食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

ラクダとベドウィン-イスラムのはじまり(2)

2020-09-30 22:49:43 | 第三章 中世の食の革命
ラクダとベドウィン-イスラムのはじまり(2)
アラビア半島の面積は約260万平方kmで、世界最大の半島である。ほとんどの地域は一年中乾燥しており、河川はほとんどが枯れている。半島の約三分の一は砂漠で、中でも南部に広がるアラビア半島最大のルブアルハリ砂漠の面積は約65万平方kmで、日本の総面積の約38万平方kmよりもずっと広い。

アラビア半島の紅海沿岸地域は「ヒジャーズ」と呼ばれ、山脈が連なっており比較的降雨に恵まれている。このヒジャーズ地方にイスラムの二大聖地であるメッカとメディナがある(下図参照)。



ヒジャーズ地方では古くから農耕が行われており、ナツメヤシなどが栽培されていた。また、アラビア半島南部で産出される香料である乳香をエジプトなどに運ぶための中継地になっていた。乳香はカンラン科の木の樹液が固まったもので、乳白色をしていることからこの名前が付いた。乳香は高貴な香りがすることから、古代エジプトやユダヤ教では神にささげる神聖な香として用いられた。

アラビア半島に住む人々はアラブ人と呼ばれ、「ベドウィン」と言われる遊牧民と商人が主である。アラブ人の言葉はユダヤ人のヘブライ語と似ており、アラブ人とユダヤ人は同じセム族に属していたと考えられている。イエス・キリストが話したと言われているアラム語もセム族の言葉の一つである。

また、イスラム教では旧約聖書も新約聖書も神の言葉を記した書(啓典と呼ぶ)であり、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は同じ神を信仰していると言っても間違いではない(この話は次回に詳しく触れることにします)。

さて、ベドウィンはヒツジやヤギ、ラクダを飼育する遊牧生活を送っていた。食用としてはヒツジが特に重要で、旧約聖書ではヒツジとハトを神にささげている。アラブ人にとっては、客にヒツジを丸々一頭ふるまうのが最大級のおもてなしとされているらしい。そして客は目玉を丸呑みするのが礼儀と言う。

アラビア半島の家畜としては、やはりラクダが特徴的だ。ラクダは乾燥に強く、砂漠ではラクダは必需品となる。最近の研究によると、地中海東岸部でラクダが家畜化された時期は紀元前10世紀頃ということである。



ラクダにはヒトコブラクダとフタコブラクダがいるが、アラビア半島にいるのはヒトコブラクダの方だ。一般的にヒトコブラクダの方が暑さに強いと言われている。このコブの中には水が入っていると思っている人もいるが、これは間違いで、ラクダは水を飲まなくても数日間は生きられるために、このような俗説が生まれたと考えられている。

実は、ラクダのコブの中に入っているのは脂肪だ。この脂肪が水の元になっている。脂肪を分解してエネルギーを生み出す時に一緒に水ができるのだ(脂肪中の水素原子に呼吸で取り込んだ酸素が結合することで水ができる)。ラクダはこの水を利用している。

同じように渡り鳥も脂肪を分解することで水を得ている。渡り鳥は渡りをする前にエサをたくさん食べて体脂肪量を増やす。一般的に遠くまで渡りをする鳥ほど体脂肪率は高くなる傾向にある。中には数千キロの距離を飛び続ける渡り鳥もいるが、脂肪を分解してエネルギーと水を生み出すことで休むことなく飛び続けることができるのだ。

ラクダにはコブ以外に水不足に強い仕組みがある。それが血液や体液の中に水を貯える仕組みだ。たいていの哺乳類は大量の水分を摂取すると、血液や体液の浸透圧が低下して体の機能が低下する「水中毒」が起こる。ところがラクダの体は低浸透圧にも耐えられるようになっているのだ。ラクダは水が飲める時には何十リットルもの水を飲んで体の中に貯えることで水が飲めない時に備えている。

このように乾燥に強いだけでなく、ラクダの体は砂漠で活動するために様々な進化を遂げている。足の裏は大きく平たくなっていて、歩く時に砂に埋まらないようになっている。また、砂を吸い込まないように鼻の穴を閉じることができるし、まつ毛は二重になっていて砂が入りにくくなっている。このまつ毛のおかげで人間を見下したような独特の目つきになるが、ベドウィンはその理由をラクダの方が人間よりアッラーのことをよく理解しているからだとしているらしい。

ラクダは移動手段だけでなく、食肉としても利用されるし、乳もそのまま飲まれたりヨーグルトにして食べられたりする。ラクダの乳は脂肪分が少ないため、チーズやバターにはなりにくい。なお、ラクダはハラール(イスラム法で許された行いや食べ物)であるため、食べても良いことになっている。

ベドウィンはラクダに乗ってヤギやヒツジを飼育する遊牧生活を送ったり、交易品を運んだりしていた。そして、点在するオアシスで農耕や商売をする人々と物品のやり取りをしたのだろう。こうした生活が繰り広げられていたアラビア半島でイスラム教が生まれるのである。

2つの古代ペルシア帝国ーイスラムのはじまり(1)

2020-09-28 23:10:55 | 第三章 中世の食の革命
3・1 イスラムのはじまりと食
2つの古代ペルシア帝国
古代オリエントの時代になるが、西アジア(中東)の歴史を分かりやすくするために古代ペルシア帝国についてまず見て行こう。

古代ペルシア帝国は、イラン高原の南西部のペルシア州(現在のファールス州)(下図参照)を拠点としていたペルシア人が建てた2つの帝国のことを指す。1つ目のペルシア帝国はアケメネス朝ペルシア(紀元前550~前330年)で、もう1つがササン朝ペルシア(226~651年)である。



紀元前7世紀頃にアーリヤ人の一部がペルシア州に進入し、ペルシア人となった。ペルシア州は高度が1000メートル以上の高原地帯で、降水量が少ないため自然の降雨を利用した農業である天水農業では十分な作物を育てることができない。そこで開発されたのが「カナート」と呼ばれる灌漑設備である。

カナートについては以前に「ペルシアの新しい灌漑技術」で紹介したが、山麓部の水を地下水路によって耕作地まで運ぶものだ。ペルシア人は主に牧畜を行いながら農耕でコムギやナツメヤシなどを栽培していたようだ。
「ペルシアの新しい灌漑技術」はこちら

もともとペルシアは中東の中では小国にすぎず、イラン高原全域を支配していた大国のメディアに服属していた。ところが紀元前550年にメディアを滅ぼすと、さらにメソポタミアを支配し、紀元前525年にはエジプトを併合してオリエントを統一した(下図参照)。



その後アケメネス朝ペルシアはギリシアの征服を目指してペルシア戦争(紀元前500~前449年)を始めるが、マラトンの戦い(紀元前490年)などで敗れ、最終的にギリシアと和平条約を結ぶことでペルシア戦争は終結した。しかし、それ以降もギリシア征服のために干渉を続けた。

ところが、王族内で後継者争いが起こるなどして国力が低下したところに、ギリシア・マケドニア王国のアレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)(紀元前356~前323年)が攻め込んできた。紀元前331年にアレクサンドロス軍とペルシア軍はチグリス川上流のガウガメラで一大決戦を行い、アレクサンドロス軍が勝利した(ガウガメラの戦い)。アレクサンドロス3世はペルシアの中枢都市ペルセポリスを制圧し、また、逃げたペルシア王が部下に殺された結果、アケメネス朝ペルシア帝国は滅亡した。

その後、アレクサンドロス3世が急死すると、彼の征服した地はマケドニアの後継者によって分割統治されることとなった。イラン高原を含む中東の分割統治地域は紀元前312年にセレウコス朝と名乗った。

その後の紀元前2世紀頃には、セレウコス朝に属していた遊牧民族の国家であるパルティアがイラン高原を支配した。パルティアはギリシアの文化や制度を引き継ぐが、ローマとの抗争によって次第に弱体化した。

紀元後226年、農耕民族を母体とするササン朝ペルシア(226年~651年)がパルティアを破って中東を支配する。ササン朝はペルシア州を起源とすることから、アケメネス朝の正統な継承者であると主張した。

ササン朝はイラン高原に加えて230年にはメソポタミアを征服し、621年にはエジプトや地中海西岸域を含む広大な地域を支配下におさめた(下図参照)。



ササン朝はローマ帝国や東ローマ帝国、そしてそれを引き継いだビザンツ帝国と領土をめぐって長期間にわたって何度も激しく争った。この戦いによってメソポタミアから東地中海を結ぶ交易路が大きなダメージを受ける。

商人たちは戦乱を避けるためにアラビア半島南部を通る迂回路を使用するようになり、この結果ムハンマドが活動していたメッカなどが栄えることになる。そして、ムハンマドによってイスラム教が創始された。7世紀にアラビア半島に勃興したイスラム勢力は651年にササン朝ペルシアを滅ぼした。

ここでペルシア帝国の食について見ておこう。
イスラム教以前のイランの料理の記録は少ししか残っておらず、そのほとんどが宮廷料理についてだ。この料理の特徴としては、以前に支配していたギリシアの食文化や周辺のインドやオリエントなどの食文化の影響を受けたものだった。

ペルシア人たちはニワトリの肉と卵がとても好きだったようだ。ニワトリや家畜の肉は主に焼いて食べていた。ササン朝ペルシアはゾロアスター教を国教としたが、この宗教は火をあがめており、肉を焼くことには儀式的な意味もあったようだ。

ギリシアからはブドウが持ち込まれており、かなり大掛かりな施設でワインの醸造を行っていた。ササン朝時代の銀製の豪華なワインの盃が現在に伝えられている。また、コメ、タマネギ、挽肉や香味野菜などを混ぜたものをブドウの葉で包んだ料理の記録が残っている。この料理はトルコで現在も食べられており「ドルマ」と呼ばれている。

       ドルマ

ペルシアでは、熱い料理と冷たい料理を同時に食卓に出す風習があったが、これもギリシアの医学理論に基づいていたと考えられている。

一方、インドからはサトウキビが持ち込まれており、砂糖を使った菓子などが作られた。また、インドから入ってきたものだと思われるが、コショウ・ターメリック・シナモン・サフランなどの香辛料が料理の調味料として使われていた。コメをつぶした料理(餅のようなもの?)の記録もある。また、牛乳を使った料理も食べられた。

これ以外に、小麦粉でとろみをつけた野菜のスープや鶏肉のマリネ、肉と穀物をすりつぶしてペースト状にした料理などが人気だったようだ。

第三章 中世の食の革命

2020-09-26 18:31:27 | 第三章 中世の食の革命
第三章 中世の食
中世の世界へ
今回から中世の世界の食について見ていく。ここで中世について概観してみよう。

「中世」と言う言葉は、もともと17世紀のヨーロッパの歴史学者が言い出したもので、ローマ時代を「古代」とし、ルネッサンス以降を「近代」として、その間をつなぐ時代が「中世」となる。このような形で時代を区分する根底には、ギリシア・ローマ時代の古典文化がヨーロッパ文化の基礎となっており、古典文化の復活(ルネッサンス)を素晴らしいものととらえる考え方があった。そして中世とは、素晴らしい2つの時代に横たわる「暗黒時代」とみなされたのである。

実際にヨーロッパの中世には目立った文化芸術作品は多くは生み出されなかった。しかしこの時代は、ギリシア・ローマ時代の古典文化とキリスト教の文化、そしてゲルマン民族の文化が融合することによって、現代のヨーロッパ文化の基礎が形成されて行く大切な時期である。例えば「ローマ法王」もこの時代に誕生する。

また、11世紀になって農耕技術が飛躍的に発展すると、耕作地が大きく拡大し、食料生産量も増加した。その結果、ヨーロッパの人口は大幅に増えた。ちなみに、現在耕作されているヨーロッパの農地のほとんどが中世に作られたものである。

西アジア(中東)に目を向けると、イスラム勢力の勃興と拡大という大きな出来事が起こる。ムハンマドが610年頃にイスラム教を創始すると、イスラム勢力はまたたく間にアラビア半島の主要部分を統一し、さらに数十年の間にペルシア、シリア、メソポタミア、エジプトなどへと拡大した。8世紀になると、イスラム勢力はインド西部や北アフリカ、イベリア半島をも支配することになる。このような征服活動によって、ムスリム(イスラム教信者)とヨーロッパを含む各地の人々との交流が盛んになった。



イスラム・ヨーロッパ間の交流をさらに活発化したのが十字軍遠征だった。もともと聖地エルサレムを奪還するために開始された十字軍であったが、この遠征は多数のヨーロッパ人に豊かなイスラム世界を知らしめることとなった。その結果、ヨーロッパとイスラム世界との交易が盛んになり、経済が活発化するとともに交通網も整備されていった。さらに、この交易は物資面だけでなく文化面においても大きな影響力を発揮する。

ムスリム商人は様々な物資を携えて各地を巡ることによって、他国の異文化を各地にもたらしたのである。この異文化は現地の既存の文化と融合することによってヨーロッパを含む様々な地域で新しい文化が芽生えることとなる。ヨーロッパの近代科学もイスラムとの文化交流によって誕生した。

一方、中国では、唐が滅ぶとそれぞれの地域で独自の文化を持った国家が建てられた。この変動期を経たのちに新しい統一国家である宋が960年に誕生する。中国では、唐朝の末期から商業の規制が緩んだことから商業が活発化していた。さらに、次の南宋の時代には中国南部で農地の開発が進み、コメやシルクを中心とした商業が大発展する。その結果、中国商人の海外進出も盛んになり、シルクや陶磁器、銅銭を船に乗せて世界の各地に輸出を行った。

13世紀にモンゴル帝国がつくられると、中国からヨーロッパまでのユーラシア大陸の全域に及ぶような交易網が整備された。その結果、東西の物資と文化の交流は盛んになった。ヴェネツィアのマルコ・ポーロが中国を訪れたとされるのもこの頃である。

東西の交易網で大活躍したのもムスリム商人だった。モンゴル帝国はチンギス・ハーンの子孫たちが治める地方政権の集合体となるが、そのうちのいくつかの国の君主はイスラム教に改宗した。交易と布教活動のセットがイスラムのやり方だった。

以上のように、ヨーロッパ・中東・アジアで新しい国家が誕生し、それらが活発に交流し合うのが中世の特徴である。この中世の時代には食の世界にも大きな変革が生まれた。この変革についてこれから見ていきたいと思います。

香辛料と砂糖-古代インド(5)

2020-09-24 17:21:16 | 第二章 古代文明の食の革命
香辛料と砂糖-古代インド(5)
インドを中心に生産された香辛料と砂糖は重要な貿易品としてメソポタミアやエジプトなどの西アジアやヨーロッパに運ばれた。香辛料と砂糖はいつの時代でもとても魅力的な食品であり商品であり続けたことから、現在に至るまで様々な時代で人類史に大きな影響力を発揮することになる。まさしく、香辛料と砂糖は食が歴史を変えた典型的な例だと言える。

少し繰り返しになるところもあるが、ここで古代における香辛料と砂糖についてまとめておきたいと思う。なお、香辛料についてはシナモンとコショウについて取り上げる。

シナモン
シナモンは世界でもっとも古くから知られている香辛料で、ほのかな甘みある独特の香りと多少の辛みが特徴だ。シナモンは、クスノキの仲間のセイロンニッケイやシナニッケイなどの樹皮の内側部分を乾燥させて作られる。現代では、シナモンはシナモンロールのようにお菓子や料理に入れたり、紅茶やコーヒーなどの飲料に入れたりして食べられる。



紀元前2000年より以前のエジプトのパピルスやシュメールの粘土板に香辛料の「シナモン」について記載がある。エジプトでは神へのお供え物を清めたりミイラを清めたりなど宗教儀式で主に使用されていた。また、医薬品としても使われていたようだ。インダス文明とメソポタミア文明の間には紀元前2000年より以前から海上貿易が行われており、インドのシナモンがメソポタミアを経由してエジプトに運ばれた可能性が高い。

その後のヨーロッパではシナモンは長い間薬として使用された。強心剤や媚薬としての効能があると考えられていたようだ。ちなみに中国でもシナモンは不老不死の薬とされ、仙人の食べ物とされた。

インドでは有史以前からシナモンが料理に使われていたと考えられているが、ヨーロッパでシナモンが料理に使用されるようになるのはローマ帝国末期の3~4世紀のことである。とにかく、シナモンはヨーロッパではとても貴重で、そして産地がどこなのかずっと謎だった。記録にもアフリカが原産地であるなどの不正確な記述ばかりで、なぜ真実が明らかにされなかったのかが現在では歴史上の謎となっている。

やがて16世紀初めにポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を回ってインドに至る道を開拓すると、ポルトガル人は大量のシナモンを独占して本国に送るようになる。
(いわゆる大航海時代の幕開けだが、そのあたりの楽しいお話しはまだ先になります。)

コショウ
香辛料の中でもっともよく利用されてきたのがコショウだ。そのため「スパイスの王」と呼ばれることが多い。



コショウの木はつる性の20年以上生きる熱帯性の植物で、1本の木から約2キログラムのコショウの実が採れる。実を収穫する時期やその後の処理の違いによって、黒コショウ(ブラックペッパー)、白コショウ(ホワイトペッパー)、青コショウ(グリーンペッパー)、赤コショウ(ピンクペッパー)になる。

この中で代表的な黒コショウは、赤く色づきはじめる直前の緑色の実を果皮ごと天日に干して黒くなるまで乾燥させたものだ。また白コショウは、赤く熟した果実を1週間程水につけて外皮を柔らかくしてはがし、白色の実のみにして乾燥させたものだ。黒コショウは肉料理に合い、白コショウは魚料理に合うと言われている。

一方、青コショウは黒コショウのように緑色の実で収穫するが、そのまま塩漬けにしたもので、赤コショウは白コショウのように完熟してから収穫するが、ホワイトペッパーと異なり外皮をはがさずにそのまま使用するものだ。

コショウの原産地はインドの南西部とされている。そして、古くからインドはコショウの一大産地だった。アーリヤ人はコショウのことを「Pippeli」と呼んだが、ヨーロッパに伝わると、これが変化してラテン語の「piper」や英語の「pepper」が生まれたとされている。

コショウがインド南西部で栽培されたことから、西アジアやヨーロッパに伝わったのはシナモンよりも遅かった。紀元前4世紀のヒポクラテスの著作にはコショウのことが記されているので、この頃までにはエジプトを介して地中海にもコショウが伝えられていたと考えられている。ヒポクラテスはコショウを調味料ではなく薬として記していることから、ヨーロッパに入った当初は薬として認識されていたようだ。

しかし、その後しばらくしてコショウは主に料理に使用されるようになった。特にローマ時代には料理に大量のコショウが使われていた。西暦1世紀になるとローマ帝国はエジプトやメソポタミアを含む広大な支配地を獲得するが、その結果として得られたインドとの交易路を用いてコショウなどの香辛料、香料、真珠、宝石や中国製のシルク製品などを輸入したのだ。

一方、ローマ帝国はその引き換えに大量の金貨をインドに渡した。金貨以外にインドに渡せるものをローマ帝国は作っていなかったのだ。今でもインドの古代遺跡からはローマの金貨が見つかるという。

砂糖
「古代アーリヤ人の食生活-古代インド(2)」でお話ししたように、サトウキビは現在のニューギニア島付近が原産地とされており、紀元前6000年前後にインドや東南アジアに広まったと考えられている。そしてインドで砂糖の精製法が発明されたと言われている。

サトウキビの茎を適当な長さに切ってしぼると、糖を含んだ樹液が取れる。これを集めて貝殻などの石灰性の物質を入れると、夾雑物が沈殿してくる。この夾雑物を除いて煮詰めたものが糖蜜だ。さらに糖蜜を煮詰めて糖分濃度を高くし、ここに粉砂糖のような細かい砂糖の粒を加えて加熱すると、その粒を核にして砂糖の結晶が出来る。こうしてできた砂糖の結晶をすくって乾燥させると出来上がりだ。

インドの人々は砂糖のことを「砂利(じゃり)」を意味する「sarkara」と呼んだ。このsarkaraからラテン語の「saccharon」という言葉が生まれ、やがて英語の「sugar」となる。

古代の人々はサトウキビと出会って、とても素晴らしいものと思ったようだ。ヒンドゥー教の儀式では、火にミルク・チーズ・バター・蜂蜜・サトウキビをくべて神へのお供え物とするようになった。また、紀元前510年にアケメネス朝ペルシア王のダレイオス1世がインドに攻め入った時に、ミツバチの助けなしに甘い汁を出す葦(サトウキビ)を見つけたのだが、彼はそれをペルシアに持ち帰り、他国に知られないように大事に育てたらしい。

ペルシア帝国で大事に育てられたサトウキビは、帝国の衰退とともに西アジア(中東)全体に広がって行った。そして、世界が古代から中世に移り行く時に、この西アジア地域が歴史の上で大きな役割を果たして行くことになる。
なお、古代ギリシア人と古代ローマ人は砂糖の存在を知っていたという記録はあるが、輸入されていたとしてもごく少量で、薬として認識されていただけであった。ヨーロッパ人が砂糖を食品として消費するようになるのは中世になってからである。

サトウキビや砂糖の精製法は7世紀に中国に伝えられたとされている。唐朝の第2代皇帝太宗が647年にインドへ技術者を送って「熬糖法」(糖液を煮詰める方法)を習得させたということだ。日本へは奈良時代に鑑真が唐から渡来した時に持参したという説がある。正倉院の記録『種々薬帳』には砂糖という意味の「蔗糖(しょとう)」という言葉が残されている。古代日本でも砂糖は薬とみなされていたのである。

古代インドの農業-古代インド(4)

2020-09-21 14:52:10 | 第二章 古代文明の食の革命
古代インドの農業-古代インド(4)
農業はその土地の気候に大きく左右される。インドについて見てみると、北部地方と南部地方では大きく気候が異なっている。インドの気候に大きく影響しているのが季節風(モンスーン)で、インドの北部では春から夏にかけて海側から湿った南西の風が吹きこむ。その結果、6月から10月にかけて大量の雨が降る雨季となる。それとは逆に、12月から3月にかけては大陸内陸部から北東の乾いた風が吹くため、雨がほとんど降らない乾季になる。



一方、南部地方では、南西の季節風と北東の季節風のどちらも海を通って来るので、雨は一年を通して十分にあり、雨季と乾季の区別ははっきりしない(それでも、北東の季節風が吹く季節に雨が多くなる)。

インド北部には、インダス川やガンジス川などによって作られた沖積平野(河川による堆積作用によって形成される平野)である「ヒンドゥスタン平野」が広がっている。この平野の面積は約70万平方kmで(ちなみに日本の総面積は約38万平方km)、世界最大の沖積平野である。多くの沖積平野と同様にヒンドゥスターン平野は肥沃で、現在では世界有数の農業地帯となっている。

このヒンドゥスタン平野での農業で問題になるのが乾季における降水量不足だ。乾季には50~100ミリの雨しかなく、これでは植物は十分に生育することができないのだ。この水不足を補うために、この平野では古くから灌漑が盛んに行われてきた。

最も広く行われた灌漑法が井戸を掘ることだった。ヒンドゥスタン平野は地下水が豊富であり、穴を掘れば水が出るため農業用に多数の井戸が掘られた。また、マウリヤ朝時代(紀元前317~前180年)には住民を強制的に働かせることで貯水池が次々に作られた。

マウリヤ朝に派遣されたギリシアの外交官メガステネス(紀元前300年頃)は著書『インディカ』で、当時のインドの農業について次のように記している。

「インドにはあらゆる種類の果樹が生い茂る巨大な山がたくさんあります。肥沃な平原の大部分は灌漑されているため、同じ土地で1年間に2つの作物を栽培しています。その結果年間を通じて、ムギに加えてコメやキビ、さまざまな種類のマメ類が育ちます。そしてインドの住民は毎年2回の収穫を行っています」

このように灌漑設備が充実した結果、冬の乾季にはコムギとオオムギ、ナタネなどが栽培され、夏の雨季にはコメやキビ、マメ、サトウキビなどが育てられた。

一方、インドの南部地方は北部よりも温暖だ。イネはコムギよりも最適生育温度が5℃ほど高いため、この地方ではイネが主に栽培された。それ以外には、サトウキビ、キビ、ココナッツ、ナツメヤシ、コショウ、シナモンなどが育てられた。この中でサトウキビから精製した砂糖と香辛料のコショウとシナモンは貿易品として重要な役割を果たしていくことになる。

また、食用ではないが、綿やジュート(インド麻)もよく栽培された。ちなみに、良い香りがすることで仏具や扇子などに使われるビャクダン(白檀)はインド原産の植物で、この栽培も南インドでは盛んだった。ビャクダンは仏教の伝来とともに中国を経て日本に伝えられたと考えられている。

インドの南部でも多数の灌漑設備が造られた。中でも2世紀頃にカーヴィリ川に造られた「カラナイダム」が有名で、建設当時は稲作のために約300平方kmの土地に水を供給したと言われている。このダムは現在でも使用されており、約4000平方kmの土地に水を配っている。

現在のインドはコメ、コムギ、マメ類の生産量が世界トップクラスを誇る農業国であるが、その礎は古代インドの時代に既に作られていたと言える。