先日、『生命の実相』2巻を読んでいたら、
○神の知恵をいただく場合には医療を用いてもそれは「神癒」でありますし、神の知恵をいただかない場合には医療を用いないで、ただ「心」にたよっていても、その「心」は「迷いの心」なのでありますから、それは迷信となるのであります。 (78頁)
と、ありました。
わたしはここを読んだとき、「あれ、『医療を用いても神癒』なんて書いてある」と、ちょっとびっくりしました。
私はもちろん、生長の家が医療や薬を排斥するものではないことは知っていました。しかし、ここを読んで「あれ、こんなことが書いてある」と驚いたということは、頭では「生長の家は決して薬や医療を排斥しているのではない」と知っていても、自分の心の中ではなんとなく排斥するような感じをもっていたのだと思いました。
第2巻の他のところにも、はっきりと「かく申したからと言って、私は決して薬剤を排斥するものではありません。ただ生命それみずからで起て、と言いたいのであります」(ここは記憶です)ということが書かれていて、ここを読んだときにも、「ああ、そうだったのか。薬や医療を排斥しているのではなく、松葉づえや薬などの外の物に頼らず、生命で起て!」ということを教えておられるのだと思いましたが、この「神の知恵をいただく場合には医療を用いても神癒」とあるのを読んで、さらにはっきり医療や薬を排斥しているのではないと知ることができました。
こんな初歩の初歩の小さなことでも、はっきりわかって嬉しくなりました。
思いだしましたが、徳久先生の講話テープの中に、
「医者は病気を治す。これは当たり前のことです。しかし、医者が病気を治すということと、病気は医者しか治せないということとは違いますよ。医者は病気を治すというのは当たり前の事実ですが、医者しか病気を治せないとなったら、それは迷信です」ということを言っておられました。
私は、これと似た間違いを犯していたんだなと思いました。
谷口先生が、薬そのものが病気を治すのではない(ペニシリンなどの特効薬は別として)という話をされているからといって――多くの名医もそれは認めているが――そのことが、薬を排斥しているのだと考えたら、それは迷信と言わなければならない。生命力を振起し、生命それ自身で起たしめるために、そういう話をされているということが、お恥ずかしい話ですが、今回よくわからせてもらいました。
そうですね。肝心なのは生命力の振起であり、生命自らで起つこと。神からいただいているいのちを信ずることでした。
ここまで書いてまた思い出しましたが、今度はちょっと違う話。
その日、何となく嬉しい気分になって、10日ぶりぐらいにゴミ拾いに行ったら、なんと、燃えるごみ用、ビニール&プラスティック用、不燃物用と三つの袋が、1キロにも満たない距離なのに、それぞれ満杯になってしまって、拾い残すほどでした。
そして、その内には、珍しいものがありました。
ビニール袋に入った化粧品らしきものでした。
そのまま不燃物用に入れて持ち帰り、仕訳のために袋から出すと、化粧瓶、口紅、カミソリなどがそれぞれいくつか入っていて、これは若い女性だなと思いました。
「こんなものを捨てて!」と思いましたが、出てくる品々を仕分けしながら、きれいにするために結構努力しているんだなと思うと、自分も高校生の頃、ヘア・ドライヤーをよく使っていたのを思いだし、その気持ちが甦ってきてその女性がいじらしくなりました。そして、ゴミを捨てた姿ではなく、滴のようにキラリと輝くものが感じられて、どうぞ、ますます美しく輝いてくださいと思いました。
(数本の剃刀は、紙の箱に入れられていました。きっと、誰かが怪我をしてはいけないというやさしい心づかいだったのだろうと思います)
○神の知恵をいただく場合には医療を用いてもそれは「神癒」でありますし、神の知恵をいただかない場合には医療を用いないで、ただ「心」にたよっていても、その「心」は「迷いの心」なのでありますから、それは迷信となるのであります。 (78頁)
と、ありました。
わたしはここを読んだとき、「あれ、『医療を用いても神癒』なんて書いてある」と、ちょっとびっくりしました。
私はもちろん、生長の家が医療や薬を排斥するものではないことは知っていました。しかし、ここを読んで「あれ、こんなことが書いてある」と驚いたということは、頭では「生長の家は決して薬や医療を排斥しているのではない」と知っていても、自分の心の中ではなんとなく排斥するような感じをもっていたのだと思いました。
第2巻の他のところにも、はっきりと「かく申したからと言って、私は決して薬剤を排斥するものではありません。ただ生命それみずからで起て、と言いたいのであります」(ここは記憶です)ということが書かれていて、ここを読んだときにも、「ああ、そうだったのか。薬や医療を排斥しているのではなく、松葉づえや薬などの外の物に頼らず、生命で起て!」ということを教えておられるのだと思いましたが、この「神の知恵をいただく場合には医療を用いても神癒」とあるのを読んで、さらにはっきり医療や薬を排斥しているのではないと知ることができました。
こんな初歩の初歩の小さなことでも、はっきりわかって嬉しくなりました。
思いだしましたが、徳久先生の講話テープの中に、
「医者は病気を治す。これは当たり前のことです。しかし、医者が病気を治すということと、病気は医者しか治せないということとは違いますよ。医者は病気を治すというのは当たり前の事実ですが、医者しか病気を治せないとなったら、それは迷信です」ということを言っておられました。
私は、これと似た間違いを犯していたんだなと思いました。
谷口先生が、薬そのものが病気を治すのではない(ペニシリンなどの特効薬は別として)という話をされているからといって――多くの名医もそれは認めているが――そのことが、薬を排斥しているのだと考えたら、それは迷信と言わなければならない。生命力を振起し、生命それ自身で起たしめるために、そういう話をされているということが、お恥ずかしい話ですが、今回よくわからせてもらいました。
そうですね。肝心なのは生命力の振起であり、生命自らで起つこと。神からいただいているいのちを信ずることでした。
ここまで書いてまた思い出しましたが、今度はちょっと違う話。
その日、何となく嬉しい気分になって、10日ぶりぐらいにゴミ拾いに行ったら、なんと、燃えるごみ用、ビニール&プラスティック用、不燃物用と三つの袋が、1キロにも満たない距離なのに、それぞれ満杯になってしまって、拾い残すほどでした。
そして、その内には、珍しいものがありました。
ビニール袋に入った化粧品らしきものでした。
そのまま不燃物用に入れて持ち帰り、仕訳のために袋から出すと、化粧瓶、口紅、カミソリなどがそれぞれいくつか入っていて、これは若い女性だなと思いました。
「こんなものを捨てて!」と思いましたが、出てくる品々を仕分けしながら、きれいにするために結構努力しているんだなと思うと、自分も高校生の頃、ヘア・ドライヤーをよく使っていたのを思いだし、その気持ちが甦ってきてその女性がいじらしくなりました。そして、ゴミを捨てた姿ではなく、滴のようにキラリと輝くものが感じられて、どうぞ、ますます美しく輝いてくださいと思いました。
(数本の剃刀は、紙の箱に入れられていました。きっと、誰かが怪我をしてはいけないというやさしい心づかいだったのだろうと思います)