食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

イギリスの産業革命-イギリスの産業革命と食(1)

2022-02-28 20:09:47 | 第五章 近代の食の革命
第五章 近代の食の革命
イギリスの産業革命-イギリスの産業革命と食(1)
今回から「第五章 近代の食の革命」が始まります。

近代」は、産業革命による資本主義社会の成立と、共同体社会から個人を中心とした社会の成立によって特徴づけられます。

ヨーロッパの近代は、おおよそ18世紀の後期から始まったとされています。しかし、近代化は急激に進展したのではなく、さまざまな出来事が積み重なることによって徐々に進行したと考えられています。イギリスでは世界に先駆けて「産業革命」が起こりましたが、この産業革命も様々な要因が絡み合うことでゆっくりと進んで行きました。

今回は、このようなイギリスの産業革命について見て行くことで、近代化の概要について押さえてみようと思います。

なお、今回は「食」に関係する部分はかなり少なくなっています。


(emil_ervによるPixabayからの画像)

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イギリスは寒い国だ。ロンドンの緯度は北緯51.3度で、北海道の北端の宗谷岬よりも北にある。また、湿度が高く土地もやせているので、作物が育ちにくい上に森林もできにくかった。

このような厳しい環境で生きて行くために、人々は様々な技術を生み出さなければならなかった。その一つが18世紀に開発された新しい農法だ。

それまでは、一つの耕地を、春耕地(春に蒔いて秋に収穫)・秋耕地(秋に蒔いて春に収穫)・休耕地という順で繰り返す三圃制(さんぽせい)によって農業を行っていた。しかし、生産性が低く、常に飢饉の恐れがあった。この問題を解決するために、より生産性の高い新しい農法を開発したのである。

この新農法では、同じ耕地で穀物・カブやジャガイモ・穀物・牧草という順で4年周期の輪作を行う。カブ・ジャガイモと牧草は家畜を飼うためのエサとなった。また、クローバーなどのマメ科の牧草を育てることで土に窒素成分が補充されるとともに、家畜の糞によって地力が回復するため穀物の生産性が上がった。さらに、家畜のエサが増えたことで、それまでは冬になる前に肉にしていた家畜を長期間にわたって飼育できるようになったため、得られる肉の量も増えた。こうして食物の生産量が顕著に増加したのである。

食糧の増加は、イギリスの人口増加を導くことになる。そして、これが産業革命を担う労働力の源となったのだ。

イギリス人が生み出した別の新技術が石炭の利用だ。寒いイギリスでは暖を取るために燃料が必要だが、森林が少ないため薪を利用するのが難しい。しかし好都合なことに、イギリスは石炭に恵まれていた。石炭は古代から燃える岩石として知られており、これを積極的に利用しようと考えたのである。

こうして炭鉱の開発が進められ、16世紀中頃には石炭の利用は一般家庭に広まるとともに、工業にも広く利用されるようになった。ちなみに、16世紀中頃の石炭の価格は薪と変わらず、さらに17世紀に入ると石炭の方がずっと安くなった。

産業革命と言うと「蒸気機関」の発明が主要なものとして挙げられるが、この蒸気機関も石炭の利用と密接に関係している。石炭を掘るための炭鉱では、坑内湧水(ゆうすい)が大きな問題だったが、最初の蒸気機関は、坑内の水を排水するためのポンプとして開発されたのだ。

最初の蒸気機関式のポンプは1698年に開発された。すると、次々と改良が進められ、1776年にはジェームズ・ワットが非常に効率の良い蒸気機関式のポンプを作製した。ワットはさらにポンプの往復運動を回転運動に変換する歯車の開発を行った。こうして、蒸気機関が様々な機械を動かす動力源になったのである。

また、石炭の利用は鉄道の開発にもつながる。石炭は重いため、当時よく使われていた馬車で運ぶのが大変だったため、鉄道が開発されたのだ。

まず、重い石炭を運ぶためにレールが考案された。最初は木製だったが、やがて鉄製になり、さらに現在のような「エ」の形をしたレールになった。

また、レールの上のトロッコも最初は馬がひいていたが、1802年のリチャード・トレビシックによる蒸気機関車の発明を皮切りにさまざまな改良が進められた。そして1814年にジョージ・スチーブンソンが完成度の高い蒸気機関車を完成させる。スチーブンソンの機関車は、1825年には40㎞の鉄道で石炭を運ぶようになった。

これをきっかけに、イギリスをはじめとする欧米の各地で鉄道の建設が進められた。このような鉄道を用いた大量輸送は産業革命を推進する大きな力になったとされている。

さらに、石炭の利用は製鉄技術の進歩にもつながった。それまでの製鉄には、鉄鉱石を熱するために木炭が使用されていたが、イギリスでは木炭に代わって石炭が製鉄に利用されるようになるのである。

ただし、石炭をそのまま使うのではなく、石炭を蒸し焼きにすることで不純物を取り除いたコークスが使用された。コークスを燃やすと石炭より高温になり、鉄を溶かすことができるのだ。こうして、1709年にコークスを用いた新しい製鉄法が開発される。

さらに1784年には、反射炉を用いた鉄の精錬法(パドル法と呼ばれる)が開発された。反射炉では石炭を燃やす部屋と精錬を行う部屋が別になっていて、石炭由来の成分が混じらない良質な鉄を作ることができるのだ。その結果、蒸気機関などの高度な工作機械の作製が可能になったのである。

さて、イギリスの産業革命において最も重要な産業は「綿織物産業」と言われている。もともとイギリスでは羊毛で作った毛織物の生産が盛んであり、国内外で大きな儲けを生み出していた。16世紀には地主がより多くのヒツジを飼うために農民を追い出し、農地を柵で囲い込んでしまう「囲い込み(エンクロージャ)」を行ったほどだ。

しかし、17世紀になってイギリスがインドとの貿易を支配するようになると、インドの綿織物がイギリスに輸入されて大人気を博するようになる。綿織物は毛織物よりも安価で、衣服だけでなくカーテンなど様々な製品を作ることができたからだ。

その結果イギリスでは、落ち目の毛織物に代わって自国で綿織物を生産する動きが活発化する。追い風になったのが、イギリスが北アメリカやカリブ海の島々を植民地化していたことだった。植民地で黒人奴隷を用いて原材料となる綿花を栽培するとともに、植民地で得た利益を綿織物産業に投資したのである。

こうしてイギリスでは18世紀から紡績機や織機に画期的な発明が相次ぐ。さらに、初めは人力で動かしていた紡績機や織機に水力や蒸気機関が使用されるようになり、綿織物の大量生産が可能になった。そして19世紀には、毛織物産業に代わって国を代表する一大産業に成長するのである。

以上のようにイギリスの産業革命は、食糧不足や燃料不足、主要産業の低迷などの問題を克服しようとした結果起きたものだと言える。まさしく「必要は発明と母」と言えるだろう。

コンブと鰹節-近世日本の食の革命(16)

2022-02-24 17:08:46 | 第四章 近世の食の革命
コンブと鰹節-近世日本の食の革命(16)
コンブだし」と「カツオだし」は日本料理の代表的な出汁(だし)で、それぞれコンブ鰹節を煮出してとります。

コンブにはグルタミン酸ナトリウムといううま味成分が含まれており、鰹節にはイノシン酸という別のうま味成分が含まれていて、これらのうまみ成分によって料理がより美味しくなるというわけです。

西洋や中国では、動物の肉からとったエキスが料理のベースになります。このエキスには脂肪分が含まれているため、料理には濃厚な風味が加わります。一方、昔の日本人は動物の肉を食べなかったため、料理の味が素材そのままの単調なものになってしまいがちです。それを補うために発達してきたのが出汁と考えられています。

出汁が一般的に広く使われるようになるのは江戸時代からと言われています。今回は、江戸時代のコンブ鰹節、そしてそれらを使ってとった出汁について見て行きます。


鰹節(荒節)(ウイキペディアより:ライセンス

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中世までのコンブについては、「コンブを運ぶ-中世日本の食(11)」で詳しくお話しした。

江戸時代になって西廻り航路が確立すると、蝦夷のコンブは日本海→関門海峡→瀬戸内海というルートで大阪に運ばれるようになった。こうして大阪や京都でコンブの流通量が増えると、コンブから出汁がとられるようになる。

コンブだしは味や香りが控えめで、素材の味や香りを生かした料理に適している。京都や大阪ではたくさんの種類の野菜が手に入ったことから、これらの味を楽しむためにコンブだしが広く使用されるようになった。

また、コンブから塩コンブとろろコンブが作られたりもした。塩コンブは小さく切ったコンブを醤油と塩で煮詰めたもので、塩が吹き出ることからこう呼ばれる。江戸時代になるとコンブと醤油の流通量が増えたため、盛んに作られるようになった。

一方、大阪に集まったコンブのかなりの量が琉球に運ばれ、さらに琉球から中国へ貢物として輸出された。貢物に適さない低品質のコンブは琉球で消費されたため、琉球料理ではコンブを使ったものが多くなった。現在でも沖縄県ではコンブの消費量が多い。

コンブは大阪から江戸にも運ばれたが、品質が高いものは上方で消費されていたため、江戸に流通したものは低品質のものだった。また、上方の水が軟水だったのに対して、江戸の水は硬度が高い(ミネラル分が多い)ため、コンブだしには適していなかった。この2つの理由のため、江戸ではコンブだしは広まらなかったと言われている。

次は鰹節だ。

鰹節の材料のカツオは熱帯から温帯にかけての比較的暖かい海域によく見られる魚で、日本近海では主に太平洋沿岸に生息している。日本では縄文時代からカツオを食べてきたと考えられており、奈良時代には朝廷への貢物になっていた。

鎌倉時代以降になると、武士がカツオを「勝つ魚」と言い換えて、縁起の良い魚と考えるようになり、出陣の際によく食べられるようになった。このようにカツオを縁起物として食べる風習は江戸時代には庶民にも広がって行った。

春になって海水温が上昇し始めると、カツオは黒潮に乗って北上を始める。この時に獲れたカツオは「初ガツオ」と呼ばれて古くから珍重されてきた。初物好きの江戸っ子は狂ったように初ガツオを求めたそうで、「初ガツオは女房を質に入れてでも食え」と言われるほどだった。ただし、カツオ1本が1~3両(10万円~40万円)ほどしたため、一般庶民には手が届かなかったと思われる。

冷蔵・冷凍技術がほとんどなかった時代には、カツオは干物にされることが多かった。奈良時代になると、腐りにくくするために、煮てから干すようになった。

カツオは干すととても固くなることから『古事記』には「堅魚(カタウオ)」と記載され、このカタウオが変化してカツオになったと考えられている。そして、魚と堅の字を組み合わせて「鰹」という漢字が作り出された。

干して堅くなったカツオは小さく割ってから煮て食べられていたが、室町時代には現在の削り節のように、削ったものが食べられるようになったと言われている。また、煮汁は調味料としても利用された。

現在の鰹節は、煮たカツオを煙でいぶすことで乾燥させるとともに、香りづけを行っている。この方法は17世紀の半ばに紀州の漁師が考案したと言われている。こうして出来上がったものは「荒節(あらぶし)」と呼ばれ、現在削り節(花かつお)として出回っているもののほとんどは、荒節を削ったものだ。

荒節にはまだ水分が残っているため、長期保存すると悪いカビが生えてダメになってしまうことがある。これを防ぐために、良いカビを積極的に生やす方法が17世紀の終わり頃に土佐で開発された。

繁殖したカビは長期間をかけて鰹節から水分を除去し、さらに脂肪分を分解することで雑味を除く働きをする。こうして「枯節(かれぶし)」と呼ばれるカチコチの鰹節が出来上がる。私たちが目にする黄土色の鰹節がこの枯節だ。

枯節の製造方法は18世紀から19世紀にかけて、土佐から紀州や薩摩、伊豆、安房などに広まって行った。現在の鰹節の主な生産地は鹿児島県と静岡県で、この2県で全国の99%の生産量を占めている。

なお、荒節でとった出汁はうま味が濃いが少し粗野な感じがするのに対して、枯節でとった出汁は上品な味わいを特徴とする。と言っても、コンブだしよりもはるかに風味が強く、魚介類によく合うことから、関東地方で急速に広まって行った。

また、鰹節は「勝つ魚武士」と読めることから、江戸時代には縁起物の贈答品として武士だけでなく、裕福な商人たちの間でも人気を博した。

なお、コンブだしとカツオだしを混ぜ合わせた「合わせだし」も江戸時代中頃に利用されるようになった。合わせ出しにはグルタミン酸ナトリウムとイノシン酸が含まれており、これらの「相乗効果」によって、深いうま味が生み出されるのである。

*今回で「近世」の章が終了します。次回から「近代」が始まります。

東坡肉(トンポーロー)を食べました

2022-02-23 21:30:57 | 世界の料理を食べてみよう
本日は東坡肉(トンポーロー)を食べました。とても美味しかったです。



東坡肉については、以前に「安い豚肉で作った東坡肉(トンポーロウ)-10~17世紀の中国の食(4) 」でお話ししました。

豚肉を砂糖と醤油、紹興酒で煮込みます。香りづけに八角も入っているので、日本の豚の角煮と全く別の料理になっています。



八角は英語でstar aniseと呼ばれ、地中海沿岸原産のアニス(anise)と同じ芳香成分が含まれています。アニスは古代エジプトではミイラを作るときに消臭剤として使用されたほど強い香りがします。八角が入ると中華料理らしい風味がぐんとアップします。

江戸時代の酒-近世日本の食の革命(15)

2022-02-20 20:46:26 | 第四章 近世の食の革命
江戸時代の酒-近世日本の食の革命(15)
文化人類学的には、江戸時代は飲酒が「ハレ」から「」に変わる時代と見ることができます。

「ハレ」とは祭りなどの非日常の行いであり、「ケ」とは日常生活のことを指します。つまり、それまでは祭りなどのハレの場で飲まれていた日本酒が、江戸時代になると日常生活で飲まれるようになったということです。例えば、江戸時代には「居酒屋」が江戸を皮切りに全国に普及するようになり、庶民も気軽に酒を楽しむことができるようになりました。

このような背景には、江戸時代になって日本酒の生産量が大幅に増えたことがあります。日常的に飲んでも大丈夫なほどに日本酒の生産が増えたというわけです。

今回は「日本酒」を中心に、江戸時代の酒について見て行きます。



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古代の酒は神様にお供えした後に集まった者たちで飲むものであり、神事に欠かせないものだった。各神社に関連した寺ではお神酒(おみき)が醸造されたことから、関西、特に奈良の寺が日本酒醸造の中心だった。

室町時代には、麹米と仕込み米(蒸米)に精白した米を用いる「諸伯(もろはく)」や、麹米と仕込み米を何度かに分けて加えて行く「段仕込み」、加熱殺菌を行う「火入れ」などの技術が開発され、良質の日本酒が醸造されるようになった。そして、このような新規技術は寺から伊丹などの民間の造り酒屋にも広まって行った。

しかし、織田信長や豊臣秀吉が強大な勢力を有していた寺院を弾圧した結果、寺での酒造りは廃れてしまい、民間の造り酒屋が酒造りを担うようになる。

江戸時代になると、江戸への輸送の便が良い大阪府や兵庫県の沿岸部での酒造りが盛んになって行った。特には良水にも恵まれたことから、日本酒の一大生産地に成長した。このように関西で醸造された日本酒は「下り酒」として、「樽廻船(たるかいせん)」に乗せられて江戸に運ばれた。

江戸幕府は生活必需品を上方に頼るのを嫌って、関東での「地廻り酒」の生産を奨励したが、美味しい酒を造ることはできなかった。一方、上方の酒の生産量を抑制するような政策が取られた結果、18世紀末頃から尾張や三河などの東海地方の「中国酒」の生産が増えたが、やはり、上方の酒に匹敵するものにはならなかった。その結果、江戸時代を通して日本酒の7~9割は上方で造られていたと推測されている。

なお、江戸っ子の「初物好き」は有名で、上方の新酒をどれだけ早く江戸に運ぶかと言うレースが冬の風物詩になっていたと言われている。兵庫の西宮を出発した樽廻船は、おおよそ6日間で江戸に到着したらしい。

ところで、日本酒醸造の多くは冬場に行われるが、これが始まったのは江戸時代のことだ。

江戸時代初期までの日本酒造りは四季を通して行われていた。しかし、冬場の方が酵母の働きを上手にコントロールできることが分かり、冬場に仕込みを行う「寒造り(寒仕込み)」の技術が1667年に伊丹で確立される。さらに、食用のコメを確実に確保したい幕府の思惑から、1673年にはコメの収穫後に行われる寒造りだけが許可されるようになった。こうして、冬場の日本酒造りが定着して行ったのである。北陸などの寒村出身の杜氏が生まれたのも、寒造りのはじまりがきっかけとされている。

さて、江戸に着いた酒は下り酒問屋が荷受けしたのち、大卸や仲卸の手を経てから酒屋に渡され、一般に販売された。問屋や卸、酒屋は儲けを多くするために、それぞれが水を加えたため、店で買うときには2~3倍に薄まっていたと言われている。ただし、大名屋敷などに販売される酒は薄められていなかったため、酔いやすかったらしい。

江戸時代は太平の世であったため、それまでよりもコメの生産量が増えるとともに、水車を利用した精米技術も発展することで、日本酒の生産量も増えて行った。また、江戸は単身の男性が多かったため、日本酒の消費量も多くなりやすかった。

造り酒屋で武士などに酒を飲ませることは鎌倉時代から行われていたが、18世紀半ばの江戸では、酒の小売店の店先で一般客に酒を飲ませるところが現れるようになった。特に、江戸場近くの神田にあった豊島屋は人気を博した酒の小売店で、酒と一緒に豆腐田楽を出しところ大好評となる。これをきっかけに酒を飲ませるのを専業とする「居酒屋(煮売居酒屋)」が増えて行った。こうして19世紀の初めの江戸には1000件以上の居酒屋が営業していたと言われている。そして、この居酒屋が地方や全国各地に広がって行った。

このようにして、江戸時代には特別なハレの日に飲んでいた酒は日常のケの日に飲まれるようになって行った。それでも、自宅で一人で飲むようなことはまだ行われず、店などの人が集まるところで飲むのが普通だった。飲酒が完全に日常化するのはもう少し先の話になる。

なお、19世紀初め頃の下り酒は1合20文くらいで飲めたらしい。今の価格で200円から600円だから、現代とそれほど変わらない。また、下り酒よりも安い地廻り酒や中国酒も販売されていたし、麹米に玄米を使った「片白かたはく)」やすべて玄米で造った「並酒(なみざけ)」はもっと安かった。また、さらに安い濁酒どぶろく、だくしゅ)もあり、貧しい者でも酒を飲むことができた。

最後に、蒸留酒である「焼酎」について見て行こう。

イスラムを発祥とする蒸留技術は14世紀の終わりから15世紀の初めにかけてタイから琉球に伝わったとされる。琉球ではこの技術を用いて「泡盛」が醸造されるようになった。

16世紀になると、蒸留技術は九州に伝わり、さらに日本各地に広まって行った。九州南部のように暖かくて日本酒造りに適さない土地では、コメやムギ、ソバ、サツマイモをコウジカビと酵母で発酵させた醪(もろみ)を蒸留することで、「焼酎」が造られるようになった。

一方、日本酒が醸造できるところでは、主に低品質の日本酒の醪から米焼酎が作られるとともに、日本酒をしぼったあとの酒粕を蒸留することで「粕取り(かすとり)焼酎」が造られるようになった。また、このような焼酎は日本酒に加えられて、「柱焼酎」と呼ばれる酒が造られた。これは保存性を高めるためだったと考えられている。江戸でも、濁酒を造っていた業者は、酒が腐りやすい夏には焼酎を造っていたと言われている。

江戸時代の果物-近世日本の食の革命(14)

2022-02-17 22:02:35 | 第四章 近世の食の革命
江戸時代の果物-近世日本の食の革命(14)
今回は江戸時代の果物の話です。

17世紀の終わり頃まで、食事以外に食べる軽い食べ物はひとまとめにして、「菓子(くだもの)」と呼んでいました。例えば、中国から伝来した「唐菓子」は「とうくだもの」と読みます。そして、果物も菓子に含まれていました。

しかし、江戸時代になって和菓子作りが発展すると、両者は区別されるようになります。その結果、人の手で作った和菓子は「菓子(かし)」と呼ばれるようになりました。一方の果物は、江戸では「水菓子」、上方では「くだもの」と呼ばれました。

それでは、江戸時代にはどのような果物が食べられていたのでしょうか。



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江戸時代の人々も、現代人と同じように甘い果物が好きだったようだ。しかし、現代とは異なり、甘い果物は限られたものだった。その中で、甘い果物として人気があったのが、「ミカン」と「カキ」、そして「ナシ」だ。

ミカンは柑橘類の一つだが、最近の研究によると、柑橘類の原産地はヒマラヤ山脈の南東部と考えられるらしい。最初は単一種だったものから、約800万年前に10種類の新種が進化し、これらが交雑することで、ミカンやグレープフルーツ、レモン、ライムなどそれぞれの先祖が誕生するとともに、アジアやヨーロッパに広がって行ったと考えられている。

人類は早くから柑橘類の有用性に気が付いて、栽培を行うとともに、品種改良を進めてきた。4000年以上前の中国の記録からは、その当時、複数の柑橘類が栽培されていることがわかるという。

さて、日本に目を向けると、「タチバナ(橘)」という日本固有の柑橘類がある。

「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」

と古今和歌集にあるように、古くから日本人に親しまれてきたものだ。しかし、タチバナは果実を食べて楽しむのではなく、花や葉を鑑賞するのが主だった。

一方、中国からはユズやダイダイ、キンカン、ミカンなどが食用や薬として伝わった。中でも、ミカンの一品種の「コミカン(小ミカン)」は15~16世紀に肥後(熊本県)や紀州(和歌山県)、駿河(静岡県)で栽培が盛んになり、江戸時代には代表的な果物になった。

特に紀州のコミカンは甘くて美味しいと評判だったという。これを背景に、紀伊国屋文左衛門が紀州から江戸にミカン(コミカン)を運んで莫大な富を築いたという伝説が生まれた。

なお、現在私たちがよく食べる「ウンシュウミカン(温州ミカン)」は、1600年頃の薩摩(鹿児島)で、コミカンとクネンポという柑橘類との交配から生まれた株の突然変異種で、種がないのを特徴とする。しかし、江戸時代には種無しは縁起が悪いということであまり食べられず、広く食べられるようになったのは明治になってからだ。それ以降は、種のあるコミカンに代わって、日本を代表するミカンになった。

次はカキの話だ。

カキは中国の揚子江沿岸が原産地と考えられている。日本には弥生時代に栽培種のカキが中国から伝わったと考えられている。しかし、その頃のカキはすべて渋柿で、食べるためには干し柿などにするしかなかった。干すことで渋みの元のタンニンが水に溶けなくなり、食べても渋みを感じなくなるのだ。

鎌倉時代の1214年になると、神奈川県川崎市で突然変異によって甘柿が誕生したとされている。なお、この甘柿は不完全甘柿と呼ばれるもので、十分に熟れるまではある程度の渋みが残る。

江戸初期になると、渋みがほとんどなく甘みが強い「御所柿」が奈良で誕生する。これは「完全甘柿」と呼ばれるもので、現在の甘柿のはじまりだ。江戸末期には、この御所柿から接ぎ木によって現代でも有名な「富有柿」が生まれた。

このような甘柿は18世紀の終わりにヨーロッパに伝わり、西欧の人々にもメジャーな果物になって行った。その結果、カキの学名には「Diospyros kaki」とkakiが採用されることとなる。

最後はナシだ。

ナシは中国が原産地で、古くに日本に持ち込まれたと考えられている。弥生時代後期の登呂遺跡からナシの種子が見つかっていることから、日本人は遅くともその頃にはナシを食べ始めていたようだ。

平安時代以降も庭にナシの木を植えるなどして、ナシの味を楽しんできた。室町時代の記録からは、その頃の日本の主要な果物だったことが分かるという。しかし、昔のナシは今ほど甘くなかった。甘くなったのは江戸時代の中頃だ。

18世紀になると各地に農園や果樹園が作られて作物の品種改良が進められたが、ナシも1000種もの新しい品種が生み出され、その中に甘い品種が見つかったのだ。さらに、甘い品種同士を交雑させて、さらに甘いナシを生み出す努力が続けられた。こうして少しずつナシは甘くなっていった。

ミカン・カキ・ナシ以外には、イチジクが17世紀に中国もしくは南蛮人から伝わったと言われている。イチジクも甘かったため、18世紀初頭には全国の各地に広がり、庭先などに植えられるようになった。