食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

ユダヤ系移民の食-アメリカの産業革命と食(8)

2022-05-14 15:30:57 | 第五章 近代の食の革命
ユダヤ系移民の食-アメリカの産業革命と食(8)
ユダヤ人の国と言えばイスラエルで、2014年の調査ではおよそ610万人のユダヤ人が暮らしているとされています。

イスラエルに次いでユダヤ人の多い国がアメリカ合衆国です。国内には500万人以上のユダヤ人が居住しているそうです。

アメリカの人口は3億人を超えるためユダヤ人の比率はそれほど高くないのですが、ビジネスや科学、芸術などの世界で成功したユダヤ人が多いため、アメリカの政治や社会に対する影響力はかなり大きいと言われています。アメリカ政府が親イスラエルなのは、このような理由もあると思われます。

ところで、ユダヤ教には厳密な食の戒律があることが知られています。そのため、ユダヤ系移民の食文化はアメリカでも独特なものと言われています。

今回はこのようなユダヤ系移民の食について見て行きます。

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ユダヤ教は唯一神「ヤハウェ」を信仰する宗教で、ユダヤの民(ヘブライ人)は神によって選ばれたという選民思想を持っている。『十戒』という映画でモーセが海を割るシーンが有名だが、これは神の啓示に従ってモーセがユダヤの民をカナン(現在のイスラエル)に導いた話を基にしている。

モーセに導かれたユダヤの民は紀元前12世紀にカナンにイスラエル王国を建てた。しかし、その後、新バビロニアやペルシア帝国、エジプト王国、ローマ帝国、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)、セルジューク朝、オスマン帝国などの支配を受け続けたことで、世界中に離散(ディアスポラ)して行った。また、それにともない各地の民族との混血が進んだ。

ユダヤ教の聖典の内容はキリスト教の旧約聖書とほぼ一致しているが、ユダヤ教ではイエスを神の子として認めないため、両者の間では対立があった。その結果、キリスト教が国教となったヨーロッパの国々ではユダヤ教徒は異端とされ、土地所有権などの基本的な権利が認められなかった。

11世紀末になって十字軍が始まると、ヨーロッパの国々でキリスト教徒の自意識が高まったことによって、ユダヤ教徒に対する迫害が強まった。そして13世紀末にはイングランドで、14世紀末にはフランスで、そして15世紀末にはスペインでユダヤ人が追放された。

ドイツでもユダヤ人虐殺などの迫害が続いたため、ユダヤ人の多くは東ヨーロッパに移住し、アシュケナージと呼ばれた。特にポーランドはユダヤ人に寛容だったため、多くのユダヤ人が移り住んだとされる。彼らが第二次世界大戦でナチスによる虐殺政策の対象となった人たちだ。

19世紀になるとヨーロッパで反ユダヤ主義が広まった。特に19世紀末からは、作物の不作や世界的な不況のため、ユダヤ人への迫害が強まり、彼らの生活は困窮するようになる。そして、この窮地を脱するために多くのユダヤ人は、アメリカやオスマン帝国(パレスチナを支配していた)などに移住したのである。
さて、ここで、一般的なユダヤ人の食について見て行こう。

ユダヤ人は「コーシャ」と呼ばれる教義にのっとった食品を食べることが義務とされている。一方、コーシャを食べることによって、自らのアイデンティティを守ってきた面もあると言われている。

ユダヤ教で食べることが許されている肉類は、ヒヅメが分かれている反芻動物(ウシ、ヒツジ、ヤギ、シカ)と、猛禽類・カモメ・カラス・ダチョウ以外の鳥類だ。このため、アメリカでよく食べられていた豚肉は食べることができないことになる。

また、動物の血液を口の中に入れることをタブーとするため、適切に血抜きをした肉しか食べてはいけない。さらに、乳製品と肉類は同じ食事で食べてはならないという規定もある。

魚貝類も、ウロコとヒレがあるものだけが食べることが許されており、貝類やエビ・カニ、タコ・イカなどは食べることができない。

ユダヤ人の通常の一週間で、最も重要な日が安息日である。安息日は金曜日の日没から土曜日の日没までの1日間で、この間に一切の労働を行ってはならないとされている。例えば、通常の仕事だけでなく、火をおこすことや紙を破ること、字を書くことさえ禁じられている(読書は推奨される)。イスラエルでは安息日には商店だけでなく、公共の交通機関も止まってしまうらしい。

安息日の料理は重要で、ごちそうを食べるのが習わしになってきた。しかし、料理も安息日には作ることができないため、安息日が始まる前に調理をしておき、安息日の食事が終わるまで温め続けるという。このような理由から、暖かい料理は煮込み料理やスープがメインとなる。定番は、ゲフィルテ・フィッシュというコイやタラのすり身などで作った団子をスープで煮た料理だ。

一年の中で最も重要な祭日に、過越すぎこし、パスオーバー)がある。これは、モーセがユダヤ人を連れてエジプトを脱出したことを記念するもので、春に8日間をかけて催される。この時の食事の内容は決まっており、最も重要なものが無発酵のパンだ。エジプトからの脱出を急いでいたため、発酵するのを待つ時間がなかったことから、無発酵パンが食べられるのだ。それ以外には、焼いた羊肉・ゆで卵・塩水につけた緑の野菜(パセリやセロリ)・苦ヨモギ・果汁の練り物が食べられる。

ここからはアメリカにおけるユダ人の食について見て行こう。

最初のユダヤ人の移民は、ポルトガル領だったブラジルから1654年にニューヨーク(当時はオランダ領のニューアムステルダム)に逃れてきた23人だ。その後はしばらくの間、あまり多くのユダヤ人の移民はなかったと言われている。

アメリカへのユダヤ人の移民が増えるのは19世紀になってからだ。1820年頃から1880年頃までの期間には、ドイツを中心に、合わせて25万人のユダヤ人がやってきた。彼らは主に西部開拓に従事したとされている。中西部で生活し始めた彼らは、ユダヤ教の戒律を厳格に守ることにそれほどこだわらなかったと言われている。それでも、豚肉を食べることはなかったらしい。

1880年頃からは主にロシアや東ヨーロッパからのユダヤ人の移民が急増する。1920年代までに約450万人のユダヤ人が、アメリカ北東部の大都市であるニューヨーク、フィラデルフィア、ボストン、シカゴなどに移住した。そして、彼らがアメリカで作り始めた食品のいくつかが、アメリカで広く食べられるようになる。

そのような食品の一つにベーグルがある。ベーグルは、小麦粉に水と食塩を加えて作った生地を発酵させたのちリング状にし、ゆでてからオーブンで焼いたパンの一種だ。一度ゆでているため、中がもっちりしているのが特徴だ。

ベーグルは1880年代にポーランドからのユダヤ系移民によってニューヨークで作られたのが始まりで、1980年代からアメリカで広く食べられるようになった。今では日本でもよく知られている食べ物だ。


ベーグル(Vicki HamiltonによるPixabayからの画像)

また、アメリカでよく食べられているパストラミ・オン・ライというライムギパンコンビーフをはさんだサンドイッチがあるが、これは19世紀の終わりにニューヨークのユダヤ系移民のデリカテッセンで考案されたものが広まったものだ。

デリカテッセンはお持ち帰りの総菜屋さんのことだが、アメリカでは19世紀に東欧系ユダヤ人やドイツ人などが同胞のために開業したのが始まりだ。ユダヤ人のデリカテッセンに行けば、ユダヤ教の戒律に従った料理が手に入るため、多くのユダヤ系移民が利用したのである。パストラミ・オン・ライ以外には、ゲフィルテ・フィッシュクニッシュ(タマネギ入りマッシュポテトをパイ生地で包んで焼いたもの)などが販売されていたという。

また、アメリカ菓子の定番の一つにニューヨーク・チーズケーキというものがある。これは、表面がこんがり、中はクリーミーなチーズケーキで、オーブンで蒸し焼きにして作る。このチーズケーキも、ユダヤ人のチーズケーキが元になってできたものだ。

以上のように、ユダヤ人の食も現代のアメリカの食に深く浸透しているのだ。

参考文献:Jonathan Deutsch. & Rachel D Saks 著:Jewish American food culture(Greenwood社、2008/2/28)

ドイツ系移民の食-アメリカの産業革命と食(7)

2022-05-04 10:26:22 | 第五章 近代の食の革命
ドイツ系移民の食-アメリカの産業革命と食(7)
アメリカンドリーム」とは、「誰もが身分や出自の関係なく平等に機会を得て、豊かな生活を追求できる」というアメリカ合衆国建国以来の理想理念と言われています。そして、アメリカには、アメリカンドリームの実現を目指して、主にヨーロッパからたくさんの人々が移住してきます。

アメリカへの移民は、1880年頃までは主にドイツアイルランドの出身者でしたが、それ以降はイタリアなどの南欧の国や、ポーランドやロシアなどの東欧、中国や日本などのアジアといったように出身国の多様性が高まります。

そして、これらの国々からはその国独自の食文化がアメリカに導入され、それらがイギリス料理を基本としたアメリカ料理に融合することで、アメリカ独自の料理が生み出されて行きます。

今回からアメリカにやってきた移民たちの食について見て行きます。第1回目はドイツ系移民の食です。

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17世紀から18世紀にかけてドイツからアメリカに移住した人々やその子孫のことを「ペンシルベニア・ダッチ」と呼ぶ。その頃は、イギリス植民地だったペンシルベニアで主に生活していたからだ。

ペンシルベニア・ダッチは西部開拓時代が始まると、ほとんどが西部に移住した。また、その頃には、新しいドイツからの移民も海を渡って西部にやってきた。

初期のドイツ系移民の料理はとても簡素なものだったと言われている。主食は濃い茶色をした全粒コムギを焼いたパンだった。当時の朝食では、バターを塗ったパンと黒砂糖入りの紅茶、そして大根などの野菜を食べていたとされる。

特徴的なのは、古代穀物のスペルトコムギがよく利用されていたことだ。このコムギはグルテンが少ないので、パンなどはふっくらとせずに堅かったと思われる。スペルトコムギはパン作りだけでなく、団子やスープ、粥などにも使われた。

昼食や夕食には肉類を食べた。肉は貧しかったドイツではなかなか口にできなかったものだったが、豊かなアメリカでは簡単に手に入るようになった。

肉は豚肉が好まれた。ペンシルベニア・ダッチは、ブタのすべての部位を使うことで知られていて、「唯一使わなかったのは鳴き声だけだった」と言われるほどだ。

付け合わせでよく食べられたのが「ザワークラウト(英語:サワークラウト)」だ。これは塩漬けしたキャベツで、数日漬けると乳酸発酵によって酸っぱくなる。西洋の漬物のようなもので、現代では全米で広く食べられるようになっている。ペンシルベニア・ダッチの古くからの言い伝えでは、お正月に豚肉をザワークラウトと一緒に食べると幸運が訪れると言われている。


豚肉とザワークラウト(kalhhによるPixabayからの画像)

また、ゆでたジャガイモマッシュポテトグレイビーソース(肉汁に小麦粉とワインを加えて作ったソース)をかけたものも、付け合わせとしてよく食べられた。これらも現代のアメリカでよく食べられている。

19世紀末には、付け合わせとして「7つのお菓子とサワー(酸っぱいもの)」、つまり7種類のお菓子とサワーを出す習慣が生まれた。その内容は、ハチミツ、リンゴバター、ジャムと、青トマトや赤トマトのピクルス、野菜の酢漬けなどである。

また、ボットボイ(bot boi)と呼ばれる肉・野菜・卵麵が入ったシチューが登場した。これは伝統的な料理として今でも食べられている。

現代のアメリカでよく食べられているお菓子に、ペンシルベニア・ダッチが作り始めた「シューフライ・パイ」というものがある。これは、小麦粉にバターと糖蜜、ベーキングパウダーを加えて作るパイで、1880年頃にベーキングパウダーや鋳鉄製の調理器具などが家庭で使われるようになって作られるようになったと考えられている。

また、「スティッキー・バンズ」というアメリカ定番の菓子パンも、ペンシルベニア・ダッチが作り始めた。これは、シナモンや黒砂糖が入ったもちもちの生地の上に、ナッツ入りのトロトロした糖蜜がトッピングされたパンだ。


スティッキー・バンズ(Isabelle Boucherによるflickrからの画像)

さらに、ドイツ系移民たちは、フランクフルトやウインナーソーセージ、ブラットヴルストなどのソーセージもアメリカで作り始めた。そしてソーセージをロールパンにはさんだ「ホットドッグ」を生み出したとされている。1860年代には、ドイツ系移民がニューヨークで、ロールパンにザワークラウトと一緒にフランクフルトをはさんだホットドッグを売り歩いたと言われている。また、1871年には、ドイツ人のパン職人チャールズ・フェルトマンがニューヨークで最初のホットドッグスタンドを開いて人気を博したという。

これら以外にドイツ移民は、クッキープレッツェルをアメリカに持ち込み、そしてビール醸造を始めた。

アメリカの有名なラガーと言えばバドワイザーとミラーだが、「バドワイザー」は1876年にドイツ系移民のアドルファス・ブッシュが造り始めた。また、「ミラー」も1855年にドイツ系移民のフレデリック・ミラーが既存の醸造所を買い取ることで創業されたものだ。

レヴァニを食べる

2022-05-03 23:24:31 | 世界の料理を食べてみよう
今日は妻が東京ジャーミィで買ってきたトルコのお菓子レヴァニを食べました。
セモリナ粉で作った甘い焼き菓子です。

こんな感じで販売されています。



半分ずつ食べました。



とても甘そうに見えますが、それほどきつい甘さではなく、独特の良い香りの美味しいお菓子でした。

レヴァニ以外にはこれも買いましたが、食べるのはまた今度です。