食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

紅茶とボストン茶会事件-独立前後の北米の食の革命(7)

2021-09-28 20:34:15 | 第四章 近世の食の革命
紅茶とボストン茶会事件-独立前後の北米の食の革命(7)
ボストン茶会事件(Boston Tea Party)」はアメリカ独立戦争(1775~1783年)のきっかけとなった出来事としてとても有名な事件で、多くの教科書や書籍に取り上げられています。

この事件は、1773年12月に、マサチューセッツ植民地のボストンで先住民の格好に扮した植民地の人々がイギリス東インド会社の貨物船を襲い、積み荷の紅茶を海に投棄したというものです。翌朝たくさんの茶葉が海に漂っていて、それがティーポットのように見えたため、昨夜「茶会」が開かれたというジョークが生まれて「ボストン茶会事件」と呼ばれるようになりました。

今回は、紅茶が飲まれるまでの歴史とボストン茶会事件を中心に独立戦争が始まるまでのいきさつについて見て行きます。



************
まずは茶(紅茶)の話から始めよう。

茶は中国が原産地で、最初は上流階級の飲み物だったが、唐代(618~907年)には知識人にも普及し始め、宋の時代(960~1279年)には一般庶民の間でも広く飲まれるようになった。一方、日本には遅くとも平安(794~1192年)の初期までに伝えられ、最初は貴族や寺院だけで飲まれていたが、室町時代(1336~1573年)になると茶屋などが発達し、一般庶民も茶をよく飲むようになった。

なお、今も昔も、中国や日本において一般的に飲まれる茶の大部分は「緑茶」だ。これは、摘み取った茶葉をすぐに熱処理したものだ。こうすることで茶葉に含まれる酵素が働かなくなる。一方、摘み取った茶葉に傷をつけたり、良く揉むなどしたりして酵素が働くようにすると、次第に独特の風味と渋みが生まれて来るとともに色が黒くなる。こうして作られたのが「烏龍茶」や「紅茶」だ。

16世紀になっていち早くアジアに進出して来たポルトガルは、中国や日本で「茶」に出会うことになり、その様子を本国に報告している。実際に最初に茶をヨーロッパに持ちこんだのはオランダの東インド会社で、1610年のことだ。茶と一緒に茶道具も中国や日本から輸入され、ヨーロッパにおける茶を飲む文化が始まった。なお、中国や日本にならって、この頃の茶はほとんどが緑茶だったと言われている。

オランダ東インド会社が運んできた茶は1650年代になるとオランダに加えてフランスやイギリスなどにも持ち込まれて、コーヒーハウスなどで飲まれるようになった。そしてコーヒーと同じように、砂糖を入れて飲むようなやり方も始まった。サフランを添えることもあったという。

1662年にイギリス王チャールズ2世に嫁いできたポルトガル王女キャサリンは、茶と砂糖、茶道具を持参し、イギリス王宮に茶を飲む文化を紹介した。こうして上流階級でも茶を飲む風習が広がって行った。この高まる需要に応えるために、1669年になるとイギリス東インド会社は独自に中国から茶の輸入を始めるようになった。

イギリス人が中国人と直接茶の取引を行うようになると、茶には緑茶の他に紅茶などの別の種類のものがあることが分かってきて、これらも飲まれるようになった。すると、タンニンが多くて濃い味の紅茶の方がイギリス人の嗜好に合ったようで、次第に紅茶の方が多く飲まれるようになって行った。そして、それとともに茶の消費量も増えて行った。

こうしてイギリスの上流階級(ジェントルマン)では、紅茶は無くてはならないものになって行くのである。もちろん、紅茶には砂糖をたっぷり入れて飲むのが英国流である。

海外のイギリスの植民地でも、上流階級の人々は本国のジェントルマンを真似て紅茶を飲むことを習慣としていた。紅茶だけでなく、その他の食事や飲み物、服装などの生活スタイルをジェントルマンに似せることがステイタスとなっていたのである。このため、イギリスから多くの生活必需品を輸入する必要があった。

このような状況で起きたのがヨーロッパの国々が戦った「七年戦争」(1754~1763年)だ。この戦争では、プロイセンとオーストリアの戦いに、イギリスはプロイセン側で参戦し、フランスとロシアはオーストリア側で参戦した。イギリスとフランスは北米でも戦い、これはフレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)と呼ばれる。

北米での戦いはイギリスが勝利し、カナダやルイジアナなどのフランスの植民地のほとんどがイギリスの領土となった。しかし、この戦争での両国の出費は莫大なものとなり、それぞれの国の財政を大きく圧迫することとなる。

するとイギリス政府は戦争の支出をアメリカの植民地に負担させることを決定し、課税を強化した。例えば、1765年に印紙法と呼ばれる消費税のようなものを導入し、あらゆる物品から税を徴収した。また、イギリス本国の産業を保護するため、アメリカ植民地での経済活動を制限した。

当然、アメリカ植民地の人々は反発した。イギリスからくる商品の不買運動を行い、植民地内で生産される物品だけで生活する機運が高まって行ったのである。つまり、イギリスのジェントルマンのまねをやめて、アメリカ独自の文化を作る動きが始まったのである。

このような反発を受けてイギリス政府は印紙法を撤廃するが、1767年には再び茶や紙、ガラスなどに税金をかけるようになる。この時も植民地の人々の激しい反発に会って、ほとんどの税金を廃止したが、茶の税金だけは残ったのだ。

そうして1773年に起きたのがボストン茶会事件だ。この事件に対してイギリス政府は1774年に懲罰的な法律を施行し、イギリス政府と植民地の間の対立はますます深まって行った。そして同じ年にフィラデルフィアのカーペンターホールで、独立運動の嚆矢となる第一回大陸会議がジョージアを除く12植民地の代表によって開催されたのである。

南部植民地と黒人奴隷がもたらした食-独立前後の北米の食の革命(6)

2021-09-25 17:02:19 | 第四章 近世の食の革命
南部植民地と黒人奴隷がもたらした食-独立前後の北米の食の革命(6)
今回はアメリカ独立前の南部植民地の食について見て行きます。

独立時の南部植民地は、メリーランド・バージニア・ノースカロライナ・サウスカロライナ・ジョージアから構成されていました。すでにお話したように、バージニアがアメリカにおけるイギリス植民地の第一号で、1607年に最初の都市ジェームズタウンが作られました。そして、メリーランドは1632年にバージニアの北部を切り取る形で建設されました。

1660年のイングランドの王政復古で活躍した貴族たちに与えられたのがバージニアの南にあったカロライナ植民地で、1663年に建設されました。カロライナ植民地は1729年に南北に分割され、さらに1732年にはサウスカロライナの南部を分離することでジョージアが作られました。

以上のような南部植民地の最大の特徴は、「農業」を主体とした社会が作られたことです。南部の沿岸地帯は土壌が肥沃で、亜熱帯性の雨が多い気候だったため、農業を行うのに適していたからです。

このため、南部植民地には農業目的の移住者がたくさん集まってきました。また、大農園の経営者は労働力として、アフリカから連れて来られた大勢の黒人奴隷を利用しました。植民地時代には南部の人口の三分の一以上が黒人だったと言われています。

こうして、メリーランドとバージニアではタバコのプランテーションが行われ、ノースカロライナ・サウスカロライナ・ジョージアではコメインディゴ(藍色の染料)のプランテーションが盛んになりました。それが19世紀になると、大部分が綿花のプランテーションに置き換わります。綿花の方が儲かるようになったからです。

このように南部では黒人が多く暮らしていたため、アフリカから持ち込まれた作物が南部に根付きました。今回はこのようなアフリカ由来の作物を中心に、南部の食について見て行きます。

************
南部植民地では白人のほとんどが大農園の経営者か自作農だった。大農園の経営者は広大な農地を所有し、プランテーションによって莫大な富を得られたことからとても裕福で、政治的な権力も有していた。彼らが目指したのは本国イギリスの貴族のような生活だった。イギリス貴族と同じような大きな邸宅を建て、豪華な料理とヨーロッパから取り寄せたワインを楽しんだ。料理をしていたのは主に黒人の女性奴隷で、料理を作るのがとてもうまかったからだと言われている。

黒人奴隷がアフリカから一緒に持ってきた食材に「オクラ(okra)」がある。オクラはアフリカ北東部が原産地で、その栽培は紀元前12世紀頃にエチオピアで始まったと考えられている。その後、アフリカの西部にも栽培が広がって行った。また、2000年ほど前にはエジプトでも栽培が始まった。エジプトにはトマトスープでオクラを煮た伝統料理がある。



南部植民地では、黒人奴隷は故郷の料理を真似てオクラ料理を作り始めた。西アフリカではオクラは様々なスープやシチューに使われることが多く、同じような料理を作り始めたのだ。また、オクラをぶつ切りにして、トウモロコシの粉をまぶしてフライにした「オクラフライ」という料理も考案され、南部の名物料理になっている。

スープやシチューにオクラを使うと汁にとろみが加わり、料理に厚みが出る。南部ではこのようにとろみのあるスープやシチューが次第に定着して行き、現代でも伝統料理としてよく食べられている。

なお、このようにとろみのあるスープやシチューはオクラが入っていなくても「ガンボ(gumbo)」と総称されるようになった。ガンボは、アフリカ西部でのオクラの呼び名の「キンゴンボ」に由来するとされる。


ガンボ(Jon Sullivan による Pixnioからの画像)

ガンボはご飯にかけて食べるのが普通だ。実はこのご飯(コメ)もアフリカから南部植民地に持ちこまれたものだった。

あまり広く知られていないが、イネは大きく分けてアジアイネ(Oryza sativa)とアフリカイネ(Oryza glaberrima)の2種類がある。このうちアジアイネは約1万年前に中国原産の野生種から栽培化されたと考えられている。一方のアフリカイネは、約3000年前にアフリカ東部原産の別の野生種を栽培化することで誕生したとされる。

アフリカイネはその後アフリカの西部に広がるとともに、品種改良が行われることによって多様化して行ったことが最近の研究から明らかになっている。そのうちの一品種が黒人奴隷とともに南部植民地に運ばれたのだ。その後コメ作りはカロライナの大きな産業となり、17世紀の終わりには、海外に向けて大量に輸出されるようになった。

ただし、アフリカイネからとれるコメはアジアのコメに比べて扱いづらいという特徴がある。アジアのコメは強度があるため機械で精米しやすく、大規模な生産が可能であるのに対して、アフリカの米は粒が割れやすいため、手作業で精米しなければならないのだ。このような特徴から、アメリカにおけるアフリカイネの栽培は時代が進むにつれてアジアイネに取って変わられてしまったのだ。

なお、最近では、アフリカイネとアジアイネを交配することで、乾燥に強いというアフリカイネの特長と、扱いやすいというアジアイネの特長を持った新品種のイネが開発され、アフリカなどで栽培されている。

ペンシルベニア・ダッチの食-独立前後の北米の食の革命(5)

2021-09-22 22:42:31 | 第四章 近世の食の革命
ペンシルベニア・ダッチの食-独立前後の北米の食の革命(5)
今回はアメリカ独立戦争(1775~1783年)を戦った13植民地のうち、ニューヨーク・ニュージャージー・ペンシルベニア・デラウェアから構成される「中部植民地」の食について見て行きます。

ハドソン川とデラウェア川流域に築かれた中部植民地は穀物の生産性が高く、カリブ海やヨーロッパに食料を輸出することで栄えていました。

この中部植民地の中でペンシルベニアはアメリカの独立運動が始まった地であり、アメリカの歴史をリードしてきた、とても重要なところです。

独立運動の実質的な始まりは、1774年に11植民地の代表がペンシルベニアのフィラデルフィアにあるカーペンターホールに集まり、「権利の宣言」などを決議したことだとされています。そして1776年に、フィラデルフィアにある独立記念館(Independence Hall)で独立が宣言されました。フィラデルフィアは1790年から1800年まで、合衆国の首都にもなりました。

ペンシルベニアという名前は、この地の所有者だったイギリス人ウィリアム・ペンにちなんで名づけられました。彼は他国民や原住民に寛容な社会を目指したため、ペンシルベニアにはイギリス人に加えて、オランダ人やスウェーデン人、そしてドイツ人などが移住してきました。中でも「ペンシルベニア・ダッチ(Pennsylvania Dutch)」と呼ばれたドイツ語圏の人たちは、手工業などの分野で様々な技術を持っていたため、植民地の中でとても活躍しました。なお、「ダッチ」はオランダのことではなく、その当時はドイツ人(Deutsch)を意味していました。

今回は、このペンシルベニア・ダッチの食を中心に見て行きます。

************
ペンシルバニア・ダッチの人々は食べることが大好きだ。腹いっぱい食べることを身上としており、食べ残すよりも胃袋が破裂する方を良しとする。このため普通は捨てられる豚肉などのくず肉を使った料理「スクラップル(Scrapple)」が開発された。

その作り方は次の通りだ。

ブタの頭や心臓、肝臓、その他の切れ端を、骨の付いた状態で茹でてスープを取る。肉は骨と脂肪を取り除いて取っておく。スープで乾燥させたトウモロコシを粉にしたコーンミールを煮てペースト状にする。肉もつぶして同じ鍋に戻し、セージやタイム、黒胡椒等の調味料を加えたのち、大きなカマボコのように形を整える。冷やして固めれば出来上がりだ。食べる時には薄く切り、フライパンなどで焼く。


スクラップル(Garrett Zieglerによるflickrからの画像)

スクラップルの原型はローマ時代以前にさかのぼると言われており、一部のペンシルベニア・ダッチがペンシルベニアに持ち込んだと言われている。植民地が始まるとすぐに人気が出て、中部を代表する料理となった。

ジョージ・ワシントンもベンジャミン・フランクリンも、独立運動でフィラデルフィアに滞在していた頃は、このスクラップルを何度も食べたと言われている。現在中部ではスクラップルを朝食に食べるのが普通で、朝食付きのホテルに泊まると必ず出てくるらしい。

スクラップのように、ペンシルベニア・ダッチの人々は豚肉をよく食べる。元旦には、この一年が良い年になりますようにという願いを込めて「グッドラック・ポークアンドザワークラウト(Good luck pork and sauerkraut)」という料理を食べる習慣がある。

この料理は、ローストした豚肉をザワークラウト、タマネギ、ニンジン、スパイスなどとともにじっくり煮込んだものだ。


グッドラック・ポークアンドザワークラウト

また、ペンシルベニア・ダッチの人々は甘いものも大好きだ。その代表が「アップルバター(apple butter)」だ。

アップルバターは、すりつぶしたりんごをアップルサイダー(リンゴジュース)や水、砂糖、クローブやシナモンなどのスパイスと一緒に長時間かけて煮込むことで、りんごの糖分がカラメル化して濃い茶色になったものだ。バターの名が付いているがバターは含まれておらず、とろりとした状態がバターに似ているため、そう呼ばれる。リンゴの糖分が濃縮されているためとても甘く、保存性も高い。アップルバターはパンに塗ったり、調味料として料理に加えたり、焼き菓子の材料として使われたりすることが多い。

アップルバターのルーツはドイツ北西部・ベルギー北東部・オランダ南東部にまたがる地域であり、中世に修道院が考案したとされている。ただし、このアップルバターにはスパイスがほとんど入っておらず、ペンシルベニアのものとは少し異なっている。このようにスパイスをよく使用するのもペンシルベニア・ダッチの特徴と言われる。


アップルバター(cgdsroによるPixabayからの画像)

ペンシルベニア・ダッチの人々は、祝い事では7つの甘味と7つの酸味を出すことが伝統となっており、アップルバターはその定番となっている。

すっぱい料理として代表的なのが「ゆで卵とビーツのピクルス(Pickled beet eggs)」で、祝い事の食事の前菜として供されることが多い。これは、ゆで卵とビーツを酢、砂糖、クローブで作ったつけ汁に漬けたものだ。赤紫色がお祝いの特別感を醸し出している。



北部ニューイングランド植民地の発展-独立前後の北米の食の革命(4)

2021-09-18 17:36:24 | 第四章 近世の食の革命
北部ニューイングランド植民地の発展-独立前後の北米の食の革命(4)
アメリカ独立戦争(1775~1783年)では、北米に築かれた13のイギリス植民地の人々がイギリス軍と戦いました。そして、この13の植民地がのちのアメリカ合衆国を建国することになります。

ちなみに、現在のアメリカ合衆国の国旗には50個の星が描かれていますが、これは合衆国が50の州でできていることを示していて、建国当初は13の星が描かれていました。

13の植民地は、北から南に向かって「ニューイングランド植民地」「中部植民地」「南部植民地」に分けられます。この3つは成立過程や社会環境が異なっていたため、それぞれ異なる食文化を持っていました。

今回は、この中のニューイングランド植民地の食について見て行きます。

************
アメリカ北部にあったニューイングランド植民地は、マサチューセッツ・ニューハンプシャー・コネティカット・ロードアイランドの4つの植民地からできていた。

ニューイングランド植民地は、1620年にメイフラワー号でやって来たピューリタンによって建設されたプリマスを始まりとしていて、彼らにならって多くのピューリタンが移住することで発展した。このため、移民の多くはイングランド人であり、宗教の自由を基本としていた。

ニューイングランド植民地では、良い港を作ることができたボストンが中心都市となった。1700年頃のボストンには6000人以上の人々が生活していたと言われている。

アメリカ南部に比べて、気候が冷涼で地力が低かったニューイングランド植民地では、農業で生計を立てるのが難しかった。一方、ボストンを始めとして良い港を作ることができたので、漁業や貿易が盛んになり、多くのニューイングランド人が漁業や貿易、商業に従事するようになった。

マサチューセッツ湾では大量の「タラ」を捕まえることができた。タラは西洋人がよく食べる魚で、ボストンに水揚げされたタラは塩漬けされ、ヨーロッパに送られた。また、その一部はカリブ海にも輸出され、砂糖のプランテーションで働く奴隷の食糧となった。こうしてカリブ海でもタラはなじみ深い食材となり、塩ダラとアフリカ原産のアキーと言う果物を炒めた料理はジャマイカの国民食になっている(朝食によく食べるらしい)。


タラ(Susanna WinqvistによるPixabayからの画像)

なお、マサチューセッツ州東端の特徴的な形をした「ケープコッド」は、タラ(cod)が沖合でたくさん獲れたことからそのように命名された。


ケープコッド

ニューイングランドからはタラ以外に、造船に使われる木材や帆船がイギリスなどに輸出された。独立前にはイギリスの船舶の3分の1はニューイングランドで造られたものだったと言われている。

また、ニューイングランドでは「ラム酒」造りが盛んだった。ラム酒は、砂糖の結晶を精製したあとの「糖蜜」を水で薄めて発酵させ、それを蒸留したあと樽の中で熟成することで造られる。カリブ海ではイギリスを中心に砂糖のプランテーションが行われており、廃棄物だった糖蜜をニューイングランドに持ちこみラム酒の製造を行っていたのである。

出来あがったラム酒は船でアフリカ西海岸に運ばれて奴隷の購入費用となり、奴隷はカリブ海に送られて砂糖のプランテーションで働かされた。このように、「カリブ海:糖蜜」「ニューイングランド:ラム酒」「アフリカ:奴隷」の三角貿易が成立していたのである。

ラム酒はニューイングランドでもよく飲まれていた。「フリップ」と呼ばれるカクテルは、ビールとラム酒と砂糖を混ぜ合わせたもので、泡立つ様子に人気が出てよく飲まれていたという。時代が進むとフリップにはビールの代わりに卵が使われるようになった。

「ストーン・フェンス」というウイスキーと炭酸水で作るカクテルがあるが、これは元々ラム酒にリンゴ酒の「ハードサイダー」を加えたカクテルだった。アメリカでは時代とともにウイスキーの醸造が盛んになったため、レシピが変わったのだ。

このハードサイダーはリンゴジュースの「アップルサイダー」から作られ、どちらもニューイングランドを代表する飲み物となっている。

ピューリタンはリンゴの種を持ってアメリカ大陸にやって来た。そして1625年には、最初のリンゴ園を造った。また、品種改良もさかんに行い、たくさんの品種を生み出して行った。

リンゴをすりつぶしたのち、麻袋に入れて絞り出したのがアップルサイダーだ。日本的にはリンゴジュースだが、日本で市販されているものとは異なり、不透明なのが特徴だ。ちなみに、日本では「サイダー」は炭酸飲料のことを指すが、本来はリンゴなどの果汁のことを意味している。

アップルサイダーは熱殺菌などを行っていないので、置いておくとすぐにアルコール発酵が始まって二酸化炭素を出すようになる。このように発酵が進んでアルコール度数が高くなったものがハードサイダーで、お酒としてだけでなく、飲料水代わりとしても飲まれていた。

リンゴはジャムになったり、アップルパイなどのお菓子にも利用されたりなど、とても有用な作物だった。



私が中学生の時の英語の教科書に「ジョニー・アップルシード(1774~1845年)」がリンゴを植えたお話が載っていた。彼はマサチューセッツ州出身で、西部開拓で活躍した実在の人物だが、彼がオハイオ州やインディアナ州、イリノイ州を巡りながらリンゴの種を植えて行った話は、有名な伝説として語り継がれている。アメリカ人にとってリンゴはとても大切な食べ物だったのだろう。

ニューアムステルダムの食-独立前後の北米の食の革命(3)

2021-09-15 18:13:46 | 第四章 近世の食の革命
ニューアムステルダムの食-独立前後の北米の食の革命(3)
ニューアムステルダム」と言う街をご存知でしょうか。

実は、今はニューアムステルダムという街は存在しません。ニューアムステルダムは「ニューヨーク」の昔の名前で、その名前の頃はオランダ人が街を支配していました。オランダの首都がアムステルダムのため、ニューアムステルダムと名付けられたのです。

今回は、ニューアムステルダムがニューヨークになるまでの歴史をたどるとともに、当時の食について見て行きます。

************
アメリカ合衆国の大都市ニューヨークは、最初はオランダ(ネーデルラント)の植民地として出発した。そして後にイギリスの植民地になる。そのいきさつは次の通りだ。

1609年にオランダ東インド会社が派遣したイングランド人のヘンリー・ハドソンが現在のニューヨークを含む一帯を発見した。ちなみに、マンハッタンに沿って流れるハドソン川の名は彼にちなんで付けられたものだ。

ハドソン川ではビーバーがたくさん獲れたため、オランダ人はハドソン川流域に植民地を建設することにした。紳士が身に付けるものにシルクハットがあるが、19世紀にシルクハットが作られるまでは、ビーバーの毛皮で作った帽子が紳士の必需品となっていた。このため、ビーバーはとても重要な獲物だったのだ(ちなみにビーバーの肉も美味しいそうです)。

そうして1626年にはマンハッタン島の南端にニューアムステルダムが建設された。元はアメリカ原住民の土地だったが、オランダ人が奪い取った形だった。この地が後にニューヨークになる。

アメリカ植民地全体に言えることだが、植民が始まった頃には植民者に好意的だったアメリカ原住民も、自分たちの土地を侵略されたことが分かってくると、武力で侵略者を排除しようとした。一方のヨーロッパ人も高性能の武器で対抗した。また、拠点となる場所には防護壁を建設した。証券取引所があるニューヨークの「ウォール街」の名もそのような防護壁(wall)に由来している。

1664年になると、イギリス軍がニューアムステルダムを占領する。その後もイギリスとオランダの間で争奪戦が繰り広げられたが、最終的にイギリスの植民地として認められた。なお、ニューアムステルダムはイギリス国王チャールズ2世の弟のヨーク公に与えられたので、「ニューヨーク」と改名された。

さて、ここからニューアムステルダムの食について見て行こう。

オランダ人は貿易を生業としており、船をたくさん保有していたため、植民地に必要なものはすべて船で運んできた。ウシヒツジもヨーロッパから連れてきて、ミルクやバター、チーズを作った。マンハッタンにもヒツジの放牧地が作られたという。

オランダ人はかなりの酒好きだ。ちなみに、現代のオランダでは、高学歴になるほど酒をよく飲むらしい。そういうわけで、ニューアムステルダムではすぐにビールの醸造所とジンを造るための蒸留所が作られた。ジンは、ねずの実(ジュニパーベリー)と、さまざまな香草や香辛料を加え再蒸溜することで造られるため、香りが豊かなことを特徴としている。オランダではジン造りが盛んだったため、蒸留所が作られたのだ。

ニューアムステルダムでは、子供も大人もビールを飲んでいた。安全な飲料水が不足していたため、その代わりにビールを飲んでいたのである。ビールと言ってもアルコール度数が0.5〜1.5%と非常に低いため、それほど酔うことはない。なお、酔いたい大人は、強いビール(アルコール度数が高いビール)を飲んだ。酒をよく飲んだため、ニューアムステルダムの料理は塩や香辛料がたっぷり入っていたと言われている。

ニューアムステルダムでは1日に3回の食事を摂ることが多かった。

朝食には、バターやチーズを塗ったパンやパンをスープに入れた「ソップ」を食べ、飲料水代わりのビールを飲んだ。

昼過ぎの食事はその日のメインディッシュだ。「ハットスポット(hutspot)」と呼ばれるニンジン、タマネギなどと肉、香辛料を入れたシチューがよく食べられたらしい。また、魚や果物も食べられた。マンハッタンの近くでは、動物はシチメンチョウやシカがたくさん手に入ったし、魚はシマアジやチョウザメが獲れたという。

夕食には、バターやチーズを塗ったパンやムギの粥、そして昼食の残り物などを食べた。冷蔵設備がなかったので、腐りやすい食べ物はその日のうちに食べなければならなかった。


ハットスポット(kalhhによるPixabayからの画像)

ニューアムステルダムでは朝昼晩の三食のいずれでもパンを食べており、食事には欠かせないものだった。様々なパンが作られていて、例えば、ロールパンやパンケーキ(今よりも厚くて固かったらしい)、固めの焼き菓子パンのプレッツェル、ワッフル、そして現代のドーナツの前身となる油で揚げたパンなどが売られていたという。

このようなパンがイギリス植民地のニューヨークに受け継がれて、現在食べられているようなパンケーキやワッフル、ドーナツなどが生まれたと考えられている。