食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

香辛料と砂糖-古代インド(5)

2020-09-24 17:21:16 | 第二章 古代文明の食の革命
香辛料と砂糖-古代インド(5)
インドを中心に生産された香辛料と砂糖は重要な貿易品としてメソポタミアやエジプトなどの西アジアやヨーロッパに運ばれた。香辛料と砂糖はいつの時代でもとても魅力的な食品であり商品であり続けたことから、現在に至るまで様々な時代で人類史に大きな影響力を発揮することになる。まさしく、香辛料と砂糖は食が歴史を変えた典型的な例だと言える。

少し繰り返しになるところもあるが、ここで古代における香辛料と砂糖についてまとめておきたいと思う。なお、香辛料についてはシナモンとコショウについて取り上げる。

シナモン
シナモンは世界でもっとも古くから知られている香辛料で、ほのかな甘みある独特の香りと多少の辛みが特徴だ。シナモンは、クスノキの仲間のセイロンニッケイやシナニッケイなどの樹皮の内側部分を乾燥させて作られる。現代では、シナモンはシナモンロールのようにお菓子や料理に入れたり、紅茶やコーヒーなどの飲料に入れたりして食べられる。



紀元前2000年より以前のエジプトのパピルスやシュメールの粘土板に香辛料の「シナモン」について記載がある。エジプトでは神へのお供え物を清めたりミイラを清めたりなど宗教儀式で主に使用されていた。また、医薬品としても使われていたようだ。インダス文明とメソポタミア文明の間には紀元前2000年より以前から海上貿易が行われており、インドのシナモンがメソポタミアを経由してエジプトに運ばれた可能性が高い。

その後のヨーロッパではシナモンは長い間薬として使用された。強心剤や媚薬としての効能があると考えられていたようだ。ちなみに中国でもシナモンは不老不死の薬とされ、仙人の食べ物とされた。

インドでは有史以前からシナモンが料理に使われていたと考えられているが、ヨーロッパでシナモンが料理に使用されるようになるのはローマ帝国末期の3~4世紀のことである。とにかく、シナモンはヨーロッパではとても貴重で、そして産地がどこなのかずっと謎だった。記録にもアフリカが原産地であるなどの不正確な記述ばかりで、なぜ真実が明らかにされなかったのかが現在では歴史上の謎となっている。

やがて16世紀初めにポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を回ってインドに至る道を開拓すると、ポルトガル人は大量のシナモンを独占して本国に送るようになる。
(いわゆる大航海時代の幕開けだが、そのあたりの楽しいお話しはまだ先になります。)

コショウ
香辛料の中でもっともよく利用されてきたのがコショウだ。そのため「スパイスの王」と呼ばれることが多い。



コショウの木はつる性の20年以上生きる熱帯性の植物で、1本の木から約2キログラムのコショウの実が採れる。実を収穫する時期やその後の処理の違いによって、黒コショウ(ブラックペッパー)、白コショウ(ホワイトペッパー)、青コショウ(グリーンペッパー)、赤コショウ(ピンクペッパー)になる。

この中で代表的な黒コショウは、赤く色づきはじめる直前の緑色の実を果皮ごと天日に干して黒くなるまで乾燥させたものだ。また白コショウは、赤く熟した果実を1週間程水につけて外皮を柔らかくしてはがし、白色の実のみにして乾燥させたものだ。黒コショウは肉料理に合い、白コショウは魚料理に合うと言われている。

一方、青コショウは黒コショウのように緑色の実で収穫するが、そのまま塩漬けにしたもので、赤コショウは白コショウのように完熟してから収穫するが、ホワイトペッパーと異なり外皮をはがさずにそのまま使用するものだ。

コショウの原産地はインドの南西部とされている。そして、古くからインドはコショウの一大産地だった。アーリヤ人はコショウのことを「Pippeli」と呼んだが、ヨーロッパに伝わると、これが変化してラテン語の「piper」や英語の「pepper」が生まれたとされている。

コショウがインド南西部で栽培されたことから、西アジアやヨーロッパに伝わったのはシナモンよりも遅かった。紀元前4世紀のヒポクラテスの著作にはコショウのことが記されているので、この頃までにはエジプトを介して地中海にもコショウが伝えられていたと考えられている。ヒポクラテスはコショウを調味料ではなく薬として記していることから、ヨーロッパに入った当初は薬として認識されていたようだ。

しかし、その後しばらくしてコショウは主に料理に使用されるようになった。特にローマ時代には料理に大量のコショウが使われていた。西暦1世紀になるとローマ帝国はエジプトやメソポタミアを含む広大な支配地を獲得するが、その結果として得られたインドとの交易路を用いてコショウなどの香辛料、香料、真珠、宝石や中国製のシルク製品などを輸入したのだ。

一方、ローマ帝国はその引き換えに大量の金貨をインドに渡した。金貨以外にインドに渡せるものをローマ帝国は作っていなかったのだ。今でもインドの古代遺跡からはローマの金貨が見つかるという。

砂糖
「古代アーリヤ人の食生活-古代インド(2)」でお話ししたように、サトウキビは現在のニューギニア島付近が原産地とされており、紀元前6000年前後にインドや東南アジアに広まったと考えられている。そしてインドで砂糖の精製法が発明されたと言われている。

サトウキビの茎を適当な長さに切ってしぼると、糖を含んだ樹液が取れる。これを集めて貝殻などの石灰性の物質を入れると、夾雑物が沈殿してくる。この夾雑物を除いて煮詰めたものが糖蜜だ。さらに糖蜜を煮詰めて糖分濃度を高くし、ここに粉砂糖のような細かい砂糖の粒を加えて加熱すると、その粒を核にして砂糖の結晶が出来る。こうしてできた砂糖の結晶をすくって乾燥させると出来上がりだ。

インドの人々は砂糖のことを「砂利(じゃり)」を意味する「sarkara」と呼んだ。このsarkaraからラテン語の「saccharon」という言葉が生まれ、やがて英語の「sugar」となる。

古代の人々はサトウキビと出会って、とても素晴らしいものと思ったようだ。ヒンドゥー教の儀式では、火にミルク・チーズ・バター・蜂蜜・サトウキビをくべて神へのお供え物とするようになった。また、紀元前510年にアケメネス朝ペルシア王のダレイオス1世がインドに攻め入った時に、ミツバチの助けなしに甘い汁を出す葦(サトウキビ)を見つけたのだが、彼はそれをペルシアに持ち帰り、他国に知られないように大事に育てたらしい。

ペルシア帝国で大事に育てられたサトウキビは、帝国の衰退とともに西アジア(中東)全体に広がって行った。そして、世界が古代から中世に移り行く時に、この西アジア地域が歴史の上で大きな役割を果たして行くことになる。
なお、古代ギリシア人と古代ローマ人は砂糖の存在を知っていたという記録はあるが、輸入されていたとしてもごく少量で、薬として認識されていただけであった。ヨーロッパ人が砂糖を食品として消費するようになるのは中世になってからである。

サトウキビや砂糖の精製法は7世紀に中国に伝えられたとされている。唐朝の第2代皇帝太宗が647年にインドへ技術者を送って「熬糖法」(糖液を煮詰める方法)を習得させたということだ。日本へは奈良時代に鑑真が唐から渡来した時に持参したという説がある。正倉院の記録『種々薬帳』には砂糖という意味の「蔗糖(しょとう)」という言葉が残されている。古代日本でも砂糖は薬とみなされていたのである。

古代インドの農業-古代インド(4)

2020-09-21 14:52:10 | 第二章 古代文明の食の革命
古代インドの農業-古代インド(4)
農業はその土地の気候に大きく左右される。インドについて見てみると、北部地方と南部地方では大きく気候が異なっている。インドの気候に大きく影響しているのが季節風(モンスーン)で、インドの北部では春から夏にかけて海側から湿った南西の風が吹きこむ。その結果、6月から10月にかけて大量の雨が降る雨季となる。それとは逆に、12月から3月にかけては大陸内陸部から北東の乾いた風が吹くため、雨がほとんど降らない乾季になる。



一方、南部地方では、南西の季節風と北東の季節風のどちらも海を通って来るので、雨は一年を通して十分にあり、雨季と乾季の区別ははっきりしない(それでも、北東の季節風が吹く季節に雨が多くなる)。

インド北部には、インダス川やガンジス川などによって作られた沖積平野(河川による堆積作用によって形成される平野)である「ヒンドゥスタン平野」が広がっている。この平野の面積は約70万平方kmで(ちなみに日本の総面積は約38万平方km)、世界最大の沖積平野である。多くの沖積平野と同様にヒンドゥスターン平野は肥沃で、現在では世界有数の農業地帯となっている。

このヒンドゥスタン平野での農業で問題になるのが乾季における降水量不足だ。乾季には50~100ミリの雨しかなく、これでは植物は十分に生育することができないのだ。この水不足を補うために、この平野では古くから灌漑が盛んに行われてきた。

最も広く行われた灌漑法が井戸を掘ることだった。ヒンドゥスタン平野は地下水が豊富であり、穴を掘れば水が出るため農業用に多数の井戸が掘られた。また、マウリヤ朝時代(紀元前317~前180年)には住民を強制的に働かせることで貯水池が次々に作られた。

マウリヤ朝に派遣されたギリシアの外交官メガステネス(紀元前300年頃)は著書『インディカ』で、当時のインドの農業について次のように記している。

「インドにはあらゆる種類の果樹が生い茂る巨大な山がたくさんあります。肥沃な平原の大部分は灌漑されているため、同じ土地で1年間に2つの作物を栽培しています。その結果年間を通じて、ムギに加えてコメやキビ、さまざまな種類のマメ類が育ちます。そしてインドの住民は毎年2回の収穫を行っています」

このように灌漑設備が充実した結果、冬の乾季にはコムギとオオムギ、ナタネなどが栽培され、夏の雨季にはコメやキビ、マメ、サトウキビなどが育てられた。

一方、インドの南部地方は北部よりも温暖だ。イネはコムギよりも最適生育温度が5℃ほど高いため、この地方ではイネが主に栽培された。それ以外には、サトウキビ、キビ、ココナッツ、ナツメヤシ、コショウ、シナモンなどが育てられた。この中でサトウキビから精製した砂糖と香辛料のコショウとシナモンは貿易品として重要な役割を果たしていくことになる。

また、食用ではないが、綿やジュート(インド麻)もよく栽培された。ちなみに、良い香りがすることで仏具や扇子などに使われるビャクダン(白檀)はインド原産の植物で、この栽培も南インドでは盛んだった。ビャクダンは仏教の伝来とともに中国を経て日本に伝えられたと考えられている。

インドの南部でも多数の灌漑設備が造られた。中でも2世紀頃にカーヴィリ川に造られた「カラナイダム」が有名で、建設当時は稲作のために約300平方kmの土地に水を供給したと言われている。このダムは現在でも使用されており、約4000平方kmの土地に水を配っている。

現在のインドはコメ、コムギ、マメ類の生産量が世界トップクラスを誇る農業国であるが、その礎は古代インドの時代に既に作られていたと言える。

古代インドの菜食主義-古代インド(3)

2020-09-19 17:30:05 | 第二章 古代文明の食の革命
古代インドの菜食主義-古代インド(3)
現代のインドでは国民の40%程度が菜食主義者と言われている。インドで菜食主義が広がるきっかけになったのが紀元前5~6世紀頃に誕生した仏教とジャイナ教だ。今回は、インドで菜食主義が生まれた様子を見ていきたいと思う。



仏教とジャイナ教が生まれた頃は都市国家間の争いが続いており、また、パンジャーブ地方にはイラン人が侵攻するなど社会的な不安が高まっていた。そして、このような社会情勢の下で、武士階級のクシャトリアや商人階級のヴァイシャが力をつけていた。これがカースト制やバラモン教を否定する仏教とジャイナ教を生み出す原動力になったと言われている。

日本人になじみが深い仏教は釈迦(仏陀もしくは釈尊と呼ばれる、本名はガウダマ・シッダールタ)によって興された。釈迦は紀元前5世紀頃に北インドの小国シャカの王子として生まれたクシャトリアである。シャカ国は当時の領域国家だったコーサラ国の属国で、後にコーサラ国によって滅ぼされる。

一方、同じ頃にジャイナ教がマハーヴィーラ(本名はヴァルダマーナ)によって生み出される。マハーヴィーラもガンジス川中流域で活動していたナータ族の王子で、クシャトリアであった。

仏教もジャイナ教も輪廻転生から抜け出すこと(解脱すること)を第一の目標としていた。

元々インドに住んでいた人たち(ドラヴィダ人)の間には、人が死ぬとその魂が動物や植物に生まれ変わるという思想があった。ここにアーリヤ人の思想が組み合わされて、善い行いをした者は再び人間に生まれ変わり、悪い行いをした者は獣などの人以外のものに生まれ変わるという輪廻転生の思想が形作られて行った。そしてバラモン教においては、宇宙の根源であるブラフマン(梵)と人間の本体であるアートマン(我)は同一であるということを理解すれば(梵我一如(ぼんがいちにょ))、この輪廻転生から抜け出すことができる(解脱できる)としたウパニシャッド哲学が成立した。

このような聖職者階級を中心とするバラモン教とカースト制を釈迦とマハーヴィーラは否定した。そして、儀礼や身分にとらわれずに正しい行いをすることによって輪廻転生から抜け出して解脱できると説いたのである。そこで重要な教義になったのが「不殺生」だ。

アーリヤ人は遊牧民であったことから肉をよく食べていた。そしてバラモン教の祭りでは神に生贄として必ずウシをささげていたのだが、釈迦とマハーヴィーラはバラモンの神は存在しないとして、生贄などで人間のために動物の命を奪うことを禁じた。特にジャイナ教では、虫や植物を含めていかなる命を奪うことは罪であると考えられ、僧侶にいたっては野菜の場合は生命の源とされる大根やカブのような根菜を食べないし、虫を吸いこんだりしないように口には大きなマスクをする徹底ぶりだ。一方、釈迦自身は肉食を禁じなかったが、死後になって次第に仏教徒の間では肉食がタブーになって行った。

仏教やジャイナ教の広がりを受けてバラモン教でも肉食を禁じるようになって行った。バラモン教は新しい神々を取り入れるなどして現在のヒンドゥー教へと変貌して行くのだが、それにともなって菜食主義思想が強まった。バラモンなどの上位のカーストが厳格に菜食を守った結果、次第に菜食主義者は尊敬される存在になって行ったのである。

ところで、仏教は中国を経て日本にも伝えられるが、日本人は魚を多く食べていたことから魚は食べても良いことになり、菜食主義は広がらなかった。日本における最初の食肉禁止令は678年に天武天皇によって出された詔で「ウシ・ウマ・イヌ・サル・ニワトリ・イノシシ」を食べることが禁じられた。このような食肉のタブーは明治維新まで続くことになる。

古代アーリヤ人の食生活-古代インド(2)

2020-09-16 22:45:36 | 第二章 古代文明の食の革命
古代アーリヤ人の食生活-古代インド(2)
古代四大文明の一つのインダス文明(紀元前2600年頃~前1800年頃)の遺跡からはコムギとオオムギがよく発見されることから、それらが主食になっていたと考えられている。ほかには植物性の食べ物としてはナツメヤシの実も食べられていたようだ。また、家畜としてウシ・スイギュウ・ヒツジ・ゾウ・ラクダが飼育されていたことも分かっている。ブタとニワトリの骨も見つかっているが、これらが家畜か野生かは不明である。農耕地と家畜の放牧地は都市部の周辺に広がっており、住民の分業化が進んでいたと考えられる。さらに、狩猟と漁労も行われており、鳥獣と魚介類も重要な食料だったようだ。

何らかの理由でインダス文明が衰退した後に、パンジャーブ地方(インダス川上流域)にアーリヤ人が進入してきた。紀元前1500年頃のことである。

アーリヤ人は現代のヨーロッパ諸民族と同じ民族に属すると考えられており、背が高く、肌の色は白く、鼻はまっすぐに長かった。アーリヤ人は遊牧民であり、ウマに引かせた戦車を巧みに操った。また、鎧を身にまとい、青銅製の武器を使って彼らの敵を打ち破って行ったことが、彼らが残した最古の文献である『リグ・ヴェーダ』に残されている。彼らの敵は肌が黒くて鼻が低いという特徴から、ドラヴィダ系の先住民と推測される。

『ヴェーダ』は「聖なる知識」を意味し、バラモン教とヒンドゥー教の聖典である。ヴェーダはアーリヤ人がパンジャーブ地方に進入した紀元前1500年より少し前からの出来事が口伝されていたものを文書としたもので、紀元前1000年頃に成立されたと考えられている。ヴェーダは多数の自然神を讃える歌に始まり、祭祀や哲学に加えて、当時生活などの内容も含んでいる。なお、アーリヤ人がパンジャーブ地方からガンジス流域に拡大を終えた西暦500年頃までの時代にヴェーダが成立したことから、この時代を「ヴェーダ時代」とも言う。

アーリヤ人は遊牧民であったが、パンジャーブ地方で暮らし始めると先住民に教わり、農耕を始める。『リグ・ヴェーダ』では、ウシに犂をひかせて畑を耕す様子が語られている。そして、作物の豊作を神に祈った。アーリヤ人はその頃は主にオオムギを育てていたようだ。

農耕を始めたとは言え、アーリヤ人にとって牧畜も依然として重要だった。家畜としてウマと乳牛とフタコブラクダが飼われていたが、中でも乳牛が最も多く、アーリヤ人は牛乳がとても好きだったようだ。しぼられた牛乳はそのまま飲まれたり、乳酸発酵させたものが飲まれたりした。また、オオムギの粒や粉を牛乳で煮て乳粥として食べたらしい。さらに、牛乳をよく混ぜることでできる油脂をすくってバターも作られていたという。



オウシやフタコブラクダは農作業や運搬作業に使われたり、肉として食べられたりした。後にウシは神聖な動物として殺すことが禁じられるようになるが、この頃のアーリヤ人は遊牧民の時の慣習のままにウシの肉を食べていたのである。

やがてアーリヤ人の一部は東進を始める。そして紀元前10世紀頃にガンジス川上流域に進出し、さらに中下流域へと移動して多数の都市国家を建設した。これらの都市国家はお互いに競い合い離合集散を繰り返して、紀元前7世紀末までにコーサラやマガダなどの領域国家が成立した。

なお、この時代には農耕技術に進歩が見られた。以前よりも犂が大きく重くなり刃先が鉄製になったため、たくさんのウシを使ってひくことで深く耕すことができるようになった。さらに『リグ・ヴェーダ』には、農耕に肥料を使うようになったことが記されている。農作物の種類も増えて、オオムギのほかに、コメ、コムギ、エンバク、マメ、ゴマなどが栽培されたらしい。

さて、インドと言えば砂糖である。サトウキビは現在のニューギニア島付近が原産地とされており、紀元前6000年前後にインドや東南アジアに広まったと考えられている。つまり、アーリヤ人がやってくる以前からインドではサトウキビが存在していた。それが紀元前500年頃になると、サトウキビのしぼり汁を煮詰めて糖蜜を作る方法が発明されたのだ。この糖蜜は乳の粥などに入れられるようになり、当時の人々を楽しませたと推測される。

古代インドの歴史の概略-古代インド(1)

2020-09-14 17:30:52 | 第二章 古代文明の食の革命
2・5 古代インド(古代南アジア)の食
今回から古代インドの食です。

古代インドの歴史の概略-古代インド(1)
世界史で「インド」と言う場合には、現在のインドにパキスタン・バングラデシュ・ネパール・スリランカなどを含んだ「南アジア一帯」のことを意味している。この中で歴史的に特に重要なのが次の地域だ(下図参照)。



①パンジャーブ地方(インダス川上流域)
②ガンジス川流域
③南インド地方

インド統一と言う場合には3つの地域を全部支配することを意味するが、それぞれの地域は独立性が高く、独自の歴史を経てきた期間が長い。

ここで、古代インドの歴史を概観すると次のようになる。

・インダス文明:紀元前2600年頃~前1800年頃
・アーリヤ人の侵入:紀元前1500年頃から
・都市国家の形成:紀元前6世紀頃
・アレクダンドロス大王の進入:紀元前4世紀後半
・マウリヤ朝:紀元前317~前180年
・諸国分裂:紀元前2世紀~紀元後3世紀頃
・クシャーナ朝:1世紀中頃~4世紀
・グプタ朝:320~6世紀中頃

紀元前2600年頃からパンジャーブ地方を含むインダス川流域では青銅器を使用する「インダス文明」が栄えた。この文明ではハラッパやモヘンジョダロの遺跡が有名である。インダス文明は紀元前1800年頃に衰退するが、その原因は分かっていない。

紀元前1500年頃になると、中央アジアからインド=ヨーロッパ語族の遊牧民であるアーリヤ人がパンジャーブ地方に進入を開始した。アーリヤ人は進入した土地で先住民と交わり、農耕民族に変貌していった。先住民はドラヴィダ人と考えられており、現在では南インド地方に多く住む民族である。

紀元前1000年頃になると、アーリヤ人はより肥沃なガンジス川上流域にも進出する。アーリヤ人が進入した地域では、バラモン(司祭)・クシャトリア(武士)・ヴァイシャ(農民・牧畜民・商人)・シュードラ(隷属民)という4つの身分に分けられたヴァルナ制と呼ばれる観念が生まれた。そして、ヴァルナ制を基にしてカースト制度が長い時間をかけて作り出されていく。

紀元前6世紀頃になると政治と経済の中心はガンジス川中・下流に移動し、城壁で囲まれた都市国家がいくつも生まれた。都市国家同士は激しく競い合い、勝ち残った国は他国を併合して領域国家へと成長する。このような争いの中で、仏教やジャイナ教などの新しい宗教が生まれた。

紀元前4世紀後半になると、ギリシア・マケドニアのアレクサンドロス大王がパンジャーブ地方に侵攻する。マケドニアの支配は短期間に終わったが、これをきっかけにインドに国家統一の気運が生まれた。その結果登場したのがインド最初の統一国家であるマウリヤ朝である。マウリヤ朝の最盛期を築いたのがアショーカ王で、彼は仏教を篤く保護した。

紀元前2世紀頃にマウリヤ朝が衰退すると、インドは小国に分裂し、抗争を繰り返すようになる。また、パンジャーブ地方にはギリシア人やイラン人などが相次いで進入した。そして、この地域で力をつけたイラン系のクシャーン人がインド北西部にクシャーナ朝を建てる。同じ頃に南インド地方では、サータヴァーハナ朝がオリエントやローマとのインド洋交易によって繁栄していた。その遺跡からは大量のローマ金貨が発見されている。

クシャーナ朝はササン朝ペルシアの侵攻によって次第に衰退した。次いで、4世紀にガンジス川中流域に興ったグプタ朝はインドのほぼ全域を支配することになる。グプタ朝ではバラモン(司祭)の影響力が復活し、また、民間の宗教から徐々に形成されていたヒンドゥー教が社会に定着するようになった。