食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

缶詰の歴史-アメリカの産業革命と食(6)

2022-04-27 17:21:16 | 第五章 近代の食の革命
缶詰の歴史-アメリカの産業革命と食(6)
昔、アメリカのスーパーマーケットで買い物をしたときに、日本では見かけないホウレンソウの缶詰を見つけて購入したことがあります。アニメの『ポパイ』を思い出したからです。アニメでは主人公のポパイがホウレンソウの缶詰を食べると怪力を発揮していました。

部屋に戻って缶詰のフタを開けると、水煮したホウレンソウが入っていました。どうして食べようかと思いましたが、ポパイが缶詰のホウレンソウをそのまま食べていたため、私もそうしてみました。しかし、味付けがほとんどされていないため、食べるのに苦労した記憶があります。

実は、アメリカなどでは、ホウレンソウの缶詰はトマトケチャップと混ぜてパスタのソースにしたり、他の野菜と混ぜてサラダにしたりなど、料理の材料として使用されるようです。

さて、今回は缶詰の歴史について見て行きます。

缶詰は保存食のイメージが強いです。美味しく食べられる賞味期限は2~3年ですが、保存状態が良ければ10年以上は安全に食べられるそうです。ただし、膨らんできた缶詰は中で微生物が繁殖している可能性があるので、食べてはいけないとされています。また、膨らんだ缶詰を開けようとすると破裂することがあるので、注意が必要です。



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缶詰は、びん詰に使用される重くて割れやすいガラス容器を金属製に変えるというアイデアから生み出された。1810年にフランス人のフィリップ・ド・ジラールがロンドンで、このアイデアで特許を取得した。

この特許は、イギリスのブライアン・ドンキンとジョン・ホールに売却された。彼らは研究を進め、腐食されにくく毒性のない錫(すず)でメッキした錬鉄(れんてつ)製の密封缶で食品を包装する方法を開発した。

なお、錬鉄とは鋼鉄が作られる前に使用されていたもので、炭素の含有率が鋼鉄よりも高いため、鋼鉄よりももろかった。そのため、その頃の缶容器は今よりもずっと厚手で重かったという。

当初、缶は手作りで、つなぎ目ははんだで接合されていた。この缶に食品を詰め、底と同じ円形のブリキ板をその上に置いてはんだ付けして、これを沸騰水のなかに入れて内容物を十分加熱し、膨張した蓋に小孔をあけて脱気し、最後に缶がまだ熱いうちにこの小孔をはんだで塞いで缶詰とした。この作業には時間と労力がかかり、1つの缶詰を作るのに約6時間かかったと言われている。そのため缶詰はとても高価で、この時期の主な販売先は保存食を必要とする軍隊などに限られていた。

また、初期の缶詰は開けるのがとても大変だった。現在のような缶切りはまだなく、缶詰の説明書には「ノミとハンマーで外周近くの上部を丸く切りなさい」と書かれていたという。軍隊などでは銃で撃って開けることもあったらしい。

アメリカには1819年に缶詰の製造法が伝えられたが、殺菌や密封が不十分で腐るものも多かったため、人々の信用度が低く、あまり売れなかった。それでもアメリカで缶詰の製造技術の改良が進み、単位時間当たりの生産数は徐々に増えて行った。1860年代には、1個当たりの製造時間が当初の約6時間から30分に短縮されたという。

アメリカで最初に商業的に成功した缶詰は、1857年に販売が開始されたゲイル・ボーデン(アイスクリームのボーデン社の創業者)のコンデンスミルク(濃縮牛乳)だ。牛乳は鮮度を保つのが難しく、ニューヨークのような都市部では調達にコストがかかっていた。ボーデンのコンデンスミルクはこのような需要をうまくとらえたのである。

コンデンスミルクの売り上げをさらに押し上げたのがアメリカ南北戦争(1861〜1865年)だ。コンデンスミルクが兵士の食料品の1つとして大量に調達されたのだ。また、他の缶詰食品も軍隊に納品され、兵士の空腹を満たした。こうして、戦争という困難な状況で人々は缶詰の有用性に気付き始める。

ちょうどこの頃には、イギリスで開発された鋼鉄(こうてつ)の生産技術が広まり、缶の材料にも鋼鉄が使用され始めたため、缶は薄手になり軽くなりつつあった。

また、1858年には、アメリカのエズラ・J・ワーナーがレバー式の缶切りを発明した。この缶切りは南北戦争中に軍隊で使用された。しかし、刃が鋭く、けがをする人が多かったという。そして1865年には、家庭用の缶切りが付属した牛肉の缶詰が販売され始めた。この缶切りはウシの頭がデザインされていたため「Bull's head opener」と呼ばれ、人気を博したという。


ワーナーの缶切り


Bull's head opener(ライセンス:ウイキペディアより

その後も缶詰の製造方法の改良は続けられ、1885年頃には全工程の自動化に成功する。その結果、1つの機械の製缶能力が1日当たり6000缶に達するようになった。

さらに1897年には、それまではんだ付けしていたフタと胴体の接合を、現在行われているような二重巻締めする方法が開発された。その接合部には1888年に開発された液状ゴムが使用された。その結果、はんだで使用されていた鉛などの混入が無くなり、缶詰の安全性が高まった。そのため、このような缶詰は「サニタリー(衛生的)缶」と呼ばれて、広く使用されるようになった。

現在の缶詰は120℃の温度と2気圧の圧力を同時にかけることで殺菌される。自然界には熱に強い微生物が存在するが、この条件ではほぼすべての微生物が死滅するのだ。この高温・高圧の殺菌方法を開発したのがアメリカMITのサミュエル・ケイト・プレスコットとウィリアム・ライマン・アンダーウッドの研究チームで、1896年のことだ。それ以降、この方法は缶詰製造のスタンダードとなっている。

さて、現在の食料品のパッケージは非常にカラフルで視覚に訴えるものが多い。このようなパッケージを始めたのが、びん詰や缶詰のメーカーである。19 世紀の前半に食品メーカーは、びん詰食品に一目でわかるブランド名を付けると、よりよく売れることに気が付いた。当初は内容物に関する情報を記載したラベルを貼るだけだったが、次第にパッケージ全体を使って食品を宣伝するようになって行ったのである。

食品の在り方を大きく変えたという点から、びん詰と缶詰の登場は食の歴史の中で革命的なものだったと言える。

びん詰食品の歴史-アメリカの産業革命と食(5)

2022-04-23 15:45:38 | 第五章 近代の食の革命
びん詰食品の歴史-アメリカの産業革命と食(5)
最近は店先に並ぶ食料品の容器としてはプラスチック製のものが主流を占めていますが、びん詰缶詰も多く使用されています。特に固形物についてはびん詰缶詰になることが多くなっています。

今回と次回では、このようなびん詰と缶詰の歴史について見て行きます。

産業革命前の欧米では、食料品の輸送に麻袋や木箱、樽、びんなどが使用されていましたが、小売店では19世紀末になっても、砂糖や小麦粉、コーヒー、茶、ドライフルーツなどは客の目の前で計量され、紙に包んだり、袋に入れたりして売られていました。

しかし、世紀が変わる頃になると、びん詰や缶詰になった食品が販売されるようになります。その背景にはどのような出来事があったのでしょうか?


(Engin AkyurtによるPixabayからの画像)

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ガラス製の容器は古代エジプトの遺跡からも見つかっており、かなり古くから使用されてきたものだ。そして、その技術が導入された古代ローマでは、一般庶民もガラス製のびんや食器などを使用していたことがわかっている。


ポンペイの遺跡から見つかったローマ時代のガラスびん(ポンペイ展より)

西暦467年の西ローマ帝国の滅亡によって西ヨーロッパのガラス製造技術は大きく衰退するが、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)やイスラム社会ではローマ帝国の技術が受け継がれ発展した。

西ヨーロッパでは8世紀に入ってガラス作り再開された。特に海洋都市国家のヴェネツィアはビザンツ帝国などとの東方貿易を支配していたことから、ガラスの製造法が導入され、ガラス製造の中心となっていた。さらに1453年にビザンツ帝国が滅亡すると、ガラス職人がヴェネツィアに移住したため、製造技術が格段に進歩する。なお、その頃のガラスびんに蓋をするには、ロウを染み込ませた皮や紙、そしてコルクが使用されていたという。

その後、西ヨーロッパの中心が地中海から北に移動し、フランスやイギリス、ドイツなどの国力が高まると、それらの国々でガラス製品の製造が盛んになった。そして、そこで技術革新が起きる。

ガラスは、珪砂(けいしゃ、石英を砕いたもの)・ソーダ灰(炭酸ナトリウム)・石灰(炭酸カルシウム)から作られるが、1670年代以降に、イギリスやフランス、ドイツなどで、これらに酸化鉛を主成分となるように加えることで無色透明なクリスタルガラスを作ることに成功したのだ。

さらに19世紀に入って工業化が進むと、ソーダ灰(炭酸ナトリウム)の大量生産が可能になり、さらにガラスの溶解炉も発達することによって大量のガラス製品の生産が可能となった。

さて、ここからは近代的なびん詰食品のお話だ。それは、フランスの菓子職人ニコラ・アペール(1750〜1841)の実験から始まった。

1795年にナポレオン・ボナパルト率いるフランス政府は、兵士に安全な食料を供給するための新しい食品保存法を募集した。アペールは14年にわたる実験の末、ガラスびんを用いた食品保存法を開発した。それは、肉や野菜などの料理をガラスびんに入れたのち、できるだけ空気を抜いてコルク栓でフタをし、沸騰したお湯に浸けるものだった。煮沸によって腐敗の原因となる細菌は死滅し、さらにガラスは細菌を通さないため長期保存ができるのである。

1810年にアペールはこの方法によってフランス政府から12000フランの賞金を授与された。そして『各種食肉・野菜を数年間保存する方法』と題する論文を発表した。この英語版はすぐにロンドンで出版され、アペールの新しい食品保存法は瞬く間にヨーロッパ中に広まった。

ルイ・パスツール(1822~1895年)のような科学者が腐敗の原因が細菌であることを明らかにするのは19世紀の後半であることからもアペールの先駆性がよくわかる。

アペールのびん詰の技術は画期的だったが、ガラスびんには口が大きくなるとコルクでフタをするのが難しくなるという欠点があった。また、コルク栓を密封するのにロウを使っていたため、開けにくいという欠点もあった。

これらの問題を解決したのがアメリカの職人だ。1858年に、現在でもよく使用されているネジ式の金属フタとびんが、アメリカの錫細工人ジョン・ランディス・メイソンによって開発されたのだ。フタの内側にはゴムが貼ってあり密封が可能となった。

このような新しい食品保存技術を用いて急成長する会社がアメリカを中心に次々と現れるようになる。その代表の一つがハインツ(Heinz)だ。

ハインツはドイツ系移民の子のヘンリー・J・ハインツ(1844~1919年)が1869年に創業した会社だ。初期の食品小売業はうまくいかなかったが、びん詰食品や缶詰食品を販売するようになって一大企業に成長する。最初の代表的な製品がトマトケチャップのびん詰で、発売以降トマトケチャップの世界シェア第1位を今でも守り続けている。

さらに1892年には、アメリカのウィリアム・ペインターがコルクをはめ込んだ金属製のフタの「王冠」を発明した。この発明によってビールや発泡性の清涼飲料水など内圧がかかるものでも安価かつ完全に密封できるようになったのである。

1898年には王冠を自動で付ける機械が開発され、ビールや炭酸飲料水の大量生産時代が始まるのである。

シリアルの始まり-アメリカの産業革命と食(4)

2022-04-19 12:27:52 | 第五章 近代の食の革命
シリアルの始まり-アメリカの産業革命と食(4)
アメリカの朝食の定番はシリアルと言われるように、アメリカ人はシリアルが大好きです。スーパーマーケットの売り上げはパンよりもシリアルの方が多く、清涼飲料水と牛乳に次いで第3位となっているそうです。

シリアルには甘いものが多いですが、最近の健康志向から砂糖などの甘味料が敬遠されやすいため、海外でのシリアルの消費量は頭打ち傾向にあるそうです。

一方、以前は日本のシリアルの消費量はそれほど多くなかったのですが、近年になってナッツやドライフルーツの入ったグラノーラの人気が急上昇しています。

さて、今回は、19世紀のアメリカでシリアルが誕生し、発展して行く様子を見て行きます。

シリアルの誕生には健康な食生活を望む社会の要請がありました。また、その発展には、兄弟間、そして会社同士の争いがありました。それは、どのようなものだったのでしょうか?


(大雄 陳によるPixabayからの画像)

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歴史を振り返ってみると、19世紀頃までは太っていることは富と健康の証しとされ、肥満は理想の体型とされていた。西洋の裸婦画の多くで、豊かな脂肪をたくわえた女性が描かれているケースが多いのも、十分に食べられないという生活が一般的であった中で、太っていることが裕福さの証明と同時に「美女」の条件であったからだ。

アメリカでは、19世紀の後半から食糧の生産量が増えたことによって、食事はより豪華で高カロリーなものに変化した。例えば、朝食では、白パンに豚肉を食べるのが普通になっていた。このような高カロリーの食事をして太ることは、生活が豊かになった印であり、喜ばしいことだった。

19世紀の終わりから20世紀初頭にかけて、アメリカでは太っていることを誇りにする上流階級の結社「ファット・マンズ・クラブ」が人気を博していたという。会員になるには、少なくとも200ポンド(90キログラム)の体重が必要で、「デブを徹底的に謳歌する」というのが彼らのスローガンだった。

しかし、肥満が進むと病気が増えるのは今も昔も変わらない。また、産業革命によって工業化が進むと、工場から排出される排気ガスや排水で生活環境の汚染が起こり始め、これも人々の健康をむしばみ始めた。

このような中で「シリアル」は健康的な生活を送るために開発されたのである。

最初のシリアルは、1863年に医者のジェイムズ・ケイレブ・ジャクソンによって発明された。彼は健康を害した人のための診療所を設立し、新鮮な空気・大量の水・良質の栄養の3つを軸とした治療を行った。この良質な栄養のための食事として開発されたのが、グラニュラ(グラノーラとは違う)と名付けられたシリアルだったのだ。

グラニュラは、グラハム粉(全粒粉より粗びきのコムギの粉)を水でこねて固めたのち、一口大に砕いてから焼いたものだ。しかし、とても固くて食べにくかったため、世の中に広まることはなかった。

ジャクソンのグラニュラ以外にも、コムギなどの穀物の粒を丸ごと炒って粉砕したシリアルのようなものは町中で売られていた。しかし、それらは大きな樽に入れられていて、すくい取ってポンド売りするのが一般的だった。しかし、これは衛生面で問題があった。

ちょうど人々の衛生観念が高まってきた頃だ。産業革命によって世の中が豊かになると、風呂や洗濯の回数が増えるなど、人々は清潔さを重視するようになっていた。このような機をとらえて、1870年代にニューヨークのパン屋のジョージ・H・ホイットが箱詰めしたシリアルを売り出すと人気を博すようになり、やがて企業化して大体的に販売されるようになった。

さて、シリアルの代表と言えばコーンフレークである。コーンフレークとは、トウモロコシの粉を水で練ってから加熱し、板状に加工した食品だ。

コーンフレークは1900年前後にアメリカのケロッグ兄弟によって生み出された。医師で療養施設の管理をしていた兄のジョンは、食によって患者の健康状態を改善しようと考えた。彼のポリシーは、肉抜き砂糖抜きの全粒粉を用いた健康的な食事だった。そして、弟のウィルと協力して患者が食べやすいようにフレーク状の食べ物を朝食用に開発したのだ。

最初はコムギを原料にしていたが、1898年にはトウモロコシが原料として最適であることを見出した。こうしてコーンフレークが誕生したのである。コーンフレークはサクサクとした食感が新鮮だったためか、患者たちに大好評だった。

ところで、弟のウィルは療養所の経理を担当しており、経営を安定させる責任があった。そこで、コーンフレークを健康食品として患者以外にも売り出し、利益を上げていたようだ。

しかし、問題が1906年に起こる。兄が医学の視察のためにヨーロッパに出かけている間に、ウィルはコーンフレークの生地に砂糖を入れてみたのだ。出来上がった砂糖入りコーンフレークは患者たちにきわめて好評だった。しかし、帰国したジョンは弟が禁断の砂糖を使ったことに激怒し、二人は仲たがいをしてしまう。

成功を確信していたウィルは療養所を離れて独立し、砂糖入りコーンフレークを「ケロッグ・トーステッド・コーンフレーク」として売り出す。大々的な宣伝も功を奏し、砂糖入りコーンフレークは爆発的な売り上げを記録した。産業革命によって生活が忙しくなっていた家庭にとっては、牛乳をかけるとすぐに食べられるコーンフレークは朝食に最適だったのだ。

このケロッグの大成功に触発されて、後追いのシリアルの会社が近隣に40社以上設立されたと言われている。その一つがチャールズ・W・ポストが創業したポスタムシリアル社で、彼は1800年代終わり頃にケロッグの療養所に患者として入院したことがあり、そこで食べたものを参考に(真似をして)製品を開発したと言われている。ケロッグ社とポスタムシリアル社はシリアル業界のシェアを2分したが、両社は熾烈な競争を繰り広げ、社員同士はお互いを憎むべき敵とみなすようになったという。

こうしてコーンフレーク会社の競争が激しくなるにつれて、各社は砂糖の含有量を増やし続けた。砂糖の量が多いほど美味しく感じられ、よく売れたからだ。実際に、砂糖には最も美味しく感じられる濃度である「至適濃度」があり、至適濃度までは砂糖の濃度が高ければ高いほど美味しく感じられるのだ。また、大人に比べて子供では砂糖の至適濃度が高いこともわかっている。

このように、健康のために生み出されたコーンフレークは、砂糖が多く含まれたジャンクフードとみなされるようになっていくのである。

アメリカ西部の農業の発展-アメリカの産業革命と食(3)

2022-04-16 23:16:52 | 第五章 近代の食の革命
アメリカ西部の農業の発展-アメリカの産業革命と食(3)
産業革命によって工業化が進展する以前は、人口の大部分が農業を営んでいました。その頃までの農業は生産性が低かったため、社会全体が必要とする食糧を生産するために多くの人手が必要だったからです。

アメリカ合衆国では19世紀に入って西部の開拓が進みますが、入植者のほとんどは農業や畜産業を営みました。西部で農業が始まった頃の生産性は極めて低いものでしたが、徐々に生産性が高まり、やがて合衆国全体だけでなく、世界を支える食糧生産地として大発展します。

今回は、このような発展の要因となった農耕技術の進歩を中心に、アメリカ西部の農業の歴史について見て行きます。

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初期の西部開拓者は農業に未熟で、土地をしっかりと耕さずに作物を育てていたため、生産性が低かった。また、農地に肥料をほどこさずに同じ作物を作り続けたため、数年で地力が落ちて収穫できなくなった。さらに、牧草の管理が下手だったため、家畜のエサを継続して確保することもできなかった。

こうして最初の農場で生活できなくなると、開拓者は土地を売り払い、さらに西に移動して新たな農場で生活を始めるしかなかったのだ。このような理由で、初期の開拓者は一つの場所にとどまらずに、常に西への移動を続けていたという。

しかし、次第に農業に慣れてくると、プラウ(犂(すき))を使って農地を耕し、肥料を施すことで持続可能な農業を実践するようになった。

初期のプラウは棒の先を尖らせただけの簡単なものだったが、次第にソリのように地面の上を動かすものが使用されるようになった。しかし、当時のプラウは木製で、土壌の表面を少しだけしか掘ることができなかった。

プラウの改良に大きな貢献をしたのが、第3代大統領のトーマス・ジェファーソン(1743~1826年、大統領:1801~1809年)だ。彼は、先端に鉄製の刃をつけるとともに、土の抵抗の少ない形状をした新しいプラウを開発したのだ。このプラウを使うと、15cmほどの深さまで耕すことができた。すると、作物は深く根を張ることができて生産性が向上した。ジェファーソンのプラウは1830年代には標準的な農機具となった。

ジェファーソンが開発したプラウでは、炭素量の多い鋳鉄(ちゅうてつ)製の刃が使われていた。鋳鉄製の製品は作りやすいが、強度に劣るという欠点があった。西部の土壌は粘り気があったため、当時の鋳鉄製の刃ではすぐに泥がたまって使えなくなるし、またあっという間に折れてしまったという。

この問題を解決したのが鍛冶屋のジョン・ディア(1804~1886年)だ。彼は炭素量の少ない鋼鉄製の刃を使用することで、非常に高性能のプラウを開発したのだ。

ディアは東海岸で鍛冶屋をしていたが、生活に行き詰ったため1836年に西部のイリノイ州に移住してきた。彼はそこで鋳鉄製の刃の欠陥を知ると、泥がたまらないように非常になめらかで絶妙の角度を持った鋼鉄製の刃を開発したのだ。

この刃を付けたプラウは一度動かし始めると止まらずに土壌をどこまでも耕し続けたので、ウマやラバなどにひかせることで人の労力は著しく軽減することとなった。こうして1837年に開発されたディアのプラウは大好評を得て、1855年までに10000台が販売されたという(ディアが創業した会社は現在でも世界で最大の農機具メーカーである)。

ジョン・ディアのプラウのように、人力の代わりに動物の力で動かすプラウの出現は農業の生産性を大きく向上させたため、「アメリカ最初の農業革命」と呼ばれることが多い。

次の重要な進歩の一つは、機械を用いた深い井戸の普及だ。機械を用いて深い井戸を掘ると、グレートプレーンズように乾燥した地域でも安定して農業を行うことができるようになったのだ。

もう一つの進歩が「カントリーエレベーター(穀物エレベーター)」の開発である。カントリーエレベーターは、搬入した穀物を乾燥させ、計量・選別などの調製を行ったのち貯蔵し、搬出するための複合施設である。大きなエレベーターで穀物を搬入したことから「エレベーター」の名が付いている。カントリーエレベーターによって穀物流通の効率化が大きく進んだと言われている。


カントリーエレベーター(Bernard Spraggによるflickrからの画像)

最初のカントリーエレベーターは、1842年に五大湖の一つエリー湖の東岸のバッファローに作られた。ここに西部などから穀物が集められ、東海岸やカナダなどの各地に届けられた。

さらに1847年には、エリー湖の西岸のトリードとニューヨークのブルックリンにカントリーエレベーターが作られた。この2つは連携して穀物の海外輸出を担った。トリードに集められた西部の穀物がブルックリンに輸送され、さらにイギリス、オランダ、ドイツなどに輸出されたのである。

このアメリカからヨーロッパへの穀物の流れに呼応するように、人がヨーロッパからアメリカに流入するようになった。つまり、アメリカに行けばたくさんの穀物を生産できて、大儲けができると考えた人がたくさん出てきたのである。

このヨーロッパからの移住にアメリカの鉄道会社が大きな役割を果たした。鉄道会社はヨーロッパから家族を呼び寄せ、良質な土壌を有する土地と家具付きの家屋を低価格で提供したのだ。西部を横断する鉄道を建設していた鉄道会社は、鉄道の利用客や運搬する荷物を必要としていたからである。

こうしてカントリーエレベーターの発明によって輸出が増え、それによって農業従事者が増え、さらに輸出が増えるというループによって、1860年から1910年にかけてアメリカは世界有数の穀物生産国に成長して行ったのである。

農場の数は1860年の200万戸から1906年の600万戸へと3倍になった。また、農場に住む人の数は、1860年に約1000万人だったものが1880年に2200万人になり、1905年には3100万人へと増加した。

また、同じ量のコムギを生産するのに、1890年には1830年に比べて6分の1の労働量ですむようになった。

このように、19世紀アメリカの農業の躍進の世紀だったのである。

肉を運ぶ鉄道-アメリカの産業革命と食(2)

2022-04-13 08:28:44 | 第五章 近代の食の革命
肉を運ぶ鉄道-アメリカの産業革命と食(2)
アメリカ人ステーキハンバーガーなど、牛肉をたくさん食べるというイメージがあります。実際に牛肉の年間消費量はアメリカ人1人当たり約37㎏となっており、約10㎏の日本人の4倍に近い量を食べている計算になります。

アメリカ人が牛肉をよく食べるようになったのは19世紀の終わり頃のことで、それほど古い話ではありません。そこには鉄道の発達が深く関係しているのですが、今回は鉄道の発展とアメリカの肉食文化の関係について見て行きます。



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現代の私たちが食べている食品の中には、海外からはるばる運ばれてきたものがたくさんある。例えば、コーヒー豆や、チョコレートの原料のカカオ豆のほぼすべては外国産だし、食肉、穀物、果物、油、酒類などでも海外から運ばれて来るものが多い。最近では、野菜類もたくさん輸入されている。

また、国産のものでも住んでいる地域内で収穫されたものは少なく、他県から運ばれて来るものが多い。

このように生産地と消費地が離れている場合には、安全・迅速で安価な輸送手段が重要になって来る。食品が腐ってしまう前に運ぶ必要があるし、輸送費が高すぎると、それが食品の販売価格に上乗せされて高くなりすぎるからだ。

近代の工業化にともなって輸送手段が発達すると、さまざまな食品が遠くから運ばれてくるようになった。そして、それにともなって、食生活も大きく変化する。その代表的な例がアメリカの牛肉だ。

もともとアメリカ大陸ウシはいなかった。新大陸を発見したコロンブス一行が新大陸にウシを持ち込んだのが始まりだ。新大陸の環境はウシには最適だったようで、その後大繁殖し、多くが野生化した。

前回の「西部開拓時代」では、19世紀の後半に、カウボーイが野生化したウシをテキサスから鉄道の駅まで運んだという話をした。

1830年頃から合衆国の東海岸部では北部を中心に蒸気機関車が走る鉄道の開通が相次ぎ、1840年には総延長が4000㎞に達した。そして1860年頃までには、合衆国東海岸からミシシッピー川に至る鉄道網が整備された。

その結果、物流のスピードが飛躍的に高まった。例えば、中西部のシンシナティとニューヨーク間の輸送は、エリー運河などの水上交通を利用した場合には約3週間かかっていたが、鉄道を使うと約1週間に短縮された。こうして、西部の農地で生産された作物は、人口が集中する東海岸の都市に鉄道に乗せられて運ばれるようになった。

さらに19世紀後半には、ミシシッピー川から西側の地域にも鉄道が伸びた。また、大陸横断鉄道が次々と開通して行った。

まず、1869年にネブラスカ州オマハとカリフォルニア州サクラメントの路線が開通した。オマハにはすでに東部からの鉄道網が延伸しており、これで東海岸と西海岸が鉄道でつながったのだ。



その後も、新しい大陸横断鉄道が開通して行った。例えば、1883年にはノーザン・パシフィック鉄道がシカゴとシアトルをつないだ。また、同じ年に、サザン・パシフィック鉄道がニューオリンズとロスアンゼルスの間で開通した。このような鉄道を使って、カウボーイがテキサスから移動させたウシや、グレートプレーンズで育てられたウシが東海岸や西海岸に運ばれたのである。

さて、鉄道網を見ると、いくつもの路線がシカゴに集まっているのが分かる。シカゴは五大湖の1つミシガン湖のほとりにある町で、古くはアメリカ原住民の交易地だったと言われている。

1836年にミシガン湖とイリノイ川を結ぶ運河の建設が始まるとシカゴに人が集まり始めた。そして、1838年に鉄道が開通するとシカゴは交通の要衝となり、人口が急増する。さらに、1856年にメキシコ湾岸のニューオリンズとシカゴを結ぶイリノイ・セントラル鉄道が開通するなど、1865年までにシカゴは10以上の鉄道の起点となり、大発展を見せるようになった。

シカゴには西部の各地で育てられたコムギやトウモロコシなどの穀物家畜酪農品などが鉄道によって大量に運ばれてきたことから、食品の集積所として重要な役割を果たした。集まった食品は、そのまま、あるいは加工されて東部に出荷された。

なお、1848年には世界有数の先物商品取引所であるシカゴ商品取引所が作られた。また、1865 年にはユニオン・ストックヤード(巨大な家畜置き場)が開設されている。

ところで、食肉については1890年頃まで豚肉が最も多く食べられていた。例えば、1871 年にユニオン・ストックヤードに集められた家畜を見ると、ウシ50 万頭に対してブタは 240 万頭となっている。ブタの方がウシよりも飼育が簡単で、また、肉も長期保存が可能なソーセージやベーコン、ハムなどに加工しやすかったからだ。

もともと1頭の家畜からとれる肉や内臓の量はそれほど多くない。ウシでは体重の40%くらい、ブタで50%くらいだ。残りは食べられない骨や皮、頭などで、もし家畜を消費地まで丸ごと1頭運ぶと、解体された後にこれらは捨てられることになり、その分だけ運送費が高くなってしまうのだ。そのため、シカゴなどの家畜の集積地で食肉に加工することが望まれたのである。しかし、牛肉については保存がきく加工法が少なかったため、生きたウシを消費地まで輸送するしか方法がなかった。

この問題を解決したのが肉屋のグスタバス・スウィフトだ。彼は生肉を冷却して新鮮な状態で輸送する方法があれば、牛肉販売で大きな利益を上げられると考えたのだ。そこで彼は、技術者に冷蔵貨物列車を作らせたのである。完成した冷蔵車の天井部分には氷が置かれ、空気が通過するときに冷却される仕組みだった。こうして完成した冷蔵車は1877年に最初の生肉輸送を成功させる。

この成功を受けて、1885年にスウィフトは弟とスウィフト商会を設立し、初代社長となった。また、同じように冷蔵貨物列車によって生肉の輸送を行う会社が次々と現れ、やがて5大精肉業者と呼ばれる5つの会社が冷蔵生肉の市場を独占するようになった。

なお、当初は冷蔵保存した生肉を食べると病気になるなどと言う噂が広がり、売り上げが思わしくなかったが、大規模な広告によって安全性を訴えるとともに、大量生産によって牛肉の価格を下げることによって、次第に社会に広く受け入れられるようになる。そして1900年には牛肉の消費量が豚肉を追い越すまで拡大した。牛肉をよく食べるアメリカ人の始まりである。