食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

ハンバーグとミートローフ-近世ドイツの食の革命(2)

2021-08-28 17:05:49 | 第四章 近世の食の革命
ハンバーグとミートローフ-近世ドイツの食の革命(2)
日本人が好きな料理の一つに「ハンバーグ」があります。しかし、海外には日本のハンバーグと同じ料理はほとんど存在しません。このため、日本のハンバーグのことを外国人は「Japanese hamburg steak (Hanbagu:日本風ハンバーグ)」と呼んだりします。

日本風のハンバーグは、ひき肉(一般的には牛と豚の合い挽き)にパン粉と牛乳、刻んだタマネギなどの野菜を入れ、さらに卵と塩・香辛料を加えてこねたあと、フライパンやオーブンなどで焼き上げた料理です。一方、その元となったハンブルクステーキ(Hamburg steak)は、牛のひき肉につなぎを入れずに、塩と香辛料だけで味付けをして焼いた料理です。

また、日本人の多くは日本風のハンバーグを丸いパンにはさんだものを「ハンバーガー」だと思っていますが、もともとのハンバーガーのパテはハンブルクステーキのようにほぼ牛肉だけでできています(そのため、100%牛肉との表示がされたりします)。

日本のハンバーグに近い料理が「ミートローフ」で、これはひき肉にパン粉と牛乳、炒めたタマネギなどの野菜、塩、香辛料を加え、こねたあとオーブンで焼き上げた料理です。

ハンバーグとミートローフはどちらもドイツが関係しています。そこで今回は、ハンバーグとミートローフの歴史について見て行きます。


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ミートローフ

ミートローフ(Wolfgang EckertによるPixabayからの画像)

肉を細かく刻んでひき肉状にしたものにパンとワインを入れてこね、表面にコショウやハーブなどを振りかけて焼いた料理が5世紀頃のローマ帝国の料理書『アピキウス』に記載されている。これがミートローフの原型であると考えられている。

そのままでは食べにくい固い肉もひき肉状にすることで食べやすくなるし、乾燥して固くなったパンも美味しく食べられる。また、パンが入ることで料理のボリュームもアップするので経済的だ。このため、ミートローフはヨーロッパ中に広がって現代まで食べ続けられている。

その中でも、ミートローフがよく食べられてきたのがドイツと北欧だった。北欧では、ミートローフはゆでたジャガイモやマッシュポテトと一緒に食べられることが多く、ドイツではゆで卵を中に詰めて食べることが多かった。

17世紀には多くのドイツ人やオランダ人が移民として北アメリカに渡ったが、彼らの間でごちそうとして食べられていたのがミートローフだった。中でも、北アメリカで手に入りやすかったブタのひき肉にトウモロコシを混ぜ込んで作ったミートローフが人気だった。この料理のおかげで、ミートローフは北アメリカにも定着して行った。

ただし、ミートローフが本格的に大流行するようになったのは、18世紀後半からの産業革命期に家庭用の肉挽き機(ミートグラインダー)が登場してからである(最初の肉挽き機は、19世紀初頭にドイツ人技師カール・ドライスによって発明された)。

ハンバーグ
「ハンバーグの起源はタルタルステーキ」というお話が語られることがある。タルタルステーキとは、生の牛肉を細かく切り刻み、オリーブオイル・食塩・香辛料で味付けし、タマネギやニンニクなどのみじん切りや卵黄などを添えた料理だ。


タルタルステーキ(xesisexによるPixabayからの画像)

「タルタル」とはタタール人(モンゴル人)から作られた言葉で、タタール人が固い馬肉を馬の鞍の下にはさんでやわらかくしてから切り刻んで食べていたという話から、これに似た生肉料理をタルタルステーキと呼ぶようになったと言われている。しかし、馬の鞍の下に馬肉をはさむというのは作り話で、タタール人の野蛮さを誇張するために広められたとされている。

モンゴル軍は1240年から1241年にかけてポーランドとハンガリーに侵攻したが、この時にタルタルステーキの作り方が伝わったとされる。しかし、これまでに発見されたタルタルステーキの最古のレシピは18世紀のもので、タルタルステーキがいつから食べられるようになったかについてはよく分かっていない。

ドイツではタルタルステーキを焼いたような「ブーレッテン(主にドイツ北部)」や「フリカデレ(ドイツ南部)」と言う料理が考案された。これはミートローフのようにパン粉やタマネギなどは入っていない牛のひき肉を焼いたものだ。ブーレッテンとフリカデレはパンとともに食べられることが多く、ハンバーガーの起源とも考えられる。この料理は、18世紀のドイツで労働者の間でとても人気があったらしい。

19世紀前半になると、多くのヨーロッパ人が移民として新大陸に渡ったが、彼らの多くは北ドイツのハンブルク港から乗船し、ニューヨークに向かったという。その時にブーレッテンのレシピがニューヨークに伝わったと考えられている。19世紀の後半には、ブーレッテンはニューヨークのレストランで「ハンブルクステーキ」と名付けられて人気を博することになった。これがいわゆる「ハンバーグステーキ」の元祖である。

ちなみに、19世紀半ば頃にアメリカでは改良型の肉挽き器が開発され、大量のひき肉を生産することができるようになった。これが、アメリカでハンブルクステーキが流行する後押しをしたと考えられている。

その後、ハンブルクステーキは次第にそのままの形では食べられなくなり、代わって20世紀初頭にハンブルクステーキをパンにはさんだ「ハンバーガー」が登場して、アメリカで大流行するようになる。ハンバーガーは、牛のひき肉に塩・コショウをして焼いたものをパンにはさめば簡単にできるし、食べやすくて後片付けも楽なため、アメリカのバーベキューでは定番の料理になって行った。

なお、日本でハンブルクステーキが最初に食べられたのは1882年のこととされている。その後しばらくは広く食べられることはなかったが、1960年代になって合い挽きのひき肉やつなぎが使われるようになり、一般家庭でも日本風ハンバーグが作られるようになって行った。

ドイツの伝統的な食文化-近世ドイツの食の革命(1)

2021-08-25 08:34:22 | 第四章 近世の食の革命
ドイツの伝統的な食文化-近世ドイツの食の革命(1)
今回から近世のドイツの食について見て行きます。

ドイツと言っても近世のドイツは現代のドイツのように一つの大国ではなく、諸国に分裂した状態でした。そして、国同士の争いが頻発しており、戦争によって土地が荒廃することが繰り返されていました。

第一回目の今回は、近世までのドイツの歴史を概観するとともに、この地域で伝統的に食べられてきた食について見て行こうと思います。

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ローマ帝国の後に西ヨーロッパを統一したのがゲルマン民族の国家フランク王国だった。8世紀後半にフランク王国のカール大帝が西ヨーロッパを統一すると、ローマ教皇から西ローマ皇帝に任じられた。

ゲルマン民族の伝統では、親が亡くなると財産は男子に等分されるため、カール大帝の死後フランク王国は西・中・東の3つに分割されて3人の息子に受け継がれた。このうちの東フランク王国の領土が現代のドイツに近い。

ところが、東フランク王国では10世紀初めにカール大帝の家系が断絶してしまう。最終的に王位を継承したのがザクセン家のハインリッヒ1世だ(在位:919~936年)。彼は分割相続を廃止し、それ以降は一人の皇子がすべてを相続するようになった。

次の王のオットー1世(東フランク王在位:936~973年)の時に、彼の王位に反対する勢力が次々に現れて国内は混乱状態になるが、やがて彼は王国全土を掌握することに成功する。さらに、ローマ教皇を援助したことから帝位を授けられ、962年に神聖ローマ皇帝となった(在位:962~ 973年)。これ以降、東フランク王国は神聖ローマ帝国となる。

しかし、その後の神聖ローマ皇帝は教皇と司教の任命権(叙任権)などめぐって対立するようになり、有名な「カノッサの屈辱」などの事件が起きるなどした。その結果、皇帝の権威は次第に弱まって行った。

12世紀末になると、皇帝は選帝侯による選挙によって決められるようになった。こうして皇帝の権威はさらに弱まることになり、逆に地方領主の力が強まって行った。そして、15世紀以降はオーストリアのハプスブルク家が皇帝位を世襲するようになる。なお、その頃の神聖ローマ帝国には約300の諸侯の領土や自治都市が存在していたと言われている。

16世紀になると宗教改革が始まり、カトリックとプロテスタントの対立が激化して行った。そして、1618年に皇帝フェルディナント2世がカトリックを強制したことに対して、ベーメン(ボヘミア、現在のチェコ)のプロテスタントが反乱を起こした。これを発端にカトリックの諸侯とプロテスタントの諸侯の戦いとなり、30年戦争(1618~1648年)が始まる。

戦争開始後すぐにカトリック側にはスペインが支援し、プロテスタント側にはオランダが支援したため30年戦争は国際戦争へと発展した。さらに、デンマークやスウェーデン、そしてフランスも介入したため戦争は泥沼化し、神聖ローマ帝国では多数の死者が発生し、土地が荒廃した。また、神聖ローマ皇帝の権威は消失し、各諸侯には国家主権が認められるようになった。

このような各地の諸侯の中で、ドイツの北東部を領土とするプロイセン王国が勢力を伸ばし、ハプスブルク家のオーストリア帝国と対立するようになる。そして18世紀にはオーストリアとの戦争に勝利して、ヨーロッパの強国の一つとなったのである。

さて、ここでドイツの伝統的な食について見て行こう。

ドイツを含むヨーロッパ北部は冷涼な気候で土地もやせていることから、農作物の生産性が低い。特に冬になると生の食材が不足することから、保存食が発達することとなった。中でも、主に豚肉を使ったソーセージがドイツを代表する食べ物となった。なお、ソーセージ(英:sausage)の語源はラテン語で「塩をする」と言う意味の「Salsisium」で、肉にたっぷり塩をすることで保存性を高めたことから、この名がついたと言われている。



昔のドイツでは、秋にドングリをたくさん食べて太ったブタを冬になる前に肉にしていた。冬になるとブタが食べるエサが無くなったからである(ジャガイモが出回るようになると、これがブタのエサになった)。

ブタを殺すと血が出るが、これがまず血のソーセージ「ブルートヴルスト」の材料となる。肝臓や腎臓、胃などの内臓はそのまま煮たり焼いたりして食べるが、肝臓はペースト状の肝臓ソーセージ「レバーヴルスト」の材料になる。これはパンなどに塗って食べる。なお、ドイツは冷涼な環境でコムギが育ちにくいので、ライムギのパンが主に食べられる。

内臓の次はいよいよ肉の部分だ。内蔵の周りのバラ肉は「ベーコン」の材料になる。塩漬けにしたものを燻製してベーコンが作られる。

バラ肉の上の背の部分にあるのがロースだが、やわらかい肉なのでそのまま料理して食べることが多い。ロースは英語の「ロースト(roast)」から作られた言葉で、焼いてそのまま食べるのに適した肉と言う意味だ。

ソーセージに最も適した部分が肩肉だ。主に仔豚の肉を使って作られる伝統的なソーセージが「ブラートヴルスト」だ。ブラートは「細かく刻んだ肉」を意味する。ドイツで最も古いブラートヴルストは1313年のニュルンベルクの記録に残されている。現代では、地域ごとに特有のブラートヴルストが作られている。

脚にはモモ肉があるが、ここは「ハム」の材料となる。塩漬けしたモモ肉を燻製するかゆでるかしてハムが作られる。

その先にはすね肉があり、ここは有名なドイツ料理「アイスバイン」の材料となる。これは、塩で漬けこんだすね肉を、タマネギ、セロリなどの香味野菜やクローブなどの香辛料とともに数時間煮込んで作る。アイスとは氷のことだが、コラーゲンが溶け出して表面が氷のようにテカテカするためだとか、すね肉についている骨がスケート靴のブレードとして使われたからだとか言われている。なお、17世紀にオランダの移民がドイツにスケートを伝えたとされている。

アイスバインにはザワークラウトが添えられることが多い。ザワークラウトはキャベツの漬物のことで、千切りにしたキャベツを塩・香辛料とともに壺に入れると乳酸発酵が起こり、酸っぱいザワークラウトが出来上がる。

なお、ヨーロッパ人が野菜を普通に食べるようになったのは比較的新しく、16世紀か17世紀になってからだ。それまでは食品としてではなく、薬として食べられることが多かった。例えば、キャベツは古代エジプトや古代ギリシアの時代に既に知られていたが、神へのお供え物(古代エジプト)や胃薬・二日酔いの薬・便通剤(古代ギリシア)などとして利用されていた。なお、古代のキャベツは現在のように球のようになっておらず、結球したのは12世紀頃と考えられている。

カフェの都ウィーンのはじまり-近世のハプスブルク家の食の革命(5)

2021-08-21 18:43:11 | 第四章 近世の食の革命
カフェの都ウィーンのはじまり-近世のハプスブルク家の食の革命(5)
「音楽の都」や「菓子の都」と言われるウィーンは、「カフェの都」と呼ばれることもあります。オーストリアではカフェのことを「カフェハウスKaffeehaus」と言いますが、2011年にウィーンの100軒ほどのカフェハウスがユネスコの無形文化遺産に指定されたことからも、ウィーンにおけるカフェの重要性が分かります。

1554年にオスマン帝国の首都イスタンブールで世界初のカフェハウスが誕生しました。そして、それから約130年後の1685年にウィーンで最初のカフェハウスが誕生したとされています。今回は、このカフェハウス誕生のお話から始めて、ウィーンの伝統的なカフェハウスの様子について見て行きます。


Cafe Sperl(Sandor Somkuti撮影)
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1685年に最初のカフェハウスが生まれたいきさつとして、次のような話がよく語られる。

「1683年にオスマン帝国軍がウィーンを包囲した。ウィーンの守備隊はポーランドの援軍を心待ちにしていたが、なかなかやってこない。そこで、トルコ語に長けたフランツ・ゲオルグ・コルシツキーという人物が伝令役となり、オスマン軍の包囲網を抜け出してポーランド軍に赴き、援軍の要請を行った。ポーランド軍はすぐに援軍に駆け付け、オスマン軍を蹴散らしたことによって、ウィーンは救われた。こうしてオスマン軍が去ったあとには様々な物資が残されていたのだが、その中に大量のコーヒー豆があった。ウィーンの人々はこれをラクダのエサと思って捨てようとしたのだが、コーヒー豆のことを知っていたコルシツキーは伝令を成功させたご褒美にこれをもらい受け、1685年にウィーンで最初のコーヒーハウスを開店させたのである。」

しかし、この話は真実とは異なる伝説と考えられている。1685年にコーヒーハウスを開いたのはアルメニア商人のヨハネス・ディオダードという人物であり、さらにそれ以前からウィーンにはコーヒーハウスがあったと推測されている。

そもそも、オーストリアに最初にコーヒーが紹介されたのは1665年のオーストリアとオスマン帝国との和平交渉の席だった。その頃オスマン帝国との貿易で活躍していたのがアルメニア商人で、オーストリアでもコーヒーが売れると判断した彼らが、オスマン帝国からコーヒー豆を運んでオーストリアに流通させたと言われている。はっきりとした記録には残っていないが、1685年以前にウィーンでカフェハウスを開店させたのもアルメニア商人だったと推測される。

ウィーンのカフェハウスは1700年には4軒になり、1770年には48軒、そして19世紀半ばには100軒ほどまでに増えて行った。

カフェハウスの多くは大きな交差点の角に建てられた。こうすることで、店が目立ちやすくなるし、入りやすくなる。また、窓が増えて店内が明るくなる。
ウィーンのカフェハウスでよく使用された椅子が曲げ木椅子で、19世紀になるとトーネット社製の曲げ木椅子がカフェハウスの定番となった。テーブルは大理石でできた丸い天板のものが一般的だった。


曲げ木椅子(Bentwood chair)(By Valerie McGlinchey, CC BY-SA 2.0 uk, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9977605)

イギリスやフランスのコーヒーハウスやカフェと同じように、ウィーンのカフェハウスも男性の社交場や情報交換の場として発展して行った。このため、カフェハウスには多数の新聞と雑誌が置かれていた。また、伝統的なウィーンのカフェハウスに欠かせないのが「ヘル・オーバー(Herr Ober)」と呼ばれる、タキシードに身を包んだ男性ウェイターだ。

以上のような特徴が無形文化遺産を構成する要素となっている。

ウィーンの一般的なコーヒーにはミルクなどが入っているものがほとんどだ。ウィーンで一番ポピュラーなコーヒーの「メランジェ(Melange)」は、エスプレッソコーヒーに泡立てた温かいミルクを入れたものだ。これに泡立てたクリームを乗せると「カプツィナー(Kapuziner)」になる。

日本のウィンナーコーヒーは本場では「アインシュペナー(Ein spänner)」と呼ばれ、エスプレッソコーヒーに泡立てたクリームを乗せたものだ。また、「マリア・テレジア(Maria Theresia)」と言う、マリア・テレジアが好んだオレンジリキュールをメランジェに入れたコーヒーも有名だ。

カフェハウスではコーヒーのほかに、それぞれの店の定番のお菓子を出すのが一般的だ。デメルではザッハトルテが定番だし、多くの店で自慢のトルテが供されている。

なお、ウィーンには、モーツァルトやベートーヴェンが演奏したレストランを改装したカフェ・フラウエンフーバーやジークムント・フロイトらが訪れたカフェ・ツェントラルなどの歴史に浸ることができるカフェも多く存在している。

高貴なる腐敗のはじまり:トカイワイン-近世のハプスブルク家の食の革命(4)

2021-08-19 20:19:44 | 第四章 近世の食の革命
高貴なる腐敗のはじまり:トカイワイン-近世のハプスブルク家の食の革命(4)
貴腐ワイン」という、すごく甘口で素晴らしい香りが特徴のワインがあります。これは「貴腐菌」と呼ばれる菌がつくことでできた貴腐ブドウを原料に作られるワインです。

貴腐菌がブドウに付着すると、ぶどうの皮の表面のワックスを溶かして中に侵入しようとします。こうしてブドウの皮にはたくさんの穴ができるのですが、そこから水分が蒸発し、糖分が濃縮されて干しぶどうのようになります。また、侵入した貴腐菌によって香りの元となる成分も生み出されます。

このようなブドウを貴腐ブドウと呼んでおり、これを原料とすることで、甘口で独特の香りを醸す貴腐ワインが生み出されるわけです。

ところで、ブドウに貴腐菌がつけば必ず貴腐ブドウになるわけではありません。貴腐菌の本名はボトリティス・シネレア(Botrytis cinerea)と言い、実は様々な農作物に灰色かび病や立ち枯れ病などの病気を生み出す厄介な菌なのです。

ブドウもボトリティス・シネレアの繁殖が盛んになり過ぎると、灰色かび病になってしまい貴腐ワインは造れません。つまり、貴腐ブドウとなるためには、「適度」にボトリティス・シネレア(貴腐菌)が繁殖することが必要なのです。

貴腐ワインの産地は、貴腐菌が適度に生育する気候に恵まれています。貴腐ワインの産地では、夜から朝にかけて霧が発生したり小雨が降ったりして湿度が高くなり、貴腐菌の繁殖に適した湿度になります。一方、日中になると晴れ上がり、乾燥して貴腐菌の過度の繁殖が抑えられます。このように貴腐菌の繁殖が適度に保たれることで、貴腐ブドウとなります。

さて、今回は、貴腐ワインのはじまりのお話です。貴腐ワインが最初に造られたのは、ハンガリーのトカイ地方と言われています。ここで醸造された貴腐ワインはハプスブルク家の秘蔵のワインとなり、他国の王家への贈答品として重用されました。

なお、貴腐ワインはハンガリー語で「nemesrothadás」と言い、これは「高貴な腐敗」を意味します。「貴腐」という言葉はこの「高貴な腐敗」から作られました。


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トカイ地方はハンガリーの北東部の、ボドログ川とティサ川という二つの川が合流するところに位置している。この地域の昼と夜の寒暖差は10℃以上もあるため(東京だと寒暖差が大きくても10℃まで)、二つの川が生み出す水蒸気が朝には霧となる。これがブドウ畑を包み込むことで、貴腐菌を繁殖させるのだ。

ハンガリーは遊牧民族のマジャール人が建てた国だったが、995年に神聖ローマ帝国との戦いに敗れたことから、国家を存続するためにキリスト教を国教とすることにした。キリスト教では聖体拝領の儀式などでワインは必需品であったことから、ブドウの栽培とワインの醸造が盛んになった。

トカイ地方がワインの一大産地となるのは16世紀以降のことで、貴腐ワインがこの地で造られるようになったことと関係していると考えられている。貴腐ワインの醸造がいつから始まったかについてはよく分かっていないが、16世紀後半の文書に貴腐ブドウの語が見られることから、16世紀には貴腐ワインが造られるようになっていたと考えられている。

なお、ハンガリーでは次のような貴腐ワインのはじまりのお話が語り継がれているという。

「1630年頃にトカイにオスマン帝国軍が侵攻してきた。その脅威から逃れるために、住民は一時的にトカイを離れた。オスマン軍が去ったので住民がトカイに再び戻ってきたのだが、ブドウの収穫期はすでに過ぎてしまっており、ほとんどのブドウがしなびていた。ところが、ダメもとでワインの醸造を試してみたところ、甘くて薫り高いワインが出来あがったのである。こうしてトカイでは、わざとブドウの収穫期を遅くして、ワインを造るようになったのだ。」

これに似た「戦争のために云々」というお話が、貴腐ワインの有名な産地であるドイツ・ラインガウ の シュロス・ヨハニスベルクとフランス・ボルドーのソーテルヌで伝説として残っているという。しかし、いずれの話も日本昔話のようなもので、実際にあった話とは考えられていない。

なお、ハンガリーのトカイ地方では貴腐ワインだけでなく、いわゆる普通のワインも造っていた(いる)のだが、貴腐ワインがとても有名になったため、トカイワインと言えば貴腐ワインを指すようになった。

当時からトカイワインの素晴らしさは多くの王族や聖職者が認めるところだった。1703年にトカイの領主がフランス王ルイ14世にトカイワインを贈ったのだが、ルイ14世は大いに満足して「これぞ王者のワインにしてワインの王者である」と激賞したと伝えられている。また、ルイ15世やロシアのピョートル大帝、プロシアのフレデリク1世などもトカイワインの大ファンだったと言われている。

ハプスブルク家の支配地の中ではトカイワインの品質が随一であったため、宮廷の酒の貯蔵室には常に大量のトカイワインが貯蔵されていた。マリア・テレジアがフランスのロレーヌ公だったフランツ・シュテファンと結婚するとフランスのワインも入ってきたが、それでもメインはトカワインだった。

このように、トカイワインは国内外で大人気だったため、生産地のトカイはとても潤っており、この地を領地としたトランスヴァニア公はハンガリーでもっとも裕福な貴族だった。しかし、ハンガリーの人々はオーストリアの支配から独立を果たしたいという思いを強く持っており、ワインで稼いだ金は反オーストリアの財源として活用されていたと言われている。

ウィーン料理のはじまり(2)-近世のハプスブルク家の食の革命(3)

2021-08-16 17:44:44 | 第四章 近世の食の革命
ウィーン料理のはじまり(2)-近世のハプスブルク家の食の革命(3)
前回から近世を始まりとするウィーン料理菓子について見ていますが、今回は近世の中頃以降から影響を受けるようになったハンガリーオスマン帝国に起源がある料理についてお話します。

ハンガリーは、ヨーロッパとアジアを分けるウラル山脈が起源地とされる遊牧民族のマジャール人によって11世紀に建国されました。1240年にはモンゴル軍の侵略を受けるなどしたため、城砦や城壁を整えて防御力を高めたと言われています。

しかし14世紀になると、オスマン帝国の勢力が拡大し、ハンガリーにも侵入して来るようになりました。1526年にはオスマン帝国軍との戦いによってハンガリー王が死亡し、その後王位はハプスブルク家に移りました。そして1541年にオスマン帝国軍によってブダ(現在のブダペストの一部)が征服されると、ハンガリーの国土のうち、西部と北部はハプスブルク領となり、中央部と南部はオスマン帝国領に、そして東部はオスマン帝国寄りのトランシルヴァニア公国が支配するようになります。その結果、ハンガリーにはオスマン帝国の食文化が導入されました。

1683年にはオスマン帝国軍がオーストリアに侵攻しウィーンを包囲しましたが、ポーランド軍の活躍でこれを撃退し、それ以降はオスマン帝国の勢力が衰えて行きました。そして1699年に締結されたカルロヴィッツ条約によって、オスマン帝国が支配していたハンガリーの領土はハプスブルク家に戻されます。こうしてハンガリーに取り込まれていたオスマン帝国の食文化がハプスブルク家にもたらされることになったのです。

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代表的なハンガリー料理と言えば、パプリカを使った牛肉の煮込み料理の「グヤーシュ」だ。このグヤーシュがオーストリアに持ちこまれると人気の料理となり、「グーラッシュ(Gulasch)」と呼ばれるようになった。現代では定番のウィーン料理の一つになっている。


グーラッシュ(Bild von RitaE auf Pixabay)

パプリカはトウガラシの変異種で、トウガラシの辛みの成分であるカプサイシンを作り出せなくなっている。このため、辛味以外のトウガラシの独特の風味を楽しむことができる。ハンガリーでは主にパウダー状にしたものを料理に使う。

ハンガリー人はトウガラシを品種改良することでパプリカを生み出したが、このトウガラシはアメリカ大陸が原産地で、ポルトガル人が植民地のインドに持ちこんだものをオスマン帝国が本国に持ち帰り、さらにハンガリーに伝えたのである。

しかし、ハンガリー人は辛いものが苦手で、トウガラシ内部の隔壁と呼ばれる辛い部分を取り除いて食べていたという。そして「必要は発明の母」という通り、18世紀になって辛くない「パプリカ」を生み出したのである。

グヤーシュのグヤは牛の群れを意味しており、遊牧民だったマジャール人が宿営地で食べていた牛肉の煮込み料理が起源と言われている。グヤーシュの作り方も至ってシンプルで、牛肉を野菜と一緒にパプリカとトマトで煮込むだけだ。グーラッシュの作り方もグヤーシュとほとんど変わらない。

ハンガリーにあるパンノニア平原はウシの一大放牧地で、ここで育てられた大量のウシが国外に輸出されていた。1699年にハンガリーのほぼ全土がハプスブルク家の領土となったことから、ウィーンには大量の牛肉が持ち込まれるようになった。その結果誕生したのが、ウィンナーシュニッツェル(ウィーン風カツレツ)と並ぶ人気を誇る「ターフェルシュピッツ(Tafelspitz)」だ。これは、塊の牛肉(仔牛肉がベスト)を野菜や香辛料とともにじっくり煮込んだ料理で、食べやすい厚さにスライスされて供される。リンゴと西洋わさびで作ったソースをかけて食べることが多い。


ターフェルシュピッツ

ターフェルシュピッツは長らく庶民の料理だったが、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(在位:1848~1916年)が大好物としたことから、高級レストランでも欠かせない料理となった。

さて、いくつかの有名なお菓子もハンガリーからオーストリアに伝えられた。その一つが「アプフェルシュトゥルーデル(Apfelstrudel)」だ。これは、シュトゥルーデルという薄い生地でリンゴを巻いて作ったアップルパイの一種で、マリア・テレジアが好んで食べていたと伝えられている。


アプフェルシュトゥルーデル(Bild von RitaE auf Pixabay)

シュトゥルーデル生地は、小麦粉に塩・卵・水を加えてよくこねた後、非常に薄く延ばして作る。この生地で詰め物を幾層にも巻いてから焼いたものをシュトゥルーデルと呼んでおり、時には肉や野菜を入れて食事の料理とすることもある。18世紀にハンガリーから伝えられたと言われている。

シュトゥルーデルの起源は、中世からアラブ地域で作られていた菓子の「バクラヴァ」と考えられている。バクラヴァの生地も、小麦粉に塩・卵・水を加えてよくこねた後、向こうが透けるくらい薄く延ばして作る。そしてこの生地を幾層にも重ねたもので、ナッツなどをはさんで焼いて菓子とする。オスマン帝国でよく食べられていた菓子であり、現代のトルコでも名物となっている。


バクラヴァ(DevanathによるPixabayからの画像)

パラチンキ(Palatschinke)」)もハンガリーからオーストリアに伝わったお菓子で、小麦粉の生地をクレープ状に焼いたものにジャムなどを包んだお菓子だ。

このお菓子の起源は、古代ギリシア・ローマ時代からある「平たいケーキ」を意味する「プラケンタ」で、ドイツや東ヨーロッパの国々でよく食べられている。オーストリアではアプリコットジャム(アンズジャム)が入ったパラチンキが人気だ。


パラチンキ(Bild von thechuk auf Pixabay)