食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

カーシャを作りました

2021-06-27 22:35:48 | 世界の料理を作ってみよう
今日の昼ごはんに、ロシアやポーランドなど東欧の代表的な家庭料理の「ソバの実のカーシャ」を作りました。

カーシャとは穀物で作った粥のことで、特にソバの実を使った粥がよく食べられています。

今回はソバの実のカーシャでキノコのピラフを作りました。
材料は次の通りです。



ソバの実とタマネギ、エリンギ、ひき肉です。

(作り方)
・ソバの実を1時間ほど水につける。
・ソバの実を10分ほど煮て、水を切る。
・粗みじん切りのタマネギを炒め、ひき肉とエリンギを加えてさらに炒めます。
・ソバの実と塩を加えて軽く炒めて出来上がりです。



(感想)
独特のしっかりとした食感で、かなり食べごたえがあり美味しかったです。
それと後で気が付いたのですが、とても腹持ちが良かったです。ソバの実はダイエットには良いかもしれません。



コーヒーと東インド会社-イギリス・オランダの躍進(5)

2021-06-27 18:40:22 | 第四章 近世の食の革命
コーヒーと東インド会社-イギリス・オランダの躍進(5)
モカ・コーヒー」という言葉を聞いたことがある人は多いのではないでしょうか。でも、モカ・コーヒーの名前の由来については、よほどのコーヒー好きしか知らないと思います。

モカはアラビア半島の南東部のイエメンにある港町で、15世紀末からコーヒー貿易の拠点となっていました。そして、このモカ港から積み出されたコーヒーのことをモカ・コーヒーと呼んだのです。

東インド会社もモカ港でコーヒーを仕入れてヨーロッパに運びました。そしてこれが世界中にコーヒーを広めるきっかけとなりました。

ちなみに、イギリスの飲み物と言えは「紅茶」を思い浮かべますが、紅茶がイギリスで広く飲まれる以前はコーヒーがたくさん飲まれていました。18世紀の前半には、ロンドンとその周辺部に合わせて8000軒ものコーヒーハウスがあったと言われています。

今回はイギリスとオランダの東インド会社によるコーヒー貿易の様子をたどりながら、コーヒーの伝播の歴史を見て行きます。


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紅海をはさんだモカの対岸にはコーヒー(アラビカ種)の原産地のエチオピアがある。14世紀の終わり頃に、エチオピアからアラビア半島南東部(現在のイエメン)にコーヒーノキの苗木が持ちこまれたと考えられている。そして、エチオピアに加えてイエメンもコーヒーの一大産地になった。



エジプトの記録には、15世紀のイエメンでスーフィー(イスラム神秘主義者)がコーヒーを飲んでいたという記述がある。スーフィーとは、イスラム教の宗派の一つで、神との精神的な一体化を第一とした人たちのことだ。彼らは一晩中神の名を唱え続けるという修行を行うが、この時にコーヒーが眠気を覚ますのに役立っていたようだ。

1517年にオスマン帝国がエジプトやイエメンを支配していたマムルーク朝(1250~1517年)を滅ぼすと、コーヒーを飲む習慣はオスマン帝国に持ち込まれて定着した。そして16世紀の後半になると、首都のイスタンブールでは多くのコーヒーハウスが生まれたと言われている。

オスマン帝国と交易を行っていたヴェネツィアの商人はコーヒーがヨーロッパでも受け入れられると考え、16世紀末からコーヒーの貿易を始めた。同じ頃にオスマン帝国との貿易を開始したイギリスのレヴァント会社もこのコーヒー貿易に参画した。そして、ヴェネツィアとレヴァント会社は協力してコーヒーの貿易を行うようになったのである。

17世紀に入るとイギリスとオランダで東インド会社が設立され、船団が喜望峰を回ってインド洋にやって来るようになった。主な目的地はインドや東南アジアだったが、その途中で補給や船の修理のためにモカの近くに寄港した。ここで東インド会社の人々はモカ港のコーヒーに出会ったと思われる。

香辛料ほどではなかったが、彼らにはコーヒーもとても魅力的な商品に見えたようだ。そこで現地のトルコ商人と交渉を行った結果、コーヒーの貿易を開始することに成功する。これ以降、モカ港から大量のコーヒーが船でヨーロッパに運ばれるようになり、また価格もヴェネツィア・レヴァント会社のコーヒーよりもずっと安くなったことから、ヨーロッパ中にコーヒーが出回るようになった。

このようなコーヒーの安定的な供給の結果、1645年のヴェネツィアでのコーヒーハウスの開店を皮切りに、ヨーロッパの各地でコーヒーハウスが誕生するようになった。例えば、1650年にはロンドンで、1666年にはアムステルダムで最初のコーヒーハウスが開店している。そして、コーヒーハウスは情報交換の場として様々な社会活動の発展に役立ったと考えられている。

例えば、イギリスでコーヒーハウスが誕生したのは、ピューリタン革命(清教徒革命)によって王政が倒れた頃で、コーヒーハウスは社会の中心となっていた市民の情報交換の場となったのだ。コーヒーハウスには新聞雑誌が置かれ、また議論が戦わされることで「世論」が形成されたと言われている。

さらにコーヒーハウスは、店ごとに特定の職業の顧客を扱うように専門化することで、株式会社や保険業を誕生させることになった。例えば、保険業で有名な「ロイズ」の前身もコーヒーハウスだ。ロイズは東インド会社の関係者を専門の顧客とした結果、海上保険を売り買いする場として発展して行ったのだ。

このようにイギリスのコーヒーハウスは、政治・経済・文化・芸術・報道などの発展において極めて重要な役割を果たしたと考えられている。しかし18世紀後半になると、専門化が進んだコーヒーハウスは会員制のクラブとなり、またコーヒーよりも茶が飲まれるようになった結果、イギリスのコーヒーハウスは急速に衰退して行った。

さて、一方のオランダだが、オランダ東インド会社はモカ港からの貿易を行うだけでなく、自前でのコーヒー生産に乗り出した。

コーヒーノキの海外持ち出しはオスマン帝国によって厳しく取り締まられていたが、インド人が密かに苗木を持ち出し、南インドでの栽培に成功していた。オランダ東インド会社は1658年にこの南インドから苗木をセイロン島に持ち込み栽培を開始した。しかし、この栽培は最終的に失敗する。

それでもオランダ東インド会社はあきらめずに、17世紀の終わりにはジャワ島で栽培を始めた。今度の栽培は軌道に乗り、1711年にはジャワ産の最初のコーヒーがオランダのアムステルダム港に到着した。

ジャワでは現地の農民にコーヒー栽培を強制し、買い取り価格も東インド会社が一方的に決定した。その結果、ジャワ・コーヒーはモカ・コーヒーよりも安価になり、オランダ東インド会社がヨーロッパのコーヒー供給を支配するようになる。

コーヒー貿易でもオランダがイギリスに勝利したのである。

イギリスとオランダの戦い-イギリス・オランダの躍進(4)

2021-06-24 18:22:30 | 第四章 近世の食の革命
イギリスとオランダの戦い-イギリス・オランダの躍進(4)
今回はイギリスとオランダの「東インド会社」の続きです。

イギリス(イングランド)とオランダはともに数少ないプロテスタント国で、オランダの独立ではイングランドが支援を行うなど、両国の関係は良好でした。

ところが、両国が東インド会社を設立した後は「昨日の友は今日の敵」という言葉の通り、イングランドとオランダは東南アジアでの香辛料の貿易をめぐって激しく争うようになります。

オランダは経済的に非常に栄えており、たくさんの船を貿易に投入することができました。一方、イングランドはまだまだ貧しく、オランダほどの多くの船を利用することはできませんでした。両国の戦いの結果は火を見るよりも明らかでした。

今回はこのような両国の争いを軸に、当時の香辛料の生産と流通について見て行きます。

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新しく設立されたオランダ東インド会社は1603年12月に最初の船団を出向させた。この12隻の船団の目的は香辛料の貿易ととともに、インド洋沿岸のポルトガルの拠点を攻撃することだった。

オランダ東インド会社の一番の目的地はクローブやナツメグを産出するモルッカ諸島(香辛料諸島)に属するマルク諸島とバンダ諸島だった。この頃はコショウなどのヨーロッパで古くから知られている香辛料については供給が安定していたため、クローブやナツメグなどの高級香辛料に注目が集まっていたのだ。

ここでクローブナツメグについて簡単に説明しておこう。

クローブはチョウジノキという樹木の花蕾(つぼみ)を乾燥させたもので、すがすがしい甘い香りを特徴とする。ウースターソースの香りの多くがクローブのものと言えば、少しは分かってもらえるだろうか。中国の漢時代には皇帝が食事の後に口臭を消すために使っていたと言われている。


クローブ(abuyotamによるPixabayからの画像)

日本では丁子(チョウジ)と呼び、正倉院にも納められていることから、奈良時代には日本に伝わっていたことが分かる。武士は丁子の香りを兜に炊き込めたり、丁子の油で刀剣の手入れをしたり、頭髪剤として使用したりしていたことから、日本人には好まれてきた香りと言える。

一方、当時のヨーロッパでは、クローブの香りはペスト予防に効果があると考えられていた。ペストは悪い空気を吸い込むことで発症すると言う説が広まっており、クローブの香りは悪い空気を清浄にすると信じられたのだ。医者は鳥のくちばしのようなマスクの中にクローブやハーブを入れてペスト患者に接したと言われている。また、オレンジなどの柑橘類にクローブを差し込んだ「ポマンダー」が魔除けとして用いられた。


ポマンダー

一方のナツメグは、ニクズクという樹木の果実の中の種のことだ。種の入った殻は赤色の網目状の皮で覆われているが、これは別の香辛料のメイスになる。ナツメグもメイスも同じように独特の甘い香りとほろ苦さを特徴としていて、肉や野菜の不快臭をマスクするのに効果的だ。このため、ひき肉料理には不可欠の香辛料とされている。なお、メイスの方が香りやほろ苦さがまろやかで色も薄いため、焼き菓子などのデザート類やスープなどで上品さを求める時には主にメイスが使用される。


ナツメグとメイス(Ma_RikaによるPixabayからの画像)

ナツメグやメイスもクローブと同じように、病気の予防に効果があると考えられていた。また、当時のヨーロッパではナツメグよりもメイスの方が人気で、オランダ本国から現地の東インド会社に対して「ナツメグの樹を切って、代わりにメイスを植えるように」という笑い話のような指示が出されたことがあったという。

さて、話を歴史に戻そう。

オランダ人がやってくる前のマルク諸島とバンダ諸島では、ポルトガルやスペインの支配は確立していなかった。ポルトガルは何とか要塞を築いたが、現地では有力なスルタン(イスラムの地域支配者)が勢力を誇っており、また複雑な地形のため少数の船で海域一帯を支配することができなかったのだ。ポルトガルはスルタンに武器やインドで手に入れた綿製品などを渡すことで香辛料を手に入れていた。

東南アジアに進出してきたオランダは1605年にはマルク諸島とバンダ諸島の中間点にあったポルトガルの要塞を奪った。さらに、オランダ東インド会社の拠点としてジャワ島の西部のジャカルタに要塞を築き、街の名をバタヴィアと改称した。実はイギリス東インド会社がジャワ島の王と関係を結んで1602年にジャワ島内に要塞を築いていたのだが、オランダ東インド会社は力づくでイギリスを排除したという。なお、バタヴィアは第二次世界大戦での日本による占領まで、オランダによる植民地支配の中心地となった。

さらにオランダ東インド会社は、バンド諸島においても武力を用いて一帯の島々を支配した。イギリス勢力を追い出すとともに、抵抗する島民を虐殺し、代わりに自分たちの奴隷や使用人を送り込むことでナツメグやメイスの生産を独占しようとしたのだ。

また、クローブの生産地のマルク諸島においても、オランダ以外のヨーロッパ人を追い出そうと画策した。それに抵抗した現地の王を武力で制圧し、さらにポルトガルの一大拠点であったマラッカを1641年に征服した。

こうして17世紀末までにオランダ東インド会社は、マルク諸島とバンダ諸島の香辛料を独占的にヨーロッパに運ぶことに成功する。

このような東南アジアの活動と並行して、オランダ東インド会社はアジア全域に勢力を広げ、各地に商館を築いていった。例えば、日本の長崎の平戸には1609年に幕府の許可を得て商館を建てた。



一方、イギリス東インド会社も1613年に平戸に商館を開設するなど各地に商館を建設していたが、たびたびオランダ船に貿易が妨害されたり船が拿捕されたりしたという。そして1623年には、マルク諸島のアンボン島にあるイギリス商館がオランダ東インド会社に襲われ、商館員が全員処刑されるという事件が起きた。

これを契機にイギリス東インド会社は東アジア方面から撤退し、また、香辛料も安全に手に入る少量のものしか扱わなくなった。その代わりに、インドのムガール帝国などと綿織物の貿易を主に行うようになる。

以上のように、オランダ東インド会社は17世紀中に香辛料貿易と東アジアとの貿易を手中に収めたのである。

東インド会社の誕生-イギリス・オランダの躍進(3)

2021-06-22 22:58:07 | 第四章 近世の食の革命
東インド会社の誕生-イギリス・オランダの躍進(3)
東インド会社」は中学の歴史の授業でも習う重要な項目です。世界史の年表では必ず出てくるようです。

東インド会社は言葉の響き自体は覚えやすいのですが、私は「東インド」で作られた「会社」って何だろうと疑問に思いながら、授業をしっかり聞いていなかったのもあって、十分に理解しないまま大人になりました。

実際、東インド会社はヨーロッパの各国に設立され、国によって内容や歴史も異なるし、時代とともにその様相も変化することから、一まとめにして説明するのは難しいものです。

そこで今回は、17世紀の初めに設立されたイギリスとオランダの東インド会社の誕生の様子を見て行きたいと思います。なお、話を分かりやすくするために、東インド会社が設立される前のポルトガルによる東インドでの貿易から話を始めます。

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1497年7月にポルトガルのリスボンを出港したヴァスコ・ダ・ガマの艦隊は喜望峰を越えて、翌年の5月にインド西部のカリカットの港に到着した。


ヴァスコ・ダ・ガマ

ポルトガル人にとっては初めてのインドだったが、現地の人々にとって外国人は珍しくなかった。と言うのも、インド洋は古くから異なる民族同士が入り混じって商取引を行う交易の海だったからだ。そこでは誰でも航海可能であり、港も金さえ払えば誰でも利用できるという取り決めがあった。そして各地の支配者は商取引に税をかけることで収入を得ていた。

しかし、ガマたちは商人ではなかったため取引できる荷も少なく、現地のルールも知らなかったため人々から不審に思われたらしい。一方のガマたちも敵対していたイスラム教徒の姿を見て、彼らのせいで交渉がうまく進まないと思い込んだという。

やがてガマたちが決まり通りの商取引を行わないことにしびれを切らした役人が、ガマの乗組員を拘束した。それに対してガマも人質を取って対抗し、乗組員を奪還すると追いかけてくる船を銃や大砲で撃退しながら何とかポルトガルに帰還した。

しかし、ガマが持ち帰った香辛料が莫大な富を生み出したため、ポルトガルはインドとの貿易を継続することにする。ガマが持ち帰った情報から、インド洋では銃や大砲などの火砲が威力を発揮することは明らかだった。そこでポルトガルは、武力を用いてインド洋の交易を支配することに決めた。特に香辛料貿易についてはポルトガルによる独占を目指した。

最初の頃はポルトガルの想定通りに物事は進んだ。ポルトガル船はインド洋沿岸の主要な港を攻撃し、1515年頃までに次々と支配下に置いて行ったのだ。港にはポルトガルの要塞が築かれ、ポルトガル人が駐留するようになった。そして、カルタスと呼ばれる船の通行証を発行し、安全を保障する代わりに取引のたびに要塞で税を支払うように命じた。一方、カルタスを持っていない船からは物資をすべて没収したという。

さらにポルトガル人はインドより東に進み、マレー半島を越えて東南アジア方面に進出した。そして、クローブが採れるマルク諸島や、ナツメグが採れるバンダ諸島を見つけた。



また、南シナ海や東シナ海にも船を向け、中国(明)沿岸や琉球王国、日本、朝鮮半島までたどり着いた。ちなみに日本への上陸は、1541年に現在の大分県に漂着したのが最初と言われている。そして1543年に種子島へポルトガル商人が漂着し、鉄砲が伝えられた。

さて、ここで「東インド」について説明しておこう。大航海時代の東インドとは、喜望峰を回って東に進んだところにある海岸地帯全体のことを指していた。このため、東アフリカも東インドに入るし、インド洋沿岸はもちろん、中国も日本もアメリカ大陸の西海岸も東インドとみなされていた。

一方、西インドとは、ヨーロッパから西に向かったときに出会う大陸であるアメリカ大陸の東海岸のすべてのことを指す。南北アメリカにはさまれたカリブ海の群島を「西インド諸島(West Indies)」と呼ぶのはこのためだ。
話をポルトガルのインド洋支配に戻そう。

ポルトガルは大きな国ではない。このため、インド洋を支配するために大量の船や人を送り込むことは難しい。また、要塞を維持するための資材もポルトガル本国から送るしかない。その結果、ポルトガルのインド洋支配に穴が生まれたのだ。つまり、ポルトガルの監視の目を逃れて香辛料がヨーロッパに運ばれるルートが出現したのである。

それは、ペルシア湾や紅海の港から陸路を通ってオスマン帝国に入り、そこからさらに地中海に至る経路だ。こうして16世紀半ばになると、ポルトガルが船で運んできた香辛料も、陸路を通って地中海に入ってきた香辛料も値段は変わらなくなったという。

1581年にはイングランドがオスマン帝国と貿易を行う「レヴァント会社」を設立し、香辛料などを購入する一方で、自国の毛織物を販売することで利益を上げるようになった。このレヴァント会社がのちの「イギリス東インド会社」の前身となる。

一方のオランダ(ネーデルラント)は、スペインから独立するために長く戦っていた。オランダは貿易で栄えていたが、カトリック国のスペインと敵対したことから、ポルトガルが運んでくる香辛料の取引には参加できなくなった。そこで彼らが考えたことが、「自分たちでインドに行ってみよう」だった。こうして1595年4月に4隻の船がオランダのアムステルダムを出港した。

苦難の末、翌年の夏にオランダ人たちはインドネシアのジャワ島に到達した。そこで香辛料などを購入し、オランダには1597年8月に帰還する。乗組員は約三分の一まで減っていたが、この航海によって東インドとの貿易が可能であることが実証されたのである。

その後は船団が次々とオランダを出発し、東インドから香辛料などを持ち帰った。このような動きに対してポルトガルは何もできなかった。1580年にスペインに併合されたポルトガルには、オランダをはねのける力は無かったのである。

このようなオランダの成功を見て、イギリスのレヴァント会社の幹部たちは自分たちも東インドに船を送ることにした。やり方としては、新しい会社を設立し、一回の航海のたびに出資者を募って、集めた金で船と乗組員や物資を準備して航海を行い、持ち帰った物品を売って得た利益を出資額に応じて分配するものだった。この新しい会社が「イギリス東インド会社」である。

東インド会社は、1601年に東インドとの貿易を独占する特許をエリザベス1世から交付された。そして同じ年の3月に、4隻の船が東インドに向けて旅立った。船団は東南アジアで香辛料を手に入れ、1603年9月に無事に帰国した。これを皮切りに、イギリスも東インドとの貿易を本格化させたのである。

一方、先んじていたオランダには一つの悩みがあった。オランダでは複数の会社がそれぞれ独自に船団を東インドに派遣して貿易を行っており、会社同士の競争が激しくなっていたのだ。このまま競争を続けると共倒れになる可能性があったため、政府が主導して1つの会社にまとめ上げた。これが「オランダ東インド会社」だ。

1602年に設立されたオランダ東インド会社には、政府から特権が与えられた。すなわち、東インドとの独占的な貿易を行う権利に加えて、オランダの名のもとに要塞を建設する権利、総督を任命する権利、軍隊を組織する権利、そして現地の政府と条約を結ぶ権利である。

オランダには武力でもってポルトガルを追い出し、自分たちの海洋帝国を作る野望があった。それを任されたのがオランダ東インド会社だったのだ。  (つづく)

女王の海賊フランシス・ドレイク-イギリス・オランダの躍進(2)

2021-06-19 18:00:28 | 第四章 近世の食の革命
女王の海賊フランシス・ドレイク-イギリス・オランダの躍進(2)
今回は、イングランド女王エリザベス1世が重用した海賊フランシス・ドレイクを取り上げます。彼はイギリスがスペインの無敵艦隊(アルマダと呼ばれた)を打ち破ったアルマダの海戦で大活躍したことで有名ですが、それ以外にもエリザベス女王のために様々な功績を残しています。彼がいなかったら、イギリスが大国へと成長することは無かったと考える学者も少なくありません。

エリザベス1世の頃は、ブリテン島の南半分がイングランドで、北半分はカトリック国のスコットランドでした。また、南のドーバー海峡をはさんだ対岸にはカトリックの大国フランスがあり、両国は断続的な戦いを続けていました。それに加えて、海洋帝国として日が昇る勢いを見せていたスペインがイングランドへの侵略の機会をうかがっていました。さらにローマ教皇配下の修道士もイングランド国内に潜入していました。

このように四面楚歌のイングランドでしたが、国内には毛織物業しか目ぼしい産業が無く国力も小さかったことから、正攻法でカトリック国の脅威に打ち勝つのは不可能でした。そこで取った手段が海賊やスパイを活用することでした。その海賊の代表がフランシス・ドレイクであり、スパイの親玉がフランシス・ウォルシンガムという人物でした。アルマダの海戦の勝利も、ドレイクとウォルシンガムの連携がうまく行ったからだと言われています。

なお、両名ともエリザベス1世からナイト(騎士)の叙勲を得ていますが、騎士は男爵や侯爵のように世襲制ではないため、功績の大きさに比べて一代限りの名誉しか与えられなかったとも言えます。


フランシス・ドレイク
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フランシス・ドレイク(1543年頃~1596年)はイングランド南西部のクラウンデールという町で牧師の子として生まれた。しかし一家はカトリックの反乱に巻き込まれ、港町のプリマスに逃げのびた。そこでは非常に貧しい生活を強いられたらしい。この経験がカトリックに対して反感を抱くきっかけの一つになったと言われている。

ドレイクは10代前半から海の仕事を始めたとされる。しばらくして10歳ほど年上の従弟で大物海賊となっていたジョン・ホーキンスの下で働き始める。ここで船乗りや海賊としての技術を身につけたと考えられている。そして、1568年には念願であった自分の船を手に入れた。

ホーキンスは奴隷貿易の先駆者で、配下のドレイクも奴隷貿易に参加していた。この頃、奴隷貿易は合法と認められていたのである。しかし、ある時ドレイクが参加した船団がスペイン海軍の襲撃に遭い、ほとんどの仲間が殺されてしまう。この事件によってドレイクはスペインに対する敵愾心を強く持つようになったとされている。そして、スペイン船やポルトガル船相手に海賊行為を行うようになったのだ。

ドレイクが強奪したのは主に金や銀などの財宝、砂糖やワインだった。特に南米のポトシ銀山から運ばれてくる銀は一番の獲物だった。当時は銀が世界通貨として使用されており、その主要な産地がポトシ銀山だったのだ。なお、ワインは自分たちの飲料となった。

ドレイクの最大の功績の一つが1577年から1580年にかけて行われた世界一周だ。これはマゼラン艦隊に次ぐ2度目の世界一周であり、イギリス人としては初めての快挙だった。ドレイクはこの功績によって、エリザベス1世からナイト(騎士)の称号を授けられている。

ところが、世界一周自体は当初の目的ではなく、結果として世界一周してしまったというのが通説だ。真の目的は、ポトシ銀山から運ばれる銀を太平洋側から強奪することだった。そして元の計画では、来た時と同じようにマゼラン海峡を通って大西洋に戻り、北上してイングランドに帰国するつもりだったのが、マゼラン海峡が難所だったことから太平洋を西に向かって横断するルートを取ったと言われている。実際、マゼラン海峡を通過できたのはイングランドを出港した5隻中2隻だけだった。

しかし、この航路の選択が功を奏した。ドレイクの船団は季節風に乗って太平洋を横断し、香辛料の生産が盛んなインドネシアの島々に立ち寄ることができたのだ。ドレイクはそこで大量のクローブ(約6トン)やナツメグ、コショウ、ショウガなどの香辛料を購入した。その頃のクローブやナツメグは希少性が高く、ヨーロッパでは非常に価値の高いものだった。イングランドに持ち帰れば大儲けできるのは確実だったのだ。

ドレイクたちはその後も西に進み、喜望峰を回ってイングランドに帰り着いた。ただし、世界一周を成し遂げて帰港できたのは、ドレイクが乗船するゴールデン・ハインド号1隻のみだった。なお、この船のレプリカが現在でもロンドンで展示されている(航行可能で来日もしている)。

ドレイクが帰国した時には、イングランドではドレイクたちは既に死んだものと考えられていたという。それは無理もないことで、当時の航海の致死率が非常に高かったからだ。その主要な原因はビタミンC不足による「壊血病」の発症だ。壊血病は長引くと死に至る病で、大航海時代には壊血病によって約200万人の船乗りが命を落としたと見積もられている。

ビタミンCは野菜や果物などに含まれているが、船乗りたちが食べていたものは塩漬け肉や塩ダラなどの保存食ばかりで、ビタミン類が圧倒的に不足していた。こうした食事を数か月もしていると、体内に貯蔵されていたビタミンCが枯渇して壊血病が発症するのだ。

ビタミンCは体内の組織を維持しているコラーゲンを作るために必須のビタミンで、壊血病では新しいコラーゲンを補充することができずに組織が壊れてしまうのだ。その結果、皮膚は崩れ、歯茎はボロボロになり、細菌が繁殖して悪臭を放ち出すようになる。また、体の内部では軟骨が少なくなるため骨同士がこすれてコキコキと音がするようになり、血管が破れて内出血が体中に広がる。さらには神経も侵されて幻覚などを見るようになるという。そして、最後には体が朽ちて死んで行くのだ。

この壊血病の克服に成功するのは18世紀末になってからである。イギリス海軍の軍医ギルバート・ブレインが、レモンやオレンジなどの柑橘類に壊血病を防ぐ効果があることを見つけて、乗組員に摂取させたのである。さらに、実際にビタミンCが発見されるのは1931年になってからで、ハンガリー人のセント=ジェルジがパプリカから世界で初めて単離を行った。

さて、ドレイクが本国に持ち帰った財宝や香辛料は莫大な富を生み出した。この頃の航海は投機の対象になっており、船長は出資者から金を集めて航海を行い、帰港した際には航海で出た利益を出資額に応じて分配することとなっていた。ドレイクのこの航海では、利益は出資金の47倍の60万ポンドになったとされる。出資金のうち約半分はエリザベス1世が出したものであり、配当金は30万ポンドに上った。当時のイングランドの国家予算が20万ポンドと見積もられていることから、莫大な儲けを手にしたことになる。

英雄となったドレイクはナイトに叙され、さらに1581年にプリマス市長となるが、やがてエリザベス1世の要請を受けて海賊に復帰した。1587年にはスペインの王室船を拿捕して莫大な財宝を手に入れるなど女王の期待通りの働きをしたという。

そして、いよいよ1588年のアルマダの海戦である。この戦いは一度だけの海戦というイメージもあるが、実際には前哨戦も含めて複数の戦いが繰り広げられた。イングランド軍の実質の司令官はドレイクであり、彼は前哨戦から大活躍した。1587年の前哨戦では、冒頭に登場したウォルシンガムの情報からスペイン軍基地への攻撃を行い、100隻以上の艦船の破壊と大量の物資の破棄に成功している。

本戦では、短距離砲しか持たないスペイン海軍に対してイギリス海軍は長距離砲を用いて遠方からの攻撃をしかけることで優位に立った。さらに、火薬や可燃物を搭載した船に火をつけて突入させるなどすることでスペイン艦隊を大混乱に陥れたとされる。

この時スペイン軍にとって誤算だったことが、イギリス本土に上陸する陸軍の招集が間に合わなかったことだ。そのため作戦を中止してスペイン本国に帰還することにしたのだが、不運なことに嵐が襲来し3割以上の船が沈没してしまったのだ。さらに船内に蔓延した感染病で死亡したり、食料不足で餓死したりするなどして、合わせて1万人以上の兵が死んだと言われている。

一方のイングランド海軍の損害は微々たるもので、死者は100名にも満たなかった。

こうしてアルマダの海戦はイングランド側の大勝利に終わった。しかし、スペインの優位はまだ続いており、両者の戦いはその後もしばらく続いた。ドレイクもリスボンを襲撃するなどいくつかの戦いに参加するが、大きな戦果を挙げるには至らなかったらしい。そして最後は南米で赤痢にかかり死亡したとされる。1596年1月28日のことである。彼の遺体は今でもパナマの海底で静かに眠っていると言われている。