食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

イタリア系移民の食-アメリカの産業革命と食(9)

2022-11-12 17:44:33 | 第五章 近代の食の革命
イタリア系移民の食-アメリカの産業革命と食(9)

アメリカは移民国家です。アメリカへの移民は、19世紀の終わりまでは、イギリスやアイルランド、ドイツ、北欧からのものが主でしたが、19世紀末以降は、イタリアやポーランド、ギリシア、ロシア、そして中国や日本からの移民も多くなりました。

そして、各民族は混ざり合うことはなく、それぞれが独自の民族集団を作っていました。食文化も同様で、それぞれの民族が独自の料理を作り、食べていたのです。これらがアメリカの食として一般化して行くのは、20世紀に入ってからのことです。

今回は、ピザやスパゲッティのように、現代のアメリカの食の中でも大きな存在感を示しているイタリア移民の食について見て行きます。

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中世以降、イタリアは小国に分裂していたが、19世紀の中頃から最北部のサルデーニャ王国を中心に統一戦争が展開され、1861年にイタリアは統一された。その結果、シチリア島やイタリア南部の人たちは冷遇され、生活も困窮した。特に小作農は日々の食べ物にも事欠く有様で、生きて行くために移民や出稼ぎとして国外に出たのである。

最も多くのイタリア移民が向かった先はアメリカ合衆国だった。彼らの多くは、ニューヨーク、ボストン、フィラデルフィアなどの東海岸北西部の都市に定住した。特に、ニューヨークのマンハッタンやブルックリン、ブロンクス、クイーンズの各地区は、イタリア系移民の街として発展して行った。また、一部のイタリア系移民は、大陸を横断して、カリフォルニアなどの西海岸に居を構えた。

イタリアからの移民のほとんどは小作農出身で、イタリアでは、オリーブオイルやチーズ、肉、パスタなどはほとんど口にしたことがなかった人たちだった。しかし、アメリカにやって来た彼らは、働きさえすれば食べるものに困らなくなった。そして、アメリカで手に入る食材で、金持ちのイタリア人が食べていた料理を作って食べるようになったのである。と言っても、高い食材をふんだんに買えるほど豊かでなかったため、自宅で豚やヤギ、ニワトリなどを育てたり、家庭菜園でトマトなどを育てたりしていたらしい。

イタリア系移民の多くが南部出身だったため、パスタ、トマトソース、オリーブオイルなどを主に使用するナポリ料理やシチリア料理がアメリカではよく食べられるようになった。

これ以降は、現代でも広く食べられているアメリカのイタリア料理(Italian American Foods)について見て行こう。

ミートボールスパゲッティ(Meatball Spaghetti/Spaghetti and Meatballs/Spaghetti with Meatballs)

この料理は、アメリカのイタリア料理では定番になっている。ナポリの祭りではスパゲティを食べた後にミートボールを食べる風習があるそうだが、これがアメリカに持ち込まれた時に、パスタの上にミートボールを乗せて食べるようになったのだ。ただし、ミートボールはイタリアのものより小さなくなっているという。

映画『ゴットファーザー』では、マフィアを毛嫌いしていた主人公のマイケルが、いよいよマフィアの世界に入ろうとしていた時に、古参のマフィア幹部からこの料理の作り方を教わる印象深いシーンがある。この料理を作れてこそマフィアの一員であるという意味があるのかもしれない。ちなみに、マイケルの父ヴィトーは、シチリア出身の移民という設定である。


Markéta (Machová) Klimešová のPixabayからの画像

ガーリックブレッド

これは、バゲットなどのパンの切り口にたっぷりのガーリック(ニンニク)とバターを塗り、さらにオレガノなどのハーブをのせてからトーストした料理だ。

イタリアでは、古代ローマ時代から焼きたてのパンの上にオリーブオイルを塗って食べていた。15世紀頃には焼きたてのパンに少しだけのニンニクとオリーブオイル、塩を乗せて食べるブルスケッタ(Bruschetta)という料理がよく食べられるようになった。これがアメリカに持ち込まれたのだが、アメリカではオリーブオイルが手に入りづらかったため、代わりにバターが使われるようになったのである。また、ブルスケッタよりもニンニクをたくさん使うようになった。

チキンピカタ(Chicken Piccata)

日本のチキンピカタやポークピカタは、鶏肉や豚肉に粉チーズを入れた溶き卵をからませて焼いた料理だ。アメリカのチキンピカタは、鶏肉を皮付きで揚げ、レモンとバターなどで作ったソースを和えた料理で、イタリアン・アメリカン料理の代名詞ともいえるものだ。通常は、パスタと同じ皿で供されることが多い。

イタリアでは薄切りの仔牛の肉を使うのが一般的だ。ピカタは槍の一突きが語源と言われており、薄い肉をフォークでひっくり返して両面を焼いて作ったことからこう呼ばれるようになったとされている。

チキン/子牛のパルミジャーナ(Chicken/Veal Parmigiana)

元祖イタリア料理のパルミジャーナは、揚げた薄切りナスにパルミジャーノチーズ(パルメザンチーズ)とトマトソースを重ねて焼き上げたものである。カンパーニャ州やシチリア州などの南部地域が発祥の地とされている。

アメリカやカナダでは、ナスの代わりに鶏肉や仔牛肉が使われ、パスタが添えられることが多い。また、パルミジャーノチーズの代わりに、手に入りやすかったフレッシュチーズが使われることが多かった。


Jenni Pattee の Pixabayからの画像

チョッピーノ(Cioppino)

これはサンフランシスコ発祥とされる海鮮シチューで、魚やカニやエビ、貝などの様々な魚介類をトマト入りのスープで煮込んだ料理だ。

チョッピーノは、サンフランシスコのノースビーチに定住したイタリア人漁師(多くは北イタリアのジェノバ出身者)が、その日に獲れた魚介類の残りを使って作ったシーフードシチューだった。もともとは出漁中の漁船や家庭で作られていたが、波止場近くの旅館や食堂で供されるようになると大人気の料理となった。


Mogens Petersen の Pixabayからの画像

ユダヤ系移民の食-アメリカの産業革命と食(8)

2022-05-14 15:30:57 | 第五章 近代の食の革命
ユダヤ系移民の食-アメリカの産業革命と食(8)
ユダヤ人の国と言えばイスラエルで、2014年の調査ではおよそ610万人のユダヤ人が暮らしているとされています。

イスラエルに次いでユダヤ人の多い国がアメリカ合衆国です。国内には500万人以上のユダヤ人が居住しているそうです。

アメリカの人口は3億人を超えるためユダヤ人の比率はそれほど高くないのですが、ビジネスや科学、芸術などの世界で成功したユダヤ人が多いため、アメリカの政治や社会に対する影響力はかなり大きいと言われています。アメリカ政府が親イスラエルなのは、このような理由もあると思われます。

ところで、ユダヤ教には厳密な食の戒律があることが知られています。そのため、ユダヤ系移民の食文化はアメリカでも独特なものと言われています。

今回はこのようなユダヤ系移民の食について見て行きます。

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ユダヤ教は唯一神「ヤハウェ」を信仰する宗教で、ユダヤの民(ヘブライ人)は神によって選ばれたという選民思想を持っている。『十戒』という映画でモーセが海を割るシーンが有名だが、これは神の啓示に従ってモーセがユダヤの民をカナン(現在のイスラエル)に導いた話を基にしている。

モーセに導かれたユダヤの民は紀元前12世紀にカナンにイスラエル王国を建てた。しかし、その後、新バビロニアやペルシア帝国、エジプト王国、ローマ帝国、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)、セルジューク朝、オスマン帝国などの支配を受け続けたことで、世界中に離散(ディアスポラ)して行った。また、それにともない各地の民族との混血が進んだ。

ユダヤ教の聖典の内容はキリスト教の旧約聖書とほぼ一致しているが、ユダヤ教ではイエスを神の子として認めないため、両者の間では対立があった。その結果、キリスト教が国教となったヨーロッパの国々ではユダヤ教徒は異端とされ、土地所有権などの基本的な権利が認められなかった。

11世紀末になって十字軍が始まると、ヨーロッパの国々でキリスト教徒の自意識が高まったことによって、ユダヤ教徒に対する迫害が強まった。そして13世紀末にはイングランドで、14世紀末にはフランスで、そして15世紀末にはスペインでユダヤ人が追放された。

ドイツでもユダヤ人虐殺などの迫害が続いたため、ユダヤ人の多くは東ヨーロッパに移住し、アシュケナージと呼ばれた。特にポーランドはユダヤ人に寛容だったため、多くのユダヤ人が移り住んだとされる。彼らが第二次世界大戦でナチスによる虐殺政策の対象となった人たちだ。

19世紀になるとヨーロッパで反ユダヤ主義が広まった。特に19世紀末からは、作物の不作や世界的な不況のため、ユダヤ人への迫害が強まり、彼らの生活は困窮するようになる。そして、この窮地を脱するために多くのユダヤ人は、アメリカやオスマン帝国(パレスチナを支配していた)などに移住したのである。
さて、ここで、一般的なユダヤ人の食について見て行こう。

ユダヤ人は「コーシャ」と呼ばれる教義にのっとった食品を食べることが義務とされている。一方、コーシャを食べることによって、自らのアイデンティティを守ってきた面もあると言われている。

ユダヤ教で食べることが許されている肉類は、ヒヅメが分かれている反芻動物(ウシ、ヒツジ、ヤギ、シカ)と、猛禽類・カモメ・カラス・ダチョウ以外の鳥類だ。このため、アメリカでよく食べられていた豚肉は食べることができないことになる。

また、動物の血液を口の中に入れることをタブーとするため、適切に血抜きをした肉しか食べてはいけない。さらに、乳製品と肉類は同じ食事で食べてはならないという規定もある。

魚貝類も、ウロコとヒレがあるものだけが食べることが許されており、貝類やエビ・カニ、タコ・イカなどは食べることができない。

ユダヤ人の通常の一週間で、最も重要な日が安息日である。安息日は金曜日の日没から土曜日の日没までの1日間で、この間に一切の労働を行ってはならないとされている。例えば、通常の仕事だけでなく、火をおこすことや紙を破ること、字を書くことさえ禁じられている(読書は推奨される)。イスラエルでは安息日には商店だけでなく、公共の交通機関も止まってしまうらしい。

安息日の料理は重要で、ごちそうを食べるのが習わしになってきた。しかし、料理も安息日には作ることができないため、安息日が始まる前に調理をしておき、安息日の食事が終わるまで温め続けるという。このような理由から、暖かい料理は煮込み料理やスープがメインとなる。定番は、ゲフィルテ・フィッシュというコイやタラのすり身などで作った団子をスープで煮た料理だ。

一年の中で最も重要な祭日に、過越すぎこし、パスオーバー)がある。これは、モーセがユダヤ人を連れてエジプトを脱出したことを記念するもので、春に8日間をかけて催される。この時の食事の内容は決まっており、最も重要なものが無発酵のパンだ。エジプトからの脱出を急いでいたため、発酵するのを待つ時間がなかったことから、無発酵パンが食べられるのだ。それ以外には、焼いた羊肉・ゆで卵・塩水につけた緑の野菜(パセリやセロリ)・苦ヨモギ・果汁の練り物が食べられる。

ここからはアメリカにおけるユダ人の食について見て行こう。

最初のユダヤ人の移民は、ポルトガル領だったブラジルから1654年にニューヨーク(当時はオランダ領のニューアムステルダム)に逃れてきた23人だ。その後はしばらくの間、あまり多くのユダヤ人の移民はなかったと言われている。

アメリカへのユダヤ人の移民が増えるのは19世紀になってからだ。1820年頃から1880年頃までの期間には、ドイツを中心に、合わせて25万人のユダヤ人がやってきた。彼らは主に西部開拓に従事したとされている。中西部で生活し始めた彼らは、ユダヤ教の戒律を厳格に守ることにそれほどこだわらなかったと言われている。それでも、豚肉を食べることはなかったらしい。

1880年頃からは主にロシアや東ヨーロッパからのユダヤ人の移民が急増する。1920年代までに約450万人のユダヤ人が、アメリカ北東部の大都市であるニューヨーク、フィラデルフィア、ボストン、シカゴなどに移住した。そして、彼らがアメリカで作り始めた食品のいくつかが、アメリカで広く食べられるようになる。

そのような食品の一つにベーグルがある。ベーグルは、小麦粉に水と食塩を加えて作った生地を発酵させたのちリング状にし、ゆでてからオーブンで焼いたパンの一種だ。一度ゆでているため、中がもっちりしているのが特徴だ。

ベーグルは1880年代にポーランドからのユダヤ系移民によってニューヨークで作られたのが始まりで、1980年代からアメリカで広く食べられるようになった。今では日本でもよく知られている食べ物だ。


ベーグル(Vicki HamiltonによるPixabayからの画像)

また、アメリカでよく食べられているパストラミ・オン・ライというライムギパンコンビーフをはさんだサンドイッチがあるが、これは19世紀の終わりにニューヨークのユダヤ系移民のデリカテッセンで考案されたものが広まったものだ。

デリカテッセンはお持ち帰りの総菜屋さんのことだが、アメリカでは19世紀に東欧系ユダヤ人やドイツ人などが同胞のために開業したのが始まりだ。ユダヤ人のデリカテッセンに行けば、ユダヤ教の戒律に従った料理が手に入るため、多くのユダヤ系移民が利用したのである。パストラミ・オン・ライ以外には、ゲフィルテ・フィッシュクニッシュ(タマネギ入りマッシュポテトをパイ生地で包んで焼いたもの)などが販売されていたという。

また、アメリカ菓子の定番の一つにニューヨーク・チーズケーキというものがある。これは、表面がこんがり、中はクリーミーなチーズケーキで、オーブンで蒸し焼きにして作る。このチーズケーキも、ユダヤ人のチーズケーキが元になってできたものだ。

以上のように、ユダヤ人の食も現代のアメリカの食に深く浸透しているのだ。

参考文献:Jonathan Deutsch. & Rachel D Saks 著:Jewish American food culture(Greenwood社、2008/2/28)

ドイツ系移民の食-アメリカの産業革命と食(7)

2022-05-04 10:26:22 | 第五章 近代の食の革命
ドイツ系移民の食-アメリカの産業革命と食(7)
アメリカンドリーム」とは、「誰もが身分や出自の関係なく平等に機会を得て、豊かな生活を追求できる」というアメリカ合衆国建国以来の理想理念と言われています。そして、アメリカには、アメリカンドリームの実現を目指して、主にヨーロッパからたくさんの人々が移住してきます。

アメリカへの移民は、1880年頃までは主にドイツアイルランドの出身者でしたが、それ以降はイタリアなどの南欧の国や、ポーランドやロシアなどの東欧、中国や日本などのアジアといったように出身国の多様性が高まります。

そして、これらの国々からはその国独自の食文化がアメリカに導入され、それらがイギリス料理を基本としたアメリカ料理に融合することで、アメリカ独自の料理が生み出されて行きます。

今回からアメリカにやってきた移民たちの食について見て行きます。第1回目はドイツ系移民の食です。

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17世紀から18世紀にかけてドイツからアメリカに移住した人々やその子孫のことを「ペンシルベニア・ダッチ」と呼ぶ。その頃は、イギリス植民地だったペンシルベニアで主に生活していたからだ。

ペンシルベニア・ダッチは西部開拓時代が始まると、ほとんどが西部に移住した。また、その頃には、新しいドイツからの移民も海を渡って西部にやってきた。

初期のドイツ系移民の料理はとても簡素なものだったと言われている。主食は濃い茶色をした全粒コムギを焼いたパンだった。当時の朝食では、バターを塗ったパンと黒砂糖入りの紅茶、そして大根などの野菜を食べていたとされる。

特徴的なのは、古代穀物のスペルトコムギがよく利用されていたことだ。このコムギはグルテンが少ないので、パンなどはふっくらとせずに堅かったと思われる。スペルトコムギはパン作りだけでなく、団子やスープ、粥などにも使われた。

昼食や夕食には肉類を食べた。肉は貧しかったドイツではなかなか口にできなかったものだったが、豊かなアメリカでは簡単に手に入るようになった。

肉は豚肉が好まれた。ペンシルベニア・ダッチは、ブタのすべての部位を使うことで知られていて、「唯一使わなかったのは鳴き声だけだった」と言われるほどだ。

付け合わせでよく食べられたのが「ザワークラウト(英語:サワークラウト)」だ。これは塩漬けしたキャベツで、数日漬けると乳酸発酵によって酸っぱくなる。西洋の漬物のようなもので、現代では全米で広く食べられるようになっている。ペンシルベニア・ダッチの古くからの言い伝えでは、お正月に豚肉をザワークラウトと一緒に食べると幸運が訪れると言われている。


豚肉とザワークラウト(kalhhによるPixabayからの画像)

また、ゆでたジャガイモマッシュポテトグレイビーソース(肉汁に小麦粉とワインを加えて作ったソース)をかけたものも、付け合わせとしてよく食べられた。これらも現代のアメリカでよく食べられている。

19世紀末には、付け合わせとして「7つのお菓子とサワー(酸っぱいもの)」、つまり7種類のお菓子とサワーを出す習慣が生まれた。その内容は、ハチミツ、リンゴバター、ジャムと、青トマトや赤トマトのピクルス、野菜の酢漬けなどである。

また、ボットボイ(bot boi)と呼ばれる肉・野菜・卵麵が入ったシチューが登場した。これは伝統的な料理として今でも食べられている。

現代のアメリカでよく食べられているお菓子に、ペンシルベニア・ダッチが作り始めた「シューフライ・パイ」というものがある。これは、小麦粉にバターと糖蜜、ベーキングパウダーを加えて作るパイで、1880年頃にベーキングパウダーや鋳鉄製の調理器具などが家庭で使われるようになって作られるようになったと考えられている。

また、「スティッキー・バンズ」というアメリカ定番の菓子パンも、ペンシルベニア・ダッチが作り始めた。これは、シナモンや黒砂糖が入ったもちもちの生地の上に、ナッツ入りのトロトロした糖蜜がトッピングされたパンだ。


スティッキー・バンズ(Isabelle Boucherによるflickrからの画像)

さらに、ドイツ系移民たちは、フランクフルトやウインナーソーセージ、ブラットヴルストなどのソーセージもアメリカで作り始めた。そしてソーセージをロールパンにはさんだ「ホットドッグ」を生み出したとされている。1860年代には、ドイツ系移民がニューヨークで、ロールパンにザワークラウトと一緒にフランクフルトをはさんだホットドッグを売り歩いたと言われている。また、1871年には、ドイツ人のパン職人チャールズ・フェルトマンがニューヨークで最初のホットドッグスタンドを開いて人気を博したという。

これら以外にドイツ移民は、クッキープレッツェルをアメリカに持ち込み、そしてビール醸造を始めた。

アメリカの有名なラガーと言えばバドワイザーとミラーだが、「バドワイザー」は1876年にドイツ系移民のアドルファス・ブッシュが造り始めた。また、「ミラー」も1855年にドイツ系移民のフレデリック・ミラーが既存の醸造所を買い取ることで創業されたものだ。

缶詰の歴史-アメリカの産業革命と食(6)

2022-04-27 17:21:16 | 第五章 近代の食の革命
缶詰の歴史-アメリカの産業革命と食(6)
昔、アメリカのスーパーマーケットで買い物をしたときに、日本では見かけないホウレンソウの缶詰を見つけて購入したことがあります。アニメの『ポパイ』を思い出したからです。アニメでは主人公のポパイがホウレンソウの缶詰を食べると怪力を発揮していました。

部屋に戻って缶詰のフタを開けると、水煮したホウレンソウが入っていました。どうして食べようかと思いましたが、ポパイが缶詰のホウレンソウをそのまま食べていたため、私もそうしてみました。しかし、味付けがほとんどされていないため、食べるのに苦労した記憶があります。

実は、アメリカなどでは、ホウレンソウの缶詰はトマトケチャップと混ぜてパスタのソースにしたり、他の野菜と混ぜてサラダにしたりなど、料理の材料として使用されるようです。

さて、今回は缶詰の歴史について見て行きます。

缶詰は保存食のイメージが強いです。美味しく食べられる賞味期限は2~3年ですが、保存状態が良ければ10年以上は安全に食べられるそうです。ただし、膨らんできた缶詰は中で微生物が繁殖している可能性があるので、食べてはいけないとされています。また、膨らんだ缶詰を開けようとすると破裂することがあるので、注意が必要です。



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缶詰は、びん詰に使用される重くて割れやすいガラス容器を金属製に変えるというアイデアから生み出された。1810年にフランス人のフィリップ・ド・ジラールがロンドンで、このアイデアで特許を取得した。

この特許は、イギリスのブライアン・ドンキンとジョン・ホールに売却された。彼らは研究を進め、腐食されにくく毒性のない錫(すず)でメッキした錬鉄(れんてつ)製の密封缶で食品を包装する方法を開発した。

なお、錬鉄とは鋼鉄が作られる前に使用されていたもので、炭素の含有率が鋼鉄よりも高いため、鋼鉄よりももろかった。そのため、その頃の缶容器は今よりもずっと厚手で重かったという。

当初、缶は手作りで、つなぎ目ははんだで接合されていた。この缶に食品を詰め、底と同じ円形のブリキ板をその上に置いてはんだ付けして、これを沸騰水のなかに入れて内容物を十分加熱し、膨張した蓋に小孔をあけて脱気し、最後に缶がまだ熱いうちにこの小孔をはんだで塞いで缶詰とした。この作業には時間と労力がかかり、1つの缶詰を作るのに約6時間かかったと言われている。そのため缶詰はとても高価で、この時期の主な販売先は保存食を必要とする軍隊などに限られていた。

また、初期の缶詰は開けるのがとても大変だった。現在のような缶切りはまだなく、缶詰の説明書には「ノミとハンマーで外周近くの上部を丸く切りなさい」と書かれていたという。軍隊などでは銃で撃って開けることもあったらしい。

アメリカには1819年に缶詰の製造法が伝えられたが、殺菌や密封が不十分で腐るものも多かったため、人々の信用度が低く、あまり売れなかった。それでもアメリカで缶詰の製造技術の改良が進み、単位時間当たりの生産数は徐々に増えて行った。1860年代には、1個当たりの製造時間が当初の約6時間から30分に短縮されたという。

アメリカで最初に商業的に成功した缶詰は、1857年に販売が開始されたゲイル・ボーデン(アイスクリームのボーデン社の創業者)のコンデンスミルク(濃縮牛乳)だ。牛乳は鮮度を保つのが難しく、ニューヨークのような都市部では調達にコストがかかっていた。ボーデンのコンデンスミルクはこのような需要をうまくとらえたのである。

コンデンスミルクの売り上げをさらに押し上げたのがアメリカ南北戦争(1861〜1865年)だ。コンデンスミルクが兵士の食料品の1つとして大量に調達されたのだ。また、他の缶詰食品も軍隊に納品され、兵士の空腹を満たした。こうして、戦争という困難な状況で人々は缶詰の有用性に気付き始める。

ちょうどこの頃には、イギリスで開発された鋼鉄(こうてつ)の生産技術が広まり、缶の材料にも鋼鉄が使用され始めたため、缶は薄手になり軽くなりつつあった。

また、1858年には、アメリカのエズラ・J・ワーナーがレバー式の缶切りを発明した。この缶切りは南北戦争中に軍隊で使用された。しかし、刃が鋭く、けがをする人が多かったという。そして1865年には、家庭用の缶切りが付属した牛肉の缶詰が販売され始めた。この缶切りはウシの頭がデザインされていたため「Bull's head opener」と呼ばれ、人気を博したという。


ワーナーの缶切り


Bull's head opener(ライセンス:ウイキペディアより

その後も缶詰の製造方法の改良は続けられ、1885年頃には全工程の自動化に成功する。その結果、1つの機械の製缶能力が1日当たり6000缶に達するようになった。

さらに1897年には、それまではんだ付けしていたフタと胴体の接合を、現在行われているような二重巻締めする方法が開発された。その接合部には1888年に開発された液状ゴムが使用された。その結果、はんだで使用されていた鉛などの混入が無くなり、缶詰の安全性が高まった。そのため、このような缶詰は「サニタリー(衛生的)缶」と呼ばれて、広く使用されるようになった。

現在の缶詰は120℃の温度と2気圧の圧力を同時にかけることで殺菌される。自然界には熱に強い微生物が存在するが、この条件ではほぼすべての微生物が死滅するのだ。この高温・高圧の殺菌方法を開発したのがアメリカMITのサミュエル・ケイト・プレスコットとウィリアム・ライマン・アンダーウッドの研究チームで、1896年のことだ。それ以降、この方法は缶詰製造のスタンダードとなっている。

さて、現在の食料品のパッケージは非常にカラフルで視覚に訴えるものが多い。このようなパッケージを始めたのが、びん詰や缶詰のメーカーである。19 世紀の前半に食品メーカーは、びん詰食品に一目でわかるブランド名を付けると、よりよく売れることに気が付いた。当初は内容物に関する情報を記載したラベルを貼るだけだったが、次第にパッケージ全体を使って食品を宣伝するようになって行ったのである。

食品の在り方を大きく変えたという点から、びん詰と缶詰の登場は食の歴史の中で革命的なものだったと言える。

びん詰食品の歴史-アメリカの産業革命と食(5)

2022-04-23 15:45:38 | 第五章 近代の食の革命
びん詰食品の歴史-アメリカの産業革命と食(5)
最近は店先に並ぶ食料品の容器としてはプラスチック製のものが主流を占めていますが、びん詰缶詰も多く使用されています。特に固形物についてはびん詰缶詰になることが多くなっています。

今回と次回では、このようなびん詰と缶詰の歴史について見て行きます。

産業革命前の欧米では、食料品の輸送に麻袋や木箱、樽、びんなどが使用されていましたが、小売店では19世紀末になっても、砂糖や小麦粉、コーヒー、茶、ドライフルーツなどは客の目の前で計量され、紙に包んだり、袋に入れたりして売られていました。

しかし、世紀が変わる頃になると、びん詰や缶詰になった食品が販売されるようになります。その背景にはどのような出来事があったのでしょうか?


(Engin AkyurtによるPixabayからの画像)

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ガラス製の容器は古代エジプトの遺跡からも見つかっており、かなり古くから使用されてきたものだ。そして、その技術が導入された古代ローマでは、一般庶民もガラス製のびんや食器などを使用していたことがわかっている。


ポンペイの遺跡から見つかったローマ時代のガラスびん(ポンペイ展より)

西暦467年の西ローマ帝国の滅亡によって西ヨーロッパのガラス製造技術は大きく衰退するが、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)やイスラム社会ではローマ帝国の技術が受け継がれ発展した。

西ヨーロッパでは8世紀に入ってガラス作り再開された。特に海洋都市国家のヴェネツィアはビザンツ帝国などとの東方貿易を支配していたことから、ガラスの製造法が導入され、ガラス製造の中心となっていた。さらに1453年にビザンツ帝国が滅亡すると、ガラス職人がヴェネツィアに移住したため、製造技術が格段に進歩する。なお、その頃のガラスびんに蓋をするには、ロウを染み込ませた皮や紙、そしてコルクが使用されていたという。

その後、西ヨーロッパの中心が地中海から北に移動し、フランスやイギリス、ドイツなどの国力が高まると、それらの国々でガラス製品の製造が盛んになった。そして、そこで技術革新が起きる。

ガラスは、珪砂(けいしゃ、石英を砕いたもの)・ソーダ灰(炭酸ナトリウム)・石灰(炭酸カルシウム)から作られるが、1670年代以降に、イギリスやフランス、ドイツなどで、これらに酸化鉛を主成分となるように加えることで無色透明なクリスタルガラスを作ることに成功したのだ。

さらに19世紀に入って工業化が進むと、ソーダ灰(炭酸ナトリウム)の大量生産が可能になり、さらにガラスの溶解炉も発達することによって大量のガラス製品の生産が可能となった。

さて、ここからは近代的なびん詰食品のお話だ。それは、フランスの菓子職人ニコラ・アペール(1750〜1841)の実験から始まった。

1795年にナポレオン・ボナパルト率いるフランス政府は、兵士に安全な食料を供給するための新しい食品保存法を募集した。アペールは14年にわたる実験の末、ガラスびんを用いた食品保存法を開発した。それは、肉や野菜などの料理をガラスびんに入れたのち、できるだけ空気を抜いてコルク栓でフタをし、沸騰したお湯に浸けるものだった。煮沸によって腐敗の原因となる細菌は死滅し、さらにガラスは細菌を通さないため長期保存ができるのである。

1810年にアペールはこの方法によってフランス政府から12000フランの賞金を授与された。そして『各種食肉・野菜を数年間保存する方法』と題する論文を発表した。この英語版はすぐにロンドンで出版され、アペールの新しい食品保存法は瞬く間にヨーロッパ中に広まった。

ルイ・パスツール(1822~1895年)のような科学者が腐敗の原因が細菌であることを明らかにするのは19世紀の後半であることからもアペールの先駆性がよくわかる。

アペールのびん詰の技術は画期的だったが、ガラスびんには口が大きくなるとコルクでフタをするのが難しくなるという欠点があった。また、コルク栓を密封するのにロウを使っていたため、開けにくいという欠点もあった。

これらの問題を解決したのがアメリカの職人だ。1858年に、現在でもよく使用されているネジ式の金属フタとびんが、アメリカの錫細工人ジョン・ランディス・メイソンによって開発されたのだ。フタの内側にはゴムが貼ってあり密封が可能となった。

このような新しい食品保存技術を用いて急成長する会社がアメリカを中心に次々と現れるようになる。その代表の一つがハインツ(Heinz)だ。

ハインツはドイツ系移民の子のヘンリー・J・ハインツ(1844~1919年)が1869年に創業した会社だ。初期の食品小売業はうまくいかなかったが、びん詰食品や缶詰食品を販売するようになって一大企業に成長する。最初の代表的な製品がトマトケチャップのびん詰で、発売以降トマトケチャップの世界シェア第1位を今でも守り続けている。

さらに1892年には、アメリカのウィリアム・ペインターがコルクをはめ込んだ金属製のフタの「王冠」を発明した。この発明によってビールや発泡性の清涼飲料水など内圧がかかるものでも安価かつ完全に密封できるようになったのである。

1898年には王冠を自動で付ける機械が開発され、ビールや炭酸飲料水の大量生産時代が始まるのである。