出講時、参加者から質問される。そして、その時に思い浮かんだことを即答するのだが、たいてい後で後悔する羽目になっている。そして、「しまった、こんないい答えがあったのに。うーん、悔しい」という気持ちが翌日ごろまで続く。
即答した答えが間違っているわけではないが、もっとピッタリしたよい答えがあったり、あるいは、質問者が知りたかったのは、そういうことではなく、こちらの方だったと、後で気づく。誰しも経験していることだと思うが、せっかく善い答えを期待して質問してくれたのに、満足してもらえる話を出来なかったと思うと悔しい。
それで、わたしはまた数学者の岡潔さんの話を思い出すのです。岡潔さんはこんなことを書いていたのです。
岡潔さんが、数学者としてやっていこうと決意し、数学の歴史をつぶさに調べたらしい。すると、箱庭を敷衍するようになにが未解決のまま残されているかがよく解った。そして、自分はこの問題に取り組もうと決めて、取り組んだ。なんでも「多変数解析関数?」とかいうようなややこしい名前がついていた。
それは証明の問題で、答えは解っているが、どうしてそうなるかは誰も証明出来たものはいない。岡潔さんは、これをやろうと決意した。そして思い浮かぶありとあらゆる方法を試みた。が、どうしてもわからない。もうどんな方法も思い浮かばなくなってしまった。考えようとしても、なにも思い浮かばないから、すぐ眠気が射して寝てしまう。そして、ついに嗜眠性なんとかというあだ名をつけられた。
そんなあるとき、ドライブに誘われてついていった。そのドライブの途中、長いトンネルを抜けると、いっぺんに視界が開けて海が見渡せた。その瞬間、その数学の問題の答えがすべて解った。どんなわかり方かというと、「一瞬にして隅から隅まですべてがわかった」とのこと。それを毎月20ページずつの論文にして、それを何年間かけて発表していったということだ。(数字は記憶だから、正確ではないかもしれませんが大勢に影響はありません。つまりその解ったことを論文にすれば、これほど膨大な量になるもので、それがいっぺんに解ったということです)
また、他の問題に取り組んでいる時、床屋さんで耳掃除をしてもらっている時、突然に答えが閃いたというのです。
だから、岡潔さんの数学は、理論や理屈で、「こうなってこうなるから、答えはこうだ」というようなものではなく、途中の経過から、結論までいっぺんにすべてが解ってしまう、そういう分かり方だと説明している。理論理屈で導きだした答えなら、途中が間違えば致命的だが、岡潔さんの場合は、先にすべてが解って、その解ったことを言葉でスケッチしていくだけだから、途中が間違っても単なるケアーレス・ミスで、致命的にはならない。そして、わたしの目指している数学は理論理屈のない数学で、これが数学の王道だと書いていた。また計算もしない。いちいち計算しなくても、答えは自分の中にあると書いていました。
さて、そういうインスピレーションがくるのはどんな時か?ということですが、簡単に言えば、まず、問題に胃潰瘍になるほど集中して問題について考える。その次になにも思い浮かばなくなる時期がくる。次にトンネルを抜けて突然に視界が広がったとか、耳掃除をしてもらっているときとか、そういうリラックス状態の時に、意識の切れ目ができる、その意識の切れ目からインスピレーションが射してくるという。
これを岡潔さんは解りやすいたとえで書いてくれていた。
教室の中で必死に答案用紙に向かっている。答えは知っている。だが忘れてしまった。その忘れた答えを必死に思いだそうとしている。だがどうしても思い出せない。ついにチャイムが鳴る。あきらめて教室を出る。そのとたん、パッと思い出す。これと同じというわけだ。
しかしなあ、誌友会が終わって、車に乗ったとたん、また帰りの電車の中で思い出しても、もう遅いんだよなあ。神様、思い出したからって、引き返すわけにはいかないでしょう。どうせ思い出させてくれるなら、お願いだから、話している最中に思い出させてよ。西田敏行だって、きっといいますよ。「なんでそれをもっと早く教えてくれないのよ~、もう!」と。
岡潔さんはこんなことも書いていた。インスピレーションは若いとき。だから西洋人は若い時にはいいが、おおむね数学者としての寿命が短い。しかし、日本人はインスピレーション型から年齢とともに情緒型に移行する。そして年齢とともに情緒が浄まり、物事に対する理解が深まるから数学者としての寿命が長い。
情緒が浄まるには、念仏がいい。これをやっていると浮世の垢が落ちる。また景色も大事だ。子供たちには風景の美しい所で学ばせなければならない、と。
なるほどねえ。神様、わたしも情緒が浄まるようできるだけ努力をさせていただきますのでよろしく。
写真は「キンポウゲ科・バイカオウレン」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/af/6e5a2090118ca6ac57aaf13c04aada4c.jpg)
足慣らしで三方山(720)に登ったが、ここでこの花を見つけたのははじめて。高さ5センチほどで花の直径はわずか1センチ弱。その風情には本当に妖精を見るような思いにさせられる。