食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

近代フランス料理の巨人アントナン・カレーム-近代フランスの食の革命(1)

2023-03-26 17:28:47 | 第五章 近代の食の革命
近代フランス料理の巨人アントナン・カレーム-近代フランスの食の革命(1

今回から「近代フランスの食の革命」と題して、新しいシリーズが始まります。

フランスの近代とは、1789年のバスチーユ牢獄襲撃に始まるフランス革命から1871年のパリ・コミューン革命までの期間と言われています。

フランス革命では、1792年に王政が廃止され、共和制(君主を置かずに、国民の代表者が政治を行う体制)に移行しました。そして、1793年にルイ16世とマリー・アントワネットが処刑されました。その後は、ロベスピエール率いるジャコバン派が権力を握りましたが、彼は3万人もの反対派の人々を次々に処刑したため、この時代は恐怖政治の時代と言われています。

そのロベスピエールも1794年7月に処刑されます。そして1795年には5人の総裁が政治を主導する総裁政府が設立しますが、不安定な情勢が続きます。ここで、イタリア遠征などで人気を集めたナポレオンが1799年11月にクーデターを起こし、実権を握りました。ナポレオンは1804年に国民投票によって即位し、ナポレオン1世となりました。こうして第一帝政(1804~1814年)と呼ばれる時代が始まります。

ナポレオンは対外戦争の勝利によって大陸内に支配地域を広げていきます。しかし、各地で反乱が起こるとともに、イギリスとの貿易を禁止した大陸封鎖やロシア遠征が失敗に終わり、ナポレオンの勢いも衰えて行きました。そして、1813年にはヨーロッパ諸国が結成した対仏大同盟軍がナポレオン軍に勝利し、パリに入城しました。これを受けて1814年にナポレオンは退位しました。

ヨーロッパ諸国は、ナポレオン戦争後の秩序回復について話し合うウィーン会議を開催しますが、話はなかなかまとまりません。この時の様子は「会議は踊る、されど進まず」という言葉でよく知られています。

結局、会議の途中でエルバ島に流されたナポレオンが島を脱出して皇帝に復帰したことから、1815年6月に議定書が急遽調印されることになりました。ちなみに、ナポレオンはワールテローの戦いに敗れ、セント・ヘレナ島へ流されてその生涯を終えました。そして、フランスではルイ16世の弟のルイ18世が王として復帰しました(王政復古)。

さて、今回紹介するのは「王のシェフ、シェフの王」と呼ばれたアントナン・カレーム(1784~1833年)です。彼はウィーン会議において、各国の首脳に自慢の料理をふるまい、名声をほしいままにしました。そして、その後は、各国の宮廷でその腕を振るいました。こうして、ヨーロッパの高級料理には彼の影響力が色濃く残ることになるのです。


アントナン・カレーム

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マリー・アントワーヌ・カレーム、通称アントナンは、フランス革命前の1784年6月にパリで生まれ、1833年1月に亡くなった。

アントナン・カレームは、パリ郊外の子沢山の貧乏な家に生まれた。ところが不幸なことに、カレームが10歳の時に母が亡くなってしまう。母の死から少しして、父は彼を家から少し離れた酒場に連れて行き、一緒に食事をした。食事が終わると、父はアントナンに言った。

「世の中には良い仕事がある。お前は賢い子だから、頑張れば、きっと幸せがやって来るはずだ。今日か明日には、どこかの店がお前を拾ってくれるだろう」と。

アントナンを養うことができない父親は、こうして彼を捨てたのである。

結局、アントナン・カレームは、その酒場で雇われることになった。そこで皿洗いをしたり、野菜の皮むきをしたり、魚をさばいたりして、5年間を過ごした。

1798年の15歳の時、カレームは一流パティスリーのバイイに入店した。カレームの才能はすぐに見出され、バイイで外務省の注文をこなしていたジャン・アヴィスから菓子作りの指導を受けることになる。なお、シュークリームなどシュー生地を使った菓子は、アヴィスが考案し、カレームが発展させたと伝えられている。

また、カレームは菓子作りのヒントを得るために、空いた時間には国立図書館に通って、様々な建築物について学んだと言われている。こうしてカレームは、バイイで随一の細工菓子(ピエス・モンテ)の技術を身に着けるに至る。ちなみに、折り返して作るパイ生地を考案したのはカレームである。

バイイの顧客であった外務省や富裕層に支持されるようになったカレームは、1803年の19歳の時に独立し、パティスリーショップを開くとともに、フリーの料理人(エキストラ)としての活動を始めた。それに目を付けたのが、フランスの外務大臣タレーランだ。タレーランは、ナポレオンから外交官や外国の君主をもてなすための腕利きのシェフを探すように指示を受けていたのだ。ナポレオンは美味しいものには無頓着だったが、外交の世界では社交が重要であることを理解していたのである。

タレーランは、カレームに1年分の多彩なメニューを考案するよう命じた。この若いシェフは菓子だけでなく料理の世界でもその才能を開花させ、見事にそのテストに合格する。こうしてカレームは、10年以上にわたってフランス政府に仕えることになったのである。ちなみに、しばらく途絶えていたエスカルゴの料理を復活させたのは、タレーランとカレームのコンビである。

やがてナポレオンと決別したタレーランだが、ナポレオン失脚後にはヨーロッパ諸国に請われてフランス代表としてウィーン会議(1814年9月~1815年6月)に出席した。この時、タレーランはカレームを一緒に連れて行き、各国首脳の舌を喜ばせることで、フランスの国益を守ることに成功したと言われている。また、その結果、アントナン・カレームの名声も各国の上流階級の間に広まることになった。

カレームは1815年にはロシア皇帝アレクサンドルの料理長となり、サンクトペテルブルクの宮廷で料理を作った。また、オーストリアのウィーンでも皇帝フランツ1世や英国大使スチュワード卿に仕えた。そして、ロンドンでイギリスの摂政で後の国王ジョージ4世に仕えた後、1819年に再びロシアの宮廷に戻る。しかし、ロシアの劣悪な環境に耐えられなくなったため、パリに戻り、バグラシオン公妃に仕えたのち、最後はロトシルト男爵家で一生を終えた。

アントナン・カレームは、同時代の他の料理人よりも軽くて、盛り付けが美しい料理を得意とした。また、肉類をあまり使わず、多くの先人たちよりも魚を多く調理していた。これは、魚料理の方が健康に良いという考えに基づくものであった。

また、彼自身の料理の腕前だけでなく、数十人もの料理人を統括するシェフとしての能力にもたけていた。特に絶賛されたものに、三日三晩にわたってシャンパーニュ地方で開催されたヴェルテュの宴や、パリのシャンゼリゼで12000名もの出席者を集めて催された祝宴がある。

また、カレームは著作家としても重要な功績を残している。1815年には『Le Pâtissier royal parisien(パリの宮廷菓子職人)』と『Le Pâtissier pittoresque(華麗なる菓子職人)』を、1822年には『Le Maître d'hôtel français(フランスの給仕長)』を、1828年には『Le Cuisinier Parisien(パリの料理人)』を執筆し、さらに美食文学の記念碑である『Art de la cuisine française au XIX° siècle(19世紀のフランス料理術)』を執筆している。

カレームは料理人の服装にも気を遣い、清潔で働きやすい服装を身に着けるようにしていた。ちなみに、料理人が被る「コック帽」はカレームが発案されたと言われている。あのように背が高い形なのは、頭からの熱をより早く発散させるようにしたからだとされている。

空気から肥料を作る-近代の肥料革命(3)

2023-03-20 14:19:54 | 第五章 近代の食の革命
空気から肥料を作る-近代の肥料革命(3)
植物の必須の栄養素は窒素(チッソ)(N)、リン(P)、カリ(K)の3つですが、今回は窒素の話です。

窒素は生物の体を作っているタンパク質の構成要素の一つで、窒素が無いと生命は存続できません。窒素は身近な物質で、空気の約78%は窒素です。ところが、ほとんどの生物は空気中の窒素を利用できません。マメ科の植物と共生する根粒菌などの一部の微生物が、空気中の窒素から窒素化合物を作ることができるだけです。

また、自然界では、雷によっても空気中の窒素から窒素化合物が生成されます。放電のエネルギーによって空気中の窒素と酸素が結びつき、窒素化合物ができるのです。雷が落ちると作物が良く育つと昔から言われていますが、その理由はこうして生まれた窒素化合物が肥料になるからだと考えられます。

このように、微生物や雷によって空気中の窒素から窒素化合物ができることを「窒素固定」と呼びます。微生物によって1年間 に1.8 億トンの窒素が、また、雷によって1年間に 0.4 億トンの窒素が窒素固定されると見積もられています。

産業革命以前であれば、このように自然界で起こる窒素固定と有機肥料によって必要量の作物を育てることができていました。ところが、産業革命による技術革新や、グアノやリン鉱石の利用によって作物の生産量が増加したため、ヨーロッパやアメリカ合衆国の人口が急増しました。この急増した人口を養い続けるためには、グアノやリン鉱石を使用し続けなければなりません。しかし、窒素源であるグアノは近い将来枯渇するであろうことが予想されていました。

人類はこの問題をどのように解決したのでしょうか?

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1898年、英国科学振興協会の会長に就任したウィリアム・クルックスは、文明諸国は十分な食料が無くなるという未曽有の危機に瀕していると演説した。そして、この食糧危機を解決する責任は化学者にあると呼びかけた。

実際に、1890年から1900年にかけて、多くの化学者が大気中の窒素を固定化しようと奮闘していた。1895年、ドイツの化学者アドルフ・フランクとニコデム・カローは、高温にした炭化カルシウムと窒素を反応させることによって、石灰窒素(CaCN2)と呼ばれる窒素化合物の合成に成功した。この方法はフランク・カロー法と呼ばれ、1905年には工業化が開始され、1918年には年間33万トンの窒素を固定するようになった。しかし、フランク・カロー法は高温化のために大量のエネルギーを消費するという欠点があった。

アメリカの電気化学者のブラッドリーとラブジョイは、放電を利用した窒素固定法を開発し、この方法による窒素酸化物(硝酸)の工業的な製造が1902年に開始された。また、ノルウェーのクリスチャン・ビルケランドも、1905年に放電によって空気中の窒素を窒素酸化物として固定するビルケランド・エイデ法を開発した。放電を利用する方法では大量の電力を必要とするが、ノルウェーでは水力発電によってこの電力をまかなうことができた。1911年には、水力発電と窒素固定を組み合わせて肥料を生産するノルスク・ハイドロ社が設立され、1913年までに年間12000トンの窒素から肥料を生産するようになった。

しかし、これらの方法はすべて、より安価な「ハーバー・ボッシュ法」に取って代わられる。ハーバー・ボッシュ法を簡単に言うと、「触媒を利用することによって、高温・高圧化窒素水素からアンモニアを化学合成する方法」だ。ドイツのフリッツ・ハーバーカール・ボッシュによって開発されたことから、この名前で呼ばれている。


フリッツ・ハーバー

フランスの化学者アンリ・ルシャトリエの研究によって、窒素と水素からアンモニアを化学合成するためには高圧が必要であることが明らかになっていた。また、反応を高速で進めるためには、触媒の利用も不可欠と考えられた。

フリッツ・ハーバーは1903年頃から研究を開始し、1909年 7 月にオスミウム触媒を使って550℃、175 気圧の条件でアンモニアの合成ができることを見出した。ちなみに、この成功にはハーバーの研究室に在籍していた田丸節郎の貢献も大きかったと評価されている。

ハーバーがアンモニアの合成に成功したと言っても、1時間に80グラムほどのアンモニアを作るだけの、まだ研究室レベルの生産量だった。工場で大量のアンモニアを生産するためには、さらなる技術開発が必要だったのである。そこで活躍したのがドイツの化学会社 BASF 社のカール・ボッシュアルヴィン・ミタッシュだ。

当時の工場では、550℃、175 気圧という過酷な条件で稼働できる装置は存在しなかった。このような新しい装置の開発を担当したのが化学者・技術者のカール・ボッシュだ。装置の素材や構造について様々な試行錯誤を繰り返すことで、アンモニアの合成に耐えられる装置の開発を行ったのである。

一方、技術者のアルヴィン・ミタッシュは触媒を担当した。ハーバーが当初使用していたオスミウム触媒は高価で扱いが難しかった。そこでミタッシュは、3年間をかけて2万回以上の試験を行うことによって、酸化鉄を主体とし、酸化アルミニウムと酸化カリウムを含む最適な触媒を開発することに成功したのである。

こうして1913年には、BASF 社の工場で1日あたり30トンのアンモニアを合成することに成功する。

肥料を作るために開発された窒素固定法だったが、窒素化合物は爆薬の原料にもなる。BASF 社の工場が建設された翌年には、第一次世界大戦(1914~1918年)が始まった。その結果、BASF 社の工場は爆薬の原料の生産に利用されるようになるのである。ドイツは最終的に敗北するが、BASF 社の工場がなければ、もっと早く終戦になったと言われている。

終戦後、ドイツはハーバー・ボッシュ法を秘密にしようとした。しかし、終戦交渉でドイツの交渉団の一員であったボッシュが、工場の建設に必要な情報を提供してしまったのである。こうして、1920年代以降、フランスやイギリス、アメリカをはじめとする世界各国で次々とアンモニアの生産が行われるようになる。

生産されたアンモニアからは肥料が作られ、世界中の食料生産を支えることになった。20世紀以降に世界人口が急増しているが、その要因の一つがハーバー・ボッシュ法なのである。また、現代でもハーバー・ボッシュ法は窒素固定に無くてはならない技術であり、もしハーバー・ボッシュ法が無いと、20億人以上が餓死すると言われている。

なお、ハーバーは、アンモニア合成法の開発が評価されて、1918年にノーベル化学賞を受賞した。また、ボッシュも、高圧化学における業績が評価されて、1931 年のノーベル化学賞を受賞した。

骨とリン鉱石-近代の肥料革命(2)

2022-12-03 17:58:23 | 第五章 近代の食の革命
骨とリン鉱石-近代の肥料革命(2)
植物の肥料の三大要素はチッソ(N)、リン(P)、カリ(K)です。今回は、この中のリンを取り上げます。

リンの身近な例としてはマッチがあります。マッチ箱の側面の赤黒い部分は赤リンが主成分になっています。この赤リンはリンの単体ですが、リンは酸化されやすく、自然界のほとんどのリンは酸素と結びついたリン酸として存在しています。そして、植物が根から吸収する時も、このリン酸の形で吸収します。

カリは比較的土壌に多く含まれているし、チッソはマメ科の植物に付く根粒細菌などによって土壌に供給されることがありますが、土壌中のリン酸はそれほど多くなく、自然に供給されることもないため、しばしば枯渇してしまいます。そのため、リン酸を含む肥料は非常に効果がある肥料として利用されてきました。リン酸が主成分の肥料は「花肥」や「実肥」と呼ばれ、花や実のつきが良くなることが知られています。

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リン酸を含む肥料の始まりは動物の骨と言われている。骨の主成分はリン酸カルシウムで、リン酸とカルシウムが結合したものだ。骨を土の中に埋めると、リン酸が徐々に溶け出して、植物の成長を促すのである。



ローマ時代から、戦場などの人や馬などがたくさん死んだ土地では植物がよく育つことが知られていた。このため、動物の骨が肥料として使われ出したのはかなり古くからと考えられているが、製品として売り出されるようになったのは18世紀のことである。そのエピソードとしてよく語られるのが、次のようなお話だ。

イギリスのシェフィールドという街は古くから刃物産業が盛んだった。刃物の柄には動物の骨が使用されていて、骨を加工する時に大量の骨のけずりカスが出た。そのけずりカスは空き地に捨てられていたのだが、ある人がけずりカスが積まれた周りでは雑草がよく育つことに気が付いた。そこで、けずりカスを畑にまいてみたところ、作物がよく育ったのだ。こうして、骨のけずりカスはごみから肥料へと生まれ変わって、売り出されるようになった。

19世紀になって、ペルーからの輸出が始まったグアノにもリン酸が大量に含まれていて、大変良い肥料として引っ張りだこになったが、骨の利用も引き続いて行われていた。ところが、骨の主成分であるリン酸カルシウムは水に溶けにくく、肥料としての即効性に欠けるという大きな欠点があった。これを克服したのが近代科学の力だ。

折しも近代科学が発展し、無機化学の知識が蓄積されてきた時代である。チッソ・リン・カリが植物にとって必須の栄養素であることを見出したドイツの天才化学者のリービッヒは1840年に、骨粉を希硫酸で処理するとリン酸が溶け出し、即効性の肥料になることを発表した。

同じように、イギリスのローズも骨粉を硫酸で処理することで良い肥料になることを見つけ、ロンドン近郊に肥料を製造する工場を設立した。こうして、「過リン酸石灰」として知られる世界初の人工肥料が市場に出回るようになったのである。

なお、19世紀後半になると、リン酸カルシウムを主成分とする鉱石である「リン鉱石」が見つかった。そして次第に、リン鉱石は手に入りにくい動物の骨に代わって過リン酸石灰の原料となって行く。

さて、リン鉱石は現代でも肥料の必須の原料となっていて、その主要な産出国は中国である。ところが、中国は最近になって肥料の輸出を停止しているらしく、その結果、国際的にリン酸肥料の不足が生じているという。そして、この状態が続くと、近いうちに日本を含め多くの国々で農作物の生産量が大幅に減少する可能性があると危惧されている。

そもそも、リン鉱石の埋蔵量には限りがあり、人類存続を脅かす大きな問題と考えられてきた。中国の思惑がどのようなものか私にはわからないが、中国からの輸出が再開されることを願っている。

最後に、リン酸不足を補う技術を2つ紹介しておこう。

一つ目は、下水施設でリンを回収する技術だ。神戸市では、下水汚泥にリン酸が大量に含まれていることに目を付けて、リン酸を回収し、肥料を作る事業を行っている。これまでは廃棄されていたリンを再利用するという画期的な試みだ。

なお、この技術の詳細については以下のサイトを参照してください(クリックしてください)。


もう一つは「アーバスキュラー菌根菌」を利用した農法だ。アーバスキュラー菌根菌は植物の根に共生しており、リン酸や窒素を土壌から吸収して宿主植物に与える役割を果たしている。アーバスキュラー菌根菌はほとんどの植物と共生関係を結ぶことができると言われている。すなわち、アーバスキュラー菌根菌を活用すれば、土壌中のリン酸が少なくても、作物を効率よく育てることができると考えられるのだ。

最近になって、アーバスキュラー菌根菌を大量に培養する画期的な技術が開発された。この技術を活用すれば、アーバスキュラー菌根菌を肥料として利用することが可能になる期待されている。

なお、この技術の詳細については以下のサイトを参照してください(クリックしてください)。


グアノとチリ硝石-近代の肥料革命(1)

2022-11-27 16:22:12 | 第五章 近代の食の革命
グアノとチリ硝石-近代の肥料革命(1)
今回から「近代の肥料革命」というタイトルで、新しいシリーズが始まります。

化学肥料の成分はチッソ(N)、リン(P)カリ(K)の3つが主になっています(この3つを肥料の三大要素と呼びます)。1841年にこの3つが植物にとって必須の栄養素であることを見出したのが、ドイツの天才化学者のユストゥス・フォン・リービッヒ(1803~1873年)でした。この発見をきっかけに、これらの成分を含む鉱石などが肥料の原料として用いられるようになるのです。

三大要素の中で、リン(P)とカリ(K)は鉱山などから比較的容易に手に入れることができるのですが、チッソ(N)を含む原料には限りがありました。チッソと言っても、空気中のチッソではダメで、硝酸やアンモニア、尿素などのような窒素化合物でなければ、肥料の原料になりません。

そこで、近代には、「ハーバー・ボッシュ法」という、空気中のチッソから窒素化合物を作る方法が開発されました。そしてこれが、現代でも肥料を生産するための根幹となる技術になっています。

本シリーズでは、ハーバー・ボッシュ法の登場までの近代の肥料の歴史について見て行きます。今回は、近代の前半期に非常に優れた肥料として使用されていた「グアノ」と、その後の肥料の原料となった「チリ硝石」のお話です。

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グアノとは、ペルー沿岸のチンチャ諸島の島々に海鳥のフンや死骸、エサの魚、卵の殻などが堆積して化石化したもので、チッソやリンなどを大量に含んでいる。雨が少ない地域のため、チッソリンを含むフンなどが洗い流されずに積もり続けることでグアノができるのだ。インカ帝国などアンデス文明の段々畑には肥料としてグアノがほどこされることで、トウモロコシなどの作物が豊かに実ったと言われている。

グアノはとても貴重であったため、インカ帝国では海鳥は厳重に保護されていたという。例えば、繁殖期には鳥がおびえて逃げ出さないように島への人の出入りを禁じており、もしこれを破ってしまうと死刑になった。また、一年を通して海鳥を殺した者も死刑になった。

インカ帝国はスペインに滅ぼされ、植民地となるが、欧米人はグアノに興味を示さなかったという。ところが19世紀に入ると事態は一変する。その頃のアメリカ合衆国の農地では、連作による地力の低下が問題になっていた。そこで、肥料としてグアノを使ってみたところ、他の肥料に比べて効果がずっと高いことがわかって来たのだ。こうしてグアノは最高品質の肥料として欧米諸国に知られるようになったのである。

1821年に独立したペルーは、大量のグアノを採掘して主にアメリカに輸出するようになった。しかし、イギリスなどの欧米諸国もグアノを欲しがったため、グアノの調達は外交上の大きな問題に発展して行く。また、ペルーは、グアノ輸出の利益によって大変潤ったが、やがてグアノが枯渇することによって経済の破綻を招くことになった。

一方で、グアノを産出する新しい島の探索も始まった。その結果、いくつかの島々でグアノが見つかり、採掘が始まった。しかし、その量は限られており、19世紀中にはほぼ取り尽くされてしまったという。



グアノの次に肥料の原料となったのが「チリ硝石」だ。チリ硝石はペルー・ボリビア・チリの三国にまたがるアタカマ砂漠で採掘された。チリ硝石の主成分は硝酸ナトリウムで、肥料の三大要素の一つの窒素(N)を大量に含んでいる。チッソ(N)とリン(P)を多く含むグアノには劣るが、グアノが取り尽くされた後はチリ硝石が各国で引っ張りだこになった。

なお、19世紀後半の南米の国々は独立後間もない時期であり、国境も不安定な状態にあった。そして、チリ硝石を産する鉱山をめぐって、ペルーとボリビアの連合軍はチリと戦うことになる。

太平洋戦争(1879~1884年)と呼ばれた5年にわたる戦いはチリの勝利で終わったことにより、多くの鉱山がチリのものになった。これがチリ硝石と呼ばれるゆえんだ。こうして、第一次世界大戦頃まで莫大な量のチリ硝石が採掘され、その結果、チリは南米でも有数の豊かな国となったという。

ところで、硝石は火薬の原料にもなっており、各国の社会情勢や国際情勢が緊迫化する中で、火薬の原料としても硝石の需要量が増えて行くことになる。実は、ハーバー・ボッシュ法が開発される理由も、火薬の原料を獲得しようとしたところも大きいと言われているのである。

中国系移民の食-アメリカの産業革命と食(10)

2022-11-19 20:18:26 | 第五章 近代の食の革命
中国系移民の食-アメリカの産業革命と食(10)
移民の国アメリカにはたくさんのアジア人もやってきました。その中で、アメリカの食に大きな影響を及ぼしたのが中国人です。しかし、アメリカにやって来た中国人の生活は決して安泰なものではありませんでした。人種差別による迫害を受けたからです。

今回はこのような社会背景とともに、中国系移民の食を見て行きます。

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アメリカへの中国からの移民は1840年代から始まり、1860年代になると急増した。この背景の一つには、中国イギリスの関係がある。それを簡単に言うと、次のようになる。

18世紀の終わりにかけてイギリスで紅茶を飲む習慣が広まり、茶の需要が高まった。その結果、中国(清)からの茶葉の輸入が増加したのだが、イギリスの主要輸出品であった綿製品は中国では売れなかったため、イギリス側は大幅な赤字となる。この時イギリスが目を付けたのがアヘンで、アヘンを植民地のインドで作らせ、綿製品と交換し、中国に持ち込んだのである。

中国はアヘンの輸入を禁止するが、それに反発したイギリスが1840年にアヘン戦争を起こした勝利する。そして、1842年に結ばれた南京条約によって鎖国状態だった中国は開国し、中国人の海外への移動が可能となった。

折しもイギリスでは、1833年に奴隷制度が廃止されていた。そこで、奴隷商人は黒人奴隷の代わりに中国人やインド人を安価な労働者として海外に移住させたのだ。それは名目上は契約という形を取っていたが、多くの場合で暴力を用いた強制的なもので、奴隷貿易と何ら変わらなかった。

こうして海外に移住した労働者は苦力(クーリー)と呼ばれて酷使されることになった。アメリカではゴールドラッシュに沸く西海岸の鉱山や、建設中の大陸横断鉄道で主に働いていた。カリフォルニアでは1870年代には中国人が州人口の1割弱をしめるまでになったと言われている。

中国人たちは「チャイナタウン」と呼ばれる貧民街で共同生活を営んでいた。そして、一部の人々が、同胞の人たちを相手に食堂などの商売を始めた。これが中華レストランの始まりだ。なお、中国からの移民のほとんどが広東出身であったため、料理のベースは広東料理だった。と言っても、本格的な中華料理を学んだ者は少なく、家庭料理の延長のような料理を作っていたと考えられる。1850年までに、サンフランシスコには8軒程度の中華料理店があったと言われている。

最初は同胞の中国人のための料理だったが、次第に他のアメリカ人の味覚に合うように料理が工夫されるようになった。その結果、中華料理店は、安くてとてもおいしい料理を出す店として知られるようになって行く。特に、若者たちに人気があったようだ。

その頃の人気の料理に「チャプスイ(chop suey)」がある。これは、広東料理が元になったと言われているもので、豚肉や鶏肉をモヤシなどの野菜と一緒にごま油で炒めてから煮込んだ料理で、とろみをつけあと、チャーハンや麺にかけて供される。八宝菜に似た料理と言えばわかりやすいかもしれない。



中国系移民はアメリカで様々な迫害を受けた。その最たるものが1882年に制定された「中国人労働者移民排斥法」だ。これは、学生や商人、旅行者以外の中国人のアメリカへの入国を禁止するもので、1943年まで続いた。

それでも、アメリカの中華料理は進化を続け、20世紀に入るとアメリカの中華料理はより甘くなり、揚げ物が多くなった。また、ブロッコリーという中国にはない野菜が使用されるようになった。

ちなみに、アメリカの中華料理店では最後にフォーチュンクッキーが出てくるが、これは元々日本料理店で出されていたものが第二次世界大戦後に中華料理店で出されるようになったものだ。いろいろなものが取り入れられて、現代に続くアメリカの中華料理が作られて行くのである。