食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

古代ローマ人の食事(2)タベルナとポピーナ

2020-06-30 16:51:01 | 第二章 古代文明の食の革命
古代ローマ人の食事(2)タベルナとポピーナ
古代ローマでは一戸建ての邸宅「ドムス」に住めるのは一握りの上流階級の人々だけで、中流階級以下の庶民は「インスラ」と呼ばれる6~7階にもなる集合住宅で生活していた。インスラのそれぞれの部屋には台所は無く水道も来ていなかったので、家では料理はほとんどできなかった。そこで食事は、買ったりもらったりした簡単なもので済ませるか、家の外に食べに行くかのどちらかだった。このような人々のために街中にはたくさんの飲食店が食事を提供していた。

インスラの1階部分は店舗になっていて、ここに古代ローマの小売店の「タベルナ」が入っていることが多かった。多くのタベルナが調理済み食品やワイン、パンなどを売っていたが、オリーブオイル、魚介類、果物などの販売を行うものもあった。また、穀物などの配給もタベルナで行われていた。宿泊施設を持ったタベルナも存在していて、他都市からのまともな旅行者は後述するポピーナではなく、タベルナに泊ったのだろう。現在、ローマの観光スポットの一つになっているトラヤヌスの市場(写真)は西暦100年頃に作られた世界で初めてのショッピングモールで、たくさんのタベルナが軒を連ねていたと考えられている。

ローマのトラヤヌスの市場

料理を売っていたタベルナには石とセメントで作られたL字型のテーブルがあり、そこに料理を入れておくカメが埋め込まれていた。カメの周りはレンガで覆われているので保温効果があり、食べ物を温かいまま、あるいは冷たいまま保っておくことができた。客は、カメの中身を見て、食べるものを決めたのだろう。注文を受けるとカメからしゃもじなどで器に移し、客に提供した。また、小さいオーブンもあり、焼き立ての肉や煮込み料理も出されていたようだ。店の中にテーブルとイスが置かれている場合にはそこで食べることができたし、無い場合は立ち食いしたり、家に持って帰って食べたりした。

タベルナでよく食べられたのが「プルス」と呼ばれるムギがゆだ。これは庶民や兵士にはおなじみの料理で、オオムギやエンムギをおかゆにして、オリーブオイルやガルム、塩などで味付けをしたものだ。現代の牛丼のように、サクッと食べられて腹持ちが良い一品だったのだろう。プルスにはインゲンマメやエンドウマメが添えられることが多かった。これ以外には、煮た豚肉や串焼きなどに人気があったようだ。また、パンやゆで卵、オムレツ、チーズやサラダなど、現代の軽食とあまり変わらないものが提供されていた。

古代ローマにはタベルナ以外に「ポピーナ」と呼ばれる泊り部屋付きのワインバーがあった。ここでは様々なワインを飲みながらパンやシチューなどの簡単な食事ができた。利用者は主に奴隷や外国人など下層階級層であり、売春や賭博が日常的に行われていたと言われていてトラブルの巣窟になっていた。このように飲酒・売春・賭博の三つが結びついたのは古代ローマが最初とされている。

ちなみに、この頃の賭博にはサイコロ(ダイス)が使用されていた。6つの目がランダムに出るため賭博性がとても高くなり楽しくなるのだ。サイコロを使った賭博に上は皇帝から下は奴隷までが熱中し、度々禁止令が出された。とは言っても国のトップが熱中するくらいなのであまり効果はなく、多くの人が隠れてやっていただろうし、祭りでは奴隷も含めて賭博が許されたようだ。

古代ローマ人の食事(1)祭りと生贄

2020-06-28 10:43:17 | 第二章 古代文明の食の革命
古代ローマ人の食事(1)祭りと生贄
古代ローマ人の一日は夜明けとともに始まった。電気が無い時代なので、太陽の光の下で生活するのが一番効率的なのだ。そこで、夜の始まりと共に床につき、夜明けとともに活動を始める生活を送っていた。もっとも、オリーブオイルを燃料にしたランプは富裕層でよく使用されていたのだが。

ローマ人の朝の食事はイェンタクルムと呼ばれ、無発酵のかたいパンをくだいて、ワインや水、ミルクに浸して柔らかくして食べた。ローマ人の規範として朝からガッツリと食べるのは良くないこととされていて、質素に済ませるのが普通だった。屋台で蜂蜜入りのスナック菓子が売られていて、それを買って食べることもあったようだ。

家に食べ物が無くて、屋台でお菓子を買うゆとりもない人はパトローヌス(平民保護貴族)と呼ばれる庇護者のところに行けば食べ物とちょっとした贈り物がもらえた。食べ物はそのまま食べてもいいし、後で食べても良かった。また、贈り物は市場で他の物と交換したり、売ったりできた。庇護者の上にはその庇護者がいて、それぞれ下の階層の者に施しをすることで、必要とする時にしもべとして働いてもらっていた。これは、属州からローマに入って来る富の分配システムであるとともに、社会を安定化させるための統治システムであったのだろう。詩人ユウェナリスは古代ローマの社会を「パンとサーカス」と表現したが、これは権力者が市民にパンとサーカス(見世物)を無料で提供することで人心を掌握していたことを表している。

とにかくローマ市民であれば毎日の食は保証されていたし、労働は奴隷が行っていたので、一日自由気ままに暮らせた。後はどうしたら楽しく暮らせるかだけだった。そんなローマ人の暮らしの中で重要だったのが「祭り」だ。古今東西「祭り」は非日常的でとても楽しい催しものだ。基本的に祭りは神々を讃えるために行われる儀式で、そこには必ずお供え物がある。お供え物は神々に奉納されたのちに、人々におすそ分けされる。日本でも神社の祭祀の後に奉納したお酒や食べ物をいただく「直会(なおらい)」という行事が必ず行われる。

古代ローマのお祭りでお供え物の中心になっていたのが「生贄(いけにえ)」だ。古代ギリシアの人々も行っていたことなのだが、流血をともなう家畜の犠牲を神々にささげることがとても重要視されていたのだ(野生の動物は使用されなかった)。このため、古代ローマの初期には「敬虔な人」は「ポリュテレス(生贄をささげる人)」と呼ばれた。

神の意志によって執り行われる生贄の儀式では、動物自身が喜んで犠牲になる必要があったので、犠牲になることをうなずくことで承諾した動物だけが犠牲になったという(うなずくまで静かに待った)。生贄は祭壇に運ばれ、頭を打たれて殺された後すぐにのどを切られて血が流されたそうだ。その後生贄の体の一部が燃やされて神にささげられた。

儀式が終わると生贄は料理されて人々に配られる。普段は肉を食べられなかった庶民にとって祭りは肉にありつける、とっておきの場だった。一方、権力者にとっては、庶民の人気を得るための格好の場になった。このため、古代ローマにおける祭りの数はどんどん増えて行って、第4代皇帝のクラウディウス(在位:西暦41年~54年)の時には一年間の祭りの数が160にもなったという。そして、この頃には、敬虔な人ポリュテレス(生贄をささげる人)は「大食漢」を意味するようになっていた。なお、第3代皇帝のカリギュラ(在位:西暦37年~41年)の即位を祝う祝賀儀式では、16万匹もの家畜が犠牲になったと伝わっている。

サートゥルヌス神(ライセンス

古代ローマで最も大きな祭りの一つが、農耕神のサートゥルヌス(ギリシア神話のクロノス)を祝した「サートゥルナーリア祭」だった。この祭りは12月17日から12月23日までの1週間を通して行われ、奴隷も一緒になって大量に飲み食いし、乱痴気騒ぎをして過ごしたという。祭り好きという点でも日本人はローマ人に似ているところがあるように思える。


古代ローマの食材(7)ハーブと香辛料

2020-06-26 15:26:53 | 第二章 古代文明の食の革命
古代ローマの食材(7)ハーブと香辛料
古代ローマ人が食べた料理には大量のハーブや香辛料が入っていた。ガルムにも大量のハーブと香辛料が使われていた。このため、古代ローマ人の食べ物は現代のイタリア料理やフランス料理などの西洋料理と比べるとかなり味が濃くて、においも強烈だったと考えられる。このような味の好みはローマ帝国の滅亡とともにヨーロッパから消えてしまったように見える。今回は、古代ローマ人が大量に消費したハーブと香辛料について見て行こう。

まずはハーブだ。ハーブは主にイタリア半島や近隣の支配地で自生あるいは栽培されたものが使用されていた。古代ローマ人は、セロリ、ローリエ、バジル、ミント、コリアンダー(パクチー/香菜)、タイムのような私たちが今日でも口にすることのあるハーブや、ラビッジ(セリ科の植物)やヘンルーダ(ミカン科の植物)のような今ではほとんど使われなくなったハーブ、そしてローマ人が絶滅させてしまったラーセルピティウムなどたくさんの種類のハーブを料理に使用していた。

なお、ラーセルピティウムは古代ローマ人にとても人気のハーブで、高値で取引されていたらしい。もともとは北アフリカにたくさん自生していたが、栽培は不可能で、ローマ人が大量に採取したために一株を残して絶滅してしまった。そして最後の一株は第5代ローマ皇帝ネロ(在位54~68年)が食べてしまったという。

ハーブは料理に入れて香りや辛味などを楽しむだけでなく、病気の予防や治療にも効果があるとされていた。例えばミントは、扁桃腺や鼻づまり、吐き気に効くとされた。当時の医療は食事療法と呼ぶべきもので、これが中世までの西洋医療の根幹を成していた。

香辛料(スパイス)もハーブと同じように、風味付けに使用されるだけでなく、健康になるために料理に入れられた。料理に使わずに、そのまま口にすることもあったらしい。

現代でもよく使われているマスタードとクミン(現代のトルコ料理やスペイン料理、インド料理によく使われる香辛料)は古代エジプトから栽培されている香辛料で、古代ギリシアを経由して古代ローマに持ち込まれたと考えられる。そして、古代ローマ人によって、属州だったガリア(フランス)やスペインなどに広められた。

西暦1世紀になると、ローマ帝国は下図に示すようにオリエント(メソポタミアやエジプト)を含む広大な支配地を獲得する。オリエントは紀元前2000年より以前からインダス文明と船を使った交易を行っていた。そして1世紀頃には、インド洋とそれより東方の南シナ海沿岸地域や中国とを結ぶ海の交易網が構築されていた。一方、内陸部にはシルクロードを始めとする中国と中央アジア、そしてオリエントを結ぶ陸の交易路が存在していた。このような海と陸の巨大な交易網にローマ帝国が参入したのだ。なお、船を使った交易は、ローマの配下になったギリシア系の商人が担うことになった。



インドは香辛料の一大産地である。香辛料の中でもコショウがもっともよく利用されてきた。コショウの木はつる性の20年以上生きる熱帯性の植物で、1本の木から約2キログラムのコショウの実が採れる。実を収穫する時期やその後の処理の違いによって、黒コショウ(ブラックペッパー)、白コショウ(ホワイトペッパー)、青コショウ(グリーンペッパー)、赤コショウ(ピンクペッパー)になる。この中で代表的な黒コショウは、赤く色づきはじめる直前の緑色の実を果皮ごと天日に干して黒くなるまで乾燥させたものだ。また白コショウは、赤く熟した果実を1週間程水につけて外皮を柔らかくしてはがし、白色の実のみにして乾燥させたものだ。黒コショウは肉料理に合い、白コショウは魚料理に合うと言われている。世界中でこれほど使われている香辛料は他には無いことから、コショウの風味は人類の嗜好にぴったり合っているのだと思われる。

紀元前4世紀のギリシアの書物にはコショウのことが記されているので、この頃にはオリエントを介して地中海にもコショウが伝えられていたのだろう。このため、古代ローマの上流階級の人々もコショウの魅力に触れていたと思われる。そして、オリエントを支配したローマ人は先にお話しした交易網を使って、コショウを始めとする香辛料をインドから大量に購入することになる。交易を開始した頃はコショウ以外に、シナモン、カルダモン、ショウガを輸入した。少し遅れてクローブ、ナツメグ、ニクズクなども購入したようである。

ちなみに、香辛料以外には中国製のシルク製品や香料、真珠、宝石などを輸入していた。そして、その代価として金貨を支払っていた。ローマ帝国には豊かな東方世界に輸出できるような産物は無かったので、エジプトなどから徴収した金から作った金貨を使かったのである。プリニウス(西暦23~79年)は「博物誌」において、ローマ帝国は香辛料と絹のために、中国・インド・アラビア半島に年間に少なくとも1億セステルティウス(1000億円くらい?)を支払っていると記している。現在、インドの各地からローマ時代の金貨などが出土すること見ると、当時の交易はとても盛んであったのだろう。

またプリニウスは、1ポンド(約450グラム)の黒コショウは16セステルティウス(16000円くらい)で、白コショウは28セステルティウス(28000円くらい)と記している。現代の日本で買うと10分の1くらいの値段なので、ものすごく高かったというわけではなかったようだ。

さて最後に、「アピキウス」から半熟ゆで卵にかける「松の実ソース」のレシピを紹介しよう。

   松の実ソース(小さい半熟卵4個分)
    ・すりつぶした松の実  200グラム
    ・挽いたコショウ    小さじ2杯
    ・蜂蜜         小さじ1杯
    ・ガルム        大さじ4杯
    すべてを混ぜ合わせて卵にかける。


古代ローマの食材(6)ローマは果物の帝国

2020-06-24 09:37:42 | 第二章 古代文明の食の革命
古代ローマの食材(6)ローマは果物の帝国
現代のイタリアは果物の一大産地である。リンゴ、洋ナシ、モモ、サクランボ、メロン、ブドウなどは世界でもトップクラスの生産量を誇る。土壌や気候が果実の栽培に適しているのもあるが、古代ローマ時代からイタリア半島の人々が果物を育てることに並々ならぬ情熱をかたむけてきたことも、この大きな要因になったと思われる。

実は先に挙げた果物は、古代ローマの時代から栽培が行われていたものたちだ。古代ローマ人はさまざまな果物の品種改良を進めるとともに、それぞれの果物に適した栽培技術を確立していった。この栽培技術の中で最も重要なものが「接ぎ木(つぎき)」だ。

接ぎ木(greffe)の語源は短剣を意味するギリシア語の「graphion」であるとされる。接ぎ木では、芽を付けた小枝が基の部分で斜めに切られて短剣のようになったものが、あらかじめ裂いておいた樹の幹か枝に差し込まれるため、このような命名になったと考えられる。

接ぎ木で差し込まれる方の木を台木と呼び、差し込む方を穂木と呼ぶ。接ぎ木をすることで丈夫さや水分・栄養分の高い吸収力という台木の長所と美味しい実をつけるという穂木の長所をあわせ持った木を得ることができる。つまり、土壌に合わない木でも適当な台木が見つかれば栽培できるのである。

また、接ぎ木によって同じ性質を持つクローンをどんどん増やすことができるので、良い果実をつける樹を一つ見つけるだけで、その果実を大量に収穫できるようになるという利点もある。

このように接ぎ木はとても優れた栽培法であるため、現代の日本ではほとんどの果樹栽培で接ぎ木が利用されている(ちなみに、日本一有名な桜のソメイヨシノも江戸時代に誕生した1本の樹を接ぎ木によって増やしていったものであり、すべてのソメイヨシノの樹が同じ遺伝子を持つクローンだ)。

接ぎ木がどこで始まったのかは定かではないが、語源にもなっているように、少なくとも古代ギリシアではすでに始まっていたようだ。しかし、接ぎ木の技術を飛躍的に進歩させたのは古代ローマ人であり、彼らによって現代でも通用する接ぎ木の技術が確立されたと言っても過言ではない。ローマ初の公共図書館を作ったウァロは、接ぎ木の技術を活用したため、イタリアは広大な果樹園と化したと述べている。

ローマ人は実に果物好きだった。野生のもので美味しそうなら何でも食べた。さらに、研究を重ねてより美味しい果物を作り出すことに熱中した。とにかく美味しいものに目が無かったのである。

古代ローマには果物屋があり、どんな人でも簡単に果物を手に入れることができた。果物は生で食べたり、ジャムにしたり、料理の具材に使われたりした。豚肉のシチューに角切りにしたリンゴを加えて、さっぱりとした酸味を効かせた、いかにも美味しそうなレシピが残されている。



古代ローマの主要な食事のケーナは「卵で始まりリンゴで終わる」と言われたように、リンゴは古代ローマ人にとても愛された果物だった。栽培されているリンゴの起源は中央アジアと言われていて、遊牧民の移動と共にヨーロッパや中国などに伝わったと考えられている。遊牧民は移動先でリンゴを植えていったようで、彼らが通った道にはリンゴの木が並んでいると言われる。

ヨーロッパではスイスで約4000年前の遺跡からリンゴの化石が見つかっている。紀元前9世紀には古代ギリシアで接ぎ木によるリンゴ栽培が始まった。これが古代ローマに伝わるとともに、ギリシア南端のペロポネソス半島から「アピ」というリンゴの改良種が持ち込まれることで、古代ローマにおけるリンゴ栽培の一大ブームが始まった。紀元前2世紀頃のことである。古代ローマ人は交配を重ねることで様々な品種を生み出し、その数は30種類を超えたと言われている。

ところで、古代から中世にかけて栽培されていたリンゴは直径3センチメートルほどの小さなもので、今のような大きなリンゴは16世紀になってイギリスで生まれた。これが移民と共にアメリカに広まり、品種改良が盛んにおこなわれた結果、今のような甘くて大きなリンゴになった。

古代ローマの食材(5)ガルム(古代ローマ人が愛した調味料)

2020-06-22 08:24:21 | 第二章 古代文明の食の革命
古代ローマの食材(5)ガルム(古代ローマ人が愛した調味料)
古代ローマの食事を語る上で「ガルム」ははずすことができないものだ。ガルムは現代の日本のしょうゆに相当するもので、食材と言うより調味料と言う方が適切だろう。古代ローマ人はこのガルムを色々な食材につけて食べたり、料理やワインの風味付けに利用したりした。

ガルムは魚を塩漬けにして発酵させた魚醤の一種で、日本のしょっつるやタイのナンプラー、ベトナムのニョクマムの仲間だ。前回の魚介類の話で風味付けに使用されていた魚醤が、このガラムのことだ。ガラムは、もともと古代ギリシア人が作っていた魚醤の「ガロン」を古代ローマ人が取り入れたものだと考えられている。

魚醤は、魚を塩で漬け込み、長期間発酵させることによって作られる。発酵中に、魚のタンパク質が魚の身に含まれる消化酵素によって分解されてアミノ酸になり、独特の旨みが生まれる。大豆タンパクが分解されることでできたしょうゆは旨味アミノ酸のグルタミン酸やアスパラギン酸が豊富だが、魚醤にもこれらが多く含まれており、旨味の中心となっている。魚醤の成分に特徴的なことが、少し苦味のあるアミノ酸のリシンとアルギニンを多く含んでいることだが、これらが独特の「コク」を生み出していると考えられている。

ところで、このリシンは人が体の中で作ることができないため、食べ物から補給しないといけない(このようなアミノ酸を必須アミノ酸と呼ぶ)。古代ローマ人はパンをよく食べたが、コムギなどの穀類にはリシンが少ないという特徴がある。このため、パンばかり食べているとリシン不足におちいる。古代ローマでは兵士たちに水で割ったガルムを飲ませていたというが、欠乏しやすいリシンを補って体の状態を良くするという効果に気づいていたのかもしれない。

さてここで、西暦2世紀に記されたガルムの作り方を紹介しよう。

① サケやウナギ、イワシ、ニシンなどの脂が多い魚と乾燥ハーブ、そして塩を用意する。
② 30リットル程度の防水の壺を用意し、その底にハーブをしきつめる。
③ その上に小さい魚は丸ごと、大きい魚は細切れにして層になるようにしきつめる。
④ その上に塩を2センチメートル程度の厚さになるように加える。
⑤ このように三つの層を交互に積み重ね、壺のてっぺんまで満たしてフタをする。
⑥ 7カ月間置く。
⑦ フタを開けて20日間毎日よくかき混ぜる。
⑧ 中身をこして、したたり出てきた液体を集めて出来上がり。なお、ガルムを採った後のカスは「アレック」と言い、これも料理に使用された。

ガルム作りには魚の内臓もよく使われたようだ。なお、ガルムを作っている間はひどい臭いがするため、ガルムは人の少ない都市の郊外で生産した。イベリア半島や南ガリアなどの新鮮な魚が手に入りやすい海岸付近にはガルムを大量に生産する工場がたくさん作られた。

出来上がったガルムは専用のアンフォラに入れられて輸送された。リヨン湾に沈んだ古代ローマ時代の輸送船の調査から、少なくとも紀元前5世紀にはガルムの輸送が行われていたことが分かっている。

ガルムには王侯貴族から奴隷用までのいろいろな等級があった。等級の高いガルムには高い値段が付いた。カエサルの時代には、3リットルで500セステルティウス(約50万円か)の値段が付いたガルムがあったそうだ。