食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

グアノとチリ硝石-近代の肥料革命(1)

2022-11-27 16:22:12 | 第五章 近代の食の革命
グアノとチリ硝石-近代の肥料革命(1)
今回から「近代の肥料革命」というタイトルで、新しいシリーズが始まります。

化学肥料の成分はチッソ(N)、リン(P)カリ(K)の3つが主になっています(この3つを肥料の三大要素と呼びます)。1841年にこの3つが植物にとって必須の栄養素であることを見出したのが、ドイツの天才化学者のユストゥス・フォン・リービッヒ(1803~1873年)でした。この発見をきっかけに、これらの成分を含む鉱石などが肥料の原料として用いられるようになるのです。

三大要素の中で、リン(P)とカリ(K)は鉱山などから比較的容易に手に入れることができるのですが、チッソ(N)を含む原料には限りがありました。チッソと言っても、空気中のチッソではダメで、硝酸やアンモニア、尿素などのような窒素化合物でなければ、肥料の原料になりません。

そこで、近代には、「ハーバー・ボッシュ法」という、空気中のチッソから窒素化合物を作る方法が開発されました。そしてこれが、現代でも肥料を生産するための根幹となる技術になっています。

本シリーズでは、ハーバー・ボッシュ法の登場までの近代の肥料の歴史について見て行きます。今回は、近代の前半期に非常に優れた肥料として使用されていた「グアノ」と、その後の肥料の原料となった「チリ硝石」のお話です。

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グアノとは、ペルー沿岸のチンチャ諸島の島々に海鳥のフンや死骸、エサの魚、卵の殻などが堆積して化石化したもので、チッソやリンなどを大量に含んでいる。雨が少ない地域のため、チッソリンを含むフンなどが洗い流されずに積もり続けることでグアノができるのだ。インカ帝国などアンデス文明の段々畑には肥料としてグアノがほどこされることで、トウモロコシなどの作物が豊かに実ったと言われている。

グアノはとても貴重であったため、インカ帝国では海鳥は厳重に保護されていたという。例えば、繁殖期には鳥がおびえて逃げ出さないように島への人の出入りを禁じており、もしこれを破ってしまうと死刑になった。また、一年を通して海鳥を殺した者も死刑になった。

インカ帝国はスペインに滅ぼされ、植民地となるが、欧米人はグアノに興味を示さなかったという。ところが19世紀に入ると事態は一変する。その頃のアメリカ合衆国の農地では、連作による地力の低下が問題になっていた。そこで、肥料としてグアノを使ってみたところ、他の肥料に比べて効果がずっと高いことがわかって来たのだ。こうしてグアノは最高品質の肥料として欧米諸国に知られるようになったのである。

1821年に独立したペルーは、大量のグアノを採掘して主にアメリカに輸出するようになった。しかし、イギリスなどの欧米諸国もグアノを欲しがったため、グアノの調達は外交上の大きな問題に発展して行く。また、ペルーは、グアノ輸出の利益によって大変潤ったが、やがてグアノが枯渇することによって経済の破綻を招くことになった。

一方で、グアノを産出する新しい島の探索も始まった。その結果、いくつかの島々でグアノが見つかり、採掘が始まった。しかし、その量は限られており、19世紀中にはほぼ取り尽くされてしまったという。



グアノの次に肥料の原料となったのが「チリ硝石」だ。チリ硝石はペルー・ボリビア・チリの三国にまたがるアタカマ砂漠で採掘された。チリ硝石の主成分は硝酸ナトリウムで、肥料の三大要素の一つの窒素(N)を大量に含んでいる。チッソ(N)とリン(P)を多く含むグアノには劣るが、グアノが取り尽くされた後はチリ硝石が各国で引っ張りだこになった。

なお、19世紀後半の南米の国々は独立後間もない時期であり、国境も不安定な状態にあった。そして、チリ硝石を産する鉱山をめぐって、ペルーとボリビアの連合軍はチリと戦うことになる。

太平洋戦争(1879~1884年)と呼ばれた5年にわたる戦いはチリの勝利で終わったことにより、多くの鉱山がチリのものになった。これがチリ硝石と呼ばれるゆえんだ。こうして、第一次世界大戦頃まで莫大な量のチリ硝石が採掘され、その結果、チリは南米でも有数の豊かな国となったという。

ところで、硝石は火薬の原料にもなっており、各国の社会情勢や国際情勢が緊迫化する中で、火薬の原料としても硝石の需要量が増えて行くことになる。実は、ハーバー・ボッシュ法が開発される理由も、火薬の原料を獲得しようとしたところも大きいと言われているのである。

中国系移民の食-アメリカの産業革命と食(10)

2022-11-19 20:18:26 | 第五章 近代の食の革命
中国系移民の食-アメリカの産業革命と食(10)
移民の国アメリカにはたくさんのアジア人もやってきました。その中で、アメリカの食に大きな影響を及ぼしたのが中国人です。しかし、アメリカにやって来た中国人の生活は決して安泰なものではありませんでした。人種差別による迫害を受けたからです。

今回はこのような社会背景とともに、中国系移民の食を見て行きます。

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アメリカへの中国からの移民は1840年代から始まり、1860年代になると急増した。この背景の一つには、中国イギリスの関係がある。それを簡単に言うと、次のようになる。

18世紀の終わりにかけてイギリスで紅茶を飲む習慣が広まり、茶の需要が高まった。その結果、中国(清)からの茶葉の輸入が増加したのだが、イギリスの主要輸出品であった綿製品は中国では売れなかったため、イギリス側は大幅な赤字となる。この時イギリスが目を付けたのがアヘンで、アヘンを植民地のインドで作らせ、綿製品と交換し、中国に持ち込んだのである。

中国はアヘンの輸入を禁止するが、それに反発したイギリスが1840年にアヘン戦争を起こした勝利する。そして、1842年に結ばれた南京条約によって鎖国状態だった中国は開国し、中国人の海外への移動が可能となった。

折しもイギリスでは、1833年に奴隷制度が廃止されていた。そこで、奴隷商人は黒人奴隷の代わりに中国人やインド人を安価な労働者として海外に移住させたのだ。それは名目上は契約という形を取っていたが、多くの場合で暴力を用いた強制的なもので、奴隷貿易と何ら変わらなかった。

こうして海外に移住した労働者は苦力(クーリー)と呼ばれて酷使されることになった。アメリカではゴールドラッシュに沸く西海岸の鉱山や、建設中の大陸横断鉄道で主に働いていた。カリフォルニアでは1870年代には中国人が州人口の1割弱をしめるまでになったと言われている。

中国人たちは「チャイナタウン」と呼ばれる貧民街で共同生活を営んでいた。そして、一部の人々が、同胞の人たちを相手に食堂などの商売を始めた。これが中華レストランの始まりだ。なお、中国からの移民のほとんどが広東出身であったため、料理のベースは広東料理だった。と言っても、本格的な中華料理を学んだ者は少なく、家庭料理の延長のような料理を作っていたと考えられる。1850年までに、サンフランシスコには8軒程度の中華料理店があったと言われている。

最初は同胞の中国人のための料理だったが、次第に他のアメリカ人の味覚に合うように料理が工夫されるようになった。その結果、中華料理店は、安くてとてもおいしい料理を出す店として知られるようになって行く。特に、若者たちに人気があったようだ。

その頃の人気の料理に「チャプスイ(chop suey)」がある。これは、広東料理が元になったと言われているもので、豚肉や鶏肉をモヤシなどの野菜と一緒にごま油で炒めてから煮込んだ料理で、とろみをつけあと、チャーハンや麺にかけて供される。八宝菜に似た料理と言えばわかりやすいかもしれない。



中国系移民はアメリカで様々な迫害を受けた。その最たるものが1882年に制定された「中国人労働者移民排斥法」だ。これは、学生や商人、旅行者以外の中国人のアメリカへの入国を禁止するもので、1943年まで続いた。

それでも、アメリカの中華料理は進化を続け、20世紀に入るとアメリカの中華料理はより甘くなり、揚げ物が多くなった。また、ブロッコリーという中国にはない野菜が使用されるようになった。

ちなみに、アメリカの中華料理店では最後にフォーチュンクッキーが出てくるが、これは元々日本料理店で出されていたものが第二次世界大戦後に中華料理店で出されるようになったものだ。いろいろなものが取り入れられて、現代に続くアメリカの中華料理が作られて行くのである。

第五章 近代の食の革命

2022-11-18 20:18:26 | 目次
第五章 近代の食の革命

1 イギリスの産業革命と食 











2 アメリカの産業革命と食 






(6)缶詰の歴史 




(10)中国系移民の食 


イタリア系移民の食-アメリカの産業革命と食(9)

2022-11-12 17:44:33 | 第五章 近代の食の革命
イタリア系移民の食-アメリカの産業革命と食(9)

アメリカは移民国家です。アメリカへの移民は、19世紀の終わりまでは、イギリスやアイルランド、ドイツ、北欧からのものが主でしたが、19世紀末以降は、イタリアやポーランド、ギリシア、ロシア、そして中国や日本からの移民も多くなりました。

そして、各民族は混ざり合うことはなく、それぞれが独自の民族集団を作っていました。食文化も同様で、それぞれの民族が独自の料理を作り、食べていたのです。これらがアメリカの食として一般化して行くのは、20世紀に入ってからのことです。

今回は、ピザやスパゲッティのように、現代のアメリカの食の中でも大きな存在感を示しているイタリア移民の食について見て行きます。

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中世以降、イタリアは小国に分裂していたが、19世紀の中頃から最北部のサルデーニャ王国を中心に統一戦争が展開され、1861年にイタリアは統一された。その結果、シチリア島やイタリア南部の人たちは冷遇され、生活も困窮した。特に小作農は日々の食べ物にも事欠く有様で、生きて行くために移民や出稼ぎとして国外に出たのである。

最も多くのイタリア移民が向かった先はアメリカ合衆国だった。彼らの多くは、ニューヨーク、ボストン、フィラデルフィアなどの東海岸北西部の都市に定住した。特に、ニューヨークのマンハッタンやブルックリン、ブロンクス、クイーンズの各地区は、イタリア系移民の街として発展して行った。また、一部のイタリア系移民は、大陸を横断して、カリフォルニアなどの西海岸に居を構えた。

イタリアからの移民のほとんどは小作農出身で、イタリアでは、オリーブオイルやチーズ、肉、パスタなどはほとんど口にしたことがなかった人たちだった。しかし、アメリカにやって来た彼らは、働きさえすれば食べるものに困らなくなった。そして、アメリカで手に入る食材で、金持ちのイタリア人が食べていた料理を作って食べるようになったのである。と言っても、高い食材をふんだんに買えるほど豊かでなかったため、自宅で豚やヤギ、ニワトリなどを育てたり、家庭菜園でトマトなどを育てたりしていたらしい。

イタリア系移民の多くが南部出身だったため、パスタ、トマトソース、オリーブオイルなどを主に使用するナポリ料理やシチリア料理がアメリカではよく食べられるようになった。

これ以降は、現代でも広く食べられているアメリカのイタリア料理(Italian American Foods)について見て行こう。

ミートボールスパゲッティ(Meatball Spaghetti/Spaghetti and Meatballs/Spaghetti with Meatballs)

この料理は、アメリカのイタリア料理では定番になっている。ナポリの祭りではスパゲティを食べた後にミートボールを食べる風習があるそうだが、これがアメリカに持ち込まれた時に、パスタの上にミートボールを乗せて食べるようになったのだ。ただし、ミートボールはイタリアのものより小さなくなっているという。

映画『ゴットファーザー』では、マフィアを毛嫌いしていた主人公のマイケルが、いよいよマフィアの世界に入ろうとしていた時に、古参のマフィア幹部からこの料理の作り方を教わる印象深いシーンがある。この料理を作れてこそマフィアの一員であるという意味があるのかもしれない。ちなみに、マイケルの父ヴィトーは、シチリア出身の移民という設定である。


Markéta (Machová) Klimešová のPixabayからの画像

ガーリックブレッド

これは、バゲットなどのパンの切り口にたっぷりのガーリック(ニンニク)とバターを塗り、さらにオレガノなどのハーブをのせてからトーストした料理だ。

イタリアでは、古代ローマ時代から焼きたてのパンの上にオリーブオイルを塗って食べていた。15世紀頃には焼きたてのパンに少しだけのニンニクとオリーブオイル、塩を乗せて食べるブルスケッタ(Bruschetta)という料理がよく食べられるようになった。これがアメリカに持ち込まれたのだが、アメリカではオリーブオイルが手に入りづらかったため、代わりにバターが使われるようになったのである。また、ブルスケッタよりもニンニクをたくさん使うようになった。

チキンピカタ(Chicken Piccata)

日本のチキンピカタやポークピカタは、鶏肉や豚肉に粉チーズを入れた溶き卵をからませて焼いた料理だ。アメリカのチキンピカタは、鶏肉を皮付きで揚げ、レモンとバターなどで作ったソースを和えた料理で、イタリアン・アメリカン料理の代名詞ともいえるものだ。通常は、パスタと同じ皿で供されることが多い。

イタリアでは薄切りの仔牛の肉を使うのが一般的だ。ピカタは槍の一突きが語源と言われており、薄い肉をフォークでひっくり返して両面を焼いて作ったことからこう呼ばれるようになったとされている。

チキン/子牛のパルミジャーナ(Chicken/Veal Parmigiana)

元祖イタリア料理のパルミジャーナは、揚げた薄切りナスにパルミジャーノチーズ(パルメザンチーズ)とトマトソースを重ねて焼き上げたものである。カンパーニャ州やシチリア州などの南部地域が発祥の地とされている。

アメリカやカナダでは、ナスの代わりに鶏肉や仔牛肉が使われ、パスタが添えられることが多い。また、パルミジャーノチーズの代わりに、手に入りやすかったフレッシュチーズが使われることが多かった。


Jenni Pattee の Pixabayからの画像

チョッピーノ(Cioppino)

これはサンフランシスコ発祥とされる海鮮シチューで、魚やカニやエビ、貝などの様々な魚介類をトマト入りのスープで煮込んだ料理だ。

チョッピーノは、サンフランシスコのノースビーチに定住したイタリア人漁師(多くは北イタリアのジェノバ出身者)が、その日に獲れた魚介類の残りを使って作ったシーフードシチューだった。もともとは出漁中の漁船や家庭で作られていたが、波止場近くの旅館や食堂で供されるようになると大人気の料理となった。


Mogens Petersen の Pixabayからの画像