私が料理を注文しても
あなたは何も頼まなかった
向かい合って
私の食事を見ているだけだった
差し出したパンも
ひとくちの果物も手を付けなかった
コップの水で
唇を濡らした
タイトな装い
甘やかな香り
どんな人に出会うときでも
身だしなみは手抜かない
それだけは男女の作法に見えた
私は黙々と食べた
ときどき眼をそらし
まばたきや
指先で何かをなぞった
理由は訊ねなかったが
のちの人づてによると
異形の木偶に興味があって
近づいてきたらしい
関係のないことだった
だんだん吐きそうになった
喉元まで氷塊がこみ上げた
口を塞いだけれど
別れて二十年経ってからも
未だつっかえている
台所に花が咲いた
オレンジの香りがする
チャーミングなお姉さんの
お出ましかと覗いてみたら
床一面に洗剤が流れている
だれが連れてきたのだろう
どこに使うのだろう
品不足のときにでも
転売するつもりか
コップや服に洗剤が
飛び散った
ルシファー・アレテパギサース!
千載一遇だなんて言葉もあるけど
これも何かの縁か
心の汚れを落とします
それなら歓迎さ
キュッキュのキュ
なにもかも洗い流されて
賞味期限切れのお茶を飲んだ
半年もまえのやつだ
僕も賞味期限が切れているようなものだから
ちょうどいいや
なんて自嘲気味にフタを空ける
春のぽかぽか陽気に
渋みが身体に沁みてゆく
美味い
色もくすんでいたので
少し心配になったけど
僕はぜんぜん元気だ
冷蔵庫にはまだこんなのばっかりある
そもそも僕に賞味期限なんて
あったのかい?
読みたい本はたくさんあるし
知りたいこともいっぱいある
恋だってこれからだ
還暦過ぎたって
僕には期限切れなんてないんだぞ
桜の花のひらくとき
一年に一度見上げる
ユメとか希望だとか
まとわりつくものが多くて
悩んでばかり
少しだけ忘れよう
この花びらの揺らめきに
身を任せよう
さわさわ ひらひら
あのとき私は
あなたが嫌いだった
やわらかな匂いと優しさを
惜しげもなく広げて
あんまり大らか過ぎて
でも今は愛おしい
花びらが頬をなでる
溶けあっていく
ほんの少しの時間だけ
私は何ものでもなくなる
記憶の庭で思い出をくゆらす
あんな こと もあった
こん なことも あった
記憶をパッチワークして
新しいシナリオを浮かべる
他人の中の
自分の姿はどんなだろう
ふりかえれば
不幸だったことは
ひとつもなかった
美しい風景も
知り得なかった人たちも
記憶の中でごちゃ混ぜになる