さて、前回の続きですが、
彼の生き方ととわたしの生き方について、人としてどうあるべきかを考えさせられてきたわたしにとって、びっくりさせられたのは、本の中にあった次の言葉でした。
○いいかね。自由に好きなように行動している人よりも、しなければならないことをしている人の方が、ずっと大きな被害を与えてきたんだよ。
というところでした。
自分の生き方が正しいと思っていたのに、正しいどころか、ずっと大きな被害を与えてきたというのですから本当にびっくりしました。
徳久先生の「結婚の幸福」という講和テープの中にもありましたが、泥棒しない人は、泥棒を見ると腹が立つ。反対に泥棒するような人は泥棒している人を見ても腹が立たないということを話されていましたが、同じように、「・・・べきである」と思っている人は、それを他へも要求するのが普通であろうと思います。それで、私もそれが正しいと、人にも要求する気持ちがあったのですが、そういう気持ちが人に被害を与えているというわけでした。
生命の実相の中に、母親の「勉強しなさい」という縛る心が、子供を勉強から遠ざけているという話が書かれていますが、職場でも、この原理は同じで、縛ろうとする心は、人にも自分にも知らず知らずのうちに何らかの被害を与えてしまうんですね。
それで、「解放の時」で書きましたように、自分自身が解放され、他への「責任は果たすべき」という要求も捨て、「人はお互いに自由なんだ」ということを、よくわからせてもらいました。そして、それだけ自分も楽になり、他を縛りながら、自分自身をも縛っていたんだなと思いました。
人はそれぞれに自由であり、主人公であると思う。
わたしもうれしいことに、「自由」ということがわかるにつれて、「主人公」いうことも分かるようになり、自然に「しなければならないからする」ではなく、「したいからする」の気持ちになってきました。「したいからする」になると、気持ちがまた楽しくなってきますね。
職場の彼も、釣りきち浜ちゃんも、「したいことをする」お手本なのだと思います。
生命の実相の中に、「わたしがこんなにしてやっているのに」という「のに」が問題であるということが書かれていますが、この「のに」というのは「しなければならないことをしている」人なのだと思います。
自分が主人公となり、「自分が勝手に、したいからしている」、ということになれば、「のに」は出てこなくなると思う。また、愛さなければならないからではなく、愛したいから愛するに変わってくると思う。
このように、
縛りからの解放→自由の自覚→主人公の自覚→自発的行為→さらなる解放
このようなサイクルに乗らせてもらって、人生、だんだんにうれしく、楽しくなってきているわたしです。
そうそう、タイトルが「責任感と無責任」としてしまったから、それらしい結論にしないといけませんね。では、
○責任感とは、責任を持つべきであると考えることではなく、責任を果たしたいという気持ちのことである。
○無責任とは、人が勝手に貼りつけたレッテルであり、ある立場からの一面感にすぎない。
そして、人は好むと好まざるとにかかわらず自分の人生に責任を持っており、無責任ということはあり得ない。
出かける予定でしたが、天候が芳しくないので中止し、これを書いてしまうことにしました。
聞いていただいてありがとうございます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/3a/2b5949f7893e9d024c1cfd642eecc44a.jpg)
セリバオウレン(キンポウゲ科) 4月6日撮影
彼の生き方ととわたしの生き方について、人としてどうあるべきかを考えさせられてきたわたしにとって、びっくりさせられたのは、本の中にあった次の言葉でした。
○いいかね。自由に好きなように行動している人よりも、しなければならないことをしている人の方が、ずっと大きな被害を与えてきたんだよ。
というところでした。
自分の生き方が正しいと思っていたのに、正しいどころか、ずっと大きな被害を与えてきたというのですから本当にびっくりしました。
徳久先生の「結婚の幸福」という講和テープの中にもありましたが、泥棒しない人は、泥棒を見ると腹が立つ。反対に泥棒するような人は泥棒している人を見ても腹が立たないということを話されていましたが、同じように、「・・・べきである」と思っている人は、それを他へも要求するのが普通であろうと思います。それで、私もそれが正しいと、人にも要求する気持ちがあったのですが、そういう気持ちが人に被害を与えているというわけでした。
生命の実相の中に、母親の「勉強しなさい」という縛る心が、子供を勉強から遠ざけているという話が書かれていますが、職場でも、この原理は同じで、縛ろうとする心は、人にも自分にも知らず知らずのうちに何らかの被害を与えてしまうんですね。
それで、「解放の時」で書きましたように、自分自身が解放され、他への「責任は果たすべき」という要求も捨て、「人はお互いに自由なんだ」ということを、よくわからせてもらいました。そして、それだけ自分も楽になり、他を縛りながら、自分自身をも縛っていたんだなと思いました。
人はそれぞれに自由であり、主人公であると思う。
わたしもうれしいことに、「自由」ということがわかるにつれて、「主人公」いうことも分かるようになり、自然に「しなければならないからする」ではなく、「したいからする」の気持ちになってきました。「したいからする」になると、気持ちがまた楽しくなってきますね。
職場の彼も、釣りきち浜ちゃんも、「したいことをする」お手本なのだと思います。
生命の実相の中に、「わたしがこんなにしてやっているのに」という「のに」が問題であるということが書かれていますが、この「のに」というのは「しなければならないことをしている」人なのだと思います。
自分が主人公となり、「自分が勝手に、したいからしている」、ということになれば、「のに」は出てこなくなると思う。また、愛さなければならないからではなく、愛したいから愛するに変わってくると思う。
このように、
縛りからの解放→自由の自覚→主人公の自覚→自発的行為→さらなる解放
このようなサイクルに乗らせてもらって、人生、だんだんにうれしく、楽しくなってきているわたしです。
そうそう、タイトルが「責任感と無責任」としてしまったから、それらしい結論にしないといけませんね。では、
○責任感とは、責任を持つべきであると考えることではなく、責任を果たしたいという気持ちのことである。
○無責任とは、人が勝手に貼りつけたレッテルであり、ある立場からの一面感にすぎない。
そして、人は好むと好まざるとにかかわらず自分の人生に責任を持っており、無責任ということはあり得ない。
出かける予定でしたが、天候が芳しくないので中止し、これを書いてしまうことにしました。
聞いていただいてありがとうございます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/3a/2b5949f7893e9d024c1cfd642eecc44a.jpg)
セリバオウレン(キンポウゲ科) 4月6日撮影