それでは、ここでテキストを読ませてもらいます。(『美と健康の創造』P28 の後ろから2行目読む)
つまり、「神は常にわが護り、わが楯、わが砦となって我を護りたまう」と、このように神を信じることによって、「心配」や「取り越し苦労」はなくなる、と説かれているわけですね。
わたしはこのような心境には遥かに遠いんですが、それでも、自分が守られているということが少しは分かりかけてきました。それにはきっかけがあるんですが、谷口雅春先生の『善と福との実現』という本にこういうことが書かれていたんですね。「道を外れた生き方をしていると、壁にぶち当たって脱線していることを知る。脱線していることを知って正しい道に帰ろうとする。その時、帰るべき道は何となく知らされる。それが神の摂理である」と、このとおりではないですが、こういうことが書かれていました。
わたしが生長の家に御縁はいただいたのは、堕落した生活から立ち直ることができず「これから社会へ出るというのに、自分の人生はこれからどうなるんだろう。ひとつ手相の本でも買って占ってみるか」という訳で、名古屋へ手相の本を買いに行ったんですね。いい若い青年が手相の本を買いに行くなんて情けない話ですが、そこで『生命の実相』を見つけて読み始めたのが「生長の家」との出会いでした。
そのことが、時たま運が良かったのか、それとも神さまに導かれたのか、50歳頃から知りたいと思うようになりました。本当に神さまに導かれのだとしたらやはり嬉しいですからね、そうであって欲しいという期待があるわけですね。しかし、神さまが「わしが導いてやったんじゃ」とおっしゃって下さらない限り本当のことは分らんと思っていました。
ところが、60歳になってここを読んだ時、私は神様がその答えを下さったと思いました。そして『生命の実相』に出会ったのは、時たま運が良かったのではなく、神の摂理によって帰るべき道を何となく知らされ、『生命の実相』に出会うことができたんだと確信したんですね。その時、私は神様と見えない糸でつながっているような喜びをかんじたんですが、これは皆さんも同じだと思うんですね。中には腹の中にいる時から生長の家だったという方もおられますが、そういう方はまた特別何か良いことをしてきたんだと思いますが、多くの方は人生上の問題にぶつかって道に迷っている時、帰るべき道を何となく知らされて、生長の家に出会ったと思うんですね。
これを分りやすくいえば、親が子供の生長を見守っていて、その時の子供に相応しいおもちゃとか絵本を与えるように、神さまがわたしたちを見守っていて、ちょうどよい時に生長の家に導かれたんだと思うんですね。
そういうことが分かりはじめてから私の信仰が変わりはじめたんですね。
それまでの私は、今ここに実相の善いものがあるにしても、それが現実になるには、こちらがそれを受け取れるような心境にならなければいかんと、自分の心境の良し悪しに捉われ過ぎていた気がするんですね。それでとかくわたしは悲観的になり勝ちでした。しかし、今言ったようなことで、神さまは私たちに手を差し伸べて下さる具体的存在であると知るようになって、自分の心境どうこうよりも、神さまと繋がっている、神さまに見守られているという、そういう安心感や有難さを感じるようになりました。
そうやって信仰が変わりはじめたら、聖典を読んでいても、それまでとは違うところが目に留まるようになってきました。ひとつ例を挙げますと『生命の実相』の第18巻にこういうことが書かれています。
たとえばですね、わたしが今40歳で小さい子供が3人いるとします。そのわたしが今癌になって皆さんが祈って下さるとします。そういう状況で、谷口雅春先生はこう書いておられます。
○その人の悟りの目を早く開かせ、その人の霊魂の進化を速めるようになる場合には、いくら神様に祈っても治るものではない。神様から見れば霊魂の進歩ということが肝要事でありまして、肉体の見えたり消えたりすることはそれほどの問題ではない。こう書かれているんですね。
そのあと、こう書かれています。注目して欲しいのはここからです。
○むろん遺族が悲しむとか、経済上困るとかいろいろ複雑な関係問題もありますから、そういう影響を受ける人たちの霊魂の向上ということをも神様は考慮して、物質上の不幸にせよ、幸福にせよ、皆の霊魂の向上が最もよいと見定めがついた上で、「死ぬ」とか「治る」とかいう修正が現象世界に追加されるようになっているのでありまして、P45
と、こう書かれているんですね。つまりですね、その時わたしが死んだら、残された妻や子供たちはどうなるか、負担に押しつぶされてしまうのか、それとも魂の生長を早めることになるか、その見定めがついた上で死ぬとか治るとかの修正が行われると、こういうことなんですね。
ここを読んで、わたしは神様は私たち一人一人のことを本当によく御存じなんだということを感じました。そうでなかったら、負担に押しつぶされるか、魂の生長を早めるか、そんなこと分る筈がないですからね。ですから、神様は全てを知って下さっている、わたしたちの長所も短所もすべて理解して下さっている、そういうことを感じてとてもうれしくなり、また、どっちへ転んだにしても、良いようにしかならないと、そういう安心感、有難さを感じさせてもらいました。
そういうことで、私は60歳になって、ようやく「神さまに守られている」ということが、すこしは分りはじめ、信じられるようになってきました。
まだ時間があるようなので、もう少し、テキストを読ませてもらいます。P186読む
このように書かれているんですが、私たちはみ教えにふれたおかげで、幾つになっても、「一層善きものたらんとする熱望、一層高きものへの憧れをもちつつ、最後まで生き甲斐をもちつづけることが出来て、本当にありがたいことだと思います。
これで話を終わらせていただきます。どうもありがとうございます。
≪補足≫『美と健康の創造』 P186には次のように書かれている。
○世の中で何が一番尊い貯蓄であるかといいましても、自分自身の進歩ほど尊い貯蓄はないのであります。自分の能力か進歩するだけでも、それは喜びなのであります。しかもその進歩した能力で人類に貢献しうる喜びというものは、また喩えようのないものであります。自己改善の努力、なお一層善きものたらんとする熱望、なお一層高きものへの憧れ――それらは人生を美しくし、人生に生き甲斐を与え、希望で輝かせ、人生を生きる甲斐あるものたらしめるのであります。
ついでに好きなところをもう一つ。
○太陽の輝きは、星々の煌めきは、花の美しさは神様のあなたに対するやさしい微笑みです。P172