《心配しないことにした》
今年の冬は一段と厳しかったが、3月に入って急に暖かくなり、隠れていた春がいっぺんに顔を出した。そして、もう4月を迎えようとしている。梅の開花は遅れたが、桜は早くも満開になろうとしている。
この1年は実際はそれほどでもないが、しかし、なにか気ぜわしい1年だった。 わたしは今まで、仕事での忙しさはあっても、それは仕事だけのことで、あれやこれやという忙しさはまったく経験したことがなかった。
ところが昨年はシルバーの仕事以外に、出講がはじまり、村(字)の役員にもなったので、頭が混乱しそうだった。お陰で、山は一度行ったきり。行こうと思えば行けたのだが、何となく気忙しくて気持ちに余裕がなかったのである。しかし、ようやく村の仕事から解放されて今はホッとしているところ。
わたしは長年海上を職場として来たので、村のことにはまったく無知で、腹立たしいことに家内からもときおりバカにされるぐらいだが、村の世話も大切なことだとは思うが、わたしはそれに向いた性格の人間ではないと思っているし、実際そうだろうと思う。それにわたしのやりたいことは別にある。良い勉強にはなったが、これから先、いつか区長という大役を任されたりしないかと、今から心配している。今から心配しているといっても、3年間はお役が回ってこないし、区長になるにしてもそれはさらにその先のことである。そんな先のことを今から心配するなどバカげたことだが、なぜか先回りして心配したくなるのである。こんなことではいけないと思いつつ、いつものように神想観をしていると、「神は必ず導き給う」と言葉が思い浮かんで、「そうだ、そうだ、そのとおりだ」と思って、もう心配しないことにした。
《人には負けてもいいんだ》
今日は部屋の大掃除をした。そしてデスクマットの下を見ていたら、紙片が挟んであって、そこには次のようなメモがしてあった。
○人には負けてもいいんだ。自分に負けなければ、いつかチャンスは巡ってくる。
これはテレビドラマ「フル・スイング」の中で教師が生徒たちに話した言葉だったように思うが確かではない。この言葉が、あらためて心の真ん中に響いてきた。そして、このような言葉に心を動かされて、自分がまだ青春の中にいるような錯覚を覚えた。真実の言葉には、何歳になっても心が動かされるものらしい。何歳になっても、人の心は、やはり人の心ということかと思った。ともかく、いつも胸に留めておきたい言葉だと思う。
さて、長らくご無沙汰だったが、厳しい冬も寒さ知らずで元気だったし、今ももちろん意気軒昂である。意気軒昂過ぎて、こんちきしょうと思いつつ、こんなことではいかんと寅さんではないが、反省の日々でもある。コンチキショウと思うのは・・・・いや、これはチャック。反面教師として、そこから学ばなければならない。停滞してはいけない。肩書に胡坐をかいてはいけない。自分自身が停滞することなく、常にみずみずしくあらねばならない。
「嫌なことがあったら、その時にはわたしに顔を向けなさい」と神は言った。そのとおりだ。
ただ、神のみを見て進もう。といっても、神様とにらめっこばかりもしておれないが・・・ははは。
《なんとなく知らされる》
先日、以前に抜き書きしたものを見ていたら、次のようなものがあった。
○神は人間に完全な自由をゆるし給うているから、人間が自由に勝手に暗黒の中を或る期間さまようて頭を打ち当てることも自由に許したまうていられるのである。しかしやがて人間は暗黒の中で頭を打ち、やがて自由意志をもって「光」を求めるようになる。 P23
○真の道でないところを歩いて行けば自然に行き詰る。・・・・自然に人間は行き詰ることによって、それが神の道でないことを知り、脱線していることを知る。そして再び祝福の流れにみずから還り乗るのである。その時に還るべき路(みち)を何となく知らされる、それが摂理なのである。 P25~26
この中に「その時に還るべき路(みち)を何となく知らされる」とあるが、この言葉いいですねえ。自分のうちに神がいてそれとなく教えてくれるようじゃないですか。考えてみれば、人生はまちがった方向に進んだり、また別の方向に歩みだしたりと、その繰り返しかと思うが、人はときたま別方向へ歩み出しただけであって、「何となく神から知らされたもの」とは気づかないかもしれない。わたしも以前は「神のお導き」と言われても、まったく信じられなかったし、それを言う人自身が、本当にそう信じて言っているとも思えなかった。それに、神が自分のようなただ一個の人間に関心をもって見ているとはとうてい思えなかった。
しかし、今は、それもある程度はその通りだと思うようになっている。考えてみれば生長していないようで生長しているのだ。
先日も徳久先生のテープを聞いていて、「願い事があれば、紙に書いてよく見えるところに貼っておくといい。後は潜在意識が導いてくれる」という話があったので、ちょうどわたしも、小さな太陽電池式のLEDライトが行方不明になっていて、いくら探しても見つからないのであきらめていたところだったので、「そうだ、きっと見つかるに違いない」と思って、貼り紙ではないが、神想観の後で祈ってみた。そして後は、どこから出てくるかと楽しみにしていた。すると3日後に、他のものを取り出そうと小さいザックを持ち上げた時、ザックのポケットのチャックが開いていてそこからポロリとそのLEDライトがこぼれ落ちた。探していた時、確かにそこも手で触って見たのだが、気がつかなかったのだ。
こういうことは初めてではなく、はじめから祈れば良さそうなものだが、さんざん探しまわった後で、その時は祈っても出てくるとは思えなかったので、祈って出てこなかったらガッカリすると思って祈らなかったのだ。そして、徳久先生の話を聞いて、「きっと出てくる」という気持ちになって祈ったら、やっぱり出て来てくれたのだった。
だから、わたしもいつも信じているわけではない。それゆえ、繰り返しこのような話を聞く必要があるのだと思ったことだった。