気の向くままに

山、花、人生を讃える

人間、死んだらおしまい?

2022年06月22日 | 人間死んでも死なない

以下は生長の家で発行されている若者向けの月刊誌に書かれていたもですが、人間死んだらどうなるかについての会話で、興味深い話と思い、ここにも紹介させてもらうことにしました。一読していただければ幸いです。

 

後輩:この前、友人と学校で「人間は死んだらどうなるのか」っていう話をしたんです。友人は「人間、死んだら終わりだよ」って話していて、僕が「よくわからないけど、死んだら終わりじゃない気がする」って話したら、「そんなの死んでみないとわからないだろう」って笑われてしまったんです。

 

先輩:たしかに、死んでみないとわからないかもね(笑)。でも、多くの人はこの肉体自体が自分だと考えているから、肉体がなくなってしまえば、それで人間は終わりだと、その友人も思っているのかもしれないね・

 

後輩:「目に見えないものは信じないし、神様なんていない」ってその友人は言っていました。以前の僕だったら、同じように考えていたかもしれませんけど、生長の家で「人間は永遠のいのちをもった神の子」だと学んでからは、「そうなのかもしれない」と思い始めていたので・・・。肉体的な死を迎えても、本当にいのちは無くならないのか、まだ確信が持てないんです。

 

先輩:そうかあ。君の友人の「目に見えないものは信じない」という話も分からないことはないけれども、僕たちが大切にしたいと思っている、人を思いやる優しさとか、愛情とか、深く心に抱いている信念とかは、目に見えないものだろう。きっと君の両親は、これまでたくさんの愛情を君に注いできてくれたと思うし、それは君自身も一番よく知っているはずだよ。

 

後輩:そう言われてみれば、「目に見えないものはない」とは言えないですよね。

 

先輩:何よりも大切なのは、人間の生命の本質を見るという事なんだ。たとえば、どんなに綺麗なバラの花でも、いつかは萎んで枯れてしまうだろう。でも、時間がくれば、バラはまた新しい花を咲かせるよね。じゃあ、なぜバラが新しい花を咲かせ続けることができるかと言えば、そこに目に見えないバラの原型、言い換えればバラの「理念」があるからなんだ。人間の生命もそれと同じで、神様の創られた「理念」としての人間が、人間の生命の本質なんだよ。「生き通しのいのち」とは、肉体がなくなっても、その「理念」は絶対に消えることがないという意味なんだよ。

 

後輩: 愛情や優しさと同じように、目には見えないけれど、神様の「理念」が確かにあるっていうことなんですね。

 

先輩:そうだね。「人間は死んだら終わり」だと考えてしまうと、人生において様々な経験を重ねていくことが、結局は無意味だという事になってしまうよね。でも、人間はそうは思えないはずだよ。たぶん僕たちは、人生で学ぶ様々なことは決して無駄にはならないと、本当は知っているんじゃないかな。生長の家では、人生とは「学校」のようなものだと教えている。そして僕たちは何度も生れ変りながら、この人生という「学校」でたくさんのことを学びながら、自分の魂を生長させていくんだよ。

 

以上で引用終わりです。

さて、「死んだらおしまい」? それとも「死んでも死なない」? あなたはどう思いますか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

感動した「ある男の臨死体験」

2020年02月04日 | 人間死んでも死なない

昨日、必要が生じて本棚の整理をしていたら、3年ほど前にガンで他界した人から形見分けとしていただいていた本を見つけた。家内が読みたいというので先に家内が読んで、その後私が読むつもりだったがすっかり忘れていたものである。そして見つけたのを幸い、さっそく読み始めました。

 

本の名前は『死後の真実』というタイトルで、著者は「死に関する研究」で世界的に有名なエリザベス・キューブラ・ロス博士(精神科医)である。この博士のことはよく知らないが、名前だけはよく知っていて、以前からこの博士の著書を読みたいと思っていて、今回ようやく読む機会を得たと云う訳である。

 

まだ読んでいる途中だが、今朝読んでいた中に、思わず涙の感動的な話があったので、さっそくここ紹介させてもらいたくなった次第です。

 

それはアメリカのある男性の話です。

彼は戦没者将校記念日の休日に、家族全員で田舎の親戚の家に出かけるため、彼の奥さんと奥さんの両親、そして8人の子供たちが彼を迎えに来ることになっていた。その途中、ガソリントラックにぶつけられ、ガソリンが車にかかり、家族全員が焼死してしまった。

 

そのことを聞いた彼は、何週間もひどいショック状態と麻痺状態が続き、話すことも出来なくなり、手短に言えば、ろくでなし人間ななってしまった。毎日ウイスキーを1本飲みほす他に、苦痛を和らげるためにヘロインなどの薬を使うようにもなってしまった。仕事をしてもぜんぜん続かず、文字通りのドン底の生活に陥った。

 

そして一方のキューブラ・ロス博士は多忙な講演旅行をしている時、一つの講演が終わったところで、サンタバーバラのホスピス・グループからもう一つ講演をしてくれないかという依頼を受けた。その依頼された講演の導入部分が終わったところで、何度も同じことを繰り返し話している自分がかなり疲れていることに気づいた。

 

そして「ああ神様、もしこの聴衆の中に臨死体験を持ち、それを他の人たちに話してあげられる人が一人でもいたら、私は休憩をいただけるのですが。それに皆さんも私の古い体験を何度も聞くより、生々しい体験を聞けるでしょう」と心で呟いた。

 

丁度その時、そのホスピス・グループの中心者が緊急の伝言が書かれた紙切れをもってきた。それは、自分の臨死体験をキューブラ・ロス博士に聴いてもらいたいと願う、失意の男性からのものだった。それでロス博士は休憩を貰い、その男性のいる安ホテルへ使いを出した。しばらくすると失意の男性はタクシーを飛ばして聴衆の中に姿をあらわした。「ろくでなし」と自分を表現していたにはふさわしくない、きちんとした身なりの洗練された男性だった、と書いている。

 

そして、ロス博士は彼の人柄を見極めるまでもなく、彼に「皆さんと分かち合いたいと思っていることをぜひ話してほしい」と頼んだ。
そして彼は壇上に上がり、次のようなことを話したという。

 

彼は、どれほど週末の家族との再会を楽しみにしていたか、どうやって家族のすべてを死へと追いやった事故が起ったのかを話した。そしてその後のショック状態と麻痺状態、また突然独り身になってしまったことや、何人もの子供を授かったのに突然子無しになってしまったこと、たった一人の身寄りもないまま暮らしていかなければならなくなったのがまるで信じられなかったことなどを話した。

 

彼は、それと真剣に取り組むことが全然できなかったこと、収入が多く、きちんとした中産階級の夫であり父親であったのに、完全な「ろくでなし」へと変わってしまい、朝から晩までお酒を飲み続け、手に入るあらゆる薬を用いて自分を鎮静させようとしたこと。又何度も、考えられるあらゆる方法で自殺を試みたが、どうやってもうまくいかなかったことなどを話した。

 

そして、最後に覚えていることは、文字通りどん底の2年間の生活の挙句、森の脇の汚い道の上で薬や酒に酔いしれ、寝ころんで、家族に無性に会いたがっていたこと、生きる望みもなかったこと、そのとき、大きなトラックが近づいてきて、自分をひいていくのが見えたこと、しかし、体を動かすだけのエネルギーもなかったことなどを話した。

 

そして、「このときでした」と話を続ける。

彼がトラックにひかれ、重傷を負い、道に横たわっている、そういうすべての情景を、何フィートか上に漂いながら見ていたその時、家族が自分の前に姿を現わし、光の輝きの中から、驚くほどの愛とともに彼らが皆幸せそうな笑みを浮かべていたこと、彼に向かって、ただ自分らの存在に気づかせようとしていたこと、それは言葉を交わすのではなく、以心伝心の形で行われ、他界した家族たちが、大きな喜びと幸せの中にいて、それを分かち合ってくれたことを話した。

 

彼は、家族があまりにも元気で美しく輝き、今の状態に大変満足していて、無条件の愛に満ちていることに心を打たれた。そして彼は誓った。また自分の体に戻って、この素晴らしい体験を世界中の人々と分かち合おう、と。そうすることで、これまでの2年間、自分の肉体を投げすてようとしてきた罪滅ぼしになると思ったとのこと。

 

そして、そう誓うや否や、彼の重症の体をトラックの運転手が車の中に引き入れようとしているのが目に入り、また事故の現場へと救急車が急いでいるのが目に入った。そして彼は病院の救急室へ連れていかれ、ここでやっと自分の体に戻ることが出来た。

 

彼は体のまわりに付けられていた革ひもを外し、文字通りに自分の足で救急室を出たとのこと。そして、その後は、アルコール中毒による幻覚も、薬や酒の大量乱用による後遺症もまったくなく、完全に癒やされた。そして、できるだけ多くの人に死後の「いのち」が存在することを伝えるまでは死ねないと、固く誓った。

ちょうどその頃、ロス博士がサンタバーバラへ来るということを新聞の記事で読み、会場へ伝言を頼んだととのことである。

 

そして、彼はあの短い一時的な幸せな家族との再会の際に約束したことを、今此処で聴衆と分かち合うことで、彼は約束を果たすことができたというのでした。

 

以上、長くなりましたが、これらの話をワードに打ち込んでいると、本を読んでいる時とは違って、一層この男性の苦しみ、悲しみなどの気持ちが伝わって来るようで心が揺さぶられるようでした。

 

さて、この様な臨死体験中の他界した人との再会について、懐疑的な科学者は、「それは会いたいという願望の反映である」との見解らしい。それもわからないではないが、それに対してキューブラ・ロス博士はこう述べている。

 

臨死体験中に再会できるのは、たとえわずか数分前でも、必ず既に他界している人に限るのであり、まだこの世に生きている人との再会の事例が一つもないこと。そして、臨死体験者が再会したいという願望をもつのは、既に他界している人であり、生存中の人と再会したいなどという意識はない。それにもかかわらず、数分前に他界した人や、他界したとは全く知らなかったような、本人が思いもしなかった人が会いに来たりして驚くという実例を示し、願望の反映とは言えないとしています。

 

長くなりましたが、最後まで読んでいただき感謝です。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

別れの寂しさ

2019年12月17日 | 人間死んでも死なない

今朝、パソコンを開くと「フォローしているブログの新着記事」欄に「あなたのいない現世(うつしよ)」というタイトルを見つけ、どんなことが書かれているかと興味をそそられながら、その記事を開いた。するとそれは「詩」であった。
 

この方は、時々文芸誌か何かに詩を投稿し、また入賞もされている人で、以前、わたしの好きな「海の誓い」と題する詩を紹介させてもらったことがある。他にも好きな詩があって、この方の詩を楽しみにしている1人である。

 

私は勝手にこの方は独身をとおしている人かと想像していたが、この詩からは、どうやらそれは間違いらしく、この人には「またなって言ったろ」とか「友へ 君を想う」と題する詩があり、あれは友の死を悼んで詠んだ詩かと思っていたが、ひょっとして「夫」との別れの詩だったのかと想像し、その真に迫った感じを何となく合点できた気がしたのだった。

 

それからまた、「フォローしているブログの新着記事」欄には、「蓮の花と涙」と題する記事があり、その記事を開くと、蓮の花が薄く霞がかった様に描かれたきれいな絵に、短い文章が添えられていて、「涙が枯れるというけど、あれは嘘ね」という、夫を亡くした知人の話を紹介し、「私も同感」とあった。

 

今日は久しぶりに、1日家でくつろげるので、一通り、他の方のブログを見た後、コーヒーを飲みながら、先日買った『突然の恋』と題する生長の家の谷口純子先生著のエッセイ集を読み始めた。するとその中の「ひと筋の光」と題する記事の中に、こんな感動的な話があった。

 

それは山梨県の中込昭子さんという56歳の主婦が、朝日新聞の「ひととき」欄に投稿した記事とのことで、本には次のように紹介されている。

 

≪本からの引用≫
この主婦はお盆が近づいたある日、ベランダで洗濯物を干していると玉虫が飛んできたので、両手でそっと包み込み、息子に声をかけると、彼は携帯電話のカメラで撮ったという。その時、ふと、その年の4月に亡くなった自分の夫が、この虫に姿を変えて来てくれたように思ったそうだ。生前夫は自然や生き物が好きで、2人で玉虫を話題にしたこともあったからだ。

「お父さんなの?帰って来てくれたの?」と声をかけ、

「私たちの所へまた来てね」と言いながら、窓から放してやった。

その日から1週間以上、玉虫は毎日2人の前に現れ、そしてすぐ近くにとまったり、部屋の中を旋回したりした。家の中に入れて新盆の飾りを見せ、

「何とか頑張ってやっていますよ」と言って外へ出そうとしても、飛び立たなかったそうだ。

亡くなった夫が、寂しさと悲しみに沈んでいる自分を励ましに来てくれたように思えてならなかったという。

しかし、8月15日の夕方、その虫は玄関から飛んで行ったまま、姿を見せなくなった。

まだ落ち込むこともあるそうだが、前向きにやって行けるようになったというのである。

 

以上が、投稿された記事の紹介として書かれたものだが、わたしも70歳になり、何かとこのような話題も他人ごとではなくなり、関心を持つようにもなった。11月に出席した中学の同窓会では、他界した同級生も2割近くになるとの話も聞いた。死が怖いというのではなく、一人になった寂しさが他人ごとではなくなくって来たのを感じるのである。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

別れ

2019年12月07日 | 人間死んでも死なない

       おはようございます。
       はじめてコメントさせていただきます。

 

       感動的なお別れに思わずホロリとさせられました。
       素晴らしい大往生ですね。

 

       涙が出なかったのは、きっとご主人様が陰で支えて下さっていたからではないかと思いましたが、
       それとも、お別れの悲しさに涙も出なかったのでしょうか。

 

       いずれにしても、お寂しいことと思いますが、
       どうぞ、お元気で過ごされますよう、
       そして、ご主人様のご冥福をお祈り申し上げます。

 

以上は、ある方のブログを読んで、言葉をかけたくなって書いたものですが、

このような時に初めてコメントするのも変に思われたので、そのままになっていたものです。

 

 

2週間ほど前、わたしの兄嫁が他界して、兄はすっかり気落ちして元気をなくしていますが、
そんな兄を見ていると、わたしは家内より先に逝くと思っていたが、自分が後になるかもしれないと、
ふと、そんな思いも湧いてくるようになりました。

 

人間は、決して死なない。それは間違いないと思っていますが、
しかし、やはりその姿が目に見えなくなれば、どうしようもなく淋しいのかもしれませんね。
何処にも姿は見えなくなるし、話をしたくても、会話をすることも出来なくなるのだから。

 

先日、『神との対話』(ニール・ドナルド・ウオルシュ著)の抜き書きしたのを読んでいたら、死についてこんなふうに書かれている1節がありました。

 

○どの瞬間も始まったとたんに終わる。それがわからないと、その瞬間のどこがこの上なく大切なのかわからず、平凡なひとときにしか思えないだろう。どんな交流も「始まりが始まった瞬間」に「終わりが始まる」。そのことをよく考え、深く理解して初めて、すべての瞬間の、そして人生そのものの貴重さが充分にわかるだろう。≪中略≫
 これが最後だと思えば、誰かと一緒のひとときが輝くだろう。どの瞬間も、経験するのはこれが最後だと思えば、はかり知れないほど重いものになるだろう。死から目を背けているから、自分自身の生命を考えなくなるのだよ。 

 

素晴らしい1節だと思いますが、

死という別れの寂しさは、経験した者にしかわからないと思いますが、しかし、また会える時もあるに違いないと思う。

 

枯葉となって散り、また、若葉となって萌え出す。そして、恋愛し、結婚し、我が子の誕生を見て喜び、老いて孫を抱きてまた歓ぶ。
そして、また散る。

 

そんな一生を繰り返しながら、樹齢何百年という桜のようになっていくとしたら、その寂しさも、意義あるものに違いないと思えるし、その相方も、より大切な人に思えて来たりもする。

 

思い出しましたが、飯田史彦著『生きがいの創造』という本の中には、夫に先立たれて、いつまでも意気消沈している妻を見かねて、あの世から夫が話しかけるという実話が載っていました。記憶だからその通りではないが、凡そこのような会話でした。

 

夫:こら、いつまでも寂しがってばかりいては駄目だ!

妻:ふ~ん、あなたはいいわよね、もう天国へ行ってしまったんだから。でも私はまだこの世に生きていて、これからも一人で生きなきゃいけないんだからね~。(と、すねたように言う)

夫:そうだよ、君はまだ生きているんだよ。生きているのに死んでいちゃいけないんだよ。ほら、元気を出しなさい!」

 

まあ、こんなような会話でした。

 

変な話になり、また、長くなったのでここまでにします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「復活の日~もしも死んだ人と会えるなら~」を見て

2019年03月30日 | 人間死んでも死なない

一昨夜のNHKの番組「復活の日~もしも死んだ人と会えるなら~」は残念ながら期待外れでした。

 

私の想像では・・・、

もしかしたら、出川哲朗さんが8年前に他界した母親と実際に何か話をしたという体験があって、それをドラマ風に再現するのかも・・・という期待がありました。が、そうではなく、技術を駆使して人が鏡に映るように出川さんの母親を写し出し、それと出川さんが向き合い、母親と再会している気持ちになって、いろいろ話をするという、いわば疑似体験でした。そういうわけで、残念ながらこの番組は期待外れでした。

 

さて、その番組とは別の話になりますが、このブログ「気の向くまま」への訪問者数は通常120ぐらいですが、一昨日の集計結果は600を超え、昨日もまた300近い数字となり驚いています。内容が単なるテレビ番組の紹介なので、訪問してくださった方は「なんだ、つまらない」と思われたことと思いますが、その点をお詫びしますとともに、アクセス数が爆発的に増えたことについて感謝申し上げます。ありがとうございます。

 

さて、「あの世などはない。人間は死ねばおしまい」という人がいる一方で、「いや、ひょっとしたら、あの世はあるかも・・・」と思っている人もいて、そのような人が、「死んだ人もあの世で生きているというなら、その確証が欲しい」ということで、「もしも死んだ人と会えるなら~」という文言に興味をもち、このブログに来て下さったのかと思います。

 

 

ですが、このような文言が、これほど人を呼び寄せるとは思いもよらず、アクセス数を見て、正直とても驚かされました。

 

私は小学5年生の時、「小学生時代」だったか何だったか、本のタイトルは覚えていませんが、ともかく小学生を対象とした月刊誌の中に、インドのある少年が過去に生きていた時のことをよく覚えていて、少年が話したことが事実であることが確認されて、生まれ変わりの一つの証左として紹介されているのを読みました。そして「本当にこんなことがあるんだ!」と、子供ながらに感銘を受けたことをよく覚えています。

 

つい、先日読んだ本の中には

「生まれ変わりの話を聞いて、それを信ずることができる人は、自分が生まれ変わりを体験していることを、奥底の心が知っているからだ」という意味のことが書かれていました。

 

その真偽はともかく、もし、「生まれ変わり」が「ない」としたら、人はなぜこのような根も葉もない出鱈目な作り話に、自分だけでなく、多くの人が関心を持ったりするだろうかという疑問が残ります。

それに、ほんとうに「死んでおしまい」なら、当然ながら、生まれて来るのも偶然であって、目的をもって生まれてくるはずもありません。そして「人生の目的如何?」などと考えるはずもない。それなのに、昔から多くの偉い人が、人生の目的を知りたがり、考えてきました。偉い人だけでなく、誰もが一度はそんな疑問を持ったはずで、その点をどう解釈すればよいのだろうか。

 

昨日、海の中の潮の流れの早いところへ無数の蟹が集まってきて、潮の流れを利用しながら、それらの蟹たちが脱皮してゆく様子を見ましたが、その神秘を思うと、人間が肉体という衣服から脱皮してあの世へ行き、また新しい衣服を付けてこの世に生まれてくるということがあっても、一つもおかしくないと思いました。

 

いずれにしても、わたし達人間にとって興味のある話であることには違いありませんね。

読んでいただきありがとうございました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NHK番組「復活の日~もしも死んだ人と会えるなら~」

2019年03月28日 | 人間死んでも死なない

今日、テレビ番組欄を見ていたら、NHK総合の「復活の日~もしも死んだ人と会えるなら~」という文字が目に入りました。興味を覚えてネットで番組の詳細を見ると次のように紹介されていました。

 

ジャンル:バラエティ>トークバラエティ 


番組内容:
この番組は、僕、出川哲朗が死んだ母ちゃんと再会した、嘘(うそ)みたいな一日の記録です。たった一度きりの復活の日、あなたは故人と何を語り合いますか?


詳 細:
出川哲朗が亡くなった母ちゃんと再会した、一日の記録。「信じられないですよね? 僕も会うまでは、いつものドッキリかと思ってました。でも、8年前に死んだはずの母ちゃんと話したんです。」……この番組は出演者がもう一度会いたいと願う故人と再会します。徹底取材と技術の粋を集め、ついに実現した、たった一度きりの復活の日、その時、出川はどうなった!?あなたなら、もう一度会いたい故人と何を語り合いますか?

 

放送時間:2019年3月28日(木) 午後10:00~午後10:48(48分)

 

一度も見たことのない番組だが、果たしてどんなものか? 

試しに見てみようかと思っていますが、もし。興味があれば、あなたもお見逃しなく。

 

「あなたなら、もう一度会いたい故人と何を語り合いますか?」

 

わたしなら、両親から大切に育てられたにもかかわらず、親不幸をしたので、その事をお詫びするとともに、大切に育ててもらったことに心からお礼を言いたい。こんな気持ちは届いているとは思うが、もうすぐ70歳を迎える今、もう一度会って、じかにお礼を言い、心から感謝の気持ちを述べたい、と思う。

 

○われわれは宇宙に満つる『神の生命そのもの』であると云っても、『仏性即自分』であると云っても、それが実現するためには陰陽の結びを必要とするのであります。父母陰陽の結びと云うものは、吾々『仏性』なる自分が神聖受胎する神聖なる機縁を与えて下さったのであります。これが父母の愛であります。吾々は親の肉体本能のために犠牲になったのではなく、親の愛が、愛の念波が、宇宙普遍の生命――仏性――を引出してここに神聖受胎せしめられたのであります。 (谷口雅春著「愛と光の生活」より)

 

関連記事 「復活の日~もしも死んだ人と会えるなら~」を見て

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続 人間は死んでも死なない

2018年11月14日 | 人間死んでも死なない

先日のクラス会に出席したとき、女の同級生と挨拶して雑談になったとき、わたしが何気なく「子供さんたちも元気ですか」と聞いた。
するとその同級生は何年か前に娘をなくしたという。もう何年も過ぎて今は元気になったと言いながらも、思い出すと悲しみが湧いてくるのか、たちまち目が涙で潤んできて、私は余計なことを訊いてしまったと後悔した。

 

息子や娘に先立たれるという悲しみは、経験したものでなければわからないだろうし、自分の良人や妻の死、あるいは幼いときに父や母を亡くした悲しみや辛さもよく聞く話である。

 

『神との対話』はアメリカでベストセラーとなり、世界中で翻訳され読まれているとのことだが、その姉妹書ともいうべき『10代のための「神との対話」』という本がある。

 

これは世界中の10代の若者に、「もし神が疑問に答えてくれるとしたら何を質問したいか?」と、その質問を募集し、それに神が著者のニール・ドナルド・ウォルシュを通して答えてくれるという本である。(信じるか、信じないかはそれぞれの自由ですが)

 

その中に14歳のヴィクトリアという少女のこんな質問があります。

「いつ、誰が死ぬかを、神様はどうやってきめているのですか?
わたしの父は、私が小さいとき、突然、死にました。その理由がどうしてもわからないのです」

 

これに対して神は次のように答えています。(要点の抜粋)

○人が死ぬのは決めているのは、神ではないのだよ。ヴィクトリア。あなたのお父さんがあなたの小さいときに死ぬように決めたのは、わたしではない。あなたのお父さんがあの時死んだのは、彼の魂が次の段階に旅立つためだった。

 

○お父さんの死があなたにとって、とても悲しいことなのはわかっているし、悲しみが消えないことも知っている。ただ、悲しみは、取り去るべきものでもないのだ。悲しむことはちっとも悪くない。悪く思う必要もないし、直そうとしなくてもいい。――それを「使う」方法があるんだ。

 

○あなたが経験したような大きな悲しみは、時に人を情け深く、繊細に、思いやり深くする。

 

○あなたは現在もすでに、友人たちが話したいとき、聞いてもらいたいとき、あなたのところへやって来るのに気づいているだろう。これは偶然ではない。あなたのバイブレーションは、悩みや痛みを持つ人たちへの、深い思いやりのエネルギーを持ち始めている。

 

ざっとこんな話をした後、神はこの少女に対して、そしてこの本の読者に対して、こんなメッセージを送っています。

 

○魂がまちがったタイミングで、身体に入ったり出ていったりすることはない。早すぎたり、遅すぎたりすることは決してないんだ。
タイミングは魂の目的に関係するが、その目的全体は、意識的なレベルで理解できるものではないし、ほかの人がわかるものでもない。それでも、お父さんは完璧に分かっていたことは確かだ。あなたもいつか、完璧に理解できる日がくる。必ず。
その時がくるまでは、人生を信頼しなさい。それがお父さんの願っていることだ。
人生を信頼し、愛すること。
情熱をもって、幸せに、精いっぱい生きなさい。
楽しみ、喜びを広げ、愛しあうのだよ。 
 

 

さて、あなたはこれらのことを読んでどう思いますか?

私はここに書かれていることが真実であってほしいと思うし、よくわからないながらも、「きっとこれが真実であるに違いない」という気もしています。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間は死んでも死なない

2018年11月09日 | 人間死んでも死なない

ある日のこと、わたしは北海道のある港に入港中、薄暗い機械室で客室のエアコンの点検をしていました。

すると私の背後を黒い人影のようなものが「すっ」横切る気配がするので、「おやっ」と思って振り向くのすが、別段変わったことは何もない。それでまた仕事を続けるのですが、また、すっと黒影がよぎる気配がするので、思わず振り向きます。しかし、やはり何事もない。普通なら数回も繰り返せば気のせいと思って振り向かなくなると思うのですが、しかし、確かに何かがよぎる気配がするので、思わず反射的に振り向いてしまいます。おかしいなあと思いながらまた仕事をはじめると、また気配を感じて思わず振り向くということを5,6回は繰り返しました。

 

そして、その内に点検も終わり、「おかしいなあ」と思いながら自分の部屋に戻ると、そこへちょうど事務員が「電報」を届けに来ました。それはお袋が他界したことを知らせる電報でした。一瞬びっくりしながらも意外と冷静で、ああ、あれはお袋がお別れに来てくれたんだと納得したのでした。そして、急遽下船して千歳空港から自宅へと急いだのでした。

 

そのあと、数年したころ、私が「生長の家」の「聖経」と言われている『甘露の法雨』というお経(現代詩)をあげると、その頃しきりに蝋燭の上に輪ができたり、またある時には、蝋燭のロウが一度にたくさん流れ落ち、そのロウではっきりと観世音菩薩とわかる像ができたこともありました。

 

人間は死んでも、本当には死んではいなくて、ただ肉体を離れたに過ぎないのだろうと思います。

 

以下は『神との対話』(ニール・ドナルド・ウォルシュ著))からの抜粋です。

○魂の目的、つまり魂が身体に宿った理由は、ほんとうの自分になり、それを表現することだ。魂は自分を知り、自分を経験したいと願っている。この知りたいという願いが、存在しようとする生命だ。表現することを選んだ神だ。あなたがたの魂は、わたしが自分を表現し、経験するための道具なのだ。 

あなたがたは生命そのものだ。生命が生命でなくなることはできない。したがって死ぬことはない。
では、臨終のときに何が起こるか・・・生きつづけるのだよ。

○「向こう側」にいる誰かについてほんのわずかでも考えれば、とたんに彼らの意識はあなたの許へ飛んでくる。「逝った人」について何かを思ったり考えたりすれば、その人のエッセンスは必ず気づく。愛こそがコミュニケーションの最高の「霊媒(メディア)だよ。

○いいかな、わたしはすべての花であり、虹であり、空の星であり、すべての星をめぐるすべての惑星上のすべてだ。わたしは風のささやきであり、太陽の温かさであり、それぞれが信じられないほど個性的で、しかもこの上なく完璧な雪の結晶のひとつひとつだ。わたしはすべてに存在する。わたしはすべてだ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする