気の向くままに

山、花、人生を讃える

「有難さ」に目覚める言葉②

2025年02月12日 | 人生

以下は私自身が有難さに目覚めたいと思い、谷口雅春先生のご著書から抜き書きしていたものですが、読んでいただければ幸いです。

 

自分が一人で生きておったら、何か自分の力がやっておるのだから、ありがたいとも何とも思わないが、ありがたいというのは全体の生命と自分の生命とが繋がっておって、恵みによって生きている自覚ができる。宗教的情操とは、この「ありがたい」という深い感じだと思います。ですから、宗教的情操の養成は「ありがたい」という感じを常に喚起するようにつとめていくということによって、知らず識らずのうちに全体と融け込んだ一つの感じというものが出てくる。したがってまた利己主義というふうなことも自然に起こってこなくなる――。(子供の教育についての座談会で)  

○われわれは空気の恩恵について感謝すべきことに気がついた時、われわれの周囲に感謝すべきものがかくも多数に充ち満ちていることに気がつくだろう。 

○われわれは毎日空気を吸っているが、機械的に空気を供給されているがゆえに、ありがた味を感じない。われわれは太陽がなくては生きられない人間でありながら、太陽は機械的に毎朝地平線から顔を出すから太陽のありがた味をさほど感じない。しかし、これでよいだろうか。目覚めて立て!わたしたちはあらゆる恩恵のうちに生かされているのである。ありがたさは物の分量にあるのではなくて、心の目ざめにある。心の目ざめている人を悟っているという。 

○万象は神の愛の顕われだと見ることができる。太陽はわれわれを温めてくれるし、水はわれわれの渇きを医やしてくれるのである。植物はわれわれに衣食住を与えてくれる。われらの眼、耳、鼻、口、皮膚、手、足、内臓――そしてあらゆるもののことごとく神の愛である。空気はわれわれを取り巻いて生かしてくれる。ああ空気――ありがとう。ああ太陽――ありがとう。ああ眼、耳、鼻、口、皮膚、手、足ありがとう。そのうちのどれかがまだ不完全であっても、それはただの小部分にすぎないのだ。われわれは神の愛に包まれているではないか。数えきれない神の愛の中に包まれていながら、ただ一つ二つの不足について不平を言うような心は功徳を得る心ではない。まず感謝しなければならない。また、そんなに神の愛に包まれていることを思えば、まずわれらはすべての物に愛を注がねばならない。愛するということは幸福の初めである。

○偉大になるとは「反対者」をも包容しうるようになることである。右回りの歯車は左回りの歯車を「反対者」だと思うが、時計全体から見れば右回りの歯車と左回りの歯車と両方あるので調和しているのである。 

○小さい「我」がくだけたときに、天地一切から自分に働きかける自分を生かそうという不思議な力に目覚める機縁が与えられるのであります。ちょうどゴム風船の風船玉の中の空気が、このゴムの中だけが自分の世界だと思って、自分の力だけで意気揚々と空中に浮いていたのが、そのゴムがパチンと割れたために、中の空気と外の無限の空気とが一緒になった。そして自分を空中へ浮かしていたのは、風船玉の中の空気だけの力ではなく、実は外にある無限の浮かす力で押し上げられていたのだと気がつくようなもので、そこから感謝の念も生まれ、今まで世の中を冷たいものだと思っていたのが、冷たくないものだとわかってきて、心はのびのびとして自然の力が回復してくる。そして自然に健康になってくるのであります。 

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「有難さ」に目覚める言葉

2025年02月09日 | 人生

夏目漱石は小説『草枕』のなかで「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される」と書いている。人間には智の勝った人と、情に優った人がいるようだが、わたしはどちらかと言えば、知のまさったというか、情のうすい性質で、批判力が旺盛であり、この「他を裁く」性質をできるだけうすめ、優しい角の立たない人間になりたいというのがわたしの以前からの念願であった

下記は、少しでもよくなりたいとの思いで、尊敬する「生長の家」創始者、谷口雅春先生のたくさんの著作から抜き書きしたものだが、自分一人だけのものにしておくのも惜しい気がするので、これから少しづつここにアップしていきたいと思う。訪れてくださる方にとっても参考になるものがあれば、ありがたいと思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

遺伝が良くないといって失望するな。胎教を過(あやま)ったといって失望するな。人間はその最も深いところに実に根強く、神の子としての神性の遺伝をもっているのである。神性の根強い遺伝に比ぶれば、数代前十数代前位からの遺伝の力は太陽の前の星でしかないのである。このことを強く信ずる者は幸いなるかな。われらはこの「神性の遺伝」に敬礼し、感謝し、日夜この神性に対して讃嘆の声を雨降らさなくてはならないのである。 

○心の修養はやはり生涯の修行であって、常に柔らかく、温かい感情を持ち、誰にでも深切にし、常に楽しい嬉しい、悪いことは一つも考えないで、人を拝み、感謝する心を起こすようにしていますと、ますます表情がよくなるばかりです。 

○皆さんは自分というものを本当にもっと尊敬していただきたいのであります。自分は何しに生まれているのであるか、なんのために生きているのかという根本問題からもっと深く反省していただきたいのであります。皆さんは自分自身を尊び、自分のいのちを尊び、一分間でも自分のいのちを無駄にしないようにしなければならないのです。自分のいのちが地上に顕わされているその意義をありがたく思い、自分のいのちを尊敬して、たとい一分間の間といえども無駄に自身の生命を軽んずるということはいけないのです。一分間でも自分が向上することを考えなければならないのです。 (花嫁学校の生徒への講話から)                          

○毎朝、顔を洗って「顔を洗った、ああ、ありがたい」と分かるのが悟りであります。空気を吸うた、ああ、ありがたいと感謝できるのが悟りであります。

○われわれの心が麻痺していませんでしたら、いつも顔を洗って嬉しい、いつも空気を吸って嬉しい、いつもご飯を食べて嬉しい、というように、ありがたさは天地の間に満ちているのです。このあたりまえのことに天地の恵みを自覚してありがたいと分かるのが悟りであります。 

○物質を物質として観るかぎり本当のありがたさは湧いてこないのであります。それはただ、化学方程式の世界であって、あるべきものがあるべきように動いているのですから、ありがたさは湧いてこないのです。ところが物質を見ても「物質は無い」と知り、そこに神仏の愛、兄弟の愛が現われているのであると知ると初めてありがたさが湧いてくるのであります。

 

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「自死は何故いけないか?」について思う

2024年09月20日 | 人生

ある人のブログの「『人生案内』なぜ自死はいけないのか」と題する記事を読ませてもらった。
それによると、読売新聞に次のような投稿があったらしい。

「自殺はよいことか悪いことかと問われれば、もちろん悪いこと、ただ自死を考える人はものすごく悩んで生きるのがしんどくなってその道を選択してしまっているのではないでしょうか、なぜ自死はいけないことなのか教えていただきたいです」(50代前半 パート女性)

 

以前にもこのブログで書かせてもらったことだが、当時福島大学で「経営学」の教授をしておられた飯田史彦さんの話によると、学校で先生が子供たちに「いじめは駄目ですよ」「自殺はいけませんよ」というと、子供たちは素直な気持ちで「どうして?」と聞いてくるらしい。そして、その「どうして?」に対して、先生たちも答えることができないらしく、飯田史彦さんに、答えられるように何か参考になる本を書いて欲しいと多くの要望が寄せられたとのことだった。そして出版されたのが「親が子に語る人生論」と題する本だった。その後たしか題名が変わっていたと思う。(わたしは3度読ませてもらいました)

 

悲しいことに、わたしはいまだかつてマスコミに登場する著名人も、あるいは他の誰であっても「なぜ自殺はいけないのか」その理由を語っているのを耳にしたことはただの一度もない。口では「いけない」と言いながら、その理由について語らないのは、「人間は死ねばおしまい」と思っているからに違いない。「死ねばおしまい」なら、「死ねば、それとともに苦しみも消える」わけだから、「自殺はいけない」という理由もみつからない。だから、その理由を語ることもできないということになる。そのくせ、多くの人が「自殺はいけない」と言うのは、口では「死んだらおしまい」と言いつつ、心のどこかに、「死んでもおしまいではない」という思いがあるからだろうと私は思う。

 

さて、それはともかくとして、私の大好きな本『神との対話』という本に書かれていたことだが、人間は「善」とか「悪」とかについてのこだわりが強い。そしてその為に人類は多くの争いを起こしているとのこと。
そして、それに対する神の処方箋は何かというと、善悪で物事を考えるのではなく、「自分が目指している方向に照らし合わせて、そう考えることは役に立つか、役に立たないか」、つまり「善悪」ではなく、「役に立つか」「役に立たないか」で考えることを提案していた。

 

それでいくと、いろいろ原因があるにしても、自殺は今の苦しみから逃れたいという願望から自殺という考えが浮かぶと思うのだが、しかし、「楽になる」ことを目指して自殺するというのは、どうやらあまり役に立たないらしい。楽になるどころか、むしろ反対に、死んだ後、「とんでもないことをしてしまった」という強烈な後悔と、人前に出ることもできない恥ずかしさから、文字通り「穴があったら入りたい」心境で、自ら真暗闇の中に閉じこもり、長い間、後悔の念で苦しむらしい。

だから、自殺は「いけない」というよりも「役に立たない」というのが正解のようだ。

 

もし、自殺願望のある人、あるいは自殺願望なくとも、死んだ後どうなるかについて興味ある人は、飯田史彦著『生き甲斐の創造Ⅱ』を読まれることをお勧めしたいと思う。

 

此の本の中に、失恋して発作的に自殺してしまった青年が、是非とも父母にメッセージを伝えてほしいと飯田史彦に依頼してきたこと、そして父母と自殺した青年との幽明を境にした会話が詳しく書かれているし、もう一つは自殺した夫が、自殺してしまったことをひたすら奥さんに謝りたくて飯田史彦にメッセージを頼んできた夫のこと、そして残された奥さんとの会話が詳しく紹介されていて、どちらも涙なしでは読めない感動があるし、とても興味深いものがあります。
感動的というと誤解を与えそうですが、それは苦しみを乗り越えた後の話であることをお断りしておきます。

 

 ちなみに飯田史彦は「魂のメッセンジャー」として若い頃から、無料で自殺した魂から頼まれるままに全国に出向いておられ、そんなことが10年前で100回を超えると書いておられた。40代半ばごろまで福島大学で「経営学」の教授をしておられましたが、今は大学教授を辞してフリーで活躍されている。

以前に書いた記事ですが、よろしければお読みください。

描いた夢は破れても・・・ - 気の向くままに (goo.ne.jp)

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「心臓はなぜ動くのか?」

2024年08月27日 | 人生

 下に紹介させて頂くのは、 『生命の実相』 (生長の家創始者谷口雅春著) から一部を抜粋したもので、全文を紹介できないのが残念ですが、大変興味深いことが書かれていると思うのでその一部だけ紹介させてもらいます。読んでいただければ幸いです。

 なおこの本の初版は昭和40年ですので、それを念頭に読んでいただければと思います。

 

以下、引用

たとえば、人間はどうして生きているかというと、心臓が動くから生きているんだ、心臓が止まったら死ぬんだと、医者は科学者ですから、ちゃんとそれを知っていて心臓麻痺を起こしそうになるとカンフル注射をして、カンフルの刺激を与えると心臓が動く、それで生きる。心臓が動くから生きると申しますが、しかし、その心臓はなぜ動くかというところまでは科学は突き止めていないのであります。現在の医学ではまだこの心臓がどうして動くかということはわからない。わからないために、西式健康法の西勝造氏などはどうして心臓が動くかというのは毛細血管の引力であると言い出した。末梢の血管が毛細管になっているために、毛細管の引力によってその方へ液体の血液を引きつけるから、それがポンプ的働きをしてそうして心臓を動かす助けをするのである。心臓壁の筋肉の収縮力というものはそんなに強いものではないので、身体全体に分布しているあの細い脈管の中をこれだけの力をもって血液を働かせているだけの馬力は心臓のエンジンだけではとうてい出ない、それに毛細管の引力というものを考えて、毛細管の引力によって血液を吸い込むものだから心臓の収縮力が助けられて、血液が循環するのであるというような物理的な理屈をつけて説明して現在の医学に対抗しているわけであります。

 

ところが、それも私に言わせれば変な話であります。人間が死んだら心臓もあり、毛細管の引力があってもさっそく血液の循環は止まってしまう。そうすると毛細管の引力も心臓のポンプ的構造も皆血液を循環させる原因ではないということになるのであります。なぜ毛細血管は伸縮して、ポンプ的働きをもって心臓を助けるか、なぜ心臓自身は伸縮して血液を送るかというようなことはわからないわけであります。その「なぜ?」をもう一つ突き止めていった時に、われわれは本当に肉体的構造だけでなしに、物質的構造でなしに、ある不可思議な目に見えない生命の働きというものがあるということを突き止めなければならないわけであります。そういうわけでなぜ心臓が動くか? というところまで突き進んでゆくのが宗教であって、宗教というものは迷信以上のもの、迷信どころではない、科学以上に詮索深いものであります。かくしてわれわれはどこまでも満足しないで、どこどこまでもその原因を追究してゆきます時に、「第一原理」とスペンサーが言ったところのそれに到達するのであります。

 

「第一原理」というものは、それは何か他の原因によって存在するというものではなくて、初めからそれ自身によって存在しているというものであって、われわれは探求心によって詮索した極の極は、この「第一原理」に到達するほか仕方がないのであります。たとえば心臓はなぜ動くかというとそれは細胞がこういう具合な組織になって、そういう具合に血液が循環して呼吸運動がこういうふうになって血液の成分を新陳代謝させていると、そこのところをまだまだその原因をなお遡って、「なぜこの呼吸をするのだろう?」と、その「なぜ」のもう一つ奥に、もう「なぜ?」と言うことができないところの「最初のもの」――「第一原理」を肯定しなければならないようになる。それが神でありそれが生命であります。なぜ? なぜ? なぜ? ――かくしてそれ自身が初めから存在する不可思議なものに到達する――その不可思議なものが神なのであります。

 

この神というものを掴もうとする努力がすべての人間にあるのですから、人間の宗教心というものは非常に奥深いものだと言わなければならないのであります。では、もう一つ遡って、「なぜ、人間にそんな宗教心があるか」と申しますと、それはやはり人間は本来、神から発したものであるから、われわれはその本源のものを見出そうという憧れがあるからであります。たとえばわれわれは、孤児(みなしご)として親なしとしてどこかで養われているとしますと、「自分の親はどこかにいるかもしれない、会いたいな」という気持ちが起こるでありましょう。親に会いたい――この感じが本源を探求したい心である。「自分の身体はどこで生まれたか」というのも、自分の生命がどこから生まれたか、その本源を探りたいというのも、ともに親を知りたい、親に会いたい、親というものが何となく懐かしくて探らずにはいられないその同じ要求でありまして、いずれも「もとは一つ」の大真理より発するのであります。本来一つのものであるから、分かれ出でてもまた一つに逢い知ろうとする働きが起こるのであります。 (引用おわり)

 

以上は「本来一つのもの」と題する記事からの引用であり、「心臓はなぜ動くか」と云うのは、この文章の中の言葉を私が勝手に題名にしたものです。

 

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「一神」と「多神」、違いありや、なしや?

2024年05月22日 | 人生

先日、日本に在住している西洋人ユー・チューバーの動画を見ていたら、「日本人は神社にもお寺にも同じようにお詣りし、そしてクリスマスも祝ったりする、こういうところが私はとても気に入っている」とそのユー・チューバーは言っていて、「ああ、こんな受け取り方をする西洋人もいるんだ」と少し嬉しくなったことだった。

 

一般に日本人は多神教といわれ、一神教の人からは、節操がないように思えるらしいが、これは節操がないというよりも、こだわる必要がないと思っているだけの事だろうと、私は思う。

 

それに、「一神教」、「多神教」と区別すると、この二つはまるで正反対にも思えるが、しかし、「一神即八百万(やおよろず)の神」とか、「一仏即一切仏(いちぶつそくいっさいぶつ)」と考えれば、「一神教」も「多神教」もなんの違いもないと思う。

 

古事記の冒頭に名前が違う七つの神様が続けて出てくるが、その後、「これらは一つの神なり」と書かれている。神様の色々の御徳や、お働きによって、別の名前がついていても、元は同じ一つの神であるから、「多神教」といってもよく、「一神教」といってもよいわけだ。

 

それは、一人の人間が、子供から見れば「父」であり、妻から見れば「夫」であり、親から見れば「子」であり、会社では「係長」とか「課長」と呼ばれたりするように、役目によって呼称が違ってくるのと同じことなのだろうと思う。

 

一神教といわれるキリスト教にもいろいろな天使がいるそうだが、日本ではこの天使に相当するものも、やはり何々の神というふうに神という名前が付けられているから、さらにたくさんの神様があるように見えるが、やはり「一神即八百万(やおよろず)の神」であることになる。

 

この地球上にはいろいろの人種があるが、住む地域によって肌の色に違いはあっても、人体の構造は同じであるし、ユー・チューブを見ていると、文化や慣習、考え方に違いはあっても、やはり「同じ人間」ということは誰もが感じることだと思う。その人類の製造元とも言うべきものがあるとするなら、それは人種の違いに関係なく、製造元は同じであるに違いない。

 

だから、神社に行っても、お寺に行っても、拝んでいる対象はその製造元である「一つのもの」を敬い、お参りしているのだと思うし、同様にクリスマスを祝っても、おかしなことではなく、節操がないのでもない、むしろ歓迎されるべきことではないかと思う。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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感動した「ある夫婦の物語」

2024年04月04日 | 人生

 先日テレビ番組で、山奥で暮らす60半ばのある夫婦について紹介する番組があり、それを見てとても感動させられたので少し紹介させてもらいます。

 

 そのご夫婦の夫の方は自給自足の農業を営む健康な常人だが、奥さんは耳も聞こえず、目も見えず、そして口で話すこともできない人でした。それでも夫婦の心は温かく通い合い、奥さんは明るくとても幸せそうでした。

 

 奥さんは盲で耳も聴こえないのに料理もし(そこまでには失敗の繰り返しがあった)、夫の弁当もつくり、その夫が野良仕事に出かけている間に掃除もする。そればかりか、パソコンを使って、毎日欠かさず、夫にメールを打つとのこと。自分が入力した文字が点字で確認できるようになっているらしい。そのメールを、以前、自分たち住んでいた家を今は作業小屋として使っていて、そこにもパソコンが置いてあり、夫が昼休みの時そこで弁当を食べ、そして、奥さんからのそのメールを読み、また返信するのが日課とのこと。それがお互いの楽しみなのだとか。

 

 日常の会話は、手を握り合っての手話ということだった(つないだ手の指を夫がちょこちょこと動かして伝えている)。そして奥さんはNHKの朝の連続ドラマを楽しみにしていて、夫がその手話で、その内容を伝えているとのこと。(その時の奥さんの幸せそうなこと)

 

 夫の方は若い頃、農業に従事したいと思い、武者小路実篤が主宰する「新しき村」で生活していた。しかし、ある時、自分の好きな農業をしているだけでは満足できなくなり、何か人助けになるようなことをしたいという思いが湧いてきて、盲人の案内役をするボランティアをするようになり、そこでその奥さんと知り合い、やがて結婚を申し込んだそうだ。お二人が結婚したのは、確か50歳頃だったと思う。

 

 このご夫婦の日々の生活ぶりを見せてもらいながら、「何という幸せなご夫婦だろう!こんな夫婦もいるんだなあ!」と本当に感動させられたことでした。
そして
足元にも及ばないが、自分もこの夫を見習い、もっともっと妻を愛し大事にしなければと思ったことでした。

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神への道しるべ ②

2024年01月18日 | 人生

以下は谷口雅春著『神と偕に生きる真理 365章』 からの一節ですが、私が好きな所でもあるし、知っておいて損はないと思うので、いや、ぜひ知って頂きたく思い、紹介させてもらいます。読んでいただければ幸いです。

 

神への聖なる憧れ

○肉体的な自分、頭脳的な知性のほかに、何か一層高き神秘的なものが働いているという感情的な自覚、すべての宗教的な体験はそこから生まれて来るのである。しかしその自覚に達する迄には、頭脳的な追及も知的な探求も必要である。神への追及、神への探求――それがたとい頭脳的な知的なものであるにしても、神への追及又は探求の奥には既に自己の本質が「神である」ことのおぼろげなる自覚があるのである。そのおぼろげなる自覚を探求の緒として手繰って行けば、其処についに内在の神を見出し、内在の神に到達する大通りを見出すことができるのである。
 未だ一度も神を経験しない人が神を探求し追究しようという衝動をかすかながらも感ずるはずはないのである。既に神は自己の内にましますから神への聖なる求めが生まれて来るのである。

 

○こうして、人類の神への聖なる追及と、神をたずねる聖なる巡礼とがはじまる。或る人は神を「仏」の名に於いて仏教で見出す。ある人は神を「慈悲」の名において慈善的な行為や隣人への愛行に於いて見出す。或る人は、神を教会に於いて見出し、教会の礼拝の中に神と自己との接触点を見出そうとします。しかし教会や寺院での神や仏は、それを教える牧師や僧侶の排他的な、縄張り的な狭い心でゆがめられ、本当の神を見失わしめられ、「その教会や寺院を去ったならば、神罰や仏罰で恐るべき災禍に見舞われる」などとおどされて、神を求めたがゆえに、却って神に縛られて自由を失うような結果になりがちです。しかし本当の神は決してそのような神罰や仏罰で人間を威したりする方ではないのであります。 引用終わり

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「神への道しるべ」

2023年12月04日 | 人生

以下は、谷口雅春著『生命の実相』第2巻の「神への道しるべ」と題する章からごく一部を抜粋したものですが、参考になればと思い、紹介させていただきます。

 

○われわれは自分の心のうちにあるものしか見ることができません。またたとい触れてもそれを感ずることができません。もしわれわれが神を見ることができ、あるいは神を感ずることができますならば、その人のうちに神が宿っているからであります。 

 

○われわれが現実世界の状態や、現実世界の人間の不完全不円満にあきたらないで、円満な世界や人格をもとめようとするのは、不完全な現実世界とはぴったり調和することのできない完全円満なあるものをわれわれの内にもっているからであります。われわれが完全円満なあるものを内部にもっていなければ完全円満な人格や状態を予想することができないのであります。このわれわれの内にある完全円満なあるもの、これがすなわち神であります。 

 

○このようにわれわれが現状に不満足であって、いっそう完全円満なものを予想する性質をもっている限りわれわれの内には神が宿っているのであります。このようにわれわれ人間にはみな神がやどっているのでありますが、その神性の開発されている程度はいろいろでありまして、そのために世界の宗教には、いろいろの宗派がわかれ、礼拝の本尊となるべき神仏にも、いろいろのあらわれ方があるのであります。それはちょうど、われわれが活け花をするときに、花を活ける人の心の内に開発されている「美」が活け花になって、そこに内在の美が外に客観的に現われる時に、いろいろのあらわれ方をして、いろいろの流派となるのと同じであります。

 

○人間の心の内部にある「美」が外界に投射し出され客観化して「活け花の美」となりますと同じように、人間の心の内部にある完全円満さ、すなわち神性が外界に投射せられて、それが客観化されたのが神であります。無神論者の中には神とは人間のつくったものであって、神が人間をつくったのではないという方がありますが、それも一理はあるのでありまして、人間に本来神性がなければ神をつくることも想像することもできないのであります。人間の内部精神に美がなければ活け花を美しく活けることもできないのと同じであります。 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 わたしが神の実在を信ずるようになったのは、『生命の実相』全40巻を読んだのかきっかけでしたが、中でも、上の箇所は大きな影響を与えたと思う。そして、結局最後の40巻まで夢中になって読み続けました。

 今私は74歳で、後期高齢者に入る一歩手前だが、たとえ信仰といえるほどのものでないにしても、神の実在を信じられるようになったことは本当に幸運なことであったと、心より有難く思っています。

 いと気高きものの存在を認め、心に希望をもち、目標をもってこの人生を生きることができたら、それはとても幸せなことなのだと思う。

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結び目を解く

2023年09月19日 | 人生

下記はNHK Eテレの「ニュー試」という番組で放送された、ニューヨーク大学映画映画部の入試で出題された問と、それに対する松丸亮吾さんの解答です。

私には何を問うているのかもわからないような問ですが、ともかく松丸さんの答えが素晴らしいので紹介させてもらいます。

 

問:世界の中に見える結び目を解きなさい。(Untangle a knot you see in the world)

 

≪松丸亮吾さんの解答≫

私は、現代人の「タイムパフォーマンス」という考え方に疑問をいだいている。

友人とある映画の話をしていた時のことだ。その映画はシナリオの伏線回収が非常に良く出来ており、映像美や沈黙の間の作り方など演出もすばらしかった。特に主人公の最後のセリフが作品全体を貫く感動的なものになっており、私は涙が止まらなかった。今でも一番好きな映画なのだが、友人らは違った。

一人は倍速をかけて部屋の掃除をしながら見ていたと言い、一人は見たことすらないが映画の内容を要約してくれる人気チャンネルであらすじだけ見たというのだ。私は衝撃を受けた。タイムパフォーマンスという得を求めるあまり映画を見る時間を圧縮したことで、本来得られるはずだった感動の機会を失い、結果的に大きく損をしていたからだ。

映画に限った話ではない。何でも検索して答えを出そうとすることや、口コミを調べて体験した気になること。様々な場面で、本来得られるはずだった経験値、感動を奪うタイムパフォーマンスの悪がこの世界にはびこっている。

だからこそ私は「謎解き」を通して、タイムパフォーマンスの悪にあがらいたい。謎解きは答えを聞いたら楽しめず、答えに至るまでのひらめき・プロセスを楽しむ稀有なエンタメだ。途中を楽しむという姿勢が、タイムパフォーマンスの悪にあらがう一つのなると私は思う。

 

解答した後の松丸さんは次のように話していました。

「結び目って見えてるけど見えてないものみたいなもの、なんかこう誰かが解かなきゃいけないんだけど、みんなが見過ごしていることとか、問題提起なのかなと思って、「解きなさい」と書いてあったんで、それを理解した上で、どうすればよくなっていくか、手段も一つ提示しろって意味なのかな・・・」とそんなことを思いつつ書きました」とのこと。

 

年配の方はこの松丸さんのエッセイ(解答)に「大いに同感」という方が多いのではないでしょうか。

読んでいただき、ありがとうございます。

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嬉しいニュース

2023年09月14日 | 人生

ある雑誌に、ニューヨークタイムズの次のような記事が紹介されていたので、紹介させてもらいます。

それによるとニューヨーク市の11の市立病院では入院患者の食事が年間で80万食になるそうだが、温暖化抑制のためその病院食を野菜を基本とし、肉食はオプションと変更したことで、食品関係から出る二酸化炭素排出量tが年間で36%減らすことができたとのこと。同市のアダムス市長の英断ですが、日本にもこんな市長が現われてくれればと思います。

 

また別の雑誌には、こんな記事もあったので紹介させてもらいます。

ハーバード大学の神経科学者であるパスカル・レオーネ博士は「イメージ・トレーニングで脳も身体も変わる」という実験結果を発表したそうです。それによると、被験者をピアノを演奏する組と、ピアノ演奏をイメージする組の二つに分けて実験した結果、運指(うんしゅ)を司る運動野の領域が両者とも同じくらい拡大するのを突き止めたとのこと。つまりイメトレによって脳の活動領域が拡大することが確かめられたそうです。

 

また同博士の別の実験で、30人の健康な若者を下記の4組に分け、それぞれ1日15分、毎週5日間、12週続けた実験したその結果、

  • 小指を曲げるイメトレ      小指の強度が35%増加
  • 肘(ひじ)曲げのイメトレ     肘の強度が13.5%増加
  • 何もしない対象群        変化なし
  • 小指の筋トレ          小指の強度が53%増加

 

以上の結果から、イメトレだけでもこのように実際に筋力が増加することが確かめられたのだそうです。

 

それにしても、いつまでも暑さが続きますね。どうぞ皆様も熱中症にならないよう気をつけてください。

 

○病人をたんに「病める肉体」だなどと考えてはならないのである。「病める物質」などというものは本来ないのであるから、肉体を物質と考えているかぎりにおいて「病める肉体」というものは本来ないのである。肉体がたんなる物質ではなく「人体」であるかぎりにおいて、それは必ず「精神的存在」であるという意味を含んでいるのである。「物質は病みえない」で「心のみが病みうる」とすれば、物心の両面を備えている「人体」が病む場合にはどうしても「心が病んでいるのだ」と考える方が正しいのである。これを仏教的に言うならば「惑病同体」ということである。肉体には「心」の作用の結果があらわれているばかりであって、肉体それ自身には、肉体それ自身の細胞や成分の配列を変化する力はないのである。 (生長の家創始者 谷口雅春著『生命の実相』38巻より)

 

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或るお婆さんの変身

2023年08月09日 | 人生

或るお婆さんの話だが、その婆さんは嫁のすることが一々気に食わず、腹が立って仕方がなかったという
それで或るとき、宗教家にその事を話したというのであるが、以下は、その婆さんと宗教家の問答であり、谷口雅春著『親鸞の本心』という本からの引用です。

 

「一体誰が腹を立てさすのですか」と宗教家が問う。

「嫁が一々私に気に入らぬことばかりをするものですから」

「嫁が気に入らぬことをしたら腹が立ちますか」

「腹が立って致し方がありません」

「それでは其の立つと云う腹は誰の腹ですか」

「それは私の腹が立って仕方がありませぬ」

「あなたの腹はあなたが立てたり立てなかったりするのであって、嫁が立てるのではないでしょう」

「嫁が腹を立てさせるのです」

「そんなことはありますまい。たとい嫁がどのようなことをしようとも、あなたが腹を立てなければそれで好いのでしょう。そのあなたの腹を立てるものの正体は一体なんですか。それを一つ考えて御覧なさい。」

「・・・・・・・・・・・・・」

「あなたは腹が立つとき気持ちがよろしいですか」

「気持ちが悪くて悪くて、全く地獄の苦しみです」

「その地獄から逃げ出したいと思いませんか」

「逃げ出したいので先生に御相談申し上げているのです」

「そうでしょう。あなたの腹の中には、腹を立てて自分で自分を地獄へ突き落している『自分』と、その地獄から逃れたいと思っている『自分』と、二種類の自分がいるようですね」

「はい・・・・・」

「その二つの自分のうち、どちらが『本当の自分』か静かに座って考えて御覧なさい。これから毎朝正座して30分間『本当の自分は、腹の立てる自分ですか、腹を立ててるのを嫌う自分ですか』と自問自答して答えて御覧なさい」

 

 こう云われて、その婆さんは毎朝々々、教えられたようにして正座して、本当の自分を見出すことにつとめたそうです。

 

そして今まで仏様は十万億土の彼方にいると思っていたが、自分の本性が仏様であるとわかり、それとともに、他の人も仏様じゃと分かり腹が立とうにもたちようがなくなってしまった。そして嫁いじめをやめ、嫁御大事と互いに拝み、拝まれ、本当に極楽世界の生活を送ったということでした。

以上、婆さんと宗教家との問答がとても面白いので、紹介させてもらいました。

 

○何故人間が理想郷を求めずにはいられないのか、人間が何故「欣求浄土(ごんぐじょうど)」の心が起こるかと云えば、斯くの如き浄土が既にわれわれの「生命の既成体験」の中にあるからなのである。吾々の生命は、その既にある体験の中で、既に斯くの如き浄土に住んでいるからなのである。「欣求浄土」は、既に吾らのいのちの体験に於ける、望郷の願いであり、魂のホームシックに他ならないのである。 

 

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サムシング・グレートを観る

2023年08月08日 | 人生

禅宗の『無門関』という本にはいろいろの公案(問題・問いかけ)が提起されているが、その中にこんな問いがある。

 

昔、中国の奚仲(けいちゅう)という人がたくさんの車をつくった。ところが奚仲(けいちゅう)は何を明らかにしたかったのか、せっかく作った車をまたバラバラにしてしまった。いったい奚仲は何を明らかにしたかったのか。という問いである。

 

これは、「車とは何か?」という問題のようですが、答えは車は部分品ではなく、また部分品を集めた全体でもなく、本当の車は、それを作った奚仲(けいちゅう)の心の中にある。なぜなら、本当の車は、荷物を乗せ、人を乗せ、そして「輪っば」を回転させて前に進むという、アイディアであり、理念であり、設計図である。だから、車はそれを製作した奚仲(けいちゅう)の心の中にある。そのことを奚仲は明らかにしようとした、というのがこの問いへの答えであるようです。

 

この「車とは何か?」という問いかけは、「会社とは何か?」でもあるし、「人間とは何か?」という問いかけでもあるが、腕をちょん切り、足をちょん切り、首をちょん切り、それぞれにお前が人間かと問いかけても、返事をしない。それなら全体に向かって「お前が人間か?」と問いかければ、「そうだ」と返事をしてくれるかもしれないが、いくら返事をしてもそれが正解とはいえない。なぜなら身体を人間と思っているかぎり、身体は峠を越えれば、衰え、しなびていくばかりであり、そのような存在には夢も希望もないからである。

 

しかし、人は身体のみ見ているのではなく、身体の奥にある目に見えないものをも見ている。だからこそ夫婦は年老いても、睦まじく暮らすことも出来るし、さらには自分自身が生長すれば一層明らかに背後にあるものを観て尊敬の念さえもつことも出来る。

 

形の車は朽ち果てても、本当の車はそれを考案した奚仲の心の中にあり、いつまでも慈しまれているのと同じように、われわれ人間も、その考案者である神(仏)の中にあって、いつまでも永遠に愛され慈しまれている。それは母親の心の中に、いつも、いつまでも愛しきわが子がいるようなものかと思う。

 

このように吾々は肉体的身体だけを見るのではなく、それ以上に、その背後にあるサムシング・グレートを観なければならないのではないか、そんなことを感じさせられているこの頃です。

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感動した松丸亮吾さんのターニングポイント

2023年07月03日 | 人生

先日、Eテレの「ニュー試」という番組を始めて見ました。この番組は「世界の大学の入試問題から世界の未来が見えて来る」というふうに冒頭で紹介され、今回は、ハーバード大学の入試問題が取り上げられていました。その設問は「これまでのあなたの異常な状況について(教えてください)」というものでした。

 

そして、この設問に対し、松丸亮吾さんが回答したものが大変すばらしく感動させられたので、一人でも多くの人に読んでいただければということで、ここにも紹介させていただくことにしました。
(ちなみにこの設問は、リーダーとしての資質を問うものだとか)

 

ということで以下は設問に対する、松丸亮吾さんの答案文章です。

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私の人生におけるもっとも異常な状況は、私が高校2年生の頃。
一生解決することのない人生最大の後悔を生んだ反抗期です。

 

当時私は男4人兄弟の末っ子で、何をしても兄に勝てない無力な少年でした。
そんな時、長男のDaiGoがメンタリズムというパフォーマンスでテレビに出演しブレイク。
学校では兄の話題で持ちきりになり、僕のことは「亮吾」ではなく「DaiGoの弟」と呼ぶ人が増えました。

 

誰も僕個人のことは見てくれない、僕には存在価値がないと思ったとき、
兄弟のいる家庭環境が嫌になり、強烈な反抗期が始まりました。
遅く帰宅するために補導の時間ギリギリまでゲームセンターで遊び、親に行かされた塾もずる休み。
そんな生活が続き、両親と話す時間も撮れなかった中、異常事態が起ります。

 

帰宅すると父が待ち構えており、「母の部屋に行け」と言われたのです。
部屋に行くと、チューブにつながれ声も出せず、意識もうろうとしている母がいました。
母は1年前に乳がんで入院。
その後退院して自宅治療になったため、僕はよくなったと思っていたのですが、実はその逆。
回復見込みなく、少しでも家族と暮らすための処置だったのです。

 

僕の懺悔が母に届いたかわからないまま、母は息を引き取りました。
その後、母の手記から、
「亮吾が小学生の時に言っていた東大に行くという夢を叶える瞬間を見たかった」
というメッセージが見つかります。

 

当時の私は全校生徒300人中、学年298位。
東大など不可能な成績でしたが、この日から私は毎日12時間の勉強を重ね、
受験の直前には学年の9位まで成績を上げ、東大に合格。
直接見せることは叶いませんでしたが、仏壇に手を合わせ、母に報告しました。

 

これらの経験から私は、誰がいなくなっても後悔しないために、
人とポジティブな会話をしよう、今できることを全力でやろう、
不可能な状況にも、必ず解決の糸口はあるので、
実現のための努力を欠かさないように生きよう、
と心に誓いました。

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いやあ、ほうとうに素晴らしいですね。感動しました。

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本当の自分は?

2023年06月17日 | 人生

私の好きな話に、こんな話があります。

 

ある寺の小僧が毎日熱心に仏さまを拝んでいました。
そんなある日。お師匠さんがその小僧に尋ねました。

 

お師匠さん:毎日熱心に仏を拝んで感心なことだが、何か願い事でもあるのかな?

小僧:はい、お師匠様、わたしは早く悟りを開いて仏になりたいんです。それでこうして毎日仏さまを拝んでいるのです。

 

と、小僧は答えました。
それを聞いたお師匠さんは何も言わず、黙ってその場を立ち去りました。

 

それから、しばらくした或る日のこと、今度はお師匠さんが一生懸命に瓦を磨いていました。
それを見かけた小僧が、お師匠さんに聞きました。

 

小僧:お師匠様、瓦を磨いてどうされるんですか?

お師匠:うん、実はな、瓦も磨けばダイヤモンドになるんじゃないかと思っての、こうやって磨いておるんじゃよ。

 

お師匠さんがこう答えると、小僧はつい可笑しくなって言いました。

小僧:お師匠様、瓦をいくら磨いたって、瓦は瓦ですよ。ダイヤモンドにはなりません。

 

そう答えた瞬間、小僧はハッと気づいたそうです。
自分は今まで凡夫が修行して仏になると思っていたが、そうではなかった。
人間は本来仏だから、仏になることができるのだ。本来仏である自分に気づく、それが悟りだったのだ、と。

 

これは禅宗の中にある教えですが、禅宗にかぎらず、「人間の中には本来仏性、または神性と称される素晴らしいものがある、それを認め、尊び、そしてその美しい花を咲かせましょう」というのが、各宗教に共通した教えのようです。

若い人たちには、このような尊いものが自分の中にあることを知って、自分や他の人に幻滅せず、自暴自棄にならず、ぜひ自分を大切にしてもらいたいと思います。

最後まで見て頂き、ありがとうございます。

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自分に親切であれ!

2023年06月15日 | 人生

★科学の探求に真剣に携わるものは誰でも宇宙の法則の中に、一つの精神があることを確信するようになる。
                             アルバート・アインシュタイン

★目に見える現象の奥に奥深い秩序が隠され、その支配によって世界が成立している。  
                             ある物理学者(名前を忘れたので)

 

この世界の物理的な動きは、すべて法則で動いていることはよく知られている。そして、その物理的法則はすべて方程式で表わされるのだが、その方程式たるや、一般人の私にはまるで理解不能である。

ことほど左様に、この世界は高等数学的な秩序で成り立っているということである。そのことをよく理解している科学者たちの多くは、「神」とは言わないまでも、冒頭に掲げたような言葉を発せずにはいられなくなるのだと思う。つまり、この世界はでたらめの偶然的世界ではないということである。

 

物質的世界がそうであるならば、精神、あるいは心の世界に於いても、同様のことがいえるのではないか。

心の世界は目に見えないからわかりにくいが、やはり法則があり、けっして偶然やでたらめで動いているのではない。そのことは昔から、多くの諺でも伝えられているし、洞察力ある詩人、哲学者、宗教の指導者たちも同様のことを繰り返し語っている。

 

諺では、「笑う門には福来る」  「泣きっ面に蜂」  「人を呪わば穴二つ」など。

哲学者、西田幾太郎は「見ることは作ることである」とか、「想像力は創造力」と言っている。

イエスキリストは「与えよさらば与えられん」「人をさばくな、汝もさばかれんためなり」と教えている。

仏教では、「この世界は心のとおりを現わす世界である(唯心所現)と教えている。

 

言い方いろいろだが、ともかく自分が他にしたことが自分に帰って来るのである。

また、「類は類をもって集まる。類でないものは反発する」ともいう。

 

だから、人に迷惑をかけたり、危害を加えたりするのは、自分で自分の首を絞めるようなものなのだ。
一時、悪いことをして得をしたように見えても、必ずその反動があると思わなければならない。
これは決して神や仏が罰を当てるのではなく、あくまで原因・結果の法則でそうなるということである。

 

毎日のニュースを見ていると、このことを知らない人が多すぎる気がします。若い人ばかりではなく、大人もご存じないらしく、上に立つような人たちまでも、自分が良ければ他の人はどうでもよいと思っているらしく、セコイことをしてニュース沙汰になっている。

 

そんな大人のことはともかくとして、若い人たちには、是非、物理的世界だけではなく、精神の世界にも法則が働いていることを知り、結果的に自分の首を絞めるようなことできるだけつつしみ、、反対に、小さなことでもよいから、本当の自分が喜ぶようなことをするよう心掛けてもらいたいと思う。

コメント (2)
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