食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

オリエントの酒造りの歴史ー古代文明の食文化の革命(5)

2020-04-30 07:45:13 | 第二章 古代文明の食の革命
オリエントの酒造りの歴史
人類が飲んだ最古の酒は蜂蜜酒だ。1万年以上前に、水で薄まった蜂蜜に酵母が入ることで生じたものを飲んでいたと考えられている。現代でもたくさんの種類の蜂蜜酒(ミード)が販売されているが、元になる花の蜜の違いによって風味が全く異なる。

次に古い酒がワインだ。紀元前5400年頃の肥沃な三日月地帯の高原遺跡から、ワインが入れられていた壺が見つかっている。そして、紀元前4000年頃にはメソポタミアにおいてワインの本格的な醸造が始まったと考えられている。その頃の醸造方法は、壺の中にブドウを詰め、粘土でフタをして発酵させるというものだった。ただし、メソポタミアの南部ではブドウは育たないため他の地域から運んでくるしかなく、当時は高級な飲み物だった。

一方、メソポタミアからワインの醸造法が伝わったエジプトでも、紀元前3000年までにはワインが飲まれ始めた。当時の王族・貴族はこぞってブドウ園を経営しワインの醸造を行ったことから、古代エジプト人はかなりのワイン好きだったと思われる。ちなみに、ツタンカーメン王の副葬品の壺からもワインが見つかっている。

一方、ビールは、オオムギの粥が自然の酵母によって発酵して生じたものが起源と考えられている。紀元前4000年頃にはメソポタミアで飲み始められていたらしい。当時は、オオムギでパンを作り、それを砕いて水の入った壺に入れておくことでビールの醸造が行われた。紀元前3000年頃のメソポタミアの粘土板には、このようなビールの作り方が記されている。

古代メソポタミア人は三度の食事と一緒にビールを飲んだ。現代人の水や茶の代わりだ。アルコールには防腐作用があるため、生水よりもずっと保存がきく。ちなみに、大航海時代の船では水が腐ると、ワインを飲料水代わりに飲んでいた。酒には単なる楽しみ以上の実用的な存在意義があったのだ。

古代エジプトでは、ピラミッド建築の労働者たちに報酬としてビールが支給されていたらしい。また、様々な病気やケガを治療するための飲み薬や塗り薬としても使用されていた。発酵によって酒ができることに神秘の力を感じて、それにあやかろうとしていたのかもしれない。

古代メソポタミアと古代エジプトでは、ナツメヤシから作ったナツメヤシ酒もよく飲まれていた。酒のランクとしては、ビールとワインの中間に位置していたようだ。エジプトでは、紀元前1300年頃の記録によるとナツメヤシの蒸留酒も売られていたそうだ。

酒の誕生ー古代文明の食文化の革命(4)

2020-04-29 09:47:51 | 第二章 古代文明の食の革命
酒の誕生
現代社会でも重要な飲料である酒が盛んに作られるようになったのは古代文明からだ。それまでは、せいぜい蜂蜜が発酵した蜂蜜酒くらいしかなかった。

本格的な酒造りは農耕の発展とともに始まった。というのも、酒を造るためには材料となる穀物や果実などが必須であり、それらが食べる以上に余っていないと酒造りに回せないからだ。つまり、作物の生産量が増えて余剰分が出てきたために、酒造りが始まったと考えられる。

酒に含まれるアルコールはほとんどの場合、酵母のアルコール発酵によって作られる。酵母は糖を分解して炭酸ガスとアルコールを生成する。このアルコールが蓄積されることで酒ができるのだ。

ワインなどの果実酒は、果実中の糖分が直接アルコール発酵されることで作られる。一方、オオムギやコメには糖分が含まれていないため、ビールや日本酒を作る場合はデンプンをまず糖に変える工程が必要となる。ビールの場合は、オオムギを発芽させることで生じたデンプン分解酵素によってデンプンを糖に変える。日本酒の場合は、コメのデンプンを麹菌の持つデンプン分解酵素で糖にする。こうして生じた糖を酵母によってアルコールに変える。

酵母によるアルコール発酵で作った酒を「醸造酒」と呼ぶ。酵母はアルコール濃度が高くなると発酵を止めてしまう。このため、醸造酒のアルコール度数は高くても20%までだ。一方、醸造酒を加熱してアルコール分を蒸発させ、それを冷却して液体にすることで高アルコール濃度の酒を作ることができる。これが「蒸留酒」で、高いアルコール濃度のため常温での保存が可能だ。

楽しく飲む酒は人生に潤いを与え、人間関係を潤滑にする。また、血行を良くし、食欲を高め、ストレス解消の効果もある。

しかし、酒の飲み過ぎは肝臓障害や痛風、糖尿病などの代謝性疾患の原因となる。また、アルコールは、脳内の快楽中枢である「報酬系」に働いて快感を生み出す。このため、過度の飲酒は、酒の誘惑から抜け出すことができなくなるアルコール依存症の原因となる。古代メソポタミアや古代エジプトの記録にも酒の飲み過ぎの害が記されていることから、昔から酒との付き合いは難しかったようだ。

パンの誕生ー古代文明の食文化の革命(3)

2020-04-28 11:05:10 | 第二章 古代文明の食の革命
パンの誕生
現代のパンは「発酵パン」と呼ばれ、コムギやライムギなどの良質のグルテンを含んだ穀物を粉にして、水と塩、砂糖などを加えてこねたのち、酵母で発酵させることで膨らませてから焼くことで作られる。酒を造る時と同じように、酵母は発酵によって砂糖を炭酸ガスとアルコールに変える。この炭酸ガスが網目状になったグルテンの間に入ることでパンは膨らむのだ。アルコールはパンを焼くときに蒸発してしまい、出来上がったパンには残らない。

ところで、人類が最初に作ったパンは酵母による発酵を行わずに、ただ単にこねて焼いただけの「無発酵パン」だった。紀元前6000年から4000年頃の古代メソポタミアでのことだ。こうして作られたパンはやわらかくなかったが、水分が少ないため腐りにくく、食べたいときにすぐに食べることができたので便利だった。平たく伸ばして焼いたパンは、インドのナンに受け継がれたと考えられている。

無発酵パンは、古代メソポタミアでは、魚や動物などのいろいろな形の型に入れられて焼かれたようだ。また、皿の形になるように焼かれて、料理の土台として使用されることもあった。パンで作ったフタもついていたようだ。今日のパイの包み焼きの原型と言えるかもしれない。

やがて、パン生地に酵母を加えて作った「発酵パン」も作られるようになった。
古代メソポタミア人は、ムギを粉にしたものを煮ることで、おかゆのようにして食べていた。これを放置すると乳酸菌と酵母が繁殖して、自然に発酵が始まる。できるのは酸っぱいパン生地みたいなものだ。これを捨てずに焼いたのが発酵パンの始まりと考えられている。

このような発酵パンは当初、オオムギから作られることが多かったが、しだいにコムギで作られるようになった。紀元前16世紀頃の古代エジプトでのことだ。コムギには良質のグルテンがたくさん含まれているので、ふっくらした美味しいパンができるのだ。

古代エジプトでは様々な種類のパンが作られた。ミルクやバター、卵を入れたものや、薬草などを入れた薬用パンが作られた。症状に合った薬用パンを食べることで、病気やケガが治ると信じられていたらしい。

かまどの進歩ー古代文明の食文化の革命(2)

2020-04-26 10:12:34 | 第二章 古代文明の食の革命
かまどの進歩
第一章の「肉食と火の革命(2)」でお話ししたように、火を利用することによって食べ物の消化・吸収が良くなるとともに風味も増す。この火の利用の進歩も文明都市社会を作る上で必須の要件だった。

人類が火で加熱調理を始めた頃は、たき火などの直火が使われた。ところが、この方法では熱が周りに逃げたり、風が強いと火が揺らいだりするため効率が悪い。また、火力の調節も難しかった。

これらの問題を解決するために土や石などで作られた「かまど」が発明された。上部に穴があいた円筒状のかまどは鍋などをのせると熱を閉じ込めることができ、下部にあいた口から空気を送り込むことで火力の調節も簡単だった。また、調理者は火の放射熱にさらされなくなったため、より高温で調理することができるようになり、調理時間の短縮にもつながった。この結果、大量の調理が可能になり、多くの人々の食事をまかなうことができるようになった。これは、文明都市が成立する上でもきわめて重要な要因だったと考えられる。

かまどの中には、石窯と呼ばれる余熱を利用するものも作られた。石窯は石やレンガ、粘土などで作られたドーム状の形をしたものだ。この中にいったん薪などの燃料をくべて全体を加熱し、灰を取り出した後に食材を入れて余熱で調理する。石窯はしばらくの間一定の温度に保たれることから再加熱の手間が必要なく、大量調理に適している。特にパンやパイを焼くのに最適だ。

古代文明ではかまどの発達により、調理を専門とする者、すなわち料理人が生まれた。また、パン焼専用の石窯も古代メソポタミアで発明され、パン職人が誕生した。料理人だけでなく、様々な仕事を専門とする者が生まれたのが古代文明の特徴なのだ。

2・2 古代文明の食文化の革命ー塩が文明を支えた

2020-04-25 09:38:15 | 第二章 古代文明の食の革命
2・2 古代文明の食文化の革命
文明社会が形成されるにつれて職業の専門化が進み、料理人や特定の食品を作る職人が登場した。その結果、食生活は豊かになって行く。ここからは、古代文明での食文化における様々な革命について見て行こう。

塩が文明を支えた
牧場見学に行くと、牛などの家畜が白い石のような塊を美味しそうに舐めているのを目にすることがある。この白いものは「塩(塩化ナトリウム)」だ。餌の牧草に塩の成分のナトリウムがほとんど含まれていないため、塩を与えることでナトリウムの補給をしているのだ。

ナトリウムは動物にとって必須のミネラルだ。ナトリウムが不足すると、腸で栄養素を吸収することができないし、心臓や筋肉を動かすこともできない。また、神経細胞も機能しなくなる。

肉にはナトリウムがたくさん含まれているため、主に肉を食べているとナトリウム不足にはならない。ところが、人類が農耕を始めて植物性の食品を多く食べるようになったことから、塩を摂取する必要が出てきたのだ。さらに、牧畜を始めたことにより、家畜に与える塩も必要になった。このような必要に迫られて、人類は塩づくりを始めたと考えられる。

塩づくりを始めた人類はやがて、塩には食べ物を腐らせない働きがあることを発見する。すなわち、さまざまな食物を塩につけることによって、長期間保存ができることを見つけたのだ。

例えば、肉や魚を塩漬けにすると保存食になる。ソーセージはその典型で、紀元前1500年頃のオリエントでその原型らしいものが誕生していたという説がある。また、チーズ作りにも塩は欠かせない。これらは、食料生産の乏しい季節の食料としてとても貴重だった。

四大文明が起こった大河流域が雨の少ない乾燥地帯だったことは、生活に必要な塩を獲得する上でも有利だったと考えられる。つまり、海水の水分を太陽の熱で蒸発させれば、塩を比較的簡単に手に入れることができたのだ。

こうした塩づくりはメソポタミアで始まったと考えられている。さらに、この地域の内陸部には塩湖や塩泉もあった。また、死海の岩塩も広く利用されていた。このため、メソポタミアでは生活に必要な塩には事欠かなかったのだ。

一方、エジプトも塩に恵まれていた。ナイル川河口付近では、灼熱の太陽によって海水の塩分が白く析出するそうだ。古代エジプトでも海水を用いた塩づくりが行われた。また、リビアやエチオピアの山々から切り出された岩塩の輸入も盛んだった。一般的に岩塩は塩化ナトリウムの純度が高いため、海水から作った塩よりも良質とされた。ちなみに、悪神セトが海の神だったため、エジプトの神官は海水から作った塩を口にしなかったそうだ。

エジプトでは得られた大量の塩を使って、野菜や魚、肉など、様々な食べ物の塩漬けが作られた。これらはエジプト人の食卓に上るとともに、交易品として地中海東岸のフェニキアなどに輸出された。塩漬けの食品の輸出は大規模で、長い間エジプトの経済を支えた。

インダス文明でも、少なくとも紀元前3000年頃には海岸近くの湿地帯に海水を引き込んで製塩が行われていた。冬季の乾燥期に水分を蒸発させて製塩が行われたと考えられている。

一方、中国文明を支えたのは海水で作った塩ではなく、塩泉や塩湖から得られた塩だ。特に、山西省にある解池と呼ばれる塩湖から採取された塩は、全盛期には中国全土で使われていた塩の約7割をまかなっていたと言われている。ちなみに、三国志に出てくる関羽は解池の近くで生まれ、塩の取引に関わっていたという話もある。

このように、四大文明の地域で塩を容易に手に入れることができたことが、文明を形成する上で重要な役割を果たしたと考えられる。