以下は生長の家で発行されている若者向けの月刊誌に書かれていたもですが、人間死んだらどうなるかについての会話で、興味深い話と思い、ここにも紹介させてもらうことにしました。一読していただければ幸いです。
後輩:この前、友人と学校で「人間は死んだらどうなるのか」っていう話をしたんです。友人は「人間、死んだら終わりだよ」って話していて、僕が「よくわからないけど、死んだら終わりじゃない気がする」って話したら、「そんなの死んでみないとわからないだろう」って笑われてしまったんです。
先輩:たしかに、死んでみないとわからないかもね(笑)。でも、多くの人はこの肉体自体が自分だと考えているから、肉体がなくなってしまえば、それで人間は終わりだと、その友人も思っているのかもしれないね・
後輩:「目に見えないものは信じないし、神様なんていない」ってその友人は言っていました。以前の僕だったら、同じように考えていたかもしれませんけど、生長の家で「人間は永遠のいのちをもった神の子」だと学んでからは、「そうなのかもしれない」と思い始めていたので・・・。肉体的な死を迎えても、本当にいのちは無くならないのか、まだ確信が持てないんです。
先輩:そうかあ。君の友人の「目に見えないものは信じない」という話も分からないことはないけれども、僕たちが大切にしたいと思っている、人を思いやる優しさとか、愛情とか、深く心に抱いている信念とかは、目に見えないものだろう。きっと君の両親は、これまでたくさんの愛情を君に注いできてくれたと思うし、それは君自身も一番よく知っているはずだよ。
後輩:そう言われてみれば、「目に見えないものはない」とは言えないですよね。
先輩:何よりも大切なのは、人間の生命の本質を見るという事なんだ。たとえば、どんなに綺麗なバラの花でも、いつかは萎んで枯れてしまうだろう。でも、時間がくれば、バラはまた新しい花を咲かせるよね。じゃあ、なぜバラが新しい花を咲かせ続けることができるかと言えば、そこに目に見えないバラの原型、言い換えればバラの「理念」があるからなんだ。人間の生命もそれと同じで、神様の創られた「理念」としての人間が、人間の生命の本質なんだよ。「生き通しのいのち」とは、肉体がなくなっても、その「理念」は絶対に消えることがないという意味なんだよ。
後輩: 愛情や優しさと同じように、目には見えないけれど、神様の「理念」が確かにあるっていうことなんですね。
先輩:そうだね。「人間は死んだら終わり」だと考えてしまうと、人生において様々な経験を重ねていくことが、結局は無意味だという事になってしまうよね。でも、人間はそうは思えないはずだよ。たぶん僕たちは、人生で学ぶ様々なことは決して無駄にはならないと、本当は知っているんじゃないかな。生長の家では、人生とは「学校」のようなものだと教えている。そして僕たちは何度も生れ変りながら、この人生という「学校」でたくさんのことを学びながら、自分の魂を生長させていくんだよ。
以上で引用終わりです。
さて、「死んだらおしまい」? それとも「死んでも死なない」? あなたはどう思いますか。