気の向くままに

山、花、人生を讃える

感動しました。ありがとう。

2010年03月21日 | 信仰
昨日は珍しく、午後は白鳩の、夜は相愛会と、ダブル誌友会となった。
白鳩の誌友会の間、わたしはゴミ拾いに出かけた。
ゴミ拾いの途中、墓を少し通り過ぎた所で、前方から走ってきた車が私に話しかけるように止まった。話しかける声がするので近寄って車の中をのぞくと従兄のあゆみさんだった。おふくろさんを乗せて墓参りに来てくれたとのこと。
家内は前日に墓参りを済ませているが、わたしは「行かない」といってしていない。
ちょっと気がとがめられたが、ばったり出会うこのタイミングには少々驚かされた。

夜の誌友会では、常連の3人のうちの一人が今日の派遣講師、一人が50分遅れるとのことで、その間、講師と私の二人だけで、講習会の話から自然に、講師の入信のきっかけからの体験談になった。

その講師は25歳のときノイローゼになり、発作が起きるとぶるぶる震えどうにもならないほどになって、人の紹介で三河練成を受けた。古い道場で、最初は変なところに来てしまったと後悔したらしいが、練成がはじまるまでソファに腰掛け待機していると、スピーカーから『久遠いのちの歌』が流れて来て、いい気持ちになったとのこと。その後夕食が出て、大きな茶わんに盛られていたのは麦めしで、その人はそれまで毎食「お粥」を食していて、はて食べられるかと心配になったが、一口食べて見ると、「けっこう行ける」と言うので、食べているうちに、結局全部平らげてしまった。そればかりか、腹が満たされていい気持ちになったので、お変わりまでしてしまった。毎日お粥だったのに、急に、固いご飯をお変わりまでして、満腹になりすぎて腹は気持ち悪くなったが、気持ちの方は、自分のその変化に驚いて「これは何かあるな」という感じがして、「一つ真剣に受けて見よう」という気になったとのこと。

それで、五日間の練成が終わる頃には、完全にノイローゼも治った。練成から帰った後、友人に呼ばれてその家に行ったら、掘立小屋のような建物のちょっと広いスペースがあり、「良かったらここを使ってもいいよ」という友人の言葉に動かされて、そこで、倒産した会社で今までしていた仕事を、自分でしてみようという気になり、ぼちぼち部品を仕入れて、自分で組み立て販売するようになった。さらに、その後、今住んでいる家の近くに更に広い土地を提供され、今の奥さんも紹介されたとのことでした。

不景気知らずにますます事業、そして使命にと忙しくしておられますが、かいつまんでは聞いておりましたが、今日は、はじめてこのような話を感動しながらじっくり聞かせてもらうことができました。


その誌友会が終わってパソコンに向かい、久し振りに宇治別格本山のホームページを開いて、「E-VOISE」をのぞくと、「魂の出合い」という記事が投稿されていたので興味を持って読んでみた。
記事の最後に、その方自身のブログが紹介されていたので、そのままクリックして、そのブログを読み始めた。読み始めたら、止まらなくなった。

若い人の恋愛の始まりの様子から発展の過程まで、飾り気のない文章で淡々と描かれていて、何とも言えない透明感が魅力で読み応えたっぷりだった。
だが、それだけではなかった・・・。

読み進むに従って、何とも言えない魂の世界へといざなわれていった。
ぽろりほろりと涙がこぼれおちてきたが、静寂だった。

今日、あらためて、じっくり読ませてもらうつもりだ。
現実の中で魂の世界を忘れがちな日々で、このような、現実であると同時に魂の世界でもあることをありありと感じさせてくれたこの記事に、心より感謝したい。
そして、この記事に導いてくれた自分にも感謝したい。

昨日の今日という日に、心より感謝。

http://here.3rin.net/Page/1/

総裁先生の講習会を受講して

2010年03月18日 | 信仰
しばらく書き込みから離れたら、つい書くのが億劫になり、この調子ではますますブログから離れてしまいそうなので、いい加減に何か書かなければと久し振りに書き始めました。

今月14日は総裁雅宣先生の講習会がありました。
素晴らしい講習会でした。

純子先生の日時計日記に関する話の中で、「人生を深く味わう」というコトバが出て来ました。
「深く味わう」というのは、何か特別な良いことがあったときばかりでなく、日々のなんでもないことの中にある有難さに気付き感謝する、ということですが、谷口雅春先生も講習会で「味わう力」の大切さをお説きになったことがありました。
懐かしさと共に、「深く味わう」という言葉に心打たれ、その時その時を「大切な時」とする自覚の薄さを反省させられました。

講習会翌日の中日新聞には、夜回り先生の記事があり、そこには、学生たちに「不景気で就職氷河期と言われているが、心まで貧しくしてはいけない」と励まされたという話が出ていました。
前日の純子先生の話に続いての「心まで貧しくしてはいけない」に、最近の自分も、世相に同調するように、いつのまにか貧しくなっていたと反省させられました。

雅宣先生のお話も、聴講者に語りかけられるような語り口で、前回もそうでしたが、耳を傾けているだけで、雲の上にでも乗っているような、何の心配もないやすらかさに包まれるようないい気持ちになりました。
特に今回は卓上マイクではなく、ヘッドホンマイクと言うのか名称は知らないのですが、そんなものをつけておられたので、従来のように卓上のマイクの位置に拘束されず、自由に身体を動かしながら話をされるので、聞く側には、耳から聞こえる話と共に、視覚的にも話し手の動きに引き込まれ、いっそう一体感が感じられて、とても良かった。

午後は例によって、午前の先生の講話についての聴講者からの質問に答えられるところから始まりましたが、その質問には、こんなものがありました。

「どうして神は、はじめから迷わないように人間をつくっておかれなかったのか?」
「どうして神は、私たち人間をはじめから完璧に作ってくれなかったのか?」など、この種の質問が3つあったとか。

この日の雅宣先生のこれらの質問に対する解答は、「自由」ということをキーワードにして説かれました。
簡単に言えば、「選択肢がひとつしかなかったら、それしかないのだから、迷ったりしなくていいし、いつも勝利や成功ばかりが約束されていれば、とても有難い気もするが、それでは選択するという自由もないし、喜びもない。迷う自由もあるわけですね。」というような話をしてくださいました。

わたしも、ときどき特にニュースを見たりしている時など、神にこのような質問をしたくなることがあるので、このような質問を聞くと嬉しい気がするし、先生の答えも、「現象はない。実相の完全さのみがある」式の解答ではなく、質問者の気持にまで一歩降りたようなこのような解答をいただけるのがとても嬉しい。

とは言え、わたしはただ、諄々と説かれる先生のお話に心地良く耳を傾けているだけでした。
聞いているだけでいい気持ちにならせていただけるので、「どうしてこんないい気持ちになるのだろう?」と、不思議に思いつつ話を聞いておりました。

そして、すべての行事が終わって退場されるとき、聴講者に向かって両先生がお揃いで合掌されました。その光景の美しかったこと!! 感動的でした。それを見たら、ますます、ただ有難いばかり。
-本当に素晴らしい講習会でした。


帰りは家内と一緒に帰り、いよいよ家内もパソコンが欲しいと言いだしたので、名古屋駅近くの「ビッグ」によって、そのパソコンを買って帰りました。
そして、今日はパソコン用デスクも買い、セットアップもして、いよいよ使えるように準備万端整いましたが、はたして、どれだけ使ってくれるか、お楽しみというところです。



読んでいただきありがとうございました。