訪問看護師は、患者さんだけじゃなくて、介護者や環境など、包括的に支援するのだといってきましたが、時にほとほと疲れてしまうことだってあるんです。
訪問看護師は、医療機関の橋渡しだなんてよく言うけれど、それだってスムーズにいくとは限りません。
最初のボタンを掛け違うと、なかなかそれが直せなかったりするわけです。
患者さんは、看護師やケアマネには、いろんなことを訴えてきます。
いろんな不安、病院ではこうだった、こんなことがあった、こうしてほしかった、これが辛かった、こんな言葉に傷ついた・・
私たちは、それを受け止めるように耳を傾け、できることならうまく繋がるように、患者さんが辛い思いをしないようにと、連携室やケアマネとの間に入ったりします。
何度も電話を受けて、つらい思いを聞いて、これからの希望を聞いて、それじゃあと言って、間に入ると結果患者さんの気持ちはどんでん返しで、なんども申し入れをしてきた私たちは、ただ騒いだうるさい訪問看護師になってしまったりします。
こんなことは何度もあって、もう二度と振り回されまいと思うのですが、やはりつらい思いを訴えられたり、病状の悪化にあって、うまく医療機関とつながらなかったりすると、またも言いたくないことを言う羽目になってしまうのです。
それでも、患者さんの不安や苦痛が最小限になるのならと、結局放っておけない私たちは、なんだか悲しいピエロみたいです。
このところ、そんなことが何例か続いたので、もうあまり深入りしないほうがいいのかなと、心底思いました。
なんだか、代弁者の私たちだけが騒いでいるみたいな、ものすごく空回りな気分になっています。
伝えたいこと、知りたいこと、なぜそうなったのかも、在宅の場合医療機関からはあまり降りてこないのです。
休日前は、特に患者さんの状況を把握しておきたいし、薬や環境の調整も万全にしておきたい・・。
難しい理屈は別にして、単純に患者さんが不測の事態に我慢しないで過ごせるようにしておきたい。
言われなければわからないし、伝えなければわかってもらえないから、伝えようとするけれど、それがうまく伝わらないのは何でだろう。
別に面倒なことを言っているつもりはないけれど、結局面倒くさいな、と思われちゃうのなら、いっそ何も見ないふりをしていた方がうまくいくのかもしれません。
先週は、間に入って何度もやり取りをして、往診医を入れて、でも結果家族内の意見は実は分かれていて、いろんな人が動いた割に、中途半端に何とか落ち着いた患者さんがいました。
後で振り返れば、あれほど毎日相談の電話がかかってきたご家族は、今は往診の先生につながったことで、すっかり何事もなかったようにされています。
でも、そのことで連携室に随分とうるさいことを言ったり、面倒なことをお願いしたので、私的には、なんだかその連携室と溝ができたような気がしています。
もう、あまり余計なことはしない方がいいのかな。
黙っていても、なるようになるのかもしれないし。
うまく伝えられず、結局遠回りになっても、自分で伝えられるようにしなければ、それは私たちの言葉としか受け止めてもらえないのです。
今日も、伝えたいことがあったけれど、やっぱりうまく伝わらなかった。
別に、私たちが出した処方箋じゃないし、私たちのためにお願いしているわけじゃないのだけれど、結果私たちがしたいようにしていると思われたみたい。
でも、もうそういうことも疲れてしまったので、あとは遠巻きに見守るしかないのかもしれません。
私たちだって、めげることがあるのですよ。
そんなに、熱血でばかりはいられないです。
うまく繋がればすごくうれしい反面、どうにもかみ合わない時には、やりきれない思いだけが残ります。
・・でもね、こんなこと言っても、結局はおせっかいおばさんになっちゃうんだろうな。
うーん。
損な役回りです。
訪問看護師は、医療機関の橋渡しだなんてよく言うけれど、それだってスムーズにいくとは限りません。
最初のボタンを掛け違うと、なかなかそれが直せなかったりするわけです。
患者さんは、看護師やケアマネには、いろんなことを訴えてきます。
いろんな不安、病院ではこうだった、こんなことがあった、こうしてほしかった、これが辛かった、こんな言葉に傷ついた・・
私たちは、それを受け止めるように耳を傾け、できることならうまく繋がるように、患者さんが辛い思いをしないようにと、連携室やケアマネとの間に入ったりします。
何度も電話を受けて、つらい思いを聞いて、これからの希望を聞いて、それじゃあと言って、間に入ると結果患者さんの気持ちはどんでん返しで、なんども申し入れをしてきた私たちは、ただ騒いだうるさい訪問看護師になってしまったりします。
こんなことは何度もあって、もう二度と振り回されまいと思うのですが、やはりつらい思いを訴えられたり、病状の悪化にあって、うまく医療機関とつながらなかったりすると、またも言いたくないことを言う羽目になってしまうのです。
それでも、患者さんの不安や苦痛が最小限になるのならと、結局放っておけない私たちは、なんだか悲しいピエロみたいです。
このところ、そんなことが何例か続いたので、もうあまり深入りしないほうがいいのかなと、心底思いました。
なんだか、代弁者の私たちだけが騒いでいるみたいな、ものすごく空回りな気分になっています。
伝えたいこと、知りたいこと、なぜそうなったのかも、在宅の場合医療機関からはあまり降りてこないのです。
休日前は、特に患者さんの状況を把握しておきたいし、薬や環境の調整も万全にしておきたい・・。
難しい理屈は別にして、単純に患者さんが不測の事態に我慢しないで過ごせるようにしておきたい。
言われなければわからないし、伝えなければわかってもらえないから、伝えようとするけれど、それがうまく伝わらないのは何でだろう。
別に面倒なことを言っているつもりはないけれど、結局面倒くさいな、と思われちゃうのなら、いっそ何も見ないふりをしていた方がうまくいくのかもしれません。
先週は、間に入って何度もやり取りをして、往診医を入れて、でも結果家族内の意見は実は分かれていて、いろんな人が動いた割に、中途半端に何とか落ち着いた患者さんがいました。
後で振り返れば、あれほど毎日相談の電話がかかってきたご家族は、今は往診の先生につながったことで、すっかり何事もなかったようにされています。
でも、そのことで連携室に随分とうるさいことを言ったり、面倒なことをお願いしたので、私的には、なんだかその連携室と溝ができたような気がしています。
もう、あまり余計なことはしない方がいいのかな。
黙っていても、なるようになるのかもしれないし。
うまく伝えられず、結局遠回りになっても、自分で伝えられるようにしなければ、それは私たちの言葉としか受け止めてもらえないのです。
今日も、伝えたいことがあったけれど、やっぱりうまく伝わらなかった。
別に、私たちが出した処方箋じゃないし、私たちのためにお願いしているわけじゃないのだけれど、結果私たちがしたいようにしていると思われたみたい。
でも、もうそういうことも疲れてしまったので、あとは遠巻きに見守るしかないのかもしれません。
私たちだって、めげることがあるのですよ。
そんなに、熱血でばかりはいられないです。
うまく繋がればすごくうれしい反面、どうにもかみ合わない時には、やりきれない思いだけが残ります。
・・でもね、こんなこと言っても、結局はおせっかいおばさんになっちゃうんだろうな。
うーん。
損な役回りです。
それこそ、小澤先生の「誰かの支えに...」のことばを思い出しました。今日、京都で開かれていた、日本死の臨床研究会年次大会の田村祐樹先生の講演で「ストレスが高い時は、まず自分が自分らしくあるように、自分に優しく、自分をcareする。ストレスが高いといつもの力がでないことを自覚しつつ、無理はしなくてよい。」「自分に水やりをする」「自分をもてなす」ということを知り、楽になりました。
自分に水やりしたいなー。
今一番もらったらうれしいのは、お休みかな。
一か月くらい、お休み貰って、何も考えずにボーっとできたらいいのにと思います。
でも、そんなことできるはずもないので、やっぱり頑張るしかないのでしょうね。
それじゃあ、どうしたら自分をもてなせるのかな??
やっぱりおいしいもの食べるしかないのかな。
ありがとう、私も元気が出てきました。