気の向くままに

山、花、人生を讃える

山の中のレストラン

2015年05月24日 | 

4月のある日、自宅から車で40分ぐらいのところにある「月見の森」から、歩いて展望台への道を登って行くと、展望台とは別の方向へと続く分かれ道があった。さて、この道はどこへ続く道か、近々確かめてみようと思っていた。

そして4月の末、その道をたどっていくと、稜線上に「山の中のレストラン」とでも呼びたいような、ステキな休憩所があった。眺めは良し。まさに「山の中のレストラン」とわたしはすっかり喜んでしまった。

そして、生長の家の「山歩きがしたい」と言っていた誌友を誘って一度、それから家内も誘ってもう一度、1ヶ月の間に3回も訪れた。自分の足で歩いて、思いがけないものを発見した時はうれしいものだ。そして、こんな近くに手軽に山歩きが楽しめ、そしてそこには青空レストランがあるということであれば、おのずから他の人も誘いたくなるというもの。以下はその「青空レストラン」の写真である。

 

稜線に出ると谷を隔てた向こうに勇守山(約500m)が見える。別の日にひとりで登ったが、山頂には「白滝大神」を祭る鳥居と祠があった。展望はないが、うっそうとした木々に囲まれ、標高は低いながら野性味のある山だった。

 

駐車場からゆっくり歩いて1.5時間ほどで一つ目の「青空レストラン」に到着。家内と来た時、ここで昼の弁当を食べていたら、70歳ぐらいの男がやってきて話をしていると、その男が一人でこのベンチを作ったとのことだった。途中に伐採した木があったが、その男はその伐採された木を見て、このまま放置するのはもったいないと思い、道具を買い、ヒノキの皮をむいて鋸で切り、これらのベンチを作ったとのことで、大いに感心させられた。昼近くになると木陰になるから、ちょうどよい。

 

上の写真と同じ場所にあるが、最初に来た時まだこのベンチはなく、2度目に来た時にはあったから、これはまだ作られたばかりの新品。はるか名古屋の街並みや濃尾平野を見渡しながらのコーヒータイムは極上のひと時となる。

 

ベンチからの眺めで、流れている川は揖斐川。標高は400m。

 

さらに進むと、「根っこの道」

 

さらに進むとこんな看板がぶら下がっていた。

 

たどり着いたら、これがレストハウス「青空」。先の青空レストランから30分程度。標高は450mぐらい。これは先ほどの男とは別の人が作ったらしい。汗をかいた衣類を干す物干しもある。写真と反対側のすぐそばに中電の37番の鉄塔がある。

 

鉄塔からの眺め。

 

えっ、感想ですか?

そうですねえ、幸せのあまり、思わず「ホー、ホケキョ!」と声が出そうでございました。(笑)

 


伝道

2015年05月18日 | 信仰

 駅前で生長の家の伝道(月刊誌等を受取ってもらって読んでもらうこと)はじめて1年が経過した。毎月3回、小冊子の部数で20~30部程度だが、今年の3月からは、谷口雅春先生のご文章の一節と自分への連絡先を書いた紙片を入れるようにした。まだ、一度も問い合わせの連絡はないが、とにかく続けて行こうと思っている。

 テレビを見ていると、いろんな健康食品のコマーシャルや悲しい出来事のニュースが氾濫しているが、これらを見るにつけ、「人間とは何か」ということが、何よりも大切だということを思わずにはいられない。「自分が何か」ということがわからなければ、何が幸せかも分らないし、自分の向かうべき方向も分らないと思う。

 仮に自分を一個の肉体だと思っていれば、肉体を快適な家に住まわせ、美味しいものを食べさせ、とにかく肉体に喜びを与えるのが幸せだと思うようになるだろう。そのために、金銭的な豊かさを目指す人が多いのだろう。だが、世の中には金銭的には豊かでありながら、「幸せでない」という人は少なくないし、反対に貧しい暮らしをしていても、「幸せ」という人もいる。貧しいのが善いという訳ではないが、大切なことが置き去りにされていないだろうかということである。

 この前、番組名は忘れたが、NHKで山奥で暮らす60半ばの夫婦の生活ぶりを紹介する番組があった。夫は自給自足の農業を営む健康な常人だが、奥さんの方は耳も聞こえず、目も見えず、そして口で話すこともできない人だった。それでも夫婦の心は温かく通い合い、奥さんは明るくとても幸せそうでした。

 奥さんは盲で耳も聴こえないのに料理もし(そこまでには失敗の繰り返しがあった)、夫が野良仕事に出かけている間に掃除もする。そればかりか、パソコンを使って、毎日欠かさず、夫にメールを打つとのこと。自分が入力した文字が点字で確認できるようになっているらしい。そのメールを、以前にはそこに住んでいた家を今は作業小屋として使っていて、そこにもパソコンが置いてあって、昼休みのときに夫はそこで奥さんがつくってくれた弁当を食べ、そして奥さんからのメールを読み、また返信するのが日課らしい。

 日常の会話は、手を握り合っての手話ということだった。また、奥さんは朝の連続ドラマをとても楽しみにしていて、夫が手をつないだ手話で、その内容を伝えている。

 夫の方は若い頃、農業に従事したいと思い、武者小路実篤が主宰する「新しき村」で生活していた。しかし、ある時、自分の好きな農業をしているだけでは満足できなくなり、何か人助けになるようなことをしたいという思いが湧いてきて、盲人の案内役をするボランティアをするようになり、そこでその奥さんと知り合いになり、結婚を決意したそうだ。結婚したのは50歳頃だったと思う。

 この番組を見て、感動しながら私はあらためて人間とは何か、人間の幸せとは何かということを考えさせられ、また日頃の自分を反省させられた。わたしはまだ自分の満足を願っていて、家内の幸せが自分の幸せという心境にはほど遠い。この心境が続く限り、わたしが本当に心から幸せだといえる日は来ないだろう。

 肉体的自我は利己主義に走りがちだが、本当の人間は肉体ではなく、神のいのちであり、魂である。魂の本質は自他一体であり、自他一体を体験的に知ることが魂の望みだとすれば、自我の満足を目的としている限り、魂はよろこばないだろう。しかし、大きな目標と理想をもって挑戦し続けて行けることは、ある意味では幸せなことだと思う。

 人は誰でも、もし目の前に重い病やどうにもならない争い事で苦しんでいる人を見たら、できることなら、助けてやりたいと思うに違いない。人がそれをしないのは、自分にはその力がないと思っているからだろう。しかし、実際にキリストのような人を目の前に見て、そのキリストが、「私に出来ることはあなたにもできる」と言ったら、今すぐとはゆかなくとも、それに向かって努力せずにはいられないのではないか。だとすれば、きっと生長の家の教えの素晴らしさは誰にもわかってくれるはずだ。だから、私自身はまだこんな心境でも、やっぱり善いものは善いとこれからも伝道を続けて行きたいと思っている。

 

下の写真は、今年もきれいに咲いてくれたツツジ。通りかかる人が口々に讃嘆してくれる。