食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

コンブと鰹節-近世日本の食の革命(16)

2022-02-24 17:08:46 | 第四章 近世の食の革命
コンブと鰹節-近世日本の食の革命(16)
コンブだし」と「カツオだし」は日本料理の代表的な出汁(だし)で、それぞれコンブ鰹節を煮出してとります。

コンブにはグルタミン酸ナトリウムといううま味成分が含まれており、鰹節にはイノシン酸という別のうま味成分が含まれていて、これらのうまみ成分によって料理がより美味しくなるというわけです。

西洋や中国では、動物の肉からとったエキスが料理のベースになります。このエキスには脂肪分が含まれているため、料理には濃厚な風味が加わります。一方、昔の日本人は動物の肉を食べなかったため、料理の味が素材そのままの単調なものになってしまいがちです。それを補うために発達してきたのが出汁と考えられています。

出汁が一般的に広く使われるようになるのは江戸時代からと言われています。今回は、江戸時代のコンブ鰹節、そしてそれらを使ってとった出汁について見て行きます。


鰹節(荒節)(ウイキペディアより:ライセンス

***************
中世までのコンブについては、「コンブを運ぶ-中世日本の食(11)」で詳しくお話しした。

江戸時代になって西廻り航路が確立すると、蝦夷のコンブは日本海→関門海峡→瀬戸内海というルートで大阪に運ばれるようになった。こうして大阪や京都でコンブの流通量が増えると、コンブから出汁がとられるようになる。

コンブだしは味や香りが控えめで、素材の味や香りを生かした料理に適している。京都や大阪ではたくさんの種類の野菜が手に入ったことから、これらの味を楽しむためにコンブだしが広く使用されるようになった。

また、コンブから塩コンブとろろコンブが作られたりもした。塩コンブは小さく切ったコンブを醤油と塩で煮詰めたもので、塩が吹き出ることからこう呼ばれる。江戸時代になるとコンブと醤油の流通量が増えたため、盛んに作られるようになった。

一方、大阪に集まったコンブのかなりの量が琉球に運ばれ、さらに琉球から中国へ貢物として輸出された。貢物に適さない低品質のコンブは琉球で消費されたため、琉球料理ではコンブを使ったものが多くなった。現在でも沖縄県ではコンブの消費量が多い。

コンブは大阪から江戸にも運ばれたが、品質が高いものは上方で消費されていたため、江戸に流通したものは低品質のものだった。また、上方の水が軟水だったのに対して、江戸の水は硬度が高い(ミネラル分が多い)ため、コンブだしには適していなかった。この2つの理由のため、江戸ではコンブだしは広まらなかったと言われている。

次は鰹節だ。

鰹節の材料のカツオは熱帯から温帯にかけての比較的暖かい海域によく見られる魚で、日本近海では主に太平洋沿岸に生息している。日本では縄文時代からカツオを食べてきたと考えられており、奈良時代には朝廷への貢物になっていた。

鎌倉時代以降になると、武士がカツオを「勝つ魚」と言い換えて、縁起の良い魚と考えるようになり、出陣の際によく食べられるようになった。このようにカツオを縁起物として食べる風習は江戸時代には庶民にも広がって行った。

春になって海水温が上昇し始めると、カツオは黒潮に乗って北上を始める。この時に獲れたカツオは「初ガツオ」と呼ばれて古くから珍重されてきた。初物好きの江戸っ子は狂ったように初ガツオを求めたそうで、「初ガツオは女房を質に入れてでも食え」と言われるほどだった。ただし、カツオ1本が1~3両(10万円~40万円)ほどしたため、一般庶民には手が届かなかったと思われる。

冷蔵・冷凍技術がほとんどなかった時代には、カツオは干物にされることが多かった。奈良時代になると、腐りにくくするために、煮てから干すようになった。

カツオは干すととても固くなることから『古事記』には「堅魚(カタウオ)」と記載され、このカタウオが変化してカツオになったと考えられている。そして、魚と堅の字を組み合わせて「鰹」という漢字が作り出された。

干して堅くなったカツオは小さく割ってから煮て食べられていたが、室町時代には現在の削り節のように、削ったものが食べられるようになったと言われている。また、煮汁は調味料としても利用された。

現在の鰹節は、煮たカツオを煙でいぶすことで乾燥させるとともに、香りづけを行っている。この方法は17世紀の半ばに紀州の漁師が考案したと言われている。こうして出来上がったものは「荒節(あらぶし)」と呼ばれ、現在削り節(花かつお)として出回っているもののほとんどは、荒節を削ったものだ。

荒節にはまだ水分が残っているため、長期保存すると悪いカビが生えてダメになってしまうことがある。これを防ぐために、良いカビを積極的に生やす方法が17世紀の終わり頃に土佐で開発された。

繁殖したカビは長期間をかけて鰹節から水分を除去し、さらに脂肪分を分解することで雑味を除く働きをする。こうして「枯節(かれぶし)」と呼ばれるカチコチの鰹節が出来上がる。私たちが目にする黄土色の鰹節がこの枯節だ。

枯節の製造方法は18世紀から19世紀にかけて、土佐から紀州や薩摩、伊豆、安房などに広まって行った。現在の鰹節の主な生産地は鹿児島県と静岡県で、この2県で全国の99%の生産量を占めている。

なお、荒節でとった出汁はうま味が濃いが少し粗野な感じがするのに対して、枯節でとった出汁は上品な味わいを特徴とする。と言っても、コンブだしよりもはるかに風味が強く、魚介類によく合うことから、関東地方で急速に広まって行った。

また、鰹節は「勝つ魚武士」と読めることから、江戸時代には縁起物の贈答品として武士だけでなく、裕福な商人たちの間でも人気を博した。

なお、コンブだしとカツオだしを混ぜ合わせた「合わせだし」も江戸時代中頃に利用されるようになった。合わせ出しにはグルタミン酸ナトリウムとイノシン酸が含まれており、これらの「相乗効果」によって、深いうま味が生み出されるのである。

*今回で「近世」の章が終了します。次回から「近代」が始まります。

江戸時代の酒-近世日本の食の革命(15)

2022-02-20 20:46:26 | 第四章 近世の食の革命
江戸時代の酒-近世日本の食の革命(15)
文化人類学的には、江戸時代は飲酒が「ハレ」から「」に変わる時代と見ることができます。

「ハレ」とは祭りなどの非日常の行いであり、「ケ」とは日常生活のことを指します。つまり、それまでは祭りなどのハレの場で飲まれていた日本酒が、江戸時代になると日常生活で飲まれるようになったということです。例えば、江戸時代には「居酒屋」が江戸を皮切りに全国に普及するようになり、庶民も気軽に酒を楽しむことができるようになりました。

このような背景には、江戸時代になって日本酒の生産量が大幅に増えたことがあります。日常的に飲んでも大丈夫なほどに日本酒の生産が増えたというわけです。

今回は「日本酒」を中心に、江戸時代の酒について見て行きます。



***************
古代の酒は神様にお供えした後に集まった者たちで飲むものであり、神事に欠かせないものだった。各神社に関連した寺ではお神酒(おみき)が醸造されたことから、関西、特に奈良の寺が日本酒醸造の中心だった。

室町時代には、麹米と仕込み米(蒸米)に精白した米を用いる「諸伯(もろはく)」や、麹米と仕込み米を何度かに分けて加えて行く「段仕込み」、加熱殺菌を行う「火入れ」などの技術が開発され、良質の日本酒が醸造されるようになった。そして、このような新規技術は寺から伊丹などの民間の造り酒屋にも広まって行った。

しかし、織田信長や豊臣秀吉が強大な勢力を有していた寺院を弾圧した結果、寺での酒造りは廃れてしまい、民間の造り酒屋が酒造りを担うようになる。

江戸時代になると、江戸への輸送の便が良い大阪府や兵庫県の沿岸部での酒造りが盛んになって行った。特には良水にも恵まれたことから、日本酒の一大生産地に成長した。このように関西で醸造された日本酒は「下り酒」として、「樽廻船(たるかいせん)」に乗せられて江戸に運ばれた。

江戸幕府は生活必需品を上方に頼るのを嫌って、関東での「地廻り酒」の生産を奨励したが、美味しい酒を造ることはできなかった。一方、上方の酒の生産量を抑制するような政策が取られた結果、18世紀末頃から尾張や三河などの東海地方の「中国酒」の生産が増えたが、やはり、上方の酒に匹敵するものにはならなかった。その結果、江戸時代を通して日本酒の7~9割は上方で造られていたと推測されている。

なお、江戸っ子の「初物好き」は有名で、上方の新酒をどれだけ早く江戸に運ぶかと言うレースが冬の風物詩になっていたと言われている。兵庫の西宮を出発した樽廻船は、おおよそ6日間で江戸に到着したらしい。

ところで、日本酒醸造の多くは冬場に行われるが、これが始まったのは江戸時代のことだ。

江戸時代初期までの日本酒造りは四季を通して行われていた。しかし、冬場の方が酵母の働きを上手にコントロールできることが分かり、冬場に仕込みを行う「寒造り(寒仕込み)」の技術が1667年に伊丹で確立される。さらに、食用のコメを確実に確保したい幕府の思惑から、1673年にはコメの収穫後に行われる寒造りだけが許可されるようになった。こうして、冬場の日本酒造りが定着して行ったのである。北陸などの寒村出身の杜氏が生まれたのも、寒造りのはじまりがきっかけとされている。

さて、江戸に着いた酒は下り酒問屋が荷受けしたのち、大卸や仲卸の手を経てから酒屋に渡され、一般に販売された。問屋や卸、酒屋は儲けを多くするために、それぞれが水を加えたため、店で買うときには2~3倍に薄まっていたと言われている。ただし、大名屋敷などに販売される酒は薄められていなかったため、酔いやすかったらしい。

江戸時代は太平の世であったため、それまでよりもコメの生産量が増えるとともに、水車を利用した精米技術も発展することで、日本酒の生産量も増えて行った。また、江戸は単身の男性が多かったため、日本酒の消費量も多くなりやすかった。

造り酒屋で武士などに酒を飲ませることは鎌倉時代から行われていたが、18世紀半ばの江戸では、酒の小売店の店先で一般客に酒を飲ませるところが現れるようになった。特に、江戸場近くの神田にあった豊島屋は人気を博した酒の小売店で、酒と一緒に豆腐田楽を出しところ大好評となる。これをきっかけに酒を飲ませるのを専業とする「居酒屋(煮売居酒屋)」が増えて行った。こうして19世紀の初めの江戸には1000件以上の居酒屋が営業していたと言われている。そして、この居酒屋が地方や全国各地に広がって行った。

このようにして、江戸時代には特別なハレの日に飲んでいた酒は日常のケの日に飲まれるようになって行った。それでも、自宅で一人で飲むようなことはまだ行われず、店などの人が集まるところで飲むのが普通だった。飲酒が完全に日常化するのはもう少し先の話になる。

なお、19世紀初め頃の下り酒は1合20文くらいで飲めたらしい。今の価格で200円から600円だから、現代とそれほど変わらない。また、下り酒よりも安い地廻り酒や中国酒も販売されていたし、麹米に玄米を使った「片白かたはく)」やすべて玄米で造った「並酒(なみざけ)」はもっと安かった。また、さらに安い濁酒どぶろく、だくしゅ)もあり、貧しい者でも酒を飲むことができた。

最後に、蒸留酒である「焼酎」について見て行こう。

イスラムを発祥とする蒸留技術は14世紀の終わりから15世紀の初めにかけてタイから琉球に伝わったとされる。琉球ではこの技術を用いて「泡盛」が醸造されるようになった。

16世紀になると、蒸留技術は九州に伝わり、さらに日本各地に広まって行った。九州南部のように暖かくて日本酒造りに適さない土地では、コメやムギ、ソバ、サツマイモをコウジカビと酵母で発酵させた醪(もろみ)を蒸留することで、「焼酎」が造られるようになった。

一方、日本酒が醸造できるところでは、主に低品質の日本酒の醪から米焼酎が作られるとともに、日本酒をしぼったあとの酒粕を蒸留することで「粕取り(かすとり)焼酎」が造られるようになった。また、このような焼酎は日本酒に加えられて、「柱焼酎」と呼ばれる酒が造られた。これは保存性を高めるためだったと考えられている。江戸でも、濁酒を造っていた業者は、酒が腐りやすい夏には焼酎を造っていたと言われている。

江戸時代の果物-近世日本の食の革命(14)

2022-02-17 22:02:35 | 第四章 近世の食の革命
江戸時代の果物-近世日本の食の革命(14)
今回は江戸時代の果物の話です。

17世紀の終わり頃まで、食事以外に食べる軽い食べ物はひとまとめにして、「菓子(くだもの)」と呼んでいました。例えば、中国から伝来した「唐菓子」は「とうくだもの」と読みます。そして、果物も菓子に含まれていました。

しかし、江戸時代になって和菓子作りが発展すると、両者は区別されるようになります。その結果、人の手で作った和菓子は「菓子(かし)」と呼ばれるようになりました。一方の果物は、江戸では「水菓子」、上方では「くだもの」と呼ばれました。

それでは、江戸時代にはどのような果物が食べられていたのでしょうか。



***************
江戸時代の人々も、現代人と同じように甘い果物が好きだったようだ。しかし、現代とは異なり、甘い果物は限られたものだった。その中で、甘い果物として人気があったのが、「ミカン」と「カキ」、そして「ナシ」だ。

ミカンは柑橘類の一つだが、最近の研究によると、柑橘類の原産地はヒマラヤ山脈の南東部と考えられるらしい。最初は単一種だったものから、約800万年前に10種類の新種が進化し、これらが交雑することで、ミカンやグレープフルーツ、レモン、ライムなどそれぞれの先祖が誕生するとともに、アジアやヨーロッパに広がって行ったと考えられている。

人類は早くから柑橘類の有用性に気が付いて、栽培を行うとともに、品種改良を進めてきた。4000年以上前の中国の記録からは、その当時、複数の柑橘類が栽培されていることがわかるという。

さて、日本に目を向けると、「タチバナ(橘)」という日本固有の柑橘類がある。

「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」

と古今和歌集にあるように、古くから日本人に親しまれてきたものだ。しかし、タチバナは果実を食べて楽しむのではなく、花や葉を鑑賞するのが主だった。

一方、中国からはユズやダイダイ、キンカン、ミカンなどが食用や薬として伝わった。中でも、ミカンの一品種の「コミカン(小ミカン)」は15~16世紀に肥後(熊本県)や紀州(和歌山県)、駿河(静岡県)で栽培が盛んになり、江戸時代には代表的な果物になった。

特に紀州のコミカンは甘くて美味しいと評判だったという。これを背景に、紀伊国屋文左衛門が紀州から江戸にミカン(コミカン)を運んで莫大な富を築いたという伝説が生まれた。

なお、現在私たちがよく食べる「ウンシュウミカン(温州ミカン)」は、1600年頃の薩摩(鹿児島)で、コミカンとクネンポという柑橘類との交配から生まれた株の突然変異種で、種がないのを特徴とする。しかし、江戸時代には種無しは縁起が悪いということであまり食べられず、広く食べられるようになったのは明治になってからだ。それ以降は、種のあるコミカンに代わって、日本を代表するミカンになった。

次はカキの話だ。

カキは中国の揚子江沿岸が原産地と考えられている。日本には弥生時代に栽培種のカキが中国から伝わったと考えられている。しかし、その頃のカキはすべて渋柿で、食べるためには干し柿などにするしかなかった。干すことで渋みの元のタンニンが水に溶けなくなり、食べても渋みを感じなくなるのだ。

鎌倉時代の1214年になると、神奈川県川崎市で突然変異によって甘柿が誕生したとされている。なお、この甘柿は不完全甘柿と呼ばれるもので、十分に熟れるまではある程度の渋みが残る。

江戸初期になると、渋みがほとんどなく甘みが強い「御所柿」が奈良で誕生する。これは「完全甘柿」と呼ばれるもので、現在の甘柿のはじまりだ。江戸末期には、この御所柿から接ぎ木によって現代でも有名な「富有柿」が生まれた。

このような甘柿は18世紀の終わりにヨーロッパに伝わり、西欧の人々にもメジャーな果物になって行った。その結果、カキの学名には「Diospyros kaki」とkakiが採用されることとなる。

最後はナシだ。

ナシは中国が原産地で、古くに日本に持ち込まれたと考えられている。弥生時代後期の登呂遺跡からナシの種子が見つかっていることから、日本人は遅くともその頃にはナシを食べ始めていたようだ。

平安時代以降も庭にナシの木を植えるなどして、ナシの味を楽しんできた。室町時代の記録からは、その頃の日本の主要な果物だったことが分かるという。しかし、昔のナシは今ほど甘くなかった。甘くなったのは江戸時代の中頃だ。

18世紀になると各地に農園や果樹園が作られて作物の品種改良が進められたが、ナシも1000種もの新しい品種が生み出され、その中に甘い品種が見つかったのだ。さらに、甘い品種同士を交雑させて、さらに甘いナシを生み出す努力が続けられた。こうして少しずつナシは甘くなっていった。

ミカン・カキ・ナシ以外には、イチジクが17世紀に中国もしくは南蛮人から伝わったと言われている。イチジクも甘かったため、18世紀初頭には全国の各地に広がり、庭先などに植えられるようになった。

江戸時代の和菓子(2)-近世日本の食の革命(13)

2022-02-12 10:15:52 | 第四章 近世の食の革命
江戸時代の和菓子(2)-近世日本の食の革命(13)
現在、東京の立川市で、将棋の王将戦第4局が開催されています。もし、この対局で挑戦者の藤井聡太竜王が勝てば、最年少の五冠達成になります。

ところで、藤井竜王はどうも和菓子(餡子?)好きらしく、前回の対局でも、会場のホテルが準備したおやつの中から羊羹を選んで食べていたということです。毎度のことですが、この羊羹は大きな話題となり、ホテルにはたくさんの問い合わせや注文が相次いでいるそうです。

さて、羊羹には蒸羊羹(むしようかん)と練羊羹(ねりようかん)があり、現在では羊羹のほとんどが練羊羹になっています。ちなみに、藤井竜王が食べた羊羹も練羊羹です。

今回は、練羊羹をはじめとして、江戸時代に誕生した和菓子について見て行きます。


桜餅(ウイキペディアより:ライセンス

***************
練羊羹(ねりようかん)
練羊羹が登場する前に作られていたのが蒸羊羹で、これは小豆の粉にくず粉、小麦粉、もち米粉などを甘味料と混ぜて蒸したものだ。蒸羊羹は水分量が多いのであまり日持ちしない。現代でも「栗蒸羊羹」などがよく食べられている。

一方の練羊羹はくず粉、小麦粉、もち米粉の代わりに、寒天を使って作られる。寒天を砂糖と小豆の粉と一緒に練りながら煮詰め、冷やして固めると練羊羹ができ上る。練羊羹は、1800年頃の江戸で、紅谷志津摩もしくは喜太郎という人が作り始めたとされるが、真相は定かではない。

練羊羹は日持ちがよく、保存状態が良いと1年以上もつと言われている。また、味わいが深くて食感も良かったため、多くの人々に好評で、またたく間に全国に広まって行った。

桜餅(さくらもち)と花見団子
桜の花を見て楽しむ花見は平安時代に貴族を中心に始まった風習だが、時代とともに武士階級にも広がり、江戸時代中頃までには一般民衆も花見を行うのが一般的になった。

江戸では、徳川家の菩提寺となった寛永寺に桜が植えられ、花見の名所になった。しかし、庶民による歌や踊り、飲食は禁止されていた。

そんな中で、一般庶民が気楽に花見を楽しめる場所を作ったとされるのが8代将軍の吉宗だ。彼は、生類憐みの令以来廃止されていた鷹狩を復活させたのだが、鷹狩を行うと庶民の生活の場を荒らすことになる。そこで彼は、そのお詫びとして一般庶民が気楽に花見を楽しめる場所を作ったと言われている。

吉宗は1717年頃から浅草の隅田川堤防や飛鳥山などに桜を植えさせたとされる。また、品川の御殿山や玉川上水などにも桜が植えられ、桜の名所となった。

このように植樹された桜から生まれたのが「桜餅」だ。桜餅(長命寺桜餅)は、隅田川のほとりに建つ長命寺の門番が1717年に考案したとされる。桜から落ちてくる大量の落ち葉に困った門番が、小麦粉で作った生地でこしあんをはさんだ菓子を塩漬けした桜の葉で包むことを思いついたと言われている。

この桜餅は大人気となり、毎年大量の桜の葉が塩漬けされるようになった。1824年には77万枚もの桜の葉が塩漬けされたと記録されている。

また、大阪でも長命寺桜餅にならって桜餅が作られた。ただし、大阪の桜餅は、ツブツブとした道明寺粉の生地にこしあんを詰めたものを桜の葉で包んだもので、江戸のものとはかなり違っている。

一方、桜餅とともに花見につきものである桜色・白色・緑色の「花見団子」は、豊臣秀吉が1598年に宇治の醍醐で盛大な花見会を催したときに出されたものがルーツとされている。これが江戸に伝わり、江戸時代中頃からは花見でよく食べられるようになった。団子が甘くなったのもこの頃からと言われている。

余談だが、現代の日本でサクラの大部分を占めるソメイヨシノは江戸末期から明治初めにかけて生み出された品種で、江戸時代にはさまざまな品種の桜が植えられることが多く、開花時期がずれるため、長い間花見を楽しむことができたらしい。

大福餅
餅の中に甘い小豆餡がたっぷり入った大福餅は、現代でも人気の和菓子だ。餡の中にイチゴが入ったイチゴ大福や、小豆餡の代わりにマロンクリームが入ったモンブラン大福なども考案され、今でも進化を続けている。

大福餅の先祖は、鶉焼き(うずらやき)と呼ばれる塩味の小豆餡が入った餅だ。その形が鶉のように丸くふっくらとしていて大きかったことからそう名付けられたという。一つ食べると満腹になったため「腹太餅」とも呼ばれていたそうだ。

大福餅のはじまりはある貧しい未亡人の工夫にある。塩味の小豆餡の代わりに砂糖を入れた小豆餡を入れてみたのだ。これがとても美味しかったので、1771年に食べやすいように小ぶりにして売り出した。名前も「大福餅」にしてみたところ、美味しくて縁起が良いと大評判となり、現代にまで残る和菓子になったのだ。

さて、6月16日は「和和菓子の日」となっている。これは、西暦848年(嘉祥(かしょう)元年)の6月16日に仁明天皇が16個の餅や菓子を神前にお供えして、健康を祈願したという故事にちなんだものだ。

江戸時代には、6月16日の嘉祥の日に諸大名と旗本を江戸城の大広間に集め、将軍が神様にお供えした餅や菓子を配る儀式が執り行われた。大名と旗本は屋敷に帰ると、宴会を開き、その餅や菓子を家臣に配ったという。こうして将軍の威光を武士社会の末端まで知らしめていたと言われている。

江戸時代の和菓子(1)-近世日本の食の革命(12)

2022-02-09 13:23:06 | 第四章 近世の食の革命
江戸時代の和菓子(1)-近世日本の食の革命(12)
日本でも欧米でも、いわゆる菓子と呼ばれるものの多くは砂糖が入っていて甘いものです。もし、地球上に砂糖がなかったら、多くの菓子が現在のものとは別物になっていたと思われます。

砂糖の普及は菓子作りの進歩にとても密接に関係してきました。例えば、ヨーロッパでは、17世紀から18世紀にかけて砂糖が手に入りやすくなった結果、菓子作りの技術が大きく発展しました。同じように日本でも、江戸時代になって砂糖が広く普及するようになって、現在私たちが口にする和菓子が作り出され始めました。そして、江戸末期までに現在の和菓子の大部分が誕生します。

一方、このような和菓子の発展には、砂糖以外の材料が入手しやすくなったという背景もあります。例えば、和菓子には、米粉や餅粉、小麦粉などの穀物の粉が使われていますが、江戸時代になると一般庶民も石臼を所有できるようになり、和菓子作りに様々な粉を使えるようになったのです。

今回は、以上のような江戸時代の和菓子の発展について見て行きます。



***************
平安京以来、京都が菓子作りの中心だった。これは菓子の消費者が京都に多かったからだ。つまり、菓子は貴族の宴には欠かせなかったし、貴族は日常でも餅などの菓子を食べていた。また、餅は京都にたくさんある寺社でのお供え物としてよく作られていた。

鎌倉時代になると中国から帰国した留学僧や中国人の僧によって禅宗が日本に伝えられ、鎌倉仏教として武士や庶民に広がって行った。この禅宗が新しい菓子生み出すきっかけとなる点心をもたらした。

禅宗では眠気を覚ますために茶を飲んでいたが、その時の茶うけとして食べられていた簡単な食事が点心だ。現在は菓子となっている羊羹(ようかん)や饅頭(まんじゅう)は中国から伝わった点心で、菓子ではなく料理の一つだったのだ。なお、中国では羊羹や饅頭には羊肉が詰められていたが、肉食が禁じられていた日本では塩味の小豆餡が代わりに使われた。

16世紀に入ると、羊羹や饅頭は料理としてだけでなく、砂糖などで甘く味付けされて菓子としても食べられるようになった。この時代には裕福な商人や武将を中心に茶の湯が流行したが、甘い羊羹や饅頭は茶菓子として取り入れられることで、菓子として定着して行った。

また、茶人たちは新しい菓子を創作するとともに、金平糖などの砂糖を使った南蛮菓子も積極的に取り入れた。このように茶の湯で食べられた菓子はどれも高価で手が込んでおり、民衆の手に届くようなものではなかった。

一方、室町時代後半になると、京都の有名な寺社の門前などで茶と一緒に、団子・餅などの素朴な菓子を参拝者に販売する茶屋が登場し、民衆も気軽に菓子を食べられるようになってきたと言われている。

17世紀の江戸時代になっても同じような状況が続いていたが、元禄時代(1688~1704年)の頃になると、上方(京都・大阪)を中心に元禄文化が花開き、和菓子の世界は飛躍の時を迎える。

その原動力となったのが砂糖の輸入量の増加と、石臼の普及による新しい「米粉」の開発だ。この頃までに、下記のような「上新粉」「白玉粉」「みじん粉」「道明寺粉」などの米粉が作られるようになったのだ。

上新粉:うるち米を水洗いしてから製粉し、ふるいわけしたもの。
白玉粉:もち米を水洗いし、水漬けした後、水を加えながら製粉したもの。
みじん粉:もち米(又はうるち米)を烝煮後、乾燥し、焙煎して製粉したもの。
道明寺粉:もち米を蒸した後、粗めにひいたもの。

上新粉からは柏餅、ちまき、外郎(ういろう)などが作られるようになった。また、白玉粉からは和菓子の重要な素材である「求肥(ぎゅうひ)」が作られる。求肥は白玉粉に砂糖や水飴を加えて練り上げた柔らかい餅で、砂糖の保水効果によって時間がたっても柔らかさが失われないため、和菓子に広く利用されるようになる。

みじん粉は菓子の表面にまぶして装飾に使われたり、落雁(らくがん)の材料に使われたりする。また、道明寺粉はツブツブ・モチモチの食感が特徴で、次回でお話しするように関西風の桜餅に使われたり、おはぎの材料になったりする。

また、17世紀半ばには、トコロテンから「寒天」を作る方法が開発され、これも和菓子に利用されるようになった。テングサという海藻の煮汁を固めたものがトコロテンだが、これを凍結して乾燥させると、雑味が抜けた寒天の粉末ができる。これをもう一度水に入れて熱して固めたものは海藻臭さがなく、美しく透き通っていたため、和菓子の良い材料になったのだ。

こうして、京都を中心に洗練された新しい和菓子が作られていった。そのコンセプトは「五感を楽しませる」で、味覚だけでなく、視覚・嗅覚・触覚(食感)・聴覚(食べた時の音)のすべてを心地よく刺激する菓子が創作された。当時の記録からは、色とりどりの200種類以上の菓子があったことが推定されている。

このような京菓子は「上菓子」と呼ばれ、宮中(御所)に納められるとともに、公家や上級武士、裕福な商人たちが催した茶会などの集まり(サロン)で重用された。また、商人街や本願寺の門前町で和菓子を売る店が増えて行った。他の門前町の菓子も、砂糖の普及や新しい菓子の登場の影響をうけて、大きく進歩したという。

こうして一つの完成形を迎えた上菓子は全国に広がって行く。江戸では京都の和菓子屋が店舗を構え、一部の店は幕府の御用達となった。また、上菓子の作り方を習った職人たちも様々な土地で店を開いた。

このように各地に根付いた上菓子はそれぞれの土地で独自の工夫が施されて、現代に残る銘菓が生み出されて行く。特に江戸は京都に並ぶ菓子作りの中心地として発展して行った。

一方、江戸などで一般の民衆が食べる菓子も砂糖の普及とともに発展した。ただし、高価な白砂糖ではなく、精製度の低い黒砂糖が主に使用されたという。そうして作られた菓子は「雑菓子」と呼ばれ、これがのちに「駄菓子」になったとされている。

(次回は、江戸時代に誕生したいろいろな和菓子の話題です。)