食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

中国の酒の歴史-10~17世紀の中国の食(8)

2021-02-27 17:03:00 | 第三章 中世の食の革命
中国の酒の歴史-10~17世紀の中国の食(8)
中国の酒は大きく「黄酒(ホアンチュウ)」と「白酒(パイチュウ)」の二種類に分けられます。その名の通り、黄酒は黄色や褐色のものが多く、白酒は無色透明のものがほとんどです。

黄酒はコメやキビなどを原料とする醸造酒のことです。黄酒を長期間熟成させたものは「老酒(ラオチュウ)」と呼ばれています。黄酒の代表なものとしては米から造られる紹興酒が知られています。

一方の白酒は黄酒などを蒸留したもので、蒸留操作で色素が除かれるため白色透明となります。また、一般的にアルコール度数は高くなり、40%以上のものが多く出回っています。なお、現代の中国の宴席では白酒で乾杯を行うことが多いようです。

中国で白酒が登場するのは宋代の頃と考えられています。今回は黄酒や白酒を中心に、中国の酒の歴史について見て行きます。


白酒(LIN LONGによるPixabayの画像)

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中国では紀元前から冷涼な華北ではキビとアワから酒を造り、温暖な江南ではコメを酒造りの原料にしていたと考えられている。これらの先史時代や古代の酒は「黄酒」に分類される。

黄酒の醸造では日本酒造りと同じように、穀物のデンプンを麹菌(こうじきん)によってブドウ糖に分解する「糖化」と、酵母によってブドウ糖をアルコールに変換する「アルコール発酵」を同時に行う。これは「並列複発酵」と呼ばれる醸造方法だ。

このように中国と日本の酒はともに並列複発酵で造られるが、二つの間には麹菌や原料に違いが見られる。

まず麹菌についてだが、中国の麹は主に「クモノスカビ」や「ケカビ」などの様々な菌が混合したものだ。粉末にした生の穀物を少量の水で団子状に練り固めたのちに放置すると、クモノスカビやケカビなどが自然に生えてくる。これを乾燥したもの(餅麹と呼ぶ)を黄酒の醸造に使用するのだ。

一方、日本酒造りには「ニホンコウジカビ」などの単一の菌種だけを使用する。蒸したコメに保存していたコウジカビを植え付けて生育させたもの(バラ麹と呼ぶ)を使うのだ。中世までには単一の菌種になるように選択的に培養したニホンコウジカビなどを日本酒の醸造に使うようになった。また、このような麹菌の種を販売する「種麹屋」が、室町時代から現代にいたるまで日本酒造りを支えてきた。

なお、現代では酵母についても中国と日本で麹のような違いが見られる。つまり、中国では天然の酵母を使用するのが一般的であるが、日本では「きょうかい酵母」と呼ばれる日本醸造協会が純粋培養している単一の菌種が主に使われている。

さらに使用するコメについても中国では一般的に糯米(モチゴメ)が使われるのに対して、日本では粳米(ウルチマイ:ご飯として食べている粘り気の少ないコメ)が酒造りに使用される。日本酒造りでは黄酒造りでは行わない蒸したコメを手でこねる作業があるため、手に引っ付きやすいモチゴメが敬遠されたからと言われている。また、モチゴメを使うと酒が甘くなるが、日本人は辛い酒を好んだことから粳米を使って来たとも言われる。

以上のように黄酒と日本酒では造り方にかなりの違いが見られるため、二つの酒造りはそれぞれの国で独自に発展してきたものだと考えられている。

さて、中国では唐代(618~907年)になると農業の発展にともなって酒造りも盛んになった。その結果、それまでは金持ちしか飲めなかった酒が庶民にも広まった。そして、酒は中国の文化に無くてはならない存在になって行ったのである。

「詩聖」と呼ばれた唐代の詩人の杜甫(712~770年)は生涯に1400 余りの詩を創作したが、そのうちの300が酒に関するものである。杜甫の友人の「詩仙」李白(701~762年)も酒をこよなく愛し、たくさんの酒にまつわる詩を作った。また彼は、酒に酔って水面に映る月を捕まえようとして溺死したという伝説も残している。杜甫は李白のことを詠んだ詩で「李白は一斗升の酒を飲めば百篇の詩を生み出し、長安では酒を飲んでそのまま酒屋で寝てしまう。皇帝に呼ばれても出て行かず、自ら酒中の仙人と称する」と言っている。


     李白

ここで、李白が詠んだ酒の詩の中で最も有名な「将進酒(まさに酒を進めんとす)」の前半部分を紹介しよう。

将進酒(さあ、酒を楽しもう) 
君不見黄河之水天上來(君よ見たまえ、天上から黄河の水が注ぎこむのを)
奔流到海不復回(すさまじい流れで海に至ると、二度と戻ってこないのだ)
君不見高堂明鏡悲白髮(君よ見たまえ、立派な屋敷に住んでいる老人が、鏡 に映った白髪を見てなげき悲しんでいるのを)
朝如青絲暮成雪(朝には青く輝いていた細い髪の毛が、夕暮れには雪のように白くとけてしまう)
人生得意須盡歡(だから楽しめるうちに人生をとことん楽しみ尽くそう)
莫使金尊空對月(金色に輝く酒樽を、月の光にさらしておくだけじゃあつまらない)
天生我材必有用(天がさずけた僕たちの才能は、いつか必ず花開くはずさ)
千金散盡還復來(だからこの場で金を使い果たしても、またいつか戻ってくるよ)
烹羊宰牛且爲樂(羊を煮て牛をさばいて、まずは楽しもうじゃあないか)
會須一飮三百杯(酒を飲むなら一気に300杯、グイと飲みほそう)

酒を何よりも愛した李白の楽天的な人柄がよく分かる詩だと思う。

さて、唐代の中期になると、王朝は塩や茶と同じように酒についても専売を行うようになった。つまり、政府が許可した者だけに酒の製造と売買を許可して、政府が指定した高い価格で売買を行わせたのだ。この時に原価の数十倍の税を得ることができ、こうして集めた金で国家体制を維持しようとしたのである。

しかし、唐代の末期になって庶民が困窮すると、塩・茶・酒の密売業者が中心となって暴動が頻発し、最終的に唐は終わりを迎えることになった。

五代十国の時代が過ぎて宋代(960~1279年)になると、さらに酒造りが盛んになった。北宋の首都開封や南宋の首都杭州には、拍戸(泊戸)と呼ばれた酒の小売店や酒楼と呼ばれた公営の飲食店、酒庫と呼ばれた酒の卸売場などの酒関係の店が多数営業していたという。

宋代でも塩や茶とともに酒も専売制で厳格に管理されており、酒税は政府の重要な財源となっていた。醸造所は政府が所有し、人を雇って造られた酒は政府が決めた高い価格で販売されていた。中国の歴史において宋代の酒税が最も重かったと言われている。

宋王朝は経済政策を優先したことから海外との貿易が盛んになり、海外の物品も中国内に流通するようになった。東坡肉(トンポーロウ)を考案した蘇軾が遺した記録から、彼の時代には中国でもワイン(ブドウ酒)が作られるようになっていたことがうかがえるという。

さらに宋代には白酒を造るのに必須の「蒸留器」がイスラム商人を通して中国に持ち込まれた。「イスラムの科学-イスラムの隆盛と食(2)」でお話しした「アランビック」が中国に伝えられたのである。アランビックを用いた蒸留法はイスラム世界から世界各地に伝えられ、白酒だけでなくブランデーやウオッカ、ウイスキー、泡盛、焼酎などの蒸留酒が作られるようになった。
イスラムの科学-イスラムの隆盛と食(2)はこちら


                    アランビック

白酒は元の時代(1271~1368年)には「阿剌吉酒(あらきしゅ)」と呼ばれたと記録されているが、この呼び方はアランビックから来たと考えられている。

元代には白酒のほかに従来の黄酒やワイン、そして遊牧民に愛された「馬乳酒」が飲まれていた。馬乳酒はその名の通り馬乳を発酵させたものでアルコール度数は低く、酒というよりもヨーグルトのような食品として食べられていたらしい。

次の明王朝(1368~1644年)は当初禁酒令を出したりしたが、大きな取り締まりを行わず、すぐに酒の醸造や販売が自由に行われるようになった。その結果、酒の醸造業が飛躍的に発展し、酒の種類や生産量が著しく増えたという。

さらに14世紀の終わり頃には一般の庶民が酒屋を開くことを認め、15世紀には酒税を軽くしたことから、酒の醸造・売買はさらに加速したと言われている。

中国の麵の歴史-10~17世紀の中国の食(7)

2021-02-21 13:59:08 | 第三章 中世の食の革命
中国の麵の歴史-10~17世紀の中国の食(7)
現代の日本では、小麦粉や米粉、そば粉など穀物の粉を細長くした食べ物のほとんどを「麺」と呼んでいます。一方、中国では「麺」は小麦粉で作られたものを指し、それ以外のものは「粉」と呼んで区別しています。

実は、もともと中国では麺は小麦粉そのもののことを意味していて、小麦粉で作った食べ物のことは「餅」と呼んでいました。それが宋代になると、小麦粉で作った細長い食べ物を麺と呼ぶようになったそうです。このように呼び方が変化した理由は、その頃に麺が大きく進化したからです。

今回はこのような麺の歴史について見て行きます。なお、これ以降の「麺」とは日本人が一般的に使う麺(ヌードル)のことを指します。



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中国で小麦粉が大量に作られるようになったのは唐代(618~907年)になる少し前からだ。小麦粉を作るためにはコムギの粒を細かくすりつぶす必要があるが、そのための碾磑(てんがい)という水車で動く巨大な臼がその頃に普及し始めたからである。

なお、コムギが主に栽培されたのは寒冷地の華北地帯であり、温暖な江南では主にコメが栽培されていたため小麦粉はあまり出回らなかった。

西アジアやヨーロッパでは小麦粉からは主にパンが作られたが、何故か中国ではパンはあまり焼かれず、小麦粉の生地はゆでたり蒸したりして調理された。このゆでたり蒸したりしたものは「湯餅」と呼ばれ、ここから麺・餃子・ワンタンなどが生まれたと考えられている。

湯餅の中で麺類の直接の先祖と考えられているのが「水引餅(すいいんべい)」である。540年頃に書かれた農業書の『斉民要術』によると、水引餅は豚肉のスープでこねた小麦粉を箸の太さに延ばしたのち水の中でさらに平たく延ばし、湯で煮て作るとある。表面はふわふわとしているがしっかりとコシが感じられる歯ごたえがあるらしい。

麺のコシを生み出すためには網目構造であるグルテンを形成させる必要がある。グルテンは小麦粉に塩を入れてこねることでできて来るのだが、水引餅では豚肉のスープに含まれている塩によってグルテンが作られることでコシが生まれるのだろう。

唐代になると、湯餅は2つの系統に分かれて発展する。一つは小麦粉を薄く延ばして具材を包み込む水餃子やシュウマイの系統で、もう一つは生地を細長くした麺類の系統である。

「切り麺」が登場したのも唐代である。こねた小麦粉の生地を麺棒でうすく延ばしたのち折りたたみ、刃物で線状に切ってつくる方法が生み出されたのだ。この技法は「不托(ふたく)」と呼ばれ、小麦粉だけでなくそば粉など他の生地にも使用されるようになり、アジアの各地に伝えられた。日本にも鎌倉時代に伝わったと考えられている。

現代の中華麺の特徴となっている「かん水」が使用され始めたのは唐代の終わり頃から宋代(960~1279年)にかけてである。かん水とは炭酸ナトリウムなどを含んだアルカリ性の溶液で、アルカリ性になることでグルテンの形成がよく進んで強いコシが生まれるとともに、小麦粉中に含まれる色素であるフラボノイドが淡黄色に変化するのだ。このため中華麺は縮れていて黄色をしている。

中国の東北部から西北部にかけて分布する塩水湖(鹹湖(かんこ))の水はアルカリ性で、これを使うとコシの強い麺ができることを偶然見つけたのである。ちなみに現代では工業的に作られたかん水を使用している。

宋代になると湯餅という言葉は使われなくなり、小麦粉で作った細長い食べ物を麺(麺条)と呼ぶようになった。麺類が多くの人に食べられるようになったからである。

宋代の各都市には飲食店や屋台がたくさん営業していたが、麺類は素早く食べられて腹持ちも良かったので人気を博し、多くの店で売られようになったのだ。また具材も豊富になり、それまでの単にスープの中に麺を入れただけのものに加えて、魚介類や肉類などの具が入ったものも食べられるようになった。

このように麺類がよく食べられるようになると、それまで食具として主に使用されていた「匙(さじ)」に代わって「箸」が多く使用されるようになった。箸の方が麺をつかみやすいからである。

女真族の金によって華北を征服され、首都を江南の杭州に遷都した南宋(1127~1279年)の時代になると麺の文化はいっそう発達した。それまで江南ではあまり知られていなかった穀物から粉を作る技術が伝わることで、江南の食材の新しい調理法が生まれたからである。

江南では主にコメが栽培されていたが、これを粉にすることでビーフンが作られた。また、緑豆の粉を使用した春雨も誕生した。これらは穴をあけたウシの角から生地を熱湯の中に押し出すことで作られる。

また、小麦粉の生地に油を塗ることでそうめんのように細く引き延ばす技術も開発された。さらに、ナガイモなどをつなぎにしたものや、エビの粉や卵を混ぜてエビ風味にした麺も考案された。

このように麺文化は宋代で大きく花開いたのである。

茶の力-10~17世紀の中国の食(6)

2021-02-18 16:43:03 | 第三章 中世の食の革命
茶の力-10~17世紀の中国の食(6)
中国の代表的な飲み物と言えば「茶」です。茶の生産は唐の時代から宋の時代にかけて大きく拡大し、また茶を飲む習慣も一般庶民に広く普及して行きました。そして茶は人々の暮らしに必要不可欠な存在となり、経済的な重要性も高まりました。

これに目を付けた宋朝は茶の生産と販売を専売制にすることで、国家の大きな財源にします。専売制の下で一部の商人たちが莫大な利益を上げるようになりましたが、一般庶民の中には茶の密売を始める者が現れ、武装することで大きな反社会勢力へと成長して行きます。

今回は唐の時代までさかのぼり、このような社会情勢に触れながら茶の歴史を見て行きます。



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・唐代の茶
唐(618~907年)は農業を奨励したことから茶の生産も次第に増えて行った。同時に貴族や文人・学者によって茶を飲む風習が広まり、茶は文化の上でも重要な役割を果たすようになった。こうして8世紀にかけて首都の長安などの華北の都市に茶を飲む風習が定着してきた。また、軍事的に同盟関係にあり、婚姻関係も結んでいた西方のウイグル族にもこの時期に茶を飲む風習が伝わったと考えられている。

760年頃に湖北省の陸羽によって著された『茶経』は、それまで断片的に伝えられていた茶に関する情報を系統づけて集大成した書で、現在にいたるまで茶のバイブル的な存在になっている。そのため陸羽は中国では「茶神」とも称されている。

茶経は上中下巻に分かれた計10章から構成されており、上巻の第1章には茶樹の性状など、続く第2章には製茶道具、第3章には製茶法、中巻第4章には茶器、下巻第5章には茶のいれ方、第6章には茶の飲み方、第7章には茶の歴史、第8章には茶の産地、第9章には省略した茶、第10章には茶席の飾り物についてそれぞれ述べられている。

『茶経』が出ると、それに刺激されたのか茶に関する書がいくつも刊行されたそうだ。このことはその当時の茶の広がりを示しているように思える。実際に9世紀の記録によると、茶の産地では新茶の出る頃に茶を求める者が各地から集まり、お互いの肩がぶつかるほど混雑していたそうだ。

770年頃になると、皇帝に新茶を献上する貢茶が始まった。その茶はきわめて品質の高いものが要求されたため、浙江省に専門の製茶工場である貢茶院が建てられた。この工場では1000人以上の人が働いていたという。

しかし、貢茶のための茶葉の栽培や茶摘みの作業はとても大変で、その作業のために膨大な数の農民が投入されたが、報酬は一切もらえなかったという。そのため、厳しさに耐えかねて逃げ出す人も多かったそうだ。

貢茶とともに人民の負担となったのが茶に対する課税である。茶の流通が増えてきたことに目を付けた政府は、七八二年に初めて茶への課税を始めたのだ。しかし、政権内に反対意見が出たり担当官が課税反対派に殺されたりしたため、課税を継続することができなかった。

ところで、唐代の上流階級の茶の飲み方は南北朝時代(439~589年)から行われている「団茶」を用いたものだった。団茶とは、蒸した茶葉をすりつぶしてコメ糊などと混ぜ、型に入れて固めたのちに乾燥させたものだ。唐代には団茶は餅茶(へいちゃ)とも呼ばれていた。

団茶を飲むときには、火であぶったのち香気を失わないように紙に包んで冷やし、さらに臼などで粉末にする。そして、塩を加えた湯で煮だして飲んだ。ショウガなどを加えることもあったという。ちなみに、上等な茶ほど甘かったそうだ。

・宋代の茶
宋代(960~1279年)は米・塩とともに茶が生活の必需品となった時代だ。宋朝も唐以上に農業を重視したので、茶園の面積は拡大した。また手工業も発達したことから、茶の製造技術も発展した。

農業と手工業の発展によって経済が活発化し、各地に商業都市が生まれた。こうした都市では多くの茶館が営業し、普通の庶民も気軽に茶を楽しむことができたという。

宋代の茶は三種類あった。「散茶(さんちゃ)」「片茶(へんちゃ)」「研膏茶(けんこうちゃ)」の三つである。

「散茶」は一般庶民に最も普及した茶であるが、詳細は分かっていない。おそらく、蒸した茶葉をバラのまま乾燥させた現代の茶のようなものであったと考えられている。

「片茶」は蒸した茶葉を固めたもので、唐代の団茶(餅茶)とほぼ同じものだ。

「研膏茶」は片茶の一種だが少し複雑な作り方をする。蒸した茶葉をすぐにすりつぶすのではなく、圧力をかけてしぼったのち乾燥させる。そして、乾いたものを少量の水ですりつぶして型に入れて再び乾燥させる。最後に表面に蒸気をかけ、表面を磨いて出来上がりだ。

研膏茶は非常に高価で、主に皇帝に貢納された。そして皇帝は功のあった者にこれを下賜したのだが、その者は恐れ多くて飲むことができず、家宝として飾っておくことが多かったそうである。

片茶(そして研膏茶)のいれ方は日本の茶道のいれ方に似ている。まず、茶の塊を鉄製の薬研(やげん)(下の写真)や茶臼によって細く砕いて粉末とする。次に沸かした湯を茶碗に注ぎ、そこに砕いた茶粉を入れ、さじや茶筅(ちゃせん)でかき混ぜるのだ。


薬研(やげん)

細く砕いて粉末にした茶は「末茶」と呼び、これが日本の「抹茶」の語源と考えられている。また、末茶が熱湯に溶けることを「発立」と言ったことが日本で「茶をたてる」という言い方の由来になったと言われている。

こうして出来上がった茶の色は白色をしたもの(白茶という)を最高としたことから、白色が映えるように内側が黒色の茶碗が好まれたという。鉄釉(てつゆう)をかけて作った黒色の天目茶碗がよく使用されたのも、この理由からである。

・強すぎた茶の密売人
宋朝は唐朝に引き続き皇帝に献上する貢茶を行ったが、これに加えて新たに茶の専売化を行った。つまり、茶の自由交易を禁じ、生産された茶を一旦全部官に納めさせ、改めて商人に払い下げるという手段をとった。また、生産量に対しても厳しい管理を行った。

宋朝は違反者に対して最高は死刑という重い刑罰を科しており、専売制をかなり重要視していたことがうかがえる。その理由は、対外政策のために茶そのものや茶を売って得た金が必要だったからだ。

つまり、北方の遼の侵攻によって和議を結んだとき、宋は毎年7万両の銀、15万匹分の絹とともに約18トンの茶を渡すことを取り決めたのだ。このように、茶は北方民族でも重要な物品となっており、政治的に利用されたのである。

また、遼や西北の西夏との国境線には常に大規模な軍を駐留させておく必要があり、その数は1000年頃で約60万人と言われている。このための駐留費は莫大なものになっていて、それを賄うための財源として専売制にした茶や塩が使われたのである。

このような国境維持軍に兵糧を納入した商人には代価を茶あるいは塩で支払った。商人はこれを一般人などに売ることで利益を上げていた。しかし、この取引にありつけるのは一部の豪商だけであり、彼らは結託して茶や塩の価格を釣り上げることで莫大な利益を得ていたのである。

このような状況では密売が横行するのは当然のことだった。正規の価格よりも少し安く売るだけで大儲けができたからである。

しかし、密売をして捕まると厳罰に処せられる。そこで密売人たちは徒党を組み、取り締まりの情報を収集し、綿密な計画を練った上で密売を行った。また武装を行い、万が一仲間が捕まった場合には官憲と戦って奪還を試みた。そして最終的には盗賊まがいの強盗なども行ようになったという。こうして密売人は「茶賊」と呼ばれるようになり、人々に恐れられる存在になって行った。

茶賊は一帯の地理に精通していたため神出鬼没で、官憲は容易に捕まえることはできなかったという。また、太守(知事)なども保身に徹し、失敗を恐れて取り締まりをほとんど行わなかった。

そこで政府は苦肉の策として密売人たちと交渉を行い、軍に編入することとした。密売人にとっても政府の後ろ盾があった方が生活しやすかったため喜んで応じたようだ。そうして彼らは「茶商軍」と呼ばれるようになる。

茶商軍は正規軍よりも勇敢で、北宋が金と争いになった時には正規軍が敗走する中で奮闘し、金の南下を阻止することもあったという。

茶商軍は南宋になっても続き、蒙古帝国軍とも戦ったが、強大な敵を打ち負かすことはできずに壊滅した。

江南の発展と首都開封のにぎわい-10~17世紀の中国の食(5)

2021-02-15 17:48:06 | 第三章 中世の食の革命
江南の発展と首都開封のにぎわい-10~17世紀の中国の食(5)
唐代(618~907年)の中頃までは黄河中下流域の中原地方が最も豊かな地域でした。ところが唐代の後半になると江南(広い意味で中国の南半分のこと)での開発が進み始め、次第に中原よりも豊かな地域に発展して行きます。そして北宋代(960~1127年)以降の中国では、江南の生産力が中原や中国全体を支えるという構図になります。南宋(1127~1279年)が華北を金に奪われながらも150年間続いたのも、豊かな江南を有していたからです。

江南で生み出された農作物の多くは運河などを利用した水上輸送によって北宋の首都開封に運ばれました。このように中国中の富が集中した開封は様々な文化が入り混じった大都市に成長します。

今回は、このような江南の発展とそれに支えられた北宋の首都開封の様子について見て行きます。

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江南の豊かさの源となったのが長江流域の高い農業生産力である。以前は開発があまり進んでいなかった長江下流域では唐代(618~907年)の終わり頃になると、以下にお話しするように新田の造成や農業技術の進歩などによって農業生産力が飛躍的に向上したのである。



長江河口域のデルタ地帯は満潮になると海水が流入するため、そのままでは農地にすることはできなかった。そこで、海水の流入を防ぐために土地の周りを堤防で囲むと同時に、降雨などでたまった水を排水する設備を備えた「囲田(いでん)」と呼ばれる水田が作られるようになった。同じように、河の一部や池を堤防で囲んで排水することで「圩田(うでん)」と呼ばれる水田も作られた。さらにいくつかの囲田や圩田の外側に大きな堤防が築かれた。

これを空から見下ろすと、張り巡らされた排水・給水路の間に堤防で守られた水田が並んでおり、さらに一番外側を大堤防が守っているイメージになるだろう。

こうして長江河口域に新しい水田が開拓されると同時に、新しいイネの品種も導入された。唐代の終わり頃にベトナムから「占城稲(せんじょうとう;チャンパ米とも呼ばれる)」という赤米が持ち込まれたのだ。

占城稲はあまり美味しくないが生育の早い早稲(わせ)で、旱(ひでり)や虫害に強く、やせた土地でもよく育ったため、従来の晩稲(おくて)を栽培できない土地でもコメを作ることができた。特に低湿地帯や新たに開拓されたばかりで地力に劣る新田に適していたと言われている。こうして従来の稲と占城稲を土地ごとに使い分けることで、長江下流域での生産力が著しく高まったのである。

ちなみに赤米が赤いのは、糠層(ぬかそう)と呼ばれる玄米の表面部分にタンニン系の赤色色素が含まれているからであり、精米すると糠層が削れて白い米粒になる。なお、占城稲(赤米)は鎌倉時代の日本にも伝えられ、生産力の向上に貢献したと言われている。

さらに栽培技術にも革新があった。その一つが「苗代(なわしろ))を作ることで、唐代の終わり頃から苗代を作って田植えを行うようになったのだ。苗代を作ると、低温などの春先の不安定な気象条件や雑草などから幼苗を守りやすく、また、良く育った苗を選んで田植えをすることで生産性を上げることができる。

もう一つが肥料の発達だ。宋の時代には「火糞」と呼ばれる肥料が使用されるようになった。これは草木を燃やして灰にしたものに人の糞尿を混ぜて作った肥料で、それぞれ単独で使用されていたものを組み合わせることで肥料の効果を高めたものと考えられる。

以上のように、イネの新品種や苗代、新しい肥料などを利用することで、1年のうちに2度のコメ作りをする2期作や、イネとムギの2毛作が行われるようになった。こうして長江下流域は「蘇湖(長江下流域)熟れば天下足る」と言われたように、農業生産の中心として確固たる地位を築いたのである。

こうして江南で生産された農作物は大運河などによって首都の開封に運ばれたが、11世紀になる頃にはその総量は年間約50万トンに達していたと見積もられている。

このように江南が農業生産の一大拠点として発展してくると、多くの人々が華北などから移住してくるようになり、江南は一段と発展することになった。

江南では当初はコメやムギなどの主食となる食糧が主に作られていたが、次第に商品価値の高い茶や酒などの嗜好品の生産も盛んになって行った。また、絹織物や陶磁器などのぜいたく品や日用品の生産も盛んになった。そして、それにともなってこれらを扱う商業が活発化した。こうして、江南から始まった生産から流通に至る大きな経済の流れは中国全土に広がり、各地で特産品が作られ全国に流通するようになったのだ。

茶は、唐代には上流階級の一般的な嗜好飲料として普及していたが、宋代になると庶民階級にも広がり、各都市には多くの茶館ができた。また茶は中国国内だけでなく、周辺の遊牧民族や日本など諸外国への重要な輸出品ともなった。宋代の茶の主な生産地は長江下流域や四川地方だった。

一方、絹織物業は江南だけでなく、山東や四川などが生産の中心となった。また、宋代に大きく躍進したのが陶磁器業で、長江南岸の景徳鎮で青磁や白磁に代表される優れた宋磁が作られた。これらの絹織物や陶磁器は日本にもたくさん輸出された。また、イスラム商人に売られて西アジアやヨーロッパにも運ばれた。

ところで、唐代までの商売は決められた地区内に限定されていて、夜間の店舗の営業は許されていなかった。しかし宋代になると、どこでも自由に店を開くことができるようになり、昼夜の区別なく営業が許されるようになった。こうして商売が盛んになり、「鎮・市・店」と呼ばれる中小の商業都市が各地に生まれて行ったのである。

北宋の首都開封は黄河と大運河が交わるところに位置し、水上輸送の一大拠点になっていた。そのため、中国全土に加えて海外からも商人がやってきて、大活況を呈していたそうだ。

最盛期の開封の様子を描いたものに下の『清明上河図』がある。これは北宋末期の画家張択端(ちょうたくたん)の作品とされており、開封の春の様子が描かれている。



この絵では大船が浮かぶ運河に湾曲した大きな橋がかけられているのが描かれており、その上を多くの人々が行き来している。そして橋の上や河岸にはひさしや大きな傘が所せましと並んでいて、食べ物か何かを売っているようだ。また、手前の河岸には瓦葺の屋根の下にテーブルが並んだ食堂のような建物も見える。

当時の記録によると、開封には様々な郷土料理の店があり、遠くからやって来た商人たちはいつでも故郷の味を楽しめたという。例えば、イスラム教徒の商人のために豚肉を使わないハラル料理を出す店や、仏教徒のための精進料理の店もあったそうだ。また、大衆向けの安い屋台から上流階級のための高級レストランまで幅広くそろっていて、誰でも開封の食を楽しむことができたという。

さらに盛り場には、芝居や手品などの様々な出し物小屋が50以上もあり、飲食店でも演劇や音楽などのショーが演じられていて娯楽性も高かったようだ。ちなみに、盛り場のはずれにはいかがわしい店もあったそうだ。

以前にお話ししたように北宋は金に攻められて華北を失い、南宋(1127~1279年)となり首都は杭州に移った。杭州は小さい街だったが、北方から逃げてきた北宋の住民を受け入れながら人口100万を超える世界屈指の大都市へと成長して行った。

杭州も開封と同じように水上輸送の拠点であったことから、たくさんの物資や商人が集まってきた。また、北方からの人口流入によって近くの長江デルタも発展し、人口数十万の大都市がいくつも生まれた。杭州はそれらの都市とも交易を行うことで、経済的な大発展を遂げたのである。

杭州の商店街には様々な商品を売る店が軒を並べ、飲食店街には各地の食や飲み物を楽しめるたくさんの店がひしめいていたそうだ。また、酒場や演芸場、そして遊女屋なども繁盛していたという。13世紀に杭州を訪れたマルコ・ポーロは杭州を「壮麗無比な大都会」と絶賛したと言われている。

安い豚肉で作った東坡肉(トンポーロウ)-10~17世紀の中国の食(4)

2021-02-11 16:51:04 | 第三章 中世の食の革命
安い豚肉で作った東坡肉(トンポーロウ)-10~17世紀の中国の食(4)
「東坡肉(トンポーロウ)」という有名な中華料理があります。これは日本食の豚の角煮や沖縄料理のラフテーの元になった料理で、揚げたり蒸したりした皮付きの豚のばら肉を醤油と紹興酒、砂糖などでじっくり煮含めて作ります。

この料理は北宋時代の政治家蘇軾(そしょく)(1037~1101年)が考案したと言われています。彼は蘇東坡(そとうば)という号の文筆家としても有名で、北宋一の詩人と言われています。なお、東坡肉の名前はこの蘇東坡から来ています。

今回は東坡肉を通して、宋の時代の食について見て行きます。


      東坡肉

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蘇軾(そしょく)は数名しか合格しなかった科挙に受かった秀才で、その後地方の役人・政治家を歴任した。しかし、宰相の王安石が進めた改革に異議を唱えたため、44歳の時に黄州(現在の湖北省)に左遷される。

左遷と言っても流罪に近く、貧しくわびしい生活を送ったと言われている。しかし、元来楽天的でユーモアのある蘇軾は晴耕雨読の生活を楽しんでもいたようだ。

貧しい蘇軾にとって安い豚肉はとっておきの御馳走だったようで、次のような詩を作っている。

 黄州好猪肉(黄州の豚肉はすばらしい)
 價賤等糞土(糞土のように値段は安いけど)
 富者不肯喫(金持ちは食べたがらないし)
 貧者不解煮(貧乏人も料理の仕方が分からない)
 慢著火(とろ火でゆっくり)
 少著水(水は少なめ)
 火候足時他自美(火が通ったら美味しくなってる)
 毎日起来打一碗(毎日起きて茶碗一杯食べれば)
 飽得自家君莫管(僕はブタみたいに腹いっぱいになってるが、君は気にすることはないよ)

この頃、豚肉は卑しい人や動物が食べるものとされていたようだ。北宋の頃の最高の肉と言えば羊肉で、それ以外にニワトリ、ガチョウ、アヒル、ウサギの肉が一般的に食べられていた。首都開封の回顧録である『東京夢華録』にはお店で出されていた料理が詳しく紹介されているが、その中に豚肉料理は一品も無い。

安かった豚肉の美味しい調理法を見つけることができて、詩を残すほど蘇軾はうれしかったのではないかと思われる。なお、黄州に左遷された時に作った料理は紹興酒抜きの醤油煮の豚肉だった。

皇帝が変わって新しい宰相になると、50歳の蘇軾は中央に呼び戻され要職につく。ところが、前の宰相王安石の政策をことごとく否定したことから、敵が増えて身の危険を感じるようになった。そこで、再び中央を去り、杭州(現在の浙江省杭州市)に太守(知事)として赴任する。この杭州で作ったのが東坡肉である。

そのいきさつは次の通りだ。

太守として赴任した蘇軾は西湖のしゅんせつ工事を行い、水道網を築いた。その結果大豊作になったことから、喜んだ住民が感謝のしるしにブタ1頭と紹興酒をプレゼントしてきたのだ。

蘇軾は調理人に、皮付き肉を大きな塊に切って、少しの水と醤油、砂糖、そして紹興酒を加え、とろ火でじっくり煮込むように指示した。ちなみに紹興酒は浙江省紹興市の鑑湖の湧水を使って醸造した酒である。

出来上がった料理はてらてらと赤く輝き、皮はサクサク、脂身はとろとろで、赤身はふっくらしてとても美味しかった。蘇軾が切り分けた豚肉を住民一軒一軒に配って回ったところ、その美味しさに皆感激して、この料理を「東坡肉」と呼んで杭州中に広めたという。

蘇軾は杭州でフグも楽しんだと言われている。当時は「命がけでフグを食べる」という言い方があったそうだが、ある人にフグ料理を出された蘇軾は何も言わずに黙々と食べ続けたらしい。周りの者がお気に召さなかったのかなと気をもんでいると、食べ終わった蘇軾は「死んでも良いくらい美味しかった!」と叫んだそうである。

美味しいものが大好きだった蘇軾だったが、羽目を外して食べたり飲んだりせず、一度に一皿の肉と一杯の酒以上には口にすることはなかったと言われている。これは身体を健康にして気力を充実させるためであり、宋代では食と健康は密接に関係しているという考え方が広まっていたそうだ。

なお、蘇軾はその後も政争に巻き込まれた結果、59歳の時に恵州(現在の広東省)に左遷され、さらに62歳の時に海南島に移された。66歳の時にやっと許されて都に戻ろうとするが、その途中で病気になって亡くなってしまった。しかし、彼が作った詩や書、そして東坡肉は現在でも大切に受け継がれているのである。


     蘇軾