気の向くままに

山、花、人生を讃える

石津御嶽と木曽三川

2014年04月26日 | 

先日、はじめて石津御岳(650m)という山へ登った。この山はあまりに平凡な感じで登ってみようという気にならなかったが、家内も一緒に行きたいというので、時間の都合で、義母をデイ・サービスに見送ったあと、一番近いこの山に登ることになった。

しかし、登ってみればやはり山は山、それなりの良さがあり、家から登山口まで45分もあれば行けて、手近で足慣らしにちょうどよく、しかも冬でも気軽に登れるというので、いい山を発見したぞという訳でちょっと嬉しい。

この山は五合目付近(500m)からの眺望と、山頂から15分ほど歩いたところにハング・ライダーの飛び込み台があって、そこからの眺望が実に素晴らしかった。ハングライダーの飛び込み台のところは、登山口で一緒になったオッサンから(わたしもオッサンだが)、どこまで行くのかと聞かれて、「登ってそのまま降りる」と答えたら、「せっかくそこまで行ったら、そこから15分ほどのところにハングライダーの飛び込み台があって、そこが素晴らしい眺めだからそこまでいくといい」と教えてくれたもの。

わたしたちはそこで弁当を食べながら、その素晴らしい絶景を堪能し、「登山口でちょうどあの男の人に会えてよかったね」「ほんとだ、会わなかったらこんないいところを知らずに降りるところだった」などと話しながら、「偶然の出会いは一つもない」ことを思い出しつつ、これも神様からの贈りもの、と有難くなったことだった。

下の写真は、お気に入りだから、思いっきり大画面にした。(笑)

知らない人にはそれほどにも感じないかもしれないが、木曽三川といわれる木曽、長良、揖斐川が合流する近辺はとても気に入っているところで、その全体を手に取るように眺められる景色は、まさに羽根が生えて飛んで行くような素晴らしい気分にさせられたことでした。(正確にいえば、肉体を離れて虚空へと広がっていく感じ)

ただ、ここで撮った写真は光線の加減か、あまり写りがよくなく、下の写真は五合目から撮ったもの。(4月23日)                                               写真右側が伊勢湾へとそそぐ川下、左が川上。地平線に近いあたりは名古屋市街。

 

下は、上の写真を木曽三川公園を中心にして切り取り拡大したもの。

Aは「背割り堤」と言われるもので、川の氾濫を防ぐため、もともとは一つの流れだったものをこの「背割り堤」で区切って、木曽川と長良川という二つの流れに分流するためにもうけられたもの。

Bも「背割り堤」で、これも氾濫を防ぐため、長良川と揖斐川の二つの流れに分流するために設けられたもの。

治水神社は江戸時代、幕府の命により、鹿児島藩がこの地域の川の氾濫を防ぐため治水工事することになり、その難工事で多くの犠牲者を出し、その工事の総奉行であった薩摩藩家老の平田靭負(ひらたゆきえ)は責任を感じて自害した。昭和の初め、地元の有志により、その平田靭負をはじめとする薩摩義士をお祭りするために建立されたもの。この工事は「宝暦治水」と言われている(1754年~1755年)。

ついでなので追加。                                                                           ≪治水神社と桜≫

 

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神の御手の中

2014年04月25日 | 信仰

gooブログではときどき「アクセス解析」の無料のお試し期間があり、その期間中、どんな検索からこのブログへのアクセスがあるかを見ると、「自分に絶望している若き人に」や「スター・デーリー」「科学と宗教」「ツイン・ソウル」などが結構多いことに気づかされる。

「ツイン・ソウル」や「科学と宗教」などが多いのはその言葉からわかる気もしますが、「スター・デーリー」はあまり一般的には知られていない名前だから意外な気もするが、これは生長の家の人が検索しているのだろうと思う。それから、「絶望」の文字の入った検索からも多く、これは何か絶望感を持っている人が多いんだろうということでこれもはじめは意外というか驚きでした。

 

さて、話は変わりますが、わたしは初めての誌友会場では、自己紹介を兼ねて、自分が救われた話として、熱田神宮で早朝神想観をしている時、肉体が消え、「肉体はない、現象はない」と一時的ながら悟らせてもらった時の話をします。

それで、ある会場で、「私はまだ一度もそのような宗教的(神秘的)体験がないのですが、そういう宗教的体験のある人とない人は、どこが違うと思いますか」という質問を受けたことがありました。

その時、わたしがとっさに頭に浮かんだのは、救われたたいという思いの強さがまずその一つだということでしたが、その時は、そんな答えをしたら、わたしは一生懸命だったが、あなたはまだ熱心さが足らないのだと受け取られかねない。それでとっさにもう一つの心当たりを話しました。

「それは、性格的なものもあると思います。わたしの家内はなかなか素晴らしいのですが、いつもわたしには体験がないといっています。でも、なかなか素晴らしいんですよ。神秘的体験をするかどうかは、現実的な性格か、それとも(現実的なことよりも)神秘的なことへの興味の強さとか、摩訶不思議なことでもスーと信じやすい性格とか、そういう性格的なものもあると思います。」と。

私はどちらを答えたにしても、それはそれで間違いではないと思うのでしたが、それは自分でも質問したいし、谷口雅春先生の答えも知りたいという気持ちがあって気にかかっていました。

ところが有難いことに、それから間もなくして、『実相研鑽』という本を何となく読みたくなって、読み始めると、その第二集に「宗教体験を得るいろいろな道程」(『実相研鑽』第二集)という小見出しで谷口雅春先生の話が掲載されていました。

そこには、まず、釈迦やキリストが一生懸命修行をして悟りを開いたことを典型的な宗教体験として話され、その次に、パウロは何も修行せず、反対にキリストの伝道の邪魔ばかりしていたこと、また、スター・デーリーも修行どころか強盗犯だったこと、それにもかかわらず、パウロも、スター・デーリーもキリストの幻を見て、いっぺんに心が転向して、キリストの福音を述べ伝える者になったことを述べられ、春に咲く花もあれば、夏に咲く花もあるという具合で、それぞれに花咲く時期があり、そして各人のそれぞれの神の子なる実相が花開く時期が来たら、修行も何もしないでも、パッと宗教的体験を得るのだと書かれていました。

そして、わたしが感銘したのは、その次に書かれていることでした。

○われわれの天分が熟してきたら、われわれは、本来神の子なんですから、自然と宗教的体験を得るわけでありますが、それまではそこへ到達するための過程として準備的にわれわれが日常生活中で何かさせられているのであります。結局われわれは自分が生きているようですけれども、本当は日々の日常生活の中で神様に導かれ生かされているのであります。この日々の生活の中のあらゆる大小の体験は、普通は宗教的体験と認められないけれども、日常生活そのものの中に自分の内部に宿る神性仏性が顕れてくる尊い道程――道すがら――みたいなものがあるわけです。

と、こういうことが書かれていて、これを読んで、わたしは何を感じたかというと、私たちは自由に生きている、自由に生きていて、それでいて、叡智あるものの御手の中に生かされているということを感じました。人生は試行錯誤であり、その試行錯誤の結果、右すべきところをまちがって左に進んだにしても、神様の想定外ということはなく、やっぱり神様の御手の中を泳いでいるのではないか。わたしはそういうことを感じ、そのことをもっとよくよく理解したいと思ったのでした。

 

≪道≫  4月7日 小倉山への途中で

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花見②

2014年04月17日 | 

船頭平公園散策のあと、いつものごとくすぐ近くの木曽三川公園に向かった。                                                                                                       「チューリップ祭り」の期間中だが、平日だからちょうど良いぐらいの人出。いずれも4月3日の撮影。

 

「チューリップ祭り」  

 

 

三川公園のすぐ隣の「治水神社の桜」

 

 

帰りに寄った「天王川公園の桜」

 

『なぜ世界の人々は「日本の心」に惹かれるのか』(著者「呉 善花」)という本の中には「無類の花好き」という小見出しがあり、そこには「日本人は無類の花好きである」という書き出しで、次のような外国人の書いた日本訪問記の記事が紹介されている。

その一つ、

○日本人の国民性のいちじるしい特色は、下層階級でもみな生来の花好きであるということだ。気晴らしにしじゅう好きな植物を少し育てて、無上の楽しみにしている。もしも花を愛する国民性が、人間の文化生活の高さを証明するものとすれば、日本の低い層の人々は、イギリスの同じ階級の人たちにくらべると、ずっと優って見える。 (フォーチューン。イギリスの園芸学者)

もう一つは

○日本人は美しい景色だけではなく、花も大好きなのだ。むっつりした顔つきの車夫が、がたの来ている人力車の梶棒(かじぼう)をおろし、まるで小学生のように両手を拡げて丈の高い花叢(はなむら)へかけこんだとき、わたしはそれほど驚きもしなかった。熱狂の発作がいくらか鎮まると彼は、うでいっぱい、明るい黄色や白色のキク科の花やオレンジ色の百合や、たくさんの美しい真紅の実の付いた優美な枝を抱えて戻ってきて、それで彼の車を飾った。 (ヘンリー・フォールズ)

 

というものでした。

いやあ、「粋な車夫」が眼に浮かぶようですねえ。

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花見

2014年04月14日 | 

わたしの住む地域では、桜の季節も終わった。

今わたしの手許には『なぜ世界の人々は「日本の心」に惹かれるのか』(著者「呉 善花」)という本があります。ページを開くと「夢のような国」とか、「天国に最も近い国」などという言葉が目次に並んでいます。

日本の桜の季節は、このような言葉がピッタリですね。もちろん、本の内容はただ外見的なことをいっているだけではなく、幕末から明治期にかけて訪れた外国人の日本訪問記を紹介しながら深い精神的美にまでその考察が述べられていて嬉しくなる本です。が、その精神美のことはさておいて、桜が爛漫と咲く季節は、本当に「夢の世界」にいるような気分にさせてくれて、報道によれば近ごろでは外国人もその花見に加わる人の数がめっぽう増えているとのことです。わたしなどは花見に行くたび、外国人がこの花見の光景を見たらどんな感想を持つだろうかと、いつも興味深々でしたが、この報道を聴いて、「さもありなん」とすべてを納得した次第でした。                                                                 花の下を歩けば長閑な極楽浄土、そんな気分にさせてくれるのがこの季節です。だから、今年も近くのあちこちに花見に行きました。

下の写真は毎年決まって行く家から車で30分程度の「船頭平公園」という場所。前にも紹介したことのある木曽川と長良川を行き来する舟のための水門のあるところです。行ってみると「水郷舟巡り」の看板が出ていたので、さっそくその舟に乗ってみました。今年から期間限定で始まったようで4月13日で終了。下はその時の写真(4月3日)です。

≪水門≫

≪水門の中に入るところ≫

≪水門を出るところ≫

≪公園の桜≫

≪長良川を走る≫

≪戻ってきたところ≫

 久し振りに春風を切って水の上を走り、爽快でした。

       春風や水の上行く仏たち

 

≪内緒のうら話≫

オレンジ色の救命具をつけて座っている人たちの後ろ姿が石仏を見るようでおかしかった。、

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