食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

大航海時代のはじまりー大航海時代のはじまりと食(1)

2021-03-31 18:01:36 | 第四章 近世の食の革命
第四章 近世の食
4・1 大航海時代のはじまりと食
大航海時代のはじまり
西洋史で近世と言うと、宗教改革あたりから産業革命の前あたりまでの、16世紀から18世紀半ばくらいまでを指すことが多いようです。この時代には、食の世界で画期的な出来事が起こりました。それは、ヨーロッパ人によるアメリカ大陸原産の作物の発見です。大航海時代が始まってヨーロッパ人がアメリカ大陸に進出したことによって、この新しい出会いが起こりました。

ヨーロッパ人がアメリカ大陸で初めて出会った作物には次のようなものがあります。

トウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモ、トマト、トウガラシ(ピーマン・シシトウ)、カボチャ、インゲン、ラッカセイ(ピーナッツ・南京豆ともいう)、アボカド、パイナップル、パパイヤ、カカオ、ヒマワリなどの農作物

タバコやコカ(コカインの原料)などの薬品あるいは嗜好品



農作物についてはどれもなじみのあるものばかりで、もしこれらが無かったら現代の食事はとても寂しいものになっていたはずです。例えば、ジャガイモやトマトは西欧料理には欠かせない食材になっていますし、トウガラシはキムチなどの韓国料理に必須の香辛料です。また、カカオは大好きなチョコレートの原材料です。

西洋諸国の海外進出によって奴隷貿易やプランテーションの拡大など、世の中は大きく変化します。いわゆる地球規模の変化であるグローバリゼーションが始まったのも大航海時代と考えられるのです。

そこで、第四章「近世の食」第一回目の今回は、大航海時代のはじまりを概観していきます。

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いわゆる「大航海時代」は15世紀半ばくらいから始まるとされる。

大航海時代の先鞭をつけたのはヨーロッパ最西端の新興国ポルトガルだった。地中海貿易の恩恵を受けてこなかったポルトガルが、ジェノヴァ商人から資金と船の建造・運用技術の支援を受けて海外進出に乗り出したのである。

ポルトガル人たちは未知の領域だったアフリカの西の海域を南下し続け、1488年にはバルトロメウ・ディアスが喜望峰に到達する。そして1498年にはヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を越えてインドに到達し、ポルトガルとインドを結ぶ航路が開かれることとなった。やがてこの航路を使って莫大な量の香辛料がヨーロッパに運び込まれることになり、ポルトガルの首都リスボンは香辛料貿易の中心として成長して行った。

ポルトガルはマレー半島・セイロン島などにも進出し、1557年にはマカオに要塞を築いてアジア貿易の拠点とした。なお、1543年にはポルトガル人が日本の種子島に漂着して鉄砲を伝えている。

一方、ポルトガルに出遅れたスペインは、大西洋を西に航海してアジアに到達するというクリストファー・コロンブスの提案に乗り支援を行った。コロンブスは1492年に大西洋を横断し、アジアではなく西インド諸島に到達した。コロンブス自身はアジアに到達したと信じ込んでいたが、同じ頃にスペインとポルトガルの両国から派遣されたアメリゴ・ヴェスプッチは、この地がアジア大陸とは別の大陸であると報告した。

ところで、ヨーロッパでは新たに見つけた土地は見つけた国のものになるとされていた。ポルトガルとスペインは両国間の争いを避けるために、ローマ教皇に仲介してもらいトルデシリャス条約を成立させた。この条約では、西経46度37分の経線を境界として、そこから東はポルトガルのものになり、西の地はスペインのものになると定められた。この結果、アフリカ・アジアと南米ブラジルはポルトガルが権利を持つこととなり、それ以外のアメリカ大陸の土地はスペインのものとなった。

アメリカ大陸でヨーロッパ人が初めて出会った作物の多くが、大航海時代の初め頃にヨーロッパに持ち帰られた。例えば、トウモロコシとトウガラシ、カカオはコロンブスが1500年前後にヨーロッパに持ち帰っているし、トマトは1520年頃、ジャガイモは1570年頃にヨーロッパに運び込まれたとされている。ちなみに、ヨーロッパに持ち帰った作物のほとんどはアメリカ大陸の現地人によって栽培化され育てられていたものだった。

また逆に、アメリカ大陸にはそれまで無かった作物や家畜がヨーロッパから持ち込まれた。例えば、作物ではコムギやオオムギ、タマネギなどが、家畜ではウシやブタ、ヤギなどが新大陸に持ち込まれた。

また、ポルトガル領となったブラジルにはサトウキビが持ち込まれ、1530年代からサトウキビを栽培し製糖する大農園(プランテーション)が始まった。そこでは安価な労働力として現地のインディオを奴隷として使役した。しかし、ヨーロッパから持ち込まれた伝染病や過酷な労働のためにインディオの人口はまたたく間に減少したため、西アフリカから運んできた黒人奴隷を使うようになった。

大航海時代の海外進出はポルトガルとスペインが先行していたが、やがてイギリスやオランダ、フランスも海外進出に力を注ぐようになった。この三国はアフリカ・アジア・アメリカ大陸に独自の植民地を成立させ、先行していたポルトガルやスペインの権利を奪っていった。こうしてポルトガルとスペインに代わって、イギリスやフランスなどがヨーロッパの強国となって行くのである。

トプカプ宮殿の料理-中世のトルコ系民族国家の食(5)

2021-03-22 23:05:36 | 第三章 中世の食の革命
トプカプ宮殿の料理-中世のトルコ系民族国家の食(5)
メフメト2世(在位: 1444年~1446年、1451~1481年)以降のオスマン帝国のスルタンは「トプカプ宮殿」に居住していました。この宮殿は東京ドーム5つ分の約7 0万平方メートルの敷地を有しますが、中にはそれほど大きな建物はなく、数多くの庭園と小さな建物や部屋が連なった構造をしています。これは、先祖の遊牧民の伝統に基づいたものであると言われています。

なお、トプカプ宮殿という名前は宮殿が建つ丘の先端にある「大砲の門(トルコ語でトプカプ)」に由来しますが、この呼び方は19世紀にスルタンが宮殿を去ってから使われるようになりました。それまでは「新宮殿」と呼ばれていたそうです。

今回はトプカプ宮殿で作られた料理について見て行きます。


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新宮殿(トプカプ)の建設は1465年に開始され、1478年に第一期の工事が完了した。最初は726人で住み始めた宮殿にはどんどんと人が増えて、17世紀の半ばには40000人が生活していたという。

宮殿で生活していた人々の食事を作っていたのが、正面玄関から奥に進んで2番目の中庭に建てられた厨房だ。中庭には厨房のほかに、調理人の住居、食材や調理器具の倉庫、礼拝用のモスクなどが整えられていたという。

厨房の面積は1500平方メートルほどで、10の部屋に分かれていた。このうちの8つの部屋で料理が作られ、残りの2つの部屋で菓子と薬が作られた。調理を担当していたのは「マトバーフ・アミレ」と呼ばれる部署で、菓子と薬を作っていたのは「ヘルヴァ・ハネ」と呼ばれる別の部署だった。

料理を作る8つの部屋には1名ずつの料理長が置かれ、その中の最年長者が総料理長を務めた。メフメト2世(在位:1451~1481年)の代の厨房スタッフの数は約100人であったが、スレイマン1世(在位:1520~1566年)の代の初めには250人を越えるようになり、終わり頃には500人に達した。さらにムラト3世(在位:1574~1595年)の代には1000人を超えたとされている。

厨房の各部屋には巨大な竈(かまど)と炉があり、8つの調理部屋ではパンやチョルバ(スープ)、ケバブ、ドルマ、ピラフ、野菜サラダ(サラタス)などの様々な料理のほかに、ヨーグルトやバター、チーズなどを使った乳製品も作られていた。

ここで、15世紀の食材の購入記録から宮殿でどのような料理が食べられていたかを見て行こう。

穀物については、莫大な量の小麦粉に加えて、コメが大量に購入されるとともにレンズマメの購入量も多かった。小麦粉は主にパンや菓子作りに使われていたと考えられる。トルコの一般的なパンはユフカと呼ばれ、コムギを水と塩でこねて発酵させずに薄く焼いて作られる。また、表面全体にゴマがまぶされたシミットもトルコの代表的なパンだ。このパンは糖蜜につけてから焼く。

コメはピラフやプディング、ドルマ、チョルバ(スープ)などの材料としてなくてはならないものだった。また、レンズマメはトルコ料理で有名なレンズマメのチョルバの材料となっていた。

肉について見てみると、最も多く購入されていた肉は第一にヒツジの肉で、トルコ民族のヒツジ好きはスルタンも民衆も共通だったようだ。それ以外によく食べられたのは、ウシ、コヤギ、ニワトリ、ハト、ガチョウなどの肉だった。
一方、魚については宮殿ではあまり食べられなかったようだが、カキ、エビ、イクラとキャビアについてはよく食べられていた。

野菜類では膨大な量のタマネギが購入されていた。これはチョルバなどの料理には欠かせない食材だったからだ。また、パセリ、キャベツ、キュウリ、ナス、ニンジン、カブ、フダンソウ(ホウレンソウの仲間)などもよく使用されていた。

料理に使う調味料としては塩のほかに、酸味料として酢、レモン汁、未熟のブドウ汁、ザクロ汁がよく使用されており、当時は酸味の強い味付けが好まれたようだ。

また、ハーブ・香辛料もよく使用されており、国内および周辺国からミント、サフラン、酸味のあるスマック、洋ガラシ、柑橘系の香りがするディルと乳香樹の樹液のサクズが取り寄せられていた。また、オスマン帝国がエジプト-インド間の香辛料貿易を掌握するようになり、大量のコショウやショウガ、シナモンが宮殿内に運び込まれて料理に使われるようになった。

次に製菓用厨房(ヘルヴァ・ハネ)を見てみよう。

ここでは様々な菓子やピクルス、ジャム、シロップ、果物を砂糖水で煮たコンポート、冷たくて甘いシャーベットや、灯りためのキャンドル、そして薬や石鹸などが作られていた。

宮殿の代表的な菓子と言えばバクラヴァだ。これは、溶かしバターを塗りながら何層にも重ねたユフカ生地(小麦粉の生地)の上にアーモンドやクルミなどのナッツ類を砕いたものと砂糖・シナモンをのせ、さらにユフカ生地を重ねてオーブンで焼き上げたものだ。

また、油で揚げた発酵小麦粉生地にシロップをかけたルクマデス(トルコ風ドーナッツ)や、サフランと砂糖の入ったプディングのゼルデ、砂糖にデンプンとナッツ(クルミ、ピスタチオ、アーモンド、ヘーゼルナッツ、ココナッツ)を加えて作るロクム(英語ではターキッシュ・デライト)なども有名な菓子だ。

漬物の仲間のピクルスもお菓子として食べられていた。最も人気があったのはキャベツのピクルスだった。それ以外には、レモン、オレンジ、キュウリ、アーティチョーク、ナス、カブからピクルスが作られた。作られたピクルスは、いつでも提供できるように漬物保管庫に保管されていた。

ヘルヴァ・ハネでは、手に入るほとんどの果物からジャムが作られていた。ジャムにされた果物には、リンゴ、ナシ、チェリー、オレンジ、ピーチ、メロン、スイカ、クルミ、レモン、カボチャ、ナス、ミュレッケプ(柑橘系の果物)、シトロンなどがあった。ジャムのほとんどは宮殿の菓子用厨房で作られたが、いくつかは外で製造されたものが持ち込まれたという。

コンポート(ホシャフ)は宮殿の重要な飲み物の1つであり、毎食の最後にコンポートを飲むのが慣習になっていた。コンポートになる果物は、ブドウ、イチジク、アプリコット、ナシだけで、ジャムよりも使用する果物の種類は少なかった。

また、果汁や花のエキスが含まれた冷たくて甘い飲み物のシャーベットもよく飲まれていた。なお、シャーベットを冷たくするために、遠く離れた高山ウル・ダーのふもとに作られた氷室から氷が運ばれてきていたという。

以上見てきたように、菓子やジャム、コンポート、シャーベットはどれも甘く、ほとんどのものに砂糖が入っていた。砂糖はナイル川流域が一大生産地になっていたが、まだとても貴重で高価なもので、民間にはほとんど出回っていなかった。宮殿は大金を使って大量の砂糖を購入することで甘味欲を満たしていたのである。

最後にヘルヴァ・ハネで作られていた薬について。

現在でも手に入るトルコの伝統薬メスィル・マージュンは、スレイマン1世(在位:1520~1566年)の母が不治の病にふせった時にレシピが献上されたもので、これを作って飲んだところ母君は見事に回復したという。

この薬には多種類の香辛料が練り込まれており、香辛料=薬という当時のイスラム世界とヨーロッパ世界に共通の医学の考え方を見て取れる。ヘルヴァ・ハネではこのように、香辛料を練り込んだキャンディーの薬を作っていたのである。

なお、オスマン帝国が香辛料貿易の支配権を獲得すると、ヨーロッパに入る香辛料に高額の税をかけるようになった。その結果、大切な薬だった香辛料をヨーロッパ人が手に入れるのが難しくなったため、ポルトガルなどがアジアとの交易航路を開発するようになるのだ。

*今回で中世は終わりです。次回から「近世の食」が始まります。

コーヒーの歴史(1)-中世のトルコ系民族国家の食(4)

2021-03-17 18:21:08 | 第三章 中世の食の革命
コーヒーの歴史(1)-中世のトルコ系民族国家の食(4)
私は昼食後にブラックコーヒーを飲むのを日課にしています。

コーヒーには覚醒作用があるカフェインが多く含まれており、仕事や勉強の能率を上げることが知られています。また、カフェインが運動能力を向上させることもよく知られており、多くのアスリートが競技前にコーヒーやカフェインを含んだ飲料を飲むそうです(カフェインはドーピング対象薬に指定されていた時もありました)。

一方、コーヒーは死亡リスクを減少させることも分かってきています。例えば、フランスの研究者たちがヨーロッパの35歳以上の男女約45万人について16年間にわたって追跡調査したところ、コーヒーを多く飲む人の死亡リスクはコーヒーを全く飲まない人に比べて、男性で12%、女性で7%減少していることが分かりました(Ann Intern Med 2017)。彼らの計算によると、毎日のコーヒーを1杯増やすごとに総死亡リスクを男性で3%、女性で1%減少させることができるそうです。

このようにコーヒーを飲むと死亡リスクが減少する理由は、コーヒーに含まれるポリフェノール類が肝臓の機能を改善するからだと考えられています。つまり、肝臓の病気になりにくくなるため長生きできるということです。

今回はこのように健康に良いコーヒーを人類が飲むようになった歴史を見ていきましょう。

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コーヒー豆は「豆」となっているが、マメ科ではなく、リンドウ目アカネ科コーヒーノキ属の植物だ。コーヒー豆と呼ばれている部分は、コーヒーチェリーと呼ばれる実の中にある種子のことだ。この種子の外側の皮を取り除いて焙煎すると、私たちがよく見る写真のようなコーヒー豆が出来あがる。


コーヒーチェリー(vandelino dias JuniorによるPixabayからの画像)


焙煎したコーヒー豆

コーヒーにはアラビカ種・ロブスタ種・リベリカ種の三種類があるが、この中で現在もっともよく飲まれているのがアラビカ種だ。またアラビカ種は人類が最初に飲み始めたコーヒーでもある。

アラビカ種の原産地はエチオピアだ。実はこの地はホモ・サピエンスが誕生した地でもある。ただし、アラビカ種が誕生したのは約400万年前で、ホモ・サピエンスへの進化が約20万年前と考えられていることから、コーヒーの方が大先輩と言える。

コーヒーノキの実(コーヒーチェリー)は食べると美味しいと言われていて、サルなどの哺乳類や鳥類の食糧になるそうだ。「コピ・ルアク」というインドネシアの高級コーヒーは、コーヒーチェリーを食べたジャコウネコのフンからコーヒー豆を取り出して飲料にしたもので、このことからもコーヒーチェリーが小動物のエサになっていることが分かる。

人類も大昔からコーヒーチェリーを食用にしていたと思われるが、確かな証拠として残っているものはなく、コーヒーノキの利用が歴史上の確かな記録として現れるのは15世紀になってからである(10世紀のイスラムの医学書にコーヒーらしきものの記載があったらしいが、この書物は現在では失われている)。

16世紀にエジプトで書かれた書物の中には、15世紀のイエメンでスーフィー(イスラム神秘主義者)がコーヒーを作って飲んでいたという記述があるという。スーフィーとは、イスラムの教義や日常の生活の規範を重視していたイスラム主流派を形式主義だとして批判し、神との精神的な一体化を第一とした人たちのことである。彼らは一晩中神の名を唱え続けるという修行を行うが、この時にコーヒーが眠気を覚ますのに役立っていたようだ。

なお、この頃のコーヒーは現在のようにコーヒー豆だけを使ったものではなく、コーヒー豆の入ったコーヒーチェリーを丸ごとあぶってから煮出す「ブン」と呼ばれるものと、コーヒーチェリーの果肉の部分を乾燥させてから煮出す「キシル」と呼ばれるものの2つがあったそうだ。

このブンとキシルはその後イスラム社会に広まり、1500年頃にはメッカで「カフェハネ」と呼ばれるコーヒーハウスが誕生したと言われている。そして1510年頃にはエジプトのカイロでもたくさんのカフェハネが生まれた。

一方、その頃はオスマン帝国が勢力を拡大していた時で、エジプトやイエメンを支配していたマムルーク朝(1250~1517年)を1517年に滅ぼし、これらの地を征服することになった。その結果、コーヒー文化がオスマン帝国に持ち込まれて花開くことになるのである。

スレイマン1世(在位:1520~1566年)は献上されたコーヒーをすごく気に入り、それ以降オスマン帝国の宮殿ではコーヒーは欠かせないものになった。宮殿では「コーヒー職人長」という新しい役職が作られ、厳重な管理の下でコーヒーが淹れられたという。また、美味しいコーヒーを作るために、焙煎器やコーヒーミルなどの道具も次々と開発・改良された。

イエメンはコーヒーの一大産地だったが、オスマン帝国はイエメンでのコーヒーノキの栽培を奨励した。これは宮殿で飲むだけでなく、他のイスラム教国に商品として輸出するためでもあった。

オスマン帝国の宮殿で飲まれるようになったコーヒーは、1552年にはイスタンブルに最初のカフェハネが作られ民間にも普及し始める。また16世紀後半になると、コーヒーはイスラム法的にも合法な飲み物(ハラル)であると認められるようになり、普及を後押しした。

なお、オスマン帝国に最初に伝わったコーヒーもブンとキシルだったが、やがてキシルは廃れ16世紀末にはブンだけとなる。そして、その頃にヨーロッパに伝わったコーヒーは現在のようなコーヒー豆だけを使用するものになっていたが、その理由についてははっきり分かっていない。

ところで、イスラムのカフェハネではコーヒーのほかにアルコールや麻薬などの禁止物に手を出したり、反政府的な集まりを催したりすることもあったため、時折「コーヒー禁止令」が出された。1633年にイスタンブルに発令されたコーヒーとタバコの禁止令では3万人もの人々が処刑されたと言われている。しかし、コーヒーは生活にしっかり定着していたため、コーヒーの消費が衰えることはなかった。

オスマン帝国初期の食(2)-中世のトルコ系民族国家の食(3)

2021-03-15 21:53:00 | 第三章 中世の食の革命
オスマン帝国初期の食(2)-中世のトルコ系民族国家の食(3)
モーツァルトのピアノソナタに「トルコ行進曲」という曲があります。これはモーツァルトが18世紀のヨーロッパで流行していたオスマン帝国の音楽に刺激を受けて作曲したと言われています。

これ以外にもモーツァルトはバイオリン協奏曲第5番もトルコ風に作曲していますし、オペラ「後宮からの誘拐(逃走)」はオスマン帝国のとある太守の後宮を舞台としており、トルコ風音楽がふんだんに盛り込まれています。また、ハイドンやベートーヴェンもトルコ風の音楽を作曲しており、当時の流行ぶりがうかがい知れます。

オスマン帝国の音楽が西ヨーロッパに知られるようになったのは、1683年にオスマン帝国軍がウィーンを包囲したことがきっかけと言われています。オスマン帝国スルタンの親衛隊である「イェニチェリ」には軍楽隊が付属していて、戦地でも士気向上のため軍楽(メフテル)を演奏していました。これが西ヨーロッパの人々に強い印象を与えたのだと考えられます。

さて、今回もオスマン帝国の食について見て行きますが、スルタン親衛隊「イェニチェリ」に活躍してもらいたいと思います。


イェニチェリ

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オスマン帝国での食事は1日2回だった。イスラム教の教えに従って家族はできるだけ一緒に食事をとった。しかし、食事中の会話はあまり歓迎されず笑うことも禁じられていた。

食事の時間になると絨毯などの布を地面に広げられ、座るためのクッションが置かれた。その上に料理が並べられた。食べ物は同じ器や皿から取られた。ムスリムの伝統では料理は個々の皿には分けられず、大皿に盛られて出されるのが普通だった。

オスマン帝国の食事は常にスープで始まった。いろいろな具材の入ったスープ料理は「チョルバ」と呼ばれ、パンと一緒に食べた。これが食事のメインだった。チョルバの具材には羊肉や牛肉、鶏肉、魚のほかに、コメやコムギ、マメ類、野菜、パン、ヨーグルトなどが単独あるいは組み合わされて使用された。また、エリシュテと呼ばれる手打ち麺(切り麺)も具材として人気だった。エリシュテは小麦粉、水、卵、牛乳などをこねてから延ばしてスライスしたものだ。

オスマン帝国は多民族からなる巨大帝国として発展して行ったことから、様々な民族や地域の特色を持つチョルバが作られるようになった。現代のトルコ料理では、チョルバの種類は数十種類に上ると言われている。なお、チョルバにはレモンを絞った汁を入れて酸味をつけて食べるのがトルコ式である。

ところで、オスマン帝国のスルタン親衛隊「イェニチェリ」は鉄砲を常備した精鋭軍だったが、その指揮官は「スープ係」という意味の「チョルバジ」と呼ばれていた。イェニチェリはトルコ人以外のキリスト教徒の子弟から徴用され、皆が兵舎に住んで一緒にチョルバを食べることによって連帯感を高めていたという。そのチョルバの給仕を取り仕切るのが指揮官の役割だったというわけだ。

また戦場では、イェニチェリはスルタンと一緒に同じ鍋で作ったチョルバを食べる特権が与えられていた。このためか、イェニチェリの隊旗はスプーンだった。

スープを食べた後は肉料理やドルマ、ピラフ(トルコ語ではピラウ)が出てくるのが普通だ。オスマン帝国ではムギの栽培が主だったが、雨が多い地域ではコメもたくさん作られていた。コメはドルマによく入れられたし、ピラフを作る上では欠かせないものだった。

ピラフは炊き込みご飯のことであり、コメに塩とスープを加えて炊きあげたあとにバターを入れて仕上げる。また、コメをバターで炒めたあとに塩とスープで炊きあげる作り方もある。なお、トルコ料理ではピラフは主食ではなく、おかずの一つという扱いである。

ピラフはトルコ民族がオスマン帝国を建てる前から食べてきた古い歴史をもつ料理であり、祝い事には欠かせないものだ。例えば、オスマン帝国の祝宴ではスルタンが重臣たちにピラフをふるまうのが常だった。また、イェニチェリに対しては祝宴だけでなく、給料を支払う時にもピラフがふるまわれていたという。

コメはデザートの材料ともなり、米粉に水あるいはミルクを加えて煮たあとに型で固めることでいろいろのプディングが作られた。

「ゼルデ」と呼ばれるプディングは、砂糖とサフラン、ターメリックを加えて鮮やかな黄色にして固めたあとに、赤スグリややピスタチオなどを乗せたデザートだ。イェニチェリに給料を支払う時に、ゼルデがピラフとともに必ずふるまわれたという。

ほかにデザートしては「シャーベット(トルコ語でシェルベティ)」が良く飲まれた。これはブドウやスモモ、イチジク、ザクロ、ナシ、モモ、アンズなどの果物の果汁やラベンダー、ジャスミン、すみれ、ユリなどの花びらに砂糖や蜂蜜を混ぜて、さらにバラやスパイスで香りづけした冷たい飲み物のことだ。

これがイタリアを通じて西ヨーロッパに伝わると「ソルベット」と呼ばれるようになり、やがて細かく砕いた氷が入れられるようになった。そして冷却技術が発達すると、現在の日本のシャーベットのように凍らせたものが登場するようになる(ただし、呼び方は各国においてかなり異なっている)。

さて、デザートのあとはコーヒーを飲む。このコーヒーの歴史については次回に詳しくお話しする予定だ。

オスマン帝国初期の食(1)-中世のトルコ系民族国家の食(2)

2021-03-12 18:04:04 | 第三章 中世の食の革命
オスマン帝国初期の食(1)-中世のトルコ系民族国家の食(2)
日本とオスマン帝国・トルコとは昔からとても良い関係を続いています。そのきっかけとなったのが、1890年に日本に親善使節として派遣されたエルトゥールル号が和歌山県沖で座礁沈没した際の救出・支援活動と言われています。この事故では和歌山県紀伊大島の住民が総出で救出活動を行い、69名の船員の命を救うとともに、死者を手厚く葬りました。また、全国から義援金が寄せられ、生存者や死亡した人の遺族に贈られました。

それ以来オスマン帝国・トルコは親日政策を取り続け(例えば、日本に対して第二次世界大戦の戦勝国としての賠償金請求を一切行わなかった)、日本も友好国として信頼を寄せてきました。

1985年イラン・イラク戦争では、イラク大統領のサダム・フセインが宣言後48時間以降にイラン上空を飛ぶ機体については撃墜を行うとした中で、トルコはイランに取り残された日本人救出のために自国の航空機を出動させ、200名以上の日本人が救われることになりました。タイムリミットのわずか1時間15分前の脱出劇と言われています。

このように近しい関係にあるトルコですが、あまり日本人はトルコのことを知らないように思います。そこでこのシリーズでは、オスマン帝国の料理を少し詳しく見て行きたいと思います。

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オスマン帝国の料理、すなわち現代のトルコ料理の源流はセルジューク朝(1038~1157年)で作られた。セルジューク朝を建てる以前は、トルコ民族はモンゴル民族のような遊牧民族の暮らしを送っていた。つまり、ヒツジ・ウマ・ウシなどの遊牧を行い、農業はほんの少ししか行わなかったのだ。このため食べ物も肉や乳がメインで、移動が頻繁なため手の込んだ料理は作られなかった。セルジューク朝になると、このような生活にイスラム教と農業が持ち込まれることで新しい食の世界が誕生したのである。

まずイスラム教が浸透することによって、戒律によって食べられるもの(ハラル)と食べられないもの(ハラム)が明確になった。口にすることができないのは、豚肉、アルコール、そしてイカなどの特定の種類の魚介類だ。

また、農業が始まることによって、セルジューク朝では新たにコメ、コムギ、オオムギ、キビ、リンゴ、ブドウ、スイカなど、オスマン帝国でもよく食べられていた作物を栽培し始めた。しかし、農業を始めたからと言ってもトルコ民族の好きな食べ物は肉だった。

セルジューク朝では羊肉が一番喜ばれたが、これはかなり贅沢なごちそうだった。このためヒツジをつぶした時にはあらゆる部位を食べ尽くしたという。ヒツジ以外には鳥の肉などがよく食べられた。ウシは肉よりも労働力と牛乳を得る方が重要だったので、あまり食べられなかった。

肉はそのまま焼いたり、油で揚げられたり、鍋で煮られてシチューにした。揚げ物には羊からとった油や乳から作ったバターを使った。香辛料はあまり使われず、使用されてもせいぜいコショウとシナモンくらいだった。セルジューク朝の料理はあまり手が込んでおらず、質素なものだったと言われている。

トルコ料理の中で日本人になじみの深いものに「シシュ・ケバブ(シシカバブ)」があるが、これもセルジューク朝から食べられていたものだ。実は、この料理名は違う民族の言葉が組み合わされたものである。つまり「シシュ」はトルコ語で「串」もしくは「剣」の意味で、一方の「ケバブ」は「焼き肉」を意味するアラブ語である。このことからもトルコ料理が、トルコ民族の料理にイスラム教を創始したアラブ人たちの料理が組み合わされることでできたということよく分かる。

オスマン帝国のごく初期の頃の料理は、セルジューク朝の頃と同じように質素なものだったと言われている。周辺諸国との戦いが激しく、食のことを考えている暇はあまりなかったからと思われる。

しかし、オスマン帝国の勢力が拡大し生活が安定化してくると、食の世界は上流階級を中心に徐々に豊かになって行った。すなわち、オスマン帝国の宮廷料理は、第6代皇帝のムラト2世(在位: 1421~1444年、1446~1451年)の代から本格的なものになって行ったと言われている。

トルコでオスマン帝国時代から好んで食べられている料理として、具材を葉っぱや小麦粉の生地で包んで調理したものが有名だ。そのうちの一つの「ドルマ」はコメ、タマネギ、挽肉や香味野菜などを混ぜたものをブドウの葉で包んだ料理だ。同じような料理に「サルマ」があり、これはブドウの葉の代わりにキャベツの葉を使ったものだ。

小麦粉の生地は「ユフカ」と呼ばれ、非常に薄いのが特徴だ。ユフカはギリシア語では「フィロ」と言い、日本ではこちらの呼び方の方がよく知られている。ユフカ(フィロ)は常に小麦粉をふりながら少しずつ延ばすことで作られるが、この方法はオスマン帝国のトプカプ宮殿が発祥と言われている。

ボレク」は何層にも重ねたユフカで肉や野菜などの具を包み、表面にバターやオリーブオイルを塗って焼き上げたり、そのまま油で揚げたりしたものだ。

また、トルコの有名なデザートである「バクラヴァ」は、溶かしバターを塗りながら何層にも重ねたユフカ生地の上にアーモンドやクルミなどのナッツ類を砕いたものと砂糖・シナモンをのせ、さらにユフカ生地を重ねてオーブンで焼き上げたものだ。バクラヴァはオスマン帝国宮殿で遅くとも15世紀から食べられていたとされる。


バクラヴァ(DevanathによるPixabayからの画像)

当時の記録から、1453年にビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを占領後に魚を食べる量が劇的に増加したことが分かっている。その理由の1つは、オスマン帝国が周辺の海域を完全に支配したことによって漁業が活発になったからだと考えられる。とは言っても、やはり肉がオスマン帝国での一番の御馳走であったことは間違いない。