以下は私自身が有難さに目覚めたいと思い、谷口雅春先生のご著書から抜き書きしていたものですが、読んでいただければ幸いです。
○自分が一人で生きておったら、何か自分の力がやっておるのだから、ありがたいとも何とも思わないが、ありがたいというのは全体の生命と自分の生命とが繋がっておって、恵みによって生きている自覚ができる。宗教的情操とは、この「ありがたい」という深い感じだと思います。ですから、宗教的情操の養成は「ありがたい」という感じを常に喚起するようにつとめていくということによって、知らず識らずのうちに全体と融け込んだ一つの感じというものが出てくる。したがってまた利己主義というふうなことも自然に起こってこなくなる――。(子供の教育についての座談会で)
○われわれは空気の恩恵について感謝すべきことに気がついた時、われわれの周囲に感謝すべきものがかくも多数に充ち満ちていることに気がつくだろう。
○われわれは毎日空気を吸っているが、機械的に空気を供給されているがゆえに、ありがた味を感じない。われわれは太陽がなくては生きられない人間でありながら、太陽は機械的に毎朝地平線から顔を出すから太陽のありがた味をさほど感じない。しかし、これでよいだろうか。目覚めて立て!わたしたちはあらゆる恩恵のうちに生かされているのである。ありがたさは物の分量にあるのではなくて、心の目ざめにある。心の目ざめている人を悟っているという。
○万象は神の愛の顕われだと見ることができる。太陽はわれわれを温めてくれるし、水はわれわれの渇きを医やしてくれるのである。植物はわれわれに衣食住を与えてくれる。われらの眼、耳、鼻、口、皮膚、手、足、内臓――そしてあらゆるもののことごとく神の愛である。空気はわれわれを取り巻いて生かしてくれる。ああ空気――ありがとう。ああ太陽――ありがとう。ああ眼、耳、鼻、口、皮膚、手、足ありがとう。そのうちのどれかがまだ不完全であっても、それはただの小部分にすぎないのだ。われわれは神の愛に包まれているではないか。数えきれない神の愛の中に包まれていながら、ただ一つ二つの不足について不平を言うような心は功徳を得る心ではない。まず感謝しなければならない。また、そんなに神の愛に包まれていることを思えば、まずわれらはすべての物に愛を注がねばならない。愛するということは幸福の初めである。
○偉大になるとは「反対者」をも包容しうるようになることである。右回りの歯車は左回りの歯車を「反対者」だと思うが、時計全体から見れば右回りの歯車と左回りの歯車と両方あるので調和しているのである。
○小さい「我」がくだけたときに、天地一切から自分に働きかける自分を生かそうという不思議な力に目覚める機縁が与えられるのであります。ちょうどゴム風船の風船玉の中の空気が、このゴムの中だけが自分の世界だと思って、自分の力だけで意気揚々と空中に浮いていたのが、そのゴムがパチンと割れたために、中の空気と外の無限の空気とが一緒になった。そして自分を空中へ浮かしていたのは、風船玉の中の空気だけの力ではなく、実は外にある無限の浮かす力で押し上げられていたのだと気がつくようなもので、そこから感謝の念も生まれ、今まで世の中を冷たいものだと思っていたのが、冷たくないものだとわかってきて、心はのびのびとして自然の力が回復してくる。そして自然に健康になってくるのであります。