食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

古代中国王朝の始まりと食文化

2020-07-30 16:44:10 | 第二章 古代文明の食の革命
2・4 古代中国王朝の食文化
古代中国王朝の始まりと食文化
古代ヨーロッパの次は大陸の反対側に飛んで、古代中国王朝の食文化について見て行こう。

黄河流域には紀元前7000年頃から文明が栄えていたと考えられている。いわゆる黄河文明と呼ばれるもので、畑でアワを作って主食にしていた。紀元前4000年になると、ろくろを使って作った精巧な陶器を特徴とする仰韶(ぎょうしょう)文化が誕生する。仰韶文化では、石製の鍬(すき)で畑が耕され、家畜としてイヌとブタを飼育していた。

紀元前2500年頃になると、黒色で光沢がある薄手の土器を特徴とする竜山文化(紀元前2500年~前2000年)が出現した。このような土器を作るには、それまでよりも高温で焼かなくてはならない。この文化ではアワとキビを主食とし、家畜にはイヌとブタのほかにヒツジとウシが加わった。骨を焼いてできたひび割れで吉凶を占う卜占(ぼくせん)もこの頃に始まったと考えられている。

その後黄河流域には最初の王朝である「夏王朝」(紀元前1900~前1600年頃)が生まれたとされる。夏王朝は伝説上の存在と考えられていたが、近年の発掘調査から夏王朝のものと考えられる二里頭遺跡(にりとういせき)が見つかり、その存在が現実視されている。この遺跡では、アワ・キビ・コムギ・ダイズ・コメなど性質の異なる複数の穀物を栽培していた痕跡があり、それまでより高度な農耕技術を持っていたことがうかがえる。夏王朝は17代目の王の時に殷の成湯(湯王)によって滅ぼされたとされている。

殷王朝(紀元前1600年頃~前1046年)を建てた殷族は、元は東方で狩猟を行っていた部族だったが、黄河の中流から下流域にかけて定住農耕を始めると急速に勢力を拡大し、やがて黄河中流域にも進出して他民族を服属させていった。殷王朝では早くから青銅器が盛んに製造されていた。この青銅器は武器としても使用されたが、多くが神や祖先の霊へのお供え物のための酒器や食器だったと考えられている。殷王朝の王はシャーマンとしての役割も担っており、武力と祭祀の力で国を治めていたのだ。なお、殷王朝の遺跡の後からは生贄となった人の骨が1万以上も見つかっており、かなり残忍な性格だったことがうかがえる。この殷王朝は、最後の王の帝辛が暴虐な君主で酒色におぼれたため人民の心が離反してしまい、周を中心とする従属国家によって滅ぼされた。

   殷後期の青銅器

次に建った周王朝は、前半の西周の時代(紀元前1024~前771年)と後半の東周の時代(紀元前770~前256年)に分けられ、さらに東周の時代は春秋時代(紀元前770~前403年)と戦国時代(紀元前403~前221年)に分けられる。

西周の時代に入ると調理技術が格段に進歩したようである。ゆでる・蒸す・あぶる・炒める・油で揚げるなど、現代と変わらない調理法がこの時代の記録に残されている。また、さまざまな調理器具が発明され、より手の込んだ調理方法が生み出されていった。特に「八珍」の登場は、料理が単に食べるだけの行為から、楽しむための重要な儀式になったことを示している。

「八珍」は時代によりその内容は異なっているが、要は八種類の珍しくて高貴な食べ物のことだ。周代のまつりごとを記した「周礼(しゅうらい)」によると、周代の八珍は「淳熬(じゅんごう)」「淳母(じゅんぼ)」「炮豚(ほうとん)」「炮羊(ほうしょう)」「檮珍(とうちん)」「漬(し)」「熬(ごう)」「肝膋(かんりょう)」という料理からできていたらしい。当時の料理の絵は残っていないので、これらの料理がどんなものかは正確には分からないが、材料からおおよそのことが推測できるそうだ。例えば、淳熬(じゅんごう)はご飯の上に調理した肉を乗せたものだったらしい。また、搗珍(とうちん)はタルタルステーキのように、牛肉、鹿肉、羊肉などを叩いてみじん切りにしたもので、漬(す)は薄切り肉を酒に付け込んだ料理だったそうだ。炮豚(ほうとん)と炮羊(ほうしょう)は手の込んだ料理で、豚と羊を丸焼きにした後、表面に米粉を塗ってさらに油でじっくり揚げたものという。

日本がまだ弥生時代の頃に、中国人はとても手の込んだ料理を食べていたことになる。

古代ヨーロッパとローマ風食生活の終焉、そして新しい食文化へ

2020-07-28 20:23:48 | 第二章 古代文明の食の革命
古代ヨーロッパとローマ風食生活の終焉、そして新しい食文化へ
東ローマ帝国は、テオドシウス帝の長男のアルカディウスが初代皇帝となった。都はコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)である。コンスタンティノープルの旧名がビザンティオンであることから、東ローマ帝国は次第にビザンツ帝国と呼ばれるようになる。

東ローマ帝国にも当初はゲルマン民族が侵攻してきたが、彼らが西ローマ帝国の方に移動していったため領土を維持することが出来た。そして、東ローマ帝国は1453年まで存続することになる。

前回お話ししたように、西ローマ帝国が滅亡する前後にゲルマン民族は西ローマ帝国内にそれぞれ国家を建設したが、これらの国々は東ローマ帝国の同盟国になった。これは、それぞれの国をうまく治めるための方策だった。



そもそもゲルマン人の人口はローマ人の3%ほどで、ゲルマン人だけでそれぞれの王国を統治することは不可能だった。そこで、ローマ帝国の仕組みと人員を使って統治を行ったのだ。この仕組みの一つが東ローマ皇帝の権威を利用することだった。また、ローマ帝国時代に地域を管理していたローマ人たちに、そのまま王国の管理を任せた。こうしてゲルマン諸国は必然的にローマ化することになった。

また、キリスト教もゲルマン民族の統治に利用された。どういうことかと言うと、ゲルマン人がキリスト教(カトリック)に改宗することで、国内の支配をやりやすくしたのである。

ローマ帝国はキリスト教を国教としており、ヨーロッパではローマ・カトリックの大小の教会がそれぞれの地域に建てられていた。西ローマ帝国が弱体化すると、それにつれて教会が社会を支える重要な存在になっていたのだ。そこでゲルマン人は教会と手を結ぶことで、地域の統治を行ったのである。

さらに、東ローマ帝国はキリスト教国であり、西ローマ帝国の元住民の多くもキリスト教徒だった。彼らとの関係を良好に保つ上でもゲルマン民族自身がキリスト教徒に改宗することは大きな意味があったのである。

ところで、ゲルマン民族のゴート族やヴァンダル族では4世紀から5世紀にかけてキリスト教の一派のアリウス派の教えが広まっていた。この宗派の教えは「イエスは神と同質ではない」というもので、三位一体説をとるローマ・カトリックからは異端扱いされていたためローマ人には受け入れられなかった。

このような中で、フランク国王のクロヴィス(466年頃~511年、在位:481~511年)は496年にカトリックに改宗する。これはゲルマン民族の王が初めて行ったカトリックへの改宗であった。こうしてフランク王国はローマ・カトリック教会やローマ系市民との絆を強化することによって力をつけ、西ヨーロッパを統一していくことになる。ただし、クロヴィスはカトリックに改宗した後も一夫多妻の習慣を継続するなど、キリスト教に完全に入信したわけではないように見える。キリスト教を利用したと言われても仕方ないだろう。いずれにしても、これ以降のヨーロッパではキリスト教がきわめて大きな存在になって行くのである。

  フランク国王クロヴィス

さて、西ローマ帝国はゲルマン民族の侵攻によって滅亡し、古代ローマの高度な食文化は消滅した。古代ローマ人の食文化はパン、オリーブオイル、ワインなどが主である。また、魚醤の一種であるガルムも欠かせなかった。これらはローマ帝国の各地で作られたり、地中海沿岸で作られたものが船や街道を使って各地に運ばれたりしていた。このような食品の生産や輸送が西ローマ帝国の滅亡によって滞るようになるのである。

それに代わって、ゲルマン人が好んで食べる肉、ビール、乳製品が食文化の中心となって行く。ただし、パンとワインはキリストの肉体と血を現わすものだったことから、教会や修道院が中心となって生産が続けられることになる。特に、ふっくらとしてやわらかい白パンはゲルマン王国の支配層にも受け入れられ、現在も続くパンと肉を中心とするヨーロッパ型の食文化の原型が作られた。なお、コムギが育てられない北ヨーロッパでは、庶民はライムギなどを原料にした黒パンを食べた。

一方、キリスト教もゲルマン人の支配によって変化し、修道院などでビールを作るようになる。そして中世になると、ある修道院においてビール製造の画期的な革命が起こることになるのだ(いずれ、ビールの歴史リーズを書く予定です)。

(これで、古代ローマのシリーズは終了です。次は古代の東洋世界です。)

ゲルマン民族の大移動(3)

2020-07-26 17:47:59 | 第二章 古代文明の食の革命
ゲルマン民族の大移動(3)
前回見たように、ローマ帝国とゲルマニアの間には国境があったが、多くのゲルマン人がローマ国内に移住してきていた。このような中でゲルマン民族の大移動と呼ばれる出来事が375年から始まる。その直接の原因となったのが、遊牧騎馬民族の「フン族」がゲルマン民族の一つの東ゴート族に侵攻してきたことだ。

フン族は中国では匈奴と呼ばれていた民族で、後漢に攻撃されたために西方に逃げてきたという説が有力だ。彼らは4世紀頃までに現在のロシア連邦の西部を流れるヴォルガ川流域に住み始めた。このフン族が4世紀後半になると食料不足のためさらに西側に移動する。そして370年頃、黒海北岸に居住していたゲルマン民族の一つの東ゴート族を襲った。フン族の攻撃はすさまじく、ほとんどの建物は破壊され、多数のゲルマン人が惨殺されたという。そして、東ゴート族はフン族に支配される。



東ゴート族の惨状を目の当たりにした西ゴート族はパニック状態に陥り、375年に南へと移動を開始し、翌年にはドナウ川を渡ってローマ帝国内に逃げ込んできた。この時に移動した西ゴート族の人々は10万人に及ぶという。これを始まりとしてゲルマン民族の大移動が6世紀まで続く。

逃げ込んだ西ゴート族はローマ帝国と協定を結び、ローマ帝国に兵士を出す代わりに保護を受けることになった。しかし、ローマ帝国から約束の食料の供給がほとんどなかったことから反乱が発生する。これに対してローマ帝国皇帝ウァレンス(在位364~378年)は378年に自ら軍を率いて鎮圧にあたったが惨敗してしまう(ハドリアノポリスの戦い)。さらに、ウァレンスも避難した小屋ごと焼き殺されるという最期を遂げた(火をかけた者は皇帝だとは知らなかったとされる)。勝利した西ゴート族は各地で略奪を繰り返したという。

379年に即位したローマ帝国皇帝テオドシウス1世(在位:379~395年)は、さっそく同じ年に西ゴート族にトラキアへの移住を許可した。西ゴート族には納税の義務はなかったので、これは土地の自由使用を認めたということになる。

テオドシウス帝は395年に亡くなるが、遺言で帝国を東西二つに分けてそれぞれを二人の息子に統治させるように命じた。こうしてローマ帝国は395年に東西に分裂する。ただし、これは実質的な分裂ではなく、多くのローマ人が帝国は一つという考えを持っていたという。ところが、東西ローマでは様々な状況が違い過ぎた。



西ローマ帝国を引き継いだホノリウス(在位:395~423年)は政治には無能であったことと、西ローマには頻繁にゲルマン人が侵入してきたことから急速に国力が衰えて行ったのだ。この時に侵入が活発だったのが、ヴァンダル族、スエビ族、ブルグント族などである。また、アングロ・サクソン人はローマ帝国が放棄したブリタニアに侵入した。なお、後にフランク王国を建てるフランク族は4世紀中ごろよりガリアに移住し、ローマ軍兵士として活躍するとともに、後にはフランク族の支配層がローマ軍の司令官や政府高官になったり、皇帝の妃となったりするなど、ローマ帝国内に確固たる地位を築いていた。

5世紀初頭になると、西ゴート族が再び反乱を起こしイタリア半島に侵攻した。彼らはローマでも略奪行為を行ったが、ホノリウス帝には鎮圧する力はなかった。そして、ついに418年に西ゴート族がイベリア半島に独自の王国を樹立することを認めることになる。これが711年まで続く西ゴート王国の始まりである。これによってローマ皇帝の権威は失墜し、ゲルマン民族の諸部族の国家が次々と帝国内に建国されることになる。

423年にはホノリウス帝が没し、その後の西ローマ皇帝も短命であった。さらに、傭兵として雇われていたゲルマン人が将軍となって、実権を握るようになる。つまり、ゲルマン人の侵入をゲルマン人が防御するという不思議な状態に陥るのだ。そして476年、ゲルマン人傭兵隊長のオドアケルは、当時の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥス(在位:475~476年)を退位させ、オドアケル自身が王を名乗ることで西ローマ帝国は滅亡する。

ゲルマン民族の大移動(2)

2020-07-24 23:30:16 | 第二章 古代文明の食の革命
ゲルマン民族の大移動(2)
ここで、ゲルマン民族の大移動に至る前のローマ帝国の内情についてまとめておこう。
以前にお話ししたように、マリウス(紀元前157~前86年)の兵制改革によって土地を失った無産市民が兵士として雇用されるようになっていた。彼らの武器と日々の食料は将軍から与えられとともに、戦争で勝ち取った土地と戦利品はおこぼれにあずかることができたため、彼らは将軍の下で一致団結して一生懸命戦った。この結果ローマ軍は強くなったわけだが、彼らの忠誠心は国ではなく、彼らを率いる将軍に対して向くようになってしまった。つまり、将軍の私兵軍と呼べるものになっていったのだ。

ところで、ローマ市民(ローマ市民権を持っている者)には食べ物が保証されていたので、ローマ市民でない多くの者がローマ市民になりたがっていた。奴隷は頑張って仕事をこなして解放されるとローマ市民権を得ることができた。ちなみに、女性の奴隷は主人との間にたくさんの子供を産めば解放されたという。また、大金を積めば市民権を買うこともできた。

一方、初代皇帝のアウグストゥス(在位:紀元前27~西暦14年)は軍隊を強化するために、誰でも兵役に付くと除隊後にローマ市民権を与えることにした。また、特に戦功があった者は、除隊前にローマ市民権を得ることができた。この結果、市民権欲しさに多くのよそ者が兵士(傭兵)になったという。実は、ローマ軍を破ったゲルマン人の将軍アルミニウスはこうしてローマ市民権を得た後にゲルマニウムに戻り、ローマ軍と戦ったのである。

このように、人種に関係なく役立つ者にはそれなりの待遇を与えるというのがローマ帝国のやり方だった。言い換えるとローマ人は現実主義者であって、より良い生活をするために最適と思われる行動を取っていただけである。それはゲルマン人も同じことで、良い就職口だったのでローマの兵士(傭兵)になったのである。このため、アルミニウスのようにローマに対する忠誠心は低かったと考えられる。

西暦212年にはカラカラ帝(在位:209~217年)がローマ帝国内のすべての自由民にローマ市民権を与える勅令(アントニヌス勅令、アントニヌスはカラカラの本名)を出した。この勅令の意義については、皇帝の権威を示すためなどいろいろ言われているが、この頃には市民権を持ったローマ市民がたくさんいて市民権の価値が下がっており、この勅令の影響力はあまりなかったようだ。逆に、養わないといけない市民が増えたことによって、国の負担は増えてしまった。

この状況で北半球で広く寒冷化が起こり、食料生産が滞るようになる。

ゲルマン民族の大移動(1)

2020-07-22 17:04:06 | 第二章 古代文明の食の革命
ゲルマン民族の大移動(1)
ゲルマン民族の大移動が古代ローマの崩壊の原因と言われることがある。現在は、様々な要因が組み合わされることによって古代ローマが滅んだと考えられているが、ゲルマン民族が4世紀後半からローマ帝国内に移動してきたことがその一つとなっていることは間違いない。そこで、ここから数回にわたってゲルマン人とローマ人の関わり合いについて見て行こうと思う。

ゲルマン人は、現在のドイツ人、イギリス人、オランダ人、デンマーク人、スウェーデン人などの共通の祖先とされている。「金髪碧眼で背が高い」というのがゲルマン人の一般的な外観だ。一方、古代ローマの中心となったラテン人は、現在のイタリア人、フランス人、スペイン人、ポルトガル人などラテン民族の祖先だ。

もともとゲルマン人は、諸部族に別れてバルト海や北海の沿岸で牧畜と農耕を営んでいた。彼らは紀元前3世紀頃なると南下を始め、古代ローマ人が「ゲルマニア」と呼んだライン川の東やドナウ川の北側に先住民のケルト人を追い出すことで住み着いた。ライン川流域やエルベ川流域には肥沃な土地が広がっていたからだと考えられる。



さらにゲルマン人は、紀元前2世紀頃からライン川やドナウ川を越えて西や南に進出してくる。ガリア人のいくつかの部族はドナウ川を越え、さらにアルプスを越えてイタリア半島に侵入するが、マリウス(紀元前157~前86年)によって撃退された。また、ライン川西方のガリアに入り込んできたゲルマン人を押し戻したのがガリア遠征を行ったカエサル(シーザー、 紀元前100~前44年)である。

その後、ローマ軍は初代皇帝のアウグストゥス(在位:紀元前27~西暦14年)の時代に、エルベ川流域の肥沃な土地を求めてライン川を越えてゲルマニアに侵攻するのだが、「トイトブルクの森の戦い(西暦9年)」で2万人以上ものローマ軍が全滅してしまうという痛い敗戦を味わう。この時ゲルマン軍を率いたのがアルミニウス(紀元前16~西暦21年)で、彼はその後もローマ軍の侵攻を防ぐなどの功績を残した。アルミニウスはドイツではローマ軍を破った最高の英雄として近代まで尊崇される人物になる(第二次世界大戦後は英雄視することは好まれなくなった)。

ローマ帝国はその後もゲルマン人に対して軍事行動を起こすが、最終的にはライン川とドナウ川を国境線として、これを堅守する道を選んだ。そして、ゲルマン人の侵入を防ぐための土塁「リーメス(limes)」をライン川からドナウ川に沿って約550㎞にわたって築くのだった(下の写真)。



ここで、当時のゲルマン人の食生活を見てみよう。彼らの食事の中心は肉であり、それに加えて牛乳やチーズなどの高タンパクの食事を好んだようである。これは、彼らが高緯度の寒い地域に暮らしていたことから、生活の基盤が牧畜だったためと考えられる。ウシのほかには、ヤギやヒツジ、ウマ、ブタ、そして家禽類なども育てられていた。また、ゲルマン人の暮らしに重要だったのがイヌで、多数が飼育され、狩や牧畜の手伝いをしたと考えられている。

一方、農業も重要で、肥沃な平地では農地が作られて、キビ、コムギ・オオムギ、エンバクやライムギなどが育てられていた。穀物からはパンを作っていたことも分かっている。

ゲルマン人の大好物がビールで、陶製のジョッキに並々に注いだビールをあおるように飲んでいた様子が記されている。蜂蜜から作ったお酒(ミード)も良く飲まれていたようだ。なお、古代ローマとの間に国境があったとは言え人や物資の行き来はあり、ローマからワインが運び込まれて少しは飲まれていたようである。