電子を例として)は、「ここ」というようにある一点には決まっていなくて、A点には50パーセント、B点には30パーセント、C点には20パーセントという具合に、雲のように確率的に広がっているというのです。だから、ある一点の「ここ」にいるとは決められない。観測したとき、その確率的な広がりをもったものが一点に収縮して「ここ」というように限定された姿で観測されるのだそうです。
つまり、観測前はある広がりを持った「あいまい」な状態なのだそうで、「ここ」というようには決められない。観測したとき、そのあいまいさの中から、ある一つの状態を取り出して、「ここ」というように決定されるというわけです。
量子論以前のニュートン力学、あるいは私たちが普通に認識している世界では、例えば江川の投げたボールが、何秒後にどの位置でどの速さかは、答えは一つであって、観測する、しないに関わりのないことでした。観測して1秒後に140キロの速さを持っていたなら、それは観測前でも140キロだったに違いない。ボールの位置でも同じことです。このように、人が観測して見たものは観測前も同じであるという、いわば決定論として自然を見ていました。
しかし、量子論は従来のそんな常識を覆してしまって、物理学者たちを驚かせました。
繰り返しになりますが、量子論では、観測される前の自然はその状態に幅(広がり)を持っていて、一つの状態には決まっていない。「あいまい」であるというのです。どうしてかはわからないが、ともかく観測前の本来の姿はそうなっているというのです。そして、そのあいまいな状態の中から観測ということによって、ある一つの状態に決定されるというわけです。
このあたりのことを谷口雅春先生は、測定だけでなく心によっても変化するということを、『真理』入門篇の中で、次のように紹介しておられます。
○「測定されるもの」は、「測定するもの」に影響せられて、「見よう」とすると、「見られるもの」は、速度や位置や性質を変えるということが分かって来たのであります。最初は電子の位置や速度が測定する物質的方法やその測る過程で変化することが分かったのですが、その後、測定する人の心によって電子のような微視的存在は、その位置や運動の方向に変化をきたす事がわかりました。従って、電子の集合によって成り立っている物質の元素的性質は、人間の心によって変化するものだということが科学的に実証されたのであります。(『真理』入門編、240頁)
これは谷口雅春先生だけではなく、「神との対話」シリーズの「明日の神」という本にも次のように書かれています。
○量子物理学で言われる通り・・・観察されるもので観察者の影響を受けないものはいっさいありません。言い換えれば、創造者と被創造物は一つで、相互に創造しあっている。
また、同様のことがインド生まれの医学博士、ディーパップ・チョプラという人の『ゆだねるということ』という本の中にも書かれていました。
ただし、後に紹介した二つの本は最近の新しい本ですが、谷口雅春先生の『真理』入門篇は初版が昭和29年とあり、「谷口先生は、もうこんな早い時期にこのようなことまで書いておられたんだなあ」と驚きました。
さて、アインシュタインは、そのような量子論の自然観に対して、Aに50パーセント、Bに30パーセントなんていうような自然はそんな不確かなものではないはずだ、というので「神はサイコロ遊びを好まない」という、有名な言葉を残しました。
そして、次のようにも言っていたそうです。
○量子論の言い分が正しいのであれば、月は我々が「見た」からそこにあり、我々が見ていない時にはそこにはないことになる。これは絶対に間違っていて、我々が見ていない時にも、月は変わらずに同じ場所にあるはずだ。(『量子論を楽しむ本』佐藤勝彦より)
と。
いやあ、難しいですねえ。でも、興味をそそられますよね。
皆さんは、このアインシュタインの投げかけた疑問を見られてどう思われますか?
月は私たち人間が「見た」からそこにあるのでしょうか?見なかったら、そこにはないのでしょうか?
それとも・・・・?
どうしてこんな自分の分に過ぎた難しいことを書きたくなったかというと、私自身、このアインシュタインの投げかけた疑問にどう答えたらよいのかわからず、興味津々だったのですが、先日、宇治へ研鑽会に行ったとき、テキストになっていた谷口雅春先生の『善と福との実現』をバスの中で読んでいたとき、ちょうどその答えになる、詳しい哲学的思索が書かれていたので、夢中になって読んだのでした。
(以前にも読んでいたのですが、まるで記憶がありませんでした。253頁から書かれているので、興味のある方はあらためて読んでみてください)
それで、この難しい、そして興味ある一連のことを、ここに来て下さる人にも読んでいただきながら、自分でもこの機会に簡単に整理しておきたいと思って書き始めた次第でした。
長くてあいまいな、わかりにくい文章を最後まで読んでいただき、有難うございました。