食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

チョコレートの歴史①-ヨーロッパ人到来以前の中南米の食(4)

2021-04-30 18:26:26 | 第四章 近世の食の革命
チョコレートの歴史①-ヨーロッパ人到来以前の中南米の食(4)
皆さんには、しばらく食べないとどうしても食べたくなる食べ物は無いでしょうか?日本人は海外の生活が長くなってご飯が食べられなくなると、ご飯を食べたくて食べたくて仕方がなくなるという話はよく聞きます。

このように、特定の食品をどうしても食べたくなることを「食物渇望」と呼びます。日本ではご飯が食物渇望を生み出す食べ物の上位にきますが、世界的にはチョコレートが食物渇望を生み出す食品のNo.1の座を占めています。

チョコレートの原料はカカオ(カカオノキ)の種子です。カカオの原産地はメソアメリカで、メソアメリカ文明では紀元前2000年頃からカカオの種子は飲料の原料として利用されていました。

今回は前半部でチョコレートの作り方をお話した後に、後半部分でアメリカ大陸でのカカオの利用について見て行きます。

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カカオノキはアオギリ科カカオノキ属の高さ10mほどの常緑樹だ。カカオノキの学名は 「Theobroma cacao」だが、このTheobroma はギリシア語で「神 (theos) の食べ物 (broma) 」を意味している。この名前はカカオがメソアメリカで神々へのお供え物だったからついたと言われている。

カカオノキの花は直径3センチメートル程度で白色をしており、写真のように房状になったものが幹や太い枝に直接つく。しかし、このうち種子ができるのは1%に満たない。このためカカオの果実(カカオポッドと呼ぶ)は幹や枝に1個から数個がぶら下がった状態になる。


カカオの花(helenacoles623によるPixabayからの画像)


カカオポッド(MaliflacによるPixabayからの画像)

カカオポッドの中には白い果肉で覆われた種子が20~40粒入っている。そして、この種子には40~50%ほどの脂肪分が含まれていて、これがチョコレートになるのだ。


カカオポッド内部(David Greenwood-HaighによるPixabayからの画像)

チョコレートを作るためには、カカオポッドを収穫するとすぐに割って種子を白色の果肉ごと取り出し、バナナの皮で包んだり箱に入れたりして一週間ほど発酵させる。この時に内部温度が50℃ほどまで上昇し、いろいろな化学反応が起こって種子の色が褐色に変わるとともに独特の風味が生まれる。発酵が終了した種子は乾燥させられ、チョコレート工場に送られる。

チョコレート工場では異物を取り除いた後、熱風を当てることで焙煎が行われる。この焙煎によって香ばしい香味が生じる。そのあと機械で種子をくだき、表面のかたい皮を取り除く。残った種子の中身がカカオニブとよばれる部分だ。

次の工程ではカカオニブを温めながらなめらかな舌触りになるまですりつぶす。カカオニブにはおよそ50%の脂肪分が含まれているため、すりつぶすとドロドロのペースト状になる。このペースト状になったものをカカオマス(もしくはカカオリカー)という。なお、この工程ではカカオニブが直径100μm程度の粒子になるまですりつぶされるのだが、そのための機械は1879年になって初めて開発されたため、それまでは今のようななめらかなチョコレートは食べることはできなかった。

食べるチョコレートを作るには、カカオマスに「ココアバター(カカオバター)」と砂糖や乳製品などを加える。ココアバターはカカオマスから褐色の固形部分を取り除いた後の脂肪分のことだ。ちなみに、ホワイトチョコレートはココアバターに砂糖と脱脂粉乳などを加えて固化させたものだ。また、カカオマスの褐色の固形部分はココアケーキと呼ばれて、ココアの元となる。

市販の安価なチョコレートの多くには高価なココアバターの代わりにココナッツオイルやパームオイルが入っている。ちなみに、日本でチョコレートと呼ぶためにはカカオ由来の成分が35%以上(乳製品を含む場合は21%以上)でココアバターが18%以上含まれていなければならない。最近よく見かける70%~99%チョコレートはカカオ由来の成分が70%~99%含むものだが、カカオマスとココアバターの比率は製品ごとにかなり違う。

チョコレートの原料のココアマス、ココアバター、乳製品、砂糖を良く混合した後は冷やして固める作業を行う。チョコレートの油脂成分はかなり均質のため、液体状のチョコレートを冷やして固化すると油脂成分が規則正しく並んで結晶構造を作る。結晶構造にはI 型~ VI 型と呼ばれる6 種類があり、この中でチョコレートに最適なものはV型である。V型は他の型よりも生地がなめらかで表面につやがあり、口に入れた時に素早く融けるためだ。

このV型を作るためには「テンパリング」という操作を行う。テンパリングでは50℃以上で融かしたチョコレートを撹拌しながら27℃まで冷却し、一定時間保持した後に31℃まで温度を上げる。これを型に入れて固めるとチョコレートの出来上がりだ。

ところで、カカオの栽培種には大きく分けて「クリオロ種」「フォラステロ種」「トリニタリオ種」の3つあり、このうちクリオロ種が最初に栽培化されたものと考えられている。クリオロ種は原種に近いマイルドな風味が特徴だが、病虫害に弱いため栽培量はとても少ない。

それに対してフォラステロ種は苦みと渋みが強いが育てやすいため、世界で最も多く栽培されている。また、トリニタリオ種はクリオロ種とフォラステロ種の交配で生み出されたもので、クリオロ種の風味の良さとフォラステロ種の育てやすさをあわせ持っている。

クリオロ種は紀元前2000年頃にメソアメリカで栽培化されたと考えられており(南米のエクアドルという説もある)、フォラステロ種はそれより後に南米のアマゾン川上流地域もしくはオリノコ川流域で栽培化されたと考えられている。紀元前1900年頃のメソアメリカの遺跡からカカオを用いた最古の飲料の跡が出土しているが、これはクリオロ種だろう。メソアメリカのカカオは基本的にクリオロ種だった。

メソアメリカのメキシコ湾岸部では紀元前1200年頃からオルメカ文明が栄えたが、その遺跡から炭化したカカオの種子(カカオ豆)が見つかっている。オルメカ文明ではカカオのことを「カカウ」と呼んだと言われており、これがカカオの語源となった。

メソアメリカのユカタン半島では4世紀から9世紀にかけてマヤ文明が繁栄したが、その出土品の中にはカカウの文字が描かれ土器やカカオの痕跡が残っている土器が見つかっている。また、メキシコ中央高原で紀元前2世紀頃から7世紀頃まで栄えたテオティワカン文明の遺跡からはカカオ豆が描かれた土器が見つかっている。

15世紀前半からメキシコ中央高原で栄えたアステカ帝国では、カカオは地方からの重要な貢納品だった。このように宮殿に集められたカカオは儀式の際に神々へのお供え物となった。マヤ文明においてもアステカと同じように、カカオは神々に奉げる神聖な食べ物とみなされていたという。

また、アステカにおいてカカオは通貨の役割も果たしていた。アステカではスペイン人がやって来るまでいわゆる通貨は存在していなかったが、物々交換では不便なため、神聖で価値の高いカカオが通貨の代わりに使用されていたのだ。ちなみに、オスの七面鳥はカカオ200粒、野ウサギはカカオ100粒、トマトはカカオ1粒と交換されたらしい。

このように価値の高いカカオを口にできたのは上流階級の者だけだった。マヤでもアステカでもカカオは飲料(ショコラトル)にして飲まれていた。

ショコラトルを作るためには現代のチョコレートを作るように、カカオ豆を発酵させたのち火にあぶって焙煎し、それをすりつぶしてペースト状にした。そしてそれを水にとき、風味付けのためにトウガラシやバニラ、トウモロコシの粉などが入れられた。現代のチョコレートのように砂糖は入っていなかったので、甘くはなかった。また、脂分が多いため、攪拌棒でかき混ぜながら飲んだらしい。

カカオには脂分が多いためエネルギー価が高く、またカフェインによく似たテオブロミンを大量に含んでいるため興奮作用がある。このような理由から、メソアメリカではショコラトルが好んで飲まれたのではないかと思われる。また、現代においてチョコレートが食物渇望を生み出すのも、チョコレートに大量に含まれている脂質と砂糖、そしてテオブロミンによると考えられる。

インカの食と段々畑-ヨーロッパ人到来以前の中南米の食(3)

2021-04-27 23:09:19 | 第四章 近世の食の革命
インカの食と段々畑-ヨーロッパ人到来以前の中南米の食(3)
前回はアステカ帝国のお話でしたが、今回はインカ帝国の食と農業について見て行きます。

インカ帝国はアンデス中央高原やその周辺部に興ったアンデス文明に属しています。アンデス文明はスペイン人によって消滅しますが、その最後の国家となったのがインカ帝国です。有名な世界遺産のマチュピチュはインカ帝国の遺跡です。

アンデス文明が栄えた地域は基本的に雨が少ない乾燥地帯でした。そのため、限られた水を効率的に利用するための灌漑技術がアンデス文明では発達しました。また、山岳地帯では地形の高低差から起こる土砂の流出を防ぐために「段々畑」がたくさん作られました。ちなみに、段々畑はマチュピチュ遺跡でも見ることができます。



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アンデス文明は紀元前1000年頃にペルー北部に興ったチャビン文化から始まったとされている。代表的な遺跡のチャビン・デ・ワンタルは標高3200メートルのアマゾン川の源流に築かれ、擬人化したジャガーなどの石の彫刻や土器などが今でも遺されている。

その後の紀元後100年頃から500年頃まで、ペルー北部の海岸地帯にはモチェ文化が栄えた。モチェでは灌漑のためにたくさんの運河や貯水池が建設された。運河は数キロメートルに及ぶことも珍しくなく、ラ・クンブレ運河は100㎞以上もあったと言われている。

灌漑した農地には「グアノ」と呼ばれる肥料が施された。グアノとは、沿岸の島々に海鳥のフンや死骸、エサの魚、卵の殻などが堆積して化石化したもので、窒素やリンなどを大量に含んでいる。雨が少ない地域のため、フンなどが洗い流されずに積もり続けることでグアノができるのだ。ちなみにグアノは現代にいたるまで効果の高い肥料として使用され続けており、過去にはグアノをめぐって戦争まで起きた。

さて、このように灌漑とグアノで整えられたモチェの耕地では、トウモロコシやジャガイモ、インゲンマメ、キャッサバ、トウガラシ、キュウリなどが栽培された。また、漁で獲った魚や、家畜として育てたモルモットやアヒルを食料としていたという。

モチェ文化と同時期の紀元前後から800年頃まで、モチェ文化より南の海岸地帯では謎の地上絵で有名なナスカ文化が栄えていた。ナスカ文化でも優れた灌漑技術に支えられた農耕が行われており、トウモロコシやジャガイモ、サツマイモ、カボチャ、インゲンマメ、トウガラシ、アボカドなどが栽培された。

また、家畜としてリャマやアルパカ、モルモット、イヌが飼育されていた。リャマは主に荷物の運搬に使用され、時には生贄や食肉としても利用された。また、アルパカからは良質の毛が取られて衣服にされ、モルモットは食用にされた。

モチェ文化やナスカ文化と同じ頃にアンデス山中の高原地帯に生まれたと考えられているのがティアワナコ文化だ。ティアワナコ文化では巨石から造られた石造建築が特徴で、チチカカ湖近くの遺跡には巨大な一枚岩を削って造った「太陽の門」が遺されている。

ティアワナコ文化は1000年頃からアンデス高原だけでなく、海岸部などにも広がって行った。この文化の広がりにともなってアンデス一帯の地域性が薄れ、文明の均質化が進んだとされる。そして、これがこの地域を広く支配する国家形成の基盤となり、インカ帝国の誕生につながるのだ。

11世紀以降のアンデスでは小国が割拠し、お互いが競い合って勢力の拡大に努めた。その中の一つのクスコ王国がやがてインカ帝国となる。クスコ王国は12世紀頃にアンデス山脈にある標高3400mのクスコにおいてケチュア族(インカ族)が建てた小国だが、15世紀の中頃になって急速に勢力を拡大し、南北の全長が4000km、面積が100万㎢に及ぶ大帝国となった(ちなみに日本の国土面積は38万㎢)。

インカ帝国は広大な領域を統治するために、主要な地域の間を結ぶ「インカの道」を建設した。さらにこの道に沿って宿場が設けられ、健脚の「飛脚」を用いて中央と地方との情報伝達を行った。

インカ帝国の農耕については、征服者のスペイン人の記録に詳しく書かれている。

スペイン人が驚いた技術の一つが灌漑技術だ。ヨーロッパが見たことが無い精巧な石造りの水路がインカ帝国内に張り巡らされていたのだ。灌漑技術はモチェやナスカでも発達していたが、インカの時代にはさらなる発展を遂げていたと考えられている。

インカの灌漑技術に対してスペイン人たちは次のように述べている。
「この地域は砂漠地帯で雨量もわずかで草も育たないのに、トウモロコシや果物が豊かに実る。それは、山岳地帯から下る川の水を使って灌漑耕作がおこなわれているからである」

「谷ではトウモロコシが栽培され、2 度の収穫が行われるが、それでも豊作である」

スペイン人たちを驚かせたもう一つの農耕技術が「アンデネス」と呼ばれる段々畑を使った階段耕作である。段々畑は日本を含めて世界各地で見られるが、アンデスの段々畑は他に比べて精巧で大規模なものだった。この段々畑には灌漑が施されており、上の耕地から下の耕地へ緩やかに水が送られるため土壌の浸食が起こらず、長期間にわたって耕作を続けることができるのだ。

灌漑が行われた段々畑では主にトウモロコシが育てられた。そして、あの優秀な肥料のグアノが施された。グアノはとても貴重であったため、インカでは海鳥は厳重に保護されていたという。例えば、繁殖期には鳥がおびえて逃げ出さないように島への人の出入りを禁じており、もしこれを破ってしまうと死刑になった。また、一年を通して海鳥を殺した者も死刑になった。なお、海岸から遠くてグアノが手に入らないところでは魚の頭や人糞が使用された。

スペイン人の記録によると、トウモロコシの耕作地は水と肥料に恵まれていたので、毎年のように豊作が続いたという。

こうして大事に育てられたトウモロコシはもちろん食料に回された分も多かったそうだが、最も重要な用途が「チチャ」と呼ばれる酒の原料となったことだ。チチャは今でもアンデス地方でよく飲まれている酒だが、インカ帝国では神聖な飲み物として儀式には欠かせないものだった。インカの宮殿には若い女性が集められ、口噛み酒の要領でチチャを作っていたと言われている。

トウモロコシが神聖な穀物だったの対して、ジャガイモなどのイモ類がインカ帝国では一般的な主食として食べられていたと考えられている。ジャガイモなどのイモ類は無灌漑の畑で栽培された。イモ類の栽培にはトウモロコシほどの多量の水は必要ないので、灌漑設備は整えられなかったのだ。肥料としてはリャマやアルパカなどの家畜のフンが使用された。

なお、イモのキャッサバやキアヌからもマサトと呼ばれる酒がはるか昔から造られていた。モチェ文化の土器の中には、片手にトウモロコシ、もう一方の片手にキャッサバを持った神様の絵が描かれているものがあるという。もしかしたら酒の神様なのかもしれない。

このように栄華を誇ったインカ帝国はスペインの征服者ピサロによって征服され、1533年に滅亡した。

アステカの食とチナンパ-ヨーロッパ人到来以前の中南米の食(2)

2021-04-24 19:55:27 | 第四章 近世の食の革命
アステカの食とチナンパ-ヨーロッパ人到来以前の中南米の食(2)
コロンブスがアメリカ大陸に到達した頃の中南米において勢力を誇っていたのが「アステカ帝国」と「インカ帝国」です。アステカ帝国はメソアメリカであるメキシコ中央高原に築かれ、インカ帝国は中央アンデスである現代のペルー・ボリビア・エクアドルにまたがる地域で栄えていました。

この2つの帝国ではヨーロッパ人が驚くほどの高度な農業が営まれていました。2つの国では「水」の使い方が非常にうまかったため、作物の生産性がとても高かったのです。

今回はメソアメリカのアステカ帝国における食と農業について見て行きます。

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アステカ帝国は、15世紀前半から1521年までメキシコ中央高原に栄えたメソアメリカ文明に属する国家だ。アステカについてお話する前に、メソアメリカ文明について古代から見て行こう。

メソアメリカのメキシコ湾岸部では、紀元前1200年頃から紀元前後にかけてオルメカ文明と呼ばれる古代都市文明が栄えた。オルメカ文明ではさまざまな石像が作られ、絵文字や数字、暦などが発達していた。

一方、メキシコ中央高原では紀元前2世紀頃から7世紀頃にかけてテオティワカン文明が繁栄した。この文明は巨大な「太陽のピラミッド」や「月のピラミッド」などの石造建造物で有名であり、この古代都市には20万もの人々が住んでいたと言われている。


太陽のピラミッド(Michal JarmolukによるPixabayからの画像)

また、4世紀から9世紀にかけてユカタン半島ではマヤ文明が栄えた。マヤ文明では巨大な石造りのピラミッド神殿が築かれ、神々への供物として人間を「生贄」としてささげていた。なお、人を生贄にすることは当時のメソアメリカ文明や中央アンデス文明で広く見られた習慣だった。

7世紀頃から11世紀頃にかけて、メキシコ中央高原にはトルテカ文明が栄え、その影響を受けてマヤ文明は衰退した。そして11世紀頃からメキシコ北部の遊牧民チチメカ族が南部に移動して支配力を強めたが、その一部族であるアステカ族が建てたアステカ帝国が15世紀前半からメソアメリカにおける最大勢力になる。

アステカはメキシコ中央高原のテスココ湖内のテノチティトラン島を首都とした。その最盛期には当時の世界最大規模である30万人もの人口をかかえていたと言われている。なお、メキシコの首都であるメキシコシティはテスココ湖を含む盆地にあるが、現在のテスココ湖はほとんどが埋め立てられてしまっている。

アステカ帝国の主食はトウモロコシであり、日本のコメと同じように神聖視されていた。トウモロコシの穀粒の一粒一粒を大切にし、一粒でも捨て去ることは決して無かったと言われている。

メソアメリカではトウモロコシは主に植物の灰汁につけてから調理を行った。アルカリ性の灰汁につけることですり潰しやすくなるとともに、タンパク質などの栄養素が吸収しやすい形状に変わったり、灰汁中のミネラルが補充されたりするのだ。また、防腐効果もあったとされている。

灰汁につけたトウモロコシは粥か少しすり潰して蒸し団子(タマルという)にするか、しっかりとすり潰してから薄く延ばして焼いた「トルティーヤ」にして食べた。なお、様々な具をトルティーヤに乗せて二つに折ったものをタコス、巻いたものをブリートという。


タコス(JaimeAPによるPixabayからの画像)

アステカではこのほかに、インゲンマメ、カボチャ、トマトや、テスココ湖で獲れるエビ類などを食べていた。また、飲料としてはリュウゼツランから醸造されるプルケと呼ばれる酒が主なものだったが、重要な儀礼や祭事ではカカオから作られたショコラトルがふるまわれた。

香辛料としては主にトウガラシが使用され、また香料としてバニラも珍重されていた。ちなみに、トウガラシとバニラはショコラトルにも入れられていたと記録されている。

ところで、世界有数の人口を誇るアステカの都市を支えたのが「チナンパ」と呼ばれる農法だ。

チナンパとは湖や沼の上に水草を土台にした人工の浮島で農耕を行う方法で、浮島は水草の上にトウモロコシなどの茎や土、そして水路の底にたまった泥を積み重ねることで作られた。水路の泥は水草や家畜のフンが混ざって発酵したもので、栄養価が非常に高かったのである。

チナンパ農法ではたえず水が供給されると同時に栄養価の高い泥で作物を育てるため、高い収穫量が得られた。例えば、通常の農地ではトウモロコシの収穫量は1ヘクタール当たり3トン程度だが、チナンパスでは5トン程度と著しく多い。

また、年間を通して連続した耕作が可能で、1年間に3~4種類の作物が同じチナンパで栽培された。このような連続栽培を行うために作物ごとに苗床が準備されており、収穫が終わるとすぐに次の作物の苗が植えられることで効率的な耕作が可能だったのだ。

ちなみに、アステカ帝国が成立する以前からテノチティトラン島内にはチナンパが作られていたが、アステカが覇権を握るとチナンパの造成を推進することで増え続けた人口を養ったと言われている。中でもテスココ湖の南部にはたくさんのチナンパが造成されて、アステカの一大穀倉地帯となった。

ヨーロッパ人によって征服されてしまうアステカだが、農業に関してはヨーロッパよりもずっと進んでいたのである。

ヨーロッパ人到来以前の中南米の食(1)ーアメリカ大陸の新しい食

2021-04-22 23:35:09 | 第四章 近世の食の革命
4・2 アメリカ大陸の新しい食
ヨーロッパ人到来以前の中南米の食(1)
「ラテンアメリカ」という言い方がありますが、これはコロンブス以降にスペインとポルトガルが中南米を支配した結果、使用する言語や文化がラテン系(イベリア系)になったからです。また、スペインとポルトガルがカトリック国であったことから、ラテンアメリカではカトリックの信者が大部分を占めています。

それに対して北米はアングル人が基礎を築いたイギリスが支配したため「アングロアメリカ」と呼ばれます。そしてイギリスはプロテスタント国であったため、北米では大部分をプロテスタントが占めています。

さて、今回はスペインとポルトガルによって支配される以前の中南米の農作物について見て行きますが、もしアメリカ大陸が無かったら、世界の料理は今日とはかなり違ったものになっていたことが分かるはずです。

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現在のアメリカ大陸はベーリング海峡によってアジア大陸(ユーラシア大陸)と隔たれているが、氷期には今よりも海面がずっと低く、両大陸は「ベーリング陸橋」でつながっていた。そして動物はこの期間はベーリング陸橋を通って両大陸間の行き来ができていたのだ。例えば、アフリカを出発した人類(ホモ・サピエンス)は約1万6千年前に陸橋を渡ってアメリカ大陸に進出したと推定されている。

ところが約1万4千年前に最後の氷期が終わるとベーリング陸橋が消失し、アメリカ大陸の生物はアジア大陸とは異なる独自の運命をたどることになった。この時、大型の哺乳類にとって不運だったことが人類の存在だ。北アメリカ大陸では氷期が終わる頃からほとんどの大型哺乳類が人類に狩り尽くされて絶滅したと考えられているのだ。

例えば、ウマの祖先はアメリカ大陸に出現し進化を重ねていたが、ベーリング陸橋を通ってアジア大陸に渡った一部だけが現在のウマに進化し、アメリカ大陸のものは絶滅した。一方、マンモスなどのゾウの仲間はアジア大陸からやって来たが、そのすべては氷期が終わると絶滅した。

アジア大陸と同じようにアメリカ大陸でもしばらくの間狩猟採集の時代が続いた後、農耕が開始された。その中心となったのはメソアメリカ(現在のメキシコ南部と中央アメリカ北西部にまたがる地域)と南アメリカ西部の中央アンデスだった。



メソアメリカでは紀元前6000年頃から原始的な農耕が始まったと考えられている(諸説ある)。メソアメリカにおける主要な作物は「トウモロコシ」で、この本格的な栽培も紀元前6000年頃から開始されたと推測されている。

トウモロコシはテオシントという雑草から栽培化された。テオシントには十粒程度のかたい皮によっておおわれた穀粒がついているが、栽培化によってかたい皮が無くなって食べやすくなるとともに穀粒の数も数十粒まで増えた(現代のトウモロコシには500粒以上の穀粒がついている)。その後トウモロコシは高い栄養価と育てやすさからアメリカ大陸全体に広まって行った。メソアメリカ文明のマヤ文明には人間はトウモロコシから作られたという神話があった。

メソアメリカはトウモロコシのほかに、カボチャの原産地でもある。その栽培は紀元前8000~6000年に始まったと推定されており、トウモロコシの栽培よりも早い。しかし、カボチャの栽培化は狩猟採集時代から徐々に進行したと考えられており、人類が時間をかけて美味しくて栄養価の高い品種を作り上げたのだろう。

また、トウガラシとカカオ、アボカド、パパイヤもメソアメリカが原産地だ。なお、トウガラシとカカオについては後ほどあらためて詳しくお話したいと思う。

一方の中央アンデスでは紀元前5000年頃から原始的な農耕が始まったとされている。中央アンデスでの主な作物はジャガイモであり、ジャガイモの栽培化も紀元前5000年頃である。

ジャガイモの先祖は高度4000メートルに育つ雑草だったと考えられている。緯度が低いとは言え高地のため低温で植物が育ちにくく、食料にできる植物は根にデンプンをためるイモの仲間くらいしか無かったと言われている。

しかし、イモの欠点は毒を持つことである。イモは根や地下茎で増えるので動物に食べられると死んでしまう。それを防ぐために毒を持つのが一般的なのだ。人類は、水でさらしたり、乾燥させたり、低い外気で凍らせたりすることでイモから毒抜きをする方法を見つけ出した。さらに、栽培化によって毒が少なくて大きく育つジャガイモを作り出して行ったと考えられている。

また、サツマイモも紀元前3000年頃から栽培が始まったとされている。ジャガイモが標高3000メートル以上の高地に適しているのに対して、サツマイモは標高2000メートル以下に生育する。なお、サツマイモにはジャガイモのような毒はない。

タピオカの原料となるキャッサバも現在のブラジル西部などを原産地としており、栽培化は紀元前8000年頃と推定されている。ただし、栽培の最古の証拠が残っているのは西暦700年頃のメソアメリカのマヤ文明遺跡である。キャッサバはコロンブスがやって来た頃には西インド諸島や南アメリカの北部、中央アメリカの南部において主食となっていた。

国連食糧農業機関の統計によると、2019年のイモ類の世界総生産量は、1位がジャガイモ(約3億7400万トン)、2位がキャッサバ(約3億400万トン)、3位がサツマイモ(約9200万トン)となっており、南米で生まれたこれらのイモ類が人類の食糧として重宝されていることがよくわかる。

また、中央アンデスはトマトの原産地でもあるが、その栽培化の時期についてはよく分かっていない。コロンブスがアメリカ大陸に到達した時には主にメソアメリカのアステカで栽培されていたという。 

ラッカセイやパイナップルも原産地は南アメリカ大陸である。ラッカセイもパイナップルも15世紀末にはアメリカ大陸で広く栽培されていた。

以上見てきたように、アメリカ大陸は私たちになじみのあるたくさんの食べ物の原産地であり、もしアメリカ大陸が無かったら、私たちの食卓はとても寂しいものになっていたはずだ。

ヨーロッパの奴隷の歴史-大航海時代のはじまりと食(5)

2021-04-16 18:20:15 | 第四章 近世の食の革命
ヨーロッパの奴隷の歴史-大航海時代のはじまりと食(5)
今回は人類史の暗部ともいえる奴隷の話です。

中世までのヨーロッパ各国の国力は、イスラム諸国や中国などに比べてかなり見劣りするものでした。それが近世に入るとヨーロッパの力が徐々に大きくなり、他の地域と肩を並べるようになります。その原動力の一つとなったのが奴隷だと言われています。多数の奴隷を植民地で使役することで農作物などの大量生産が可能になったのです。

例えば、アメリカ大陸へはアフリカから膨大な人数の奴隷が運び込まれましたが、彼らを綿花やサトウキビのプランテーションの労働力として利用することで莫大な富を築くことができました。

ところで、奴隷を使役することは大航海時代になって急に始まったことではなく、古代から行われてきました。今回は少し歴史をさかのぼって、ヨーロッパにおける奴隷の歴史について見て行きます。

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奴隷制は古代社会では一般的だった。古代ギリシアや古代ローマでも奴隷は普通の存在で、特に古代ローマでは初期から末期まで奴隷が重要な労働力として利用されていた。例えばローマ時代初期には、ローマ市民は少なくとも一人の奴隷を持つのは当たり前だった。彼らに日常の身の回りの世話をしてもらうことが一般的に行われていたのである。

また、学問に精通したギリシア人奴隷を家庭教師や医師などとして雇うことも多かったし、下級の役人や農場・鉱山の労働者などのほとんどは奴隷だった。円形劇場で戦う剣闘士も奴隷だった。生活する上でも娯楽を楽しむ上でも広大なローマ帝国では奴隷の力が必要不可欠だったのだ。

このような奴隷にされたのは、戦争で捕虜として捕まった者や奴隷が産んだ子供、捨て子などの身寄りのない子供たちだったが、借金を返済するためにローマ市民が身売りをして奴隷になることもあった。

なお、この頃の奴隷の生活は大航海時代の黒人奴隷ほど過酷ではなく、特に都市部の奴隷には財産権があり、高度な専門職には高額の手当てが支払われていたという。また、真面目に仕事をしていれば奴隷から解放されて自由民になる者も多かった。

ローマ帝国の後の中世のヨーロッパ世界で支配者になるのはゲルマン民族だが、大移動前の彼らの社会にも奴隷制が存在していた。すなわちゲルマン民族の古い社会は、少数の貴族、自由民、非自由民、奴隷という4つの身分によって構成されていたのだ。

ゲルマン民族の大移動によって成立したフランク王国や、その後を引き継いだフランス、ドイツ、イタリアなどでは領主を頂点とする封建社会が築かれた。この封建社会を支えていたのが農奴制だ。農奴は領主の支配を受け、荘園内に縛り付けられた存在で、奴隷に近い身分で農作業を行った。農奴には若干の私有財産が認められていたため、ローマの都市部の奴隷に似ていたと言える。

一方、中世にはヨーロッパ世界からイスラム世界に向けて大量の奴隷が輸出されていた。中世初期のヨーロッパは、衣類や穀物、香辛料、ワイン、パピルスなどを東方からの輸入に頼っていたが、一方でヨーロッパから輸出できるものとしては木材や染料、毛皮、そして奴隷くらいしかなかったためだ。しかし、キリスト教徒がキリスト教徒を奴隷にすることは禁じられていたため、他教徒(他民族)を捕らえて奴隷として売り渡していた。ちなみに、「slave(奴隷)」という言葉は、955年にドイツがマジャール人との戦いで多数のスラブ人(slavs)を捕まえて奴隷にしたことから来ている。

このような奴隷の貿易を行っていたのが、ヴェネツィアやジェノヴァなどの湾港都市やユダヤ人の商人だった。彼らはヨーロッパの各国から買い集めた奴隷を、中東や北アフリカ、イベリア半島のイスラム教国に運んで売っていた。また、北欧のヴァイキングたちも街を襲って捕らえた人々を奴隷としてイスラム教国に売却していた。なお、男の奴隷についてはイスラム世界に運ぶ前に宦官にする去勢手術が行われることが多かったそうだ。

イスラム世界で奴隷は兵士や身の回りの世話役、性的な対象として使役させられていた。ローマ帝国のように解放されて自由民になる者も少なくなく、その中には立身出世して軍の司令官などの要人になった者もいる。また、オスマン帝国の最高権力者スルタンの母は奴隷出身者がほとんどで、当然そうなると非常に高い身分となった。ちなみに、イスラムでは母の出自によって子供が差別されなかったことと、母方の血筋からの影響を排除するために奴隷の子を世継ぎにしたと言われている。

奴隷貿易を盛んに行っていたジェノヴァはヴェネツィアとの地中海の覇権争いに敗れるとポルトガルに接近し、その後援者となってポルトガルの海外進出の手助けをするようになった。そのポルトガルは大航海時代の初めはアフリカ西沿岸の海域を南下して航路の探索を行っていたが、それと同時にアフリカ西岸部に上陸して金目の物も探していた。そうしてギニア湾岸に上陸して出会ったのが黒人の部族同士の争いで生まれた奴隷だった。ポルトガル人はその奴隷を買い取るとともに、特定の部族に銃などの武器を渡すことでさらに多くの奴隷を獲得して行った。



こうして集めた奴隷を使って、ポルトガル人はアフリカ西岸域の島々でサトウキビのプランテーション経営を行うようになった。プランテーションに必要な膨大な労働力を黒人奴隷が担ったのである。そしてこの方式は、その後のブラジルにおけるサトウキビのプランテーションにも採用された。西洋人がアメリカに侵入してからしばらくすると、アメリカ大陸の原住民は西洋から持ち込まれた伝染病によって次々と倒れたため、現地の労働力が不足したからである。

このようにギニア湾岸で奴隷を集めてプランテーション農場で働かせるやり方は、スペインやオランダ、イギリス、フランスも追従することになる。特にイギリスは大量の奴隷を使役することで莫大な富を得た。こうして19世紀までに1000万人以上の黒人が奴隷としてプランテーション農場に投入されたと見積もられている。そして、アフリカでは著しい人口減少が起こり、これが今でもアフリカが停滞している原因の一つと言われている。

ちなみに、日本人も大航海時代にポルトガル人によって奴隷として日本から船で運び出され、ポルトガルだけでなく世界の各地で売却されていた。その時代のヨーロッパ人にとって珍しい日本人は金儲けができる商品の一つだったのだろう。なお、豊臣秀吉が1587年にバテレン追放令を出した理由の一つは、ポルトガルに日本人奴隷の貿易をやめさせるためだったと言われている。