S先生は聴診器をあて
血圧 脈拍測定
あごの辺りをさわり
ズボンの裾をめくって脛をさわる
カルテの文字は
慣れた手つきの筆跡
デスクのわきにパソコンはあるが
いまだに看護助手に操作させる
近ごろ血圧が高めだが
様子見ようとか
名医なのかヤブ医者なのか
判断がつきかねるが
十年前の精神パニックの入院から
大丈夫 大丈夫といい
服用は自分で調節してと
その押しつけのなさにすこし安心もして
いつか一枚の絵を褒めてくれて
そんな些細なことが嬉しかったけれど
今月いっぱいで退職するS先生
まだ歳には見えないけれど
いままでお世話になりました
さようなら
道路わきに花がひらいた
風のいきおいで
ひらひらと花びらがゆれ
彩りが透いて
陽ざしを楽しんでいるような
かろやかさだ
別れも不安も
一枚の表皮がめくれるように
春風にさらわれていく
もうすこし街角を歩いてみよう
春というだけで
どこまでも行けそうになる
ここにいる
理由はなんだろう?
あなたが目の前にいてくれたら
それははっきり答えられる
でも一人のいまは
黙ったまま
ここが生まれた場所だから
母父がいるから
表札がかけてあるから
生きているから
そんな当たりまえの理由で
わたしはここに座る
わたしの存在が
足下で空回りをしている
わたしを怖れ
わたしを探し
だれにも問われず
虚空を見つめている
帰りぎわに目に入った
月のかがやき
円形はなにかをすくっている
こんなとき深海では
サンゴが産卵をはじめるらしい
隣人は脳が反乱を起こすのか
ときおり獣に変身する
夢のなかでは
冥王星や銀河系が飛来するが
月は出ているときしか気づかない
ぽっかり地平から浮き上がり
のんきな佇まいは
宇宙よりも絵本が似合う
ありきたりにも
月並みな会話で
ならんでぶらり
歩いてみようか
今月いっぱいで引っ越します
と入口の貼り紙
あいさつくらいで
会話なんてなかった
もしかしたら
気づかれていたかもしれない
この界隈もたぶんにもれず
郊外店の波で
人足は減っていた
シャッターの閉じる音
いつかはと思っていたが…
栗色の髪が光る
どこの土地でもきみは明るく
くったくのない笑顔で
未来をスキップしていくのだろう
こんど通ったら花を買おう
もちろん部屋に飾るための
春だからなんて理由もいいかな
メッセージカードは不要と
いつもどおりにきみを見届けて