食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

味噌汁の誕生-中世日本の食(12)

2021-01-28 23:34:40 | 第三章 中世の食の革命
味噌汁の誕生-中世日本の食(12)
日本人の食事と言うと「ご飯」と「味噌汁」に「おかず」のパターンが多いと思います。

この中でご飯は弥生時代から食べられていましたが、日本人が味噌汁を飲むようになるのは中世になってからです。

ところで、味噌汁の材料の味噌には白味噌や赤味噌、あるいは米味噌・麦味噌・豆味噌などいろいろな種類があって、地域によって味噌の好みが分かれています。ちなみに私は京都出身なので、白味噌の味噌汁が一番好きです(特に、タマネギを具にした白味噌の味噌汁が大好物です)。

今回はこのような味噌の違いに触れながら、味噌汁と味噌の歴史について見て行きたいと思います。



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味噌の原型とされているものが中国発祥の「醤(じゃん/しょう/ひしお)」と呼ばれるものだ。これは食材を塩漬けにして発酵させたものの総称で、液状になったものを調味料として肉や魚、野菜などに塗って食べていた。701年に天武天皇が定めた『大宝律令』には「醤院」という宮中の醤の保管所について記されているため、醤はこの時代までに日本に伝えられていたと考えられる。

また、『大宝律令』や奈良時代の木簡、平安時代に編纂された『延喜式』には「未醤」という食品の名があり、これが「味噌」の直接の先祖と考えられている。未醬はその名の通り、塩漬けした大豆が醤になる前、すなわち液状になる前の固形の食品であったと推測されている。つまり、甘納豆のように大豆の姿をとどめていて、手や箸でつまんで食べたのではないかと言われている。

この未醬が「味噌」と呼ばれるようになるのは平安時代末期から鎌倉時代の初めにかけてである。なお、味噌(未醬)は、日本人が醤の作り方を改良することで独自に開発した食品という説が有力である。

ここで味噌の作り方について簡単に見ておこう。

味噌には材料によって「米味噌」「麦味噌」「豆味噌」の三種類があるが、それぞれ「米麹」「麦麹」「豆麹」を使って発酵させた味噌のことだ。ちなみに最初の味噌(未醬)は、延喜式の記録から米麹を使った米味噌と考えられている。

米麹は蒸したコメに麹菌を繁殖させたものだ。米味噌づくりではこの米麹を蒸した(あるいはゆがいた)ダイズと混ぜ合わせることで、麹菌のタンパク質分解酵素を働かせてダイズタンパク質を分解している。米味噌ではコメのデンプンが分解してできたブドウ糖が多く含まれているため、甘味があるのが特徴だ。

ちなみに、麦味噌は蒸したオオムギに麹菌を繁殖させた麦麹を使用したもので、ムギ特有の香ばしい風味がある。一方、豆味噌は蒸したダイズに麹菌を繁殖させた豆麹を使用したもので、マメのタンパク質から生まれた深いうま味が特徴だ。また、豆味噌づくりには長い醸造期間が必要で、その間にメラノイジンと総称される褐色の物質ができるため、とても濃い色になる。

味噌には「白味噌」と「赤味噌」という分け方もある。

白味噌は、使用する米麹の量を多くすることで醸造期間を短縮したもので、その結果メラノイジンがほとんどできないため色白になるのだ。一方の赤味噌は醸造期間が長いのでメラノイジンがたくさんできて、褐色が強くなるというわけだ。

白味噌は平安時代中頃に京都で誕生したと考えられているが、甘いものが少なかった時代のため貴族たちが好んで食べたという。

さて、鎌倉時代なると、いよいよ「味噌汁」が誕生する。

この味噌汁を作るのに必要だったのが、禅僧が中国より持ち帰ったすり鉢だ。それまでは粒状態だった味噌のダイズをすり鉢によってすりつぶすことで、水に溶けやすくなり味噌汁を作れるようになったのである。

と味噌汁の登場によって「一汁一菜(主食、汁もの、おかず、香の物)」という鎌倉武士の食事の基本が確立されたと言われている。

さらに室町時代になると、味噌汁が庶民の食卓に登場するようになる。これは大豆の生産量が増えて、農民たちが自家製の味噌を作るようになったからである。また、酒造りの進歩などによって品質の良い麹菌が簡単に手に入るようになったことも関係している。さらに、すり鉢が各家庭に普及したことも理由としてあげられる。

なお、すり鉢の普及によって味噌汁だけでなく、いくつもの新しい料理が生まれた。例えば、スリゴマで作った「ゴマ和え」や魚のすり身で作った「蒲鉾(かまぼこ)」、干しダイ・干しダラなどを火であぶって肉をほぐした「ふくめ」(「でんぶ」の原型の一つ)などが室町時代に誕生した。

室町時代には、ご飯に味噌汁をかけた「汁かけご飯」が一般的な食べ方になった。武家奉公人としての心得や諸作法などをまとめた『宗五大草紙』には、「武家にては必ず飯わんに汁かけ候」とある。

味噌玉をお湯に溶かせばすぐに栄養価の高い味噌汁を作れるため、戦国時代には携帯食として重宝されていた。言い伝えによれば、石田三成は「熱湯に焼き味噌をかき立てて飲めば、終日米がなくとも飢えたることなし」と言ったとされる。

豊臣秀吉、徳川家康、武田信玄、伊達政宗もそろって味噌づくりを奨励しており、戦国時代にはとても重要な食品とみなされていたのである。

コンブを運ぶ-中世日本の食(11)

2021-01-26 17:57:42 | 第三章 中世の食の革命
コンブを運ぶ-中世日本の食(11)
総務省が発表した「家計調査2020年度版」によると、都道府県庁所在市及び政令指定都市の中でコンブの家計支出が最も多いのは富山市で、2位は京都市、3位は福井市、4位は金沢市となっています。

このように北陸の人々のコンブ好きは際立っており、コンブを糸状に削って作った「とろろコンブ」のコンビニおにぎりも北陸地方だけで限定販売されています。

でも、北海道などの北の海で収穫されるコンブが、なぜ北陸の都市でよく食べられているのでしょうか。

その理由は古代からのコンブの輸送経路にあります。つまり、北陸地方はコンブの輸送で重要な拠点であったため、今なおたくさんのコンブが食べられているのです。

今回はコンブの輸送の歴史をたどりながら、中世の物資輸送について見て行きます。



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日本の記録にコンブが最初に登場するのは、奈良時代に書かれた『続日本紀』の715年の記述とされている。コンブはこの頃から、貢ぎ物あるいは税として北方の地域から京都の朝廷におさめられていた。平安時代中期の『延喜式』には、コンブが陸奥国(現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県、秋田県の一部)の特産品として朝廷におさめられていたことが記録されている。

コンブは神饌(しんせん)として神前にお供えしたり、天皇の食事に使用されたりしていたらしい。また、平安貴族の食卓にものぼっていたという。

奈良時代のコンブの輸送経路について詳しいことは分かっていないが、海上輸送を示す文献も見つかっているそうなので、早い時期から船で運ばれていた可能性がある。そして、遅くとも平安時代には、コンブなどの北の国からの物資の多くは日本海を海上輸送されていたと考えられている。

こうして北の国や北陸などから物資を運んできた船のほとんどは、京都への玄関口となっていた福井県の敦賀港に入港し、積み荷をおろした。一方、西からの物資は福井県の西津港や小浜港に陸揚げされていた。このように、古代から福井の港は日本海の物資の集積所として栄えていたのである。

敦賀から京都への輸送で重要な役割を果たしていたのが琵琶湖だ。北陸の敦賀港から約30㎞南に進むと琵琶湖の北端の塩津港にたどり着ける。そこで荷物を船に乗せ、約90㎞離れた大津港まで運ぶのだ。船だと一度に多くの荷物を運ぶことができるし、荷車で運ぶよりも人手もかからずにずっと早い(この距離だと1日ほどで運べたらしい)。



奈良時代末期に編纂された『万葉集』には「磯の崎 漕ぎ廻み行けば 近江の海 八十の湊に鵠多(たづさは)に鳴く」という歌があり、琵琶湖には80の港があったことがわかる。ちなみに、西津港や小浜港で陸揚げされた西方からの物資は琵琶湖西岸の木津港まで運ばれて、船に乗せられて大津まで運ばれていた。

その大津からは陸路を約10㎞進むと京都に到着できる。このように湖上の経路を使うと、2~3日で福井-京都間の物資の輸送ができたそうである。

平安時代の木簡からは、当時の湖上輸送がとても盛んであったことがうかがえるという。また、塩津港跡からは平安末期から中世にかけての遺物が大量に出土しており、「敦賀」と書かれた土器類も多く見つかっているらしい。この遺跡の調査によって、12世紀から塩津港が大規模化したことが明らかになっている。

13~14世紀になると、日本海から琵琶湖を経て京都や大阪に至る輸送経路は貢ぎ物や税を運ぶだけでなく、各地の商品を輸送する交易経路としても急速に発展して行った。日本海で港から港へ貨物や旅客を運ぶ「廻船業(かいせんぎょう)」が北陸地方を中心に始まったのもこの頃だ。こうして日本海の港を結ぶ一大流通網が形成されて行ったのである。

室町時代末期に瀬戸内の海賊によって書かれた『廻船式目』には「三津七湊(さんしんしちそう)」と呼ばれた当時の十大港湾が記されているが、このうちの七湊はすべて北陸を中心とした日本海の北側にある湊(港)だ。なお、七湊とは、越前の三国、加賀の本吉、能登の輪島、越中の岩瀬、越後の今町、出羽の土崎、津軽の十三湊(とさみなと)のことだ。この記述からも北方の物資の交易がこの時代にとても重要だったことが分かる。


この経路で運ばれた最も重要な交易品の一つが、津軽半島の十三湊から敦賀を経て京都に運ばれたコンブだった。十三湊は平安時代からアイヌとの交易を行っており、北海道産のコンブやサケ、マス、ニシンなどを得ていたという。これらを商品として京都に送っていたのである。

コンブなどを積んだ廻船は、北陸の各湊に立ち寄りながら敦賀を目指したが、それぞれの湊でもコンブを始めとする商品の取引が行われていた。その結果、北陸人にとってコンブはとてもなじみのある食品になったのだ。

なお、当時のコンブは北海道南部で採れる肉厚ものであったため、薄い板状の「おぼろコンブ」や糸状の「とろろコンブ」のように、削って食べる方法が編み出されたと言われている。

さて、京都への物資や人の輸送において琵琶湖は大きな役割を果たしていたことから、その水運を支配することは経済的だけでなく、政治的・軍事的にも重要であった。そこで各時代の有力者はこぞって琵琶湖の支配に乗り出した。

例えば、平安末期には平清盛が琵琶湖と日本海をつなげるために塩津-敦賀間の運河を計画し、息子の重盛に建設を命じていたと言われている。また、織田信長が安土城を琵琶湖の近くに建てたのも、有事の際に琵琶湖の水運を利用して速やかに軍を移動させるためだったという説がある。さらに豊臣秀吉は1586年に大津に城を築き、北陸から京都・大坂への物資輸送の拠点とするとともに、大津の廻船仲間である「大津百艘船(おおつひゃくそうせん)」を組織した。

しかし江戸時代になると、津軽海峡を通って太平洋を回る航路(東廻り航路)や、日本海から関門海峡・瀬戸内海を経て大阪や江戸に至る航路(西廻り航路)が開拓されることによって、琵琶湖を使う航路は衰退していく(これについては近世でお話する予定です)。

中世の農業の発展-中世日本の食(10)

2021-01-23 23:42:05 | 第三章 中世の食の革命
中世の農業の発展-中世日本の食(10)
これまでお話してきたように、日本の中世では茶の湯や懐石、菓子、麺類、日本酒など、食の様々な分野で大きな革新が見られました。このような新しい食の世界を生み出す原動力となったのが、中世日本の農業革命と呼ぶにふさわしい農業技術の進歩です。

今回は中世日本における農業技術の進歩とその背景について見て行きます。



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鎌倉時代になると耕地当たりの生産性が著しく向上した。その要因となったのが、①鉄製農具の普及、②ウシやウマの利用、③肥料の発達、④灌漑設備の発達などだ。

これらについて順番に説明しよう。

・鉄製農具の普及と牛馬耕

鎌倉時代になると、それまでは一般の農民が入手できなかった鉄製の農具が広く普及するようになった。この背景には、この頃に日本における鉄の生産量が増大したことがある。

製鉄は平安時代まで日本全国で小規模に行われていた。ところが平安末期になると、中国地方の山間部における鉄の生産量が飛躍的に増大したのだ。これには、この地方で「たたら製鉄」と呼ばれる日本独特の製鉄技術が発展したことと、鉄の原料となる良質の砂鉄が多くとれたことが関係している。

「たたら」とは空気を送り込むのに使われる鞴(ふいご)のことで、たたら製鉄では炉の中に火をつけた木炭と砂鉄を入れ、たたらで空気を送り込むことで砂鉄から酸素を奪って製鉄を行うのである。木炭はそれほど高温にならないので鉄に不純物が混じりにくく、純度の高い鉄ができると言われている。

広島県豊平町の中世製鉄遺跡群では、11世紀頃から時代とともに炉が大型化する様子が見られるという。このような鉄生産設備の増強には、武士階級の台頭により武器の需要が増えたことと、庶民生活での鉄製品の需要の伸びがあったと考えられる。また、明では日本刀の人気が高く、室町時代には数万振りの刀が輸出された。

さて、中世になって普及した鉄製農具はウシやウマにひかせることによって大きな力を発揮した。重くて刃先が鋭い犂(すき/り)を力の強い牛馬がひくことで、農地を深く耕すことが可能になったのだ。また、刃先が鉄製の鍬(くわ)や鋤(すき)などの農具も作られるようになり、人力でも深く耕せるようになった。

こうして深く耕すと、土が柔らかくなり根が張りやすくなるとともに、土の中の微生物が活発に働いて有機物の分解が進み、栄養分が増えるのだ。

・肥料の発達

鎌倉時代になると、農地にほどこす肥料として、草木をそのまま埋めて腐食させて肥料にする「刈敷(かりしき)」や、草木を焼いて灰にして肥料に使う「草木灰(そうもくばい)」がよく使用されるようになった。

刈敷は弥生時代から行われている方法だったが、労力がかかるためあまり行われていなかった。ところが中世になると農民が集まって集落を作るようになり、協力して農作業を行うようになった。その結果、刈敷が盛んになったのだ。

また、ウシやウマが農耕に使われるようになって、その糞(厩肥)も肥料として利用されるようになった。

さらに室町時代になると、人間の糞尿を腐らせて肥料とした下肥(しもごえ)が広く使用されるようになった。京都などの大都市に住む人々の糞尿が農村へ運ばれて肥料となったのだ。

こうして耕作地の地力が上昇し、作物の生産性が上昇したのである。

・灌漑設備の発達

中世には灌漑技術にも進歩があった。水を水田や水路に引き込む水車は9世紀頃に中国からもたらされた。13世紀初めに書かれた『石山寺縁起絵巻』には、京都の宇治川で水車によって水田に水を自動的に引いていたことが記されている。

以上のようにして農業生産性が向上したとによって、春に田植えをして夏過ぎに稲刈りをし、秋にムギを植えて春に収穫する「二毛作」が始まり、次第に全国に広がって行った(先進地域であった畿内では、平安末期に二毛作が始まった)。このようにコムギの生産量が増えたことによって、小麦粉を使った麺類や饅頭などの菓子類が作られるようになる。

さらに室町時代になると、畿内で二毛作に加えて三毛作も実施されるようになる。また、コメとコムギに加えて、ソバなどが栽培される地域も出てきた。
また室町時代には、中国から赤米(大唐米:インド種赤米)がもたらされた。赤米はあまり美味しくないそうだが、干ばつに強く早熟で炊くと大きく膨れるため食料としては優秀だった。イネの品種改良も進み、室町時代には早稲(わせ)などの品種ができて、それぞれの地域の気候条件に合ったものが栽培されるようになった。

一方、鎌倉時代になると主食となる穀物の栽培以外に様々な作物が栽培され、商品価値のある手工業品が生産されるようになった。例えば、カイコのエサの桑を育てて生糸を作ったり、麻を育てて麻布を作ったり、荏胡麻(えごま)を育てて油をとったり、茶が育てられて茶葉が作られたりした。また、しゃもじや桶(おけ)などの手工業品もつくられた。

これらの品々は自分たちで消費するだけでなく、定期市などで他の物品と交換され商品として流通するようになった。こうして作り手は次第に手工業品だけで生計を立てることが可能となり、専門の職人も出てきたのである。

以上のように中世では農村での生産性が大きく向上したが、これが食の世界の発展につながったのである。

お坊さんの酒造り(日本酒の歴史)-中世日本の食(9)

2021-01-21 22:09:16 | 第三章 中世の食の革命
お坊さんの酒造り(日本酒の歴史)-中世日本の食(9)

私が純真な高校生の時の話です。

「これは世間ではお酒と言いますが、ここでは般若湯(はんにゃとう)と言います。知恵が生まれるお水という意味です。皆さんも般若湯を楽しんで、しっかり知恵をつけてくださいね!(一同笑い)」

お坊さんが酒とっくりを片手に持ちながら近くの席の団体客に説明をしています。

寺の宿坊で精進料理をいただいていた私は、これを聞いて大変驚きました。と言うのも、仏教では「不飲酒戒(ふおんじゅかい)」によって酒を飲むことが禁じられているため、お坊さんは酒を飲まないと思っていたからです。

その後大人になってお酒の美味しさや歴史について勉強した私は、お坊さんとお酒の切っても切れない深い関係を知ることになったのでした。

と言うわけで、今回は日本酒の歴史を語る上ではずせない「寺院での酒造り」の話を中心に中世の日本酒造りについて見て行きます。



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・古代の酒造り

日本での本格的な酒造りは、稲作が軌道に乗った弥生時代(紀元前300年頃~西暦250年)以降と考えられているが、正確な開始時期については諸説あり固まっていない。なお、3世紀末の中国の『魏志倭人伝』には、倭人は祭礼の時に酒を飲む習慣があったと記されている。

最初のコメを使った酒は「口噛み酒」と考えられている。奈良時代に成立した『古事記』には、水につけて柔らかくしたコメを噛んで作る酒のことが書かれている。この醸造法では、コメを噛むことで唾液中のデンプン分解酵素が働いてブドウ糖ができ、そこに身の回りの酵母が入り込んでアルコール発酵を行う。

アニメ「君の名は」でヒロインの巫女が口噛み酒を作っていたように、口噛み酒は祭礼と深く結びついてきた。古代の新嘗祭(にいなめさい)でも、造酒童女(さかつこ)という少女が口噛み酒を造っていた(現代の大嘗祭でも造酒童女が醸造を行う)。なお、造酒童女のまとめ役を「刀自(とじ)」と呼んでいたのが後に「杜氏(とうじ)」に変化したと言われている。

・麹菌を使った新しい醸造法

4~5世紀にはビール造りの麦芽のように、コメを発芽させることでデンプンをブドウ糖に分解し醸造を行う方法が渡来人によってもたらされた。発芽すると眠っていたデンプン分解酵素が活性化するのだ。発芽した後に麦芽の場合は焙煎を行い、コメの場合は蒸したのだが、それでもデンプン分解酵素は働き続ける。こうして醸造を行う酒は一般的に「もやし酒」と呼ばれる。

しかし、この方法はすぐにすたれてしまう。コメのデンプン分解酵素の働きが弱かったのと、「麹菌(こうじきん)」を用いた醸造方法の方が優れており、こちらが普及したためだ。

麹菌はカビの一種で、蒸したコメなどに好んで生えて、菌糸の先からデンプン分解酵素を放出する。最初は、自然に生えてきた麹菌を見てギョッとしたのかもしれないが、コメが甘くなっていることに気が付いて醸造に利用するようになったと想像される。

日本酒造りでは蒸米に麹菌を繁殖させたものを「麹」と呼ぶ。この麹に蒸米と水を加えてしばらく置くとまず乳酸菌が繁殖してきて酸性になる。そして次に酸性状態に強い清酒の酵母が大量に繁殖してくる。これが日本酒造りの元になるもので「酛(もと)」という。

現代では醸造時間を短縮するために、乳酸菌と酵母の自然繁殖を待たずに乳酸と大量の酵母の添加が行われているが、昔ながらに乳酸菌の自然繁殖を待つ醸造法を「生酛造り(きもとづくり)」と呼んでいる。

なお、酒造りでは昔から「一麹、二酛(もと)、三造り」という言葉があり、麹が最も重要とされていた。麹菌はデンプン分解酵素だけでなくタンパク質を分解する酵素も放出し、うま味のあるアミノ酸を作り出すことで日本酒の味にも関係しているからだ。

こうして奈良時代(710~794年)になると、麹菌を使った醸造法が普及した。平城京では「造酒司(みきのつかさ)」という酒造りのための役所が設けられ、計画的な酒造りが行われていたことが分かっている。

しかし、その頃の醸造法は「醞(しおり)方式」というもので、酵母が大量に繁殖した「酛(もと)」を作らずに発酵を行うものだった。その結果出来上がった酒はアルコール濃度が低く、ブドウ糖がアルコールに変換されずに残っているため甘味が強かった。この醞方式の酒造りは、宮中では平安時代まで続いた。

・寺院の酒造り

奈良時代には寺でも酒造りが行われていた。その根底にあるのが「神仏習合」という「神も仏も元は同じ」とする思想だ。伝来して来た仏教の思想と既にあった神道を融合させたのだ。料理の世界でもそうだが、新しいものを古いものと融合させる日本人の技には感動を覚える。

神仏習合の結果、神社の中に寺(神宮寺)が作られるようになり、その寺では神にお供えするお神酒を造るようになった。また、単独の寺院も関係する神社のために酒を造るようになった。こうして、寺院での酒造りが始まったのだ。
ところで、酒を売ると金儲けができる。と言うのも、世の中には酒好きが多いからだ。私の知り合いにも、酒なしでは生きていけなさそうな人が何人かいる。酒造りを行っていた寺院は平安時代になると、一般庶民にも酒を売ることで金儲けを始めたのである。

特に、平安京への遷都によって取り残された奈良の寺院や、武家の台頭によって荘園からの収入が減ってしまった寺院にとっては、酒を売って得る金は重要な財源となった。このように一般人に売るようになった酒を「僧坊酒」と呼ぶ。

たくさん売って儲けるためには良い酒を大量に造らなくてはならない。理想の酒造りを求めて僧たちは日々努力を続けた。その結果生まれたのが、「酘(とう)方式」という酵母が大量に繁殖した「酛(もと)」を造る醸造法である。これが現代まで受け継がれている醸造法だ。

酘(とう)方式では、出来上がった酛(もと)に麹と蒸米、水をさらに加えて発酵を行う。すると、アルコール濃度の高い酒が大量にできるのだ。

当初は酛(もと)に麹と蒸米、水を加えるのは一度だけだったが、室町時代の終わりには、麹と蒸米、水を何度かに分けて加える「段掛け(段仕込み)」が行われるようになった。そして江戸時代の初期に現代でも行われている「三段仕込み」が確立した。

また、室町時代前半まで麹を造るには玄米が使われ、酛(もと)に混ぜられるコメには精米した白米が使われていたが、室町時代の後半から一部の寺院などで麹造りにも白米を使うようになった。これを「諸白造り(もろはくづくり)」というが、こうすると出来上がった酒は澄んだ「清酒」になるのだ。

・ヨーロッパより300年早かった低温殺菌法

さらに画期的な殺菌技術である「火入れ」が室町時代の末期に開発される。

日本酒造りで最大の災厄と言われているのが「火落(ひおち)菌」と呼ばれるアルコール耐性の乳酸菌が繁殖することだ。火落ち菌が出来上がった酒で繁殖すると、「火落ち」と言って酒が酸っぱくなってダメになってしまうのだ。火落ち菌が一度発生すると酒樽に住み着いて、しばらくの間酒造りができなくなってしまう。こうしてつぶれてしまった酒蔵もあったそうだ。

火落ちを防ぐために行なわれるのが「火入れ」だ。これは酒を60℃くらいで加熱することによって火落ち菌を死滅させる方法で、今日でも行われている。
火入れの最も古い記録は『多聞院日記』という奈良の興福寺の僧が書き残した日記での記述で、1568年の春から夏にかけて造った酒を火入れしたと記されている。ヨーロッパでは1866年に細菌学の父と言われるパスツールがワインの腐敗防止技術として「低温殺菌法(パスチャライゼーション)」を開発するが、その300年も前に同じ技術が日本で確立していたのである。菌という存在を知らなかった時代に開発された革新的な技術と言える。

以上のように、中世の寺院は日本酒の発展に多大な功績を残した。

ところが戦国時代に入ると、織田信長などによって宗教勢力の弾圧が起こり、寺院の勢力は急速に縮小する。その結果、寺院での酒造りは幕を閉じることになった。しかし、酒造りの様々な技術は途絶えることなく、民間の造り酒屋などに受け継がれて行ったのである。

うどん・そうめん・石臼-中世日本の食(8)

2021-01-18 17:49:58 | 第三章 中世の食の革命
うどん・そうめん・石臼-中世日本の食(8)



「粉食(ふんしょく)」という言葉があります。これは、穀物などを粒のまま食べずに、粉にした後でパンや麺にしたり、水でといたものを焼いたり揚げたりして食べることを言います。うどんやそうめん、お好み焼きのように、コムギを食べる時はたいていは粉食にします。

一方、日本のご飯のように粒のまま食べることを「粒食(りゅうしょく)」と言います。

このようにコムギとコメの食べ方が異なっているのは、粒を覆っている皮(外皮)の付き方に違いがあるからです。つまり、コメの外皮ははずれやすいのに対して、コムギの外皮は次の理由から簡単には取り除くことができないのです。

コムギの外皮はとても固くて、内側の胚乳にしっかりくっついています。また、コムギの粒には縦方向に「粒溝(りゅうこう)」と呼ばれる深い溝があって、そこに外皮が入り込む構造になっています。さらに、胚乳部分がとてももろいため、中身を崩さずに外皮を取り除くことがとても難しいのです。そこでコムギの場合は、外皮が付いた状態ですりつぶした後に、篩(ふるい)にかけて外皮を取り除くことで小麦粉にしているというわけです。


コムギの粒(縦方向に深い溝「粒溝」が見える)

コムギをすりつぶすために使用されたのが「石臼」です。石臼は2つの石をすり合わせることで穀物や茶葉などを粉砕します。

人類が最初に作った石臼は、石板の上で手に持った石を往復させる「サドル・カーン(saddle quern)」と呼ばれるもので、古代エジプトではこのタイプのものが使用されていました。その後、紀元前1000年頃の西アジアで2枚の円板を重ねた「ロータリー・カーン(rotary quern)」が発明されました。ロータリー・カーンは画期的で、上の石をいくらでも大きく重くできるため、大量に粉をひくことができるようになったのです。


石臼(ロータリー・カーン)
(Dimitris VetsikasによるPixabayからの画像)

今回は石臼の日本への伝来について触れながら、「うどん」と「そうめん」の歴史を見て行こうと思います。

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日本にコムギが伝来したのは約2000年前の弥生時代だとされるが、その頃は粒のまま粥のようにして食べられていたと考えられている。

石臼は漢代(紀元前206〜後220年)にシルクロードを経由して西アジアから中国に伝えられた。そして「碾磑(てんがい)」と呼ばれる大型の石臼が作られて、小麦粉が大量に作られるようになった。前回お話しした諸葛孔明(181~234年)がヒツジとブタの肉を小麦粉で作った皮でくるんで饅頭を作ったという伝説も、小麦粉がその頃には一般に流通していたことを示している。

石臼が日本にもたらされたのは奈良時代と考えられている。東大寺の旧境内からは奈良時代の製粉所らしき建築物や碾磑(てんがい)の一部と思われる石の破片が見つかっており、寺院などを中心に小麦粉が作られていたと推測されている。

コムギの小さい粒を粉砕する石臼の作製には高度な加工技術が必要とされるため、多くの場合は中国などから輸入されていたと考えられている。そのため、石臼はとても高価なものであり、石臼を使って製粉ができるのは宮廷や有力貴族、そして大きな寺と神社だけであった。ちなみに、一般庶民に石臼が普及するのは江戸時代に入ってからと言われている。

なお、鎌倉時代後半になると、茶の文化を伝えた禅僧によって「茶磨」という抹茶を作るための小型の石臼が日本に伝えられた(現代日本では「茶臼」と呼んでいる)。茶磨は宋代(960~1279年)前半に発明されたもので、抹茶を飲むためには欠かせないものだ。

それではここからは「うどん」と「そうめん」の話をしよう。最初はうどんだ。

うどんの直接のルーツと言われているのが、中国で唐の時代(618~907年)に始まった切り麺と呼ばれるもので、こねた小麦粉を包丁で切ったものをゆがいて作る。切り麺は宋代で全盛となり、平安時代の終わりから鎌倉時代の初めに禅僧などによって日本に伝わり、「切り麦」と呼ばれるようになった。

日本に伝わった頃は、切り麦は冷やした状態で食べられていたと考えられているが、時代とともに温かいものも食べられるようになり、これが「うどん(饂飩)」になったと言われている。

うどん(饂飩)という言葉がどのように生まれたかについては諸説あるのだが、「飩」が「麺」を意味することから、「温かい麺」を意味する「温飩」が「饂飩」に変化したと言う説(奥村彪生さんの説)が私には一番もっともらしく聞こえる。

江戸時代前期の1697年に出版された食の百科事典『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』には、温かい「うどん」とともに冷やして食べる「冷や麦」のことが記載されており、この頃までに「うどん」と「冷や麦」という2つの食べ物が世の中に広まっていたことが分かる。

なお、現代のうどんは醤油味のつゆで食べるのが一般的だが、醤油が普及するのは17世紀以降のことであり、それまではうどんは味噌味で食べていた。また、現代のうどんでは「コシ」が話題になることがあるが、うどんのコシが意識されるようになったのは20世紀になってからと言われている。

ちなみに、「コシ」は小麦粉の生地に塩を加えてこねる時にタンパク質のグルテニンとグリアジンが結合して網目構造(これを「グルテン」と呼ぶ)が作られることで生まれる。また、生地をしばらく寝かせるとグルテニンとグリアジンの結合が強化されてコシが強くなる。現代のうどん作りではこうしてコシを強くしている。

次は「そうめん(素麺)」だ。

現代のそうめんの原型と考えられているのが唐菓子の「索餅(さくべい)」である。これは小麦粉に塩や醤・未醤(味噌のようなもの)を入れて練って細長く引き延ばしたものと言われており、奈良時代に遣唐使によって日本に伝えられたとされる。

索餅は平安時代には宮中で疫病除けのために七夕に食べられていたらしい。また、平安京の南部の東西に一つずつあった市でも索餅が売られていて、庶民も買って食べることができたそうだ。江戸時代にも虎屋が七夕の食事として索餅を宮中に納めている。このため、現在では七夕の7月7日が「そうめんの日」になっている。

現代のそうめん作りでは、生地を延ばす時に表面に油を塗る。このすると麺の乾燥を防いで細く長く延ばすことができるのだ。この作り方は中国で開発され、宋代に全盛になったと言われている。これが禅僧などによって鎌倉時代から室町時代にかけて日本に伝えられたのだ。

しかし、そうめんを作るためには小麦粉と油という高価な食材を必要とするため、室町時代に作ることができたのは宮中や有力貴族、寺院などの限られたところだった。庶民の間で広く食べられるようになるのは江戸時代になってからである。

(日本の昔からの麺類には、うどんとそうめんのほかに「ソバ」がありますが、ソバが日本に登場するのは17世紀のことになります。ソバについては「近世」でお話する予定です。)