食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

日本神話と古代の食(2)-古代日本(5)

2020-08-31 17:32:24 | 第二章 古代文明の食の革命
日本神話と古代の食(2)-古代日本(5)
前回は、イザナギノミコトがイザナミノミコトに逢いに行くが、変わり果てた姿に恐れおののいて逃げかえって来た話をとり上げた。今回は、2神の子の「スサノオノミコト」について見て行こうと思う。

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黄泉国から戻ったイザナギは、身に付いた穢れ(けがれ)を禊(みそぎ)によって取り除く。イザナギは、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原(つくしのひむかのたちばなのおどのあわきはら)というところで服を脱ぎ、海につかって体を清めた。この禊の様子は「祓詞(はらえのことば)」という祝詞(のりと)になっており、神社でおはらいなどの神事を行う時には必ず唱えられる。

この禊では24の神が生まれる。その最後に生まれたのが「アマテラスオオミカミ(天照大御神)」「ツクヨミノミコト(月読命)」「タケハヤスサノオノミコト(建速須佐之男命)」の「三貴子」だ。喜んだイザナギはアマテラスに天上界(高天原(たかあまのはら))を治めるようにと言い、そしてツクヨミとスサノオにはそれぞれ夜の世界と海原を治めるようにと言った。

しかし、スサノオは大泣きを始めてやめない。その泣き方はすさまじく、涙を作るために山や河や海の水が干上がるほどに吸い取られてしまった。そこでイザナギがスサノオになぜ泣くのかと尋ねると、母のイザナミのことが恋しくて泣くのですと答えた。すると、イザナギは怒り「もうこの国に住むな」と言ってスサノオに追放を言い渡した。

スサノオは、こうなったからにはアマテラスに事情を話して母の国に行こうと思い、高天原にやって来たが、そのために山や川や大地は揺れ動いた。驚いたアマテラスはスサノオが攻めてきたと勘違いし、戦いの準備をしてスサノオを迎えた。アマテラスがスサノオに何のためにやって来たのかと問うと、スサノオは事情を話し邪心が無いことを説明したが、アマテラスは納得しなかった。そこで、邪心がないことを「誓約(うけい)」という儀式で確かめたところスサノオが正しいという結果になった。

これに慢心したスサノオは乱暴狼藉を繰り返した。それに心を痛めたアマテラスは天岩戸にこもってしまう。太陽神のアマテラスが隠れたために世界は暗闇に包まれ、わざわいが満ちあふれた。そこで八百万の神々は知恵の神であるオモイカネノカミ(思金神)を中心に策略を練り、アメノウズメ(天宇受賣命)が裸踊りを披露するなどしてアマテラスを外に出すことに成功する。一方のスサノオは神々によって高天原から追放された。

下界に降り立ったスサノオは空腹を覚えてオオゲツヒメ(大宜都比売)という女神に食べ物を求めた。するとオオゲツヒメは、鼻や口、尻から食べ物を取り出して、調理をしてスサノオに差し出した。その様子を見ていたスサノオは、こんな汚らしいものを食べさせようとしたと思って憤慨し、オオゲツヒメを殺してしまう。すると、オオゲツヒメの頭からはカイコが生まれ、目からイネが生まれ、耳からアワが生まれ、鼻からアズキが生まれ、陰部からムギが生まれ、尻からダイズが生まれた。これをカミムスヒノカミ(神産巣日神)が回収し、種とした。



その後スサノオは、オオヤマツミノカミ(大山津見神)の娘のクシナダヒメ(櫛名田比売)を助けてヤマタノオロチ(八岐大蛇)を退治し、クシナダヒメと結婚する。スサノオとクシナダヒメの間にはヤシマジヌミノカミ(八島士奴美神)が生まれるが、その子孫がオオクニヌシノカミ(大国主命)である。
またスサノオは、クシナダヒメの妹神のカムオオイチヒメ(神大市比売)とも結婚し、オオトシノカミ(大年神)とウカノミタマノカミ(宇迦之御魂神)の2神が生まれる。
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日本神話におけるスサノオノミコトの役割はとても重要だ。生まれたばかりの頃は無分別で乱暴な悪神のようであるが、地上に降りてくると一変して創造の神と悪者を退治する善神に変貌する。オオゲツヒメを殺した場面は一見ひどい行為のように思えるが、カイコと五穀を生み出した創造の話として見ることができるのだ。『日本書紀』では、スサノオは体毛を抜いて木々を生み出し、種類ごとに用途を定めて子供たちに国中に植えさせたとされている。このようにスサノオは日本神話では農耕の祖として描かれているのである。

ここで、五穀とともにカイコが登場することを不思議に思うかもしれないが、昔の農村では養蚕はとても重要な産業だった。カイコは野生のクワコ(桑子)というガが家畜化されたもので、幼虫も成虫もほとんど動かなくなっており、幼虫は大量の糸をはいて大きなマユを作る。このため、人が桑の葉さえ与えておけば、絹糸の元が大量に得られるのだ。

養蚕が始まったのは中国で、殷の時代(紀元前1500年頃から紀元前1046年)の遺跡から絹布の切れ端や蚕・桑・糸・帛などの文字の跡が見つかっていることから、養蚕は既にこの時代には盛んに行われていたと考えられている。日本には縄文時代の終わりから弥生時代の初め頃にイネとともに中国から伝えられたとされている。また、195年には百済から新しい種類のカイコの卵が持ち込まれ、また283年には渡来人の秦氏(はたし)が養蚕と絹織物の新しい技術を伝えた。

さて、スサノオ自身は農耕の祖であるとともに、その配偶者や子供も農耕と関係が深い。クシナダヒメは『日本書紀』では「奇稲田姫(クシイナダヒメ)」と書かれており、これは霊験あらたかな稲田の女神のことである。また、子のオオトシノカミ(大年神)は五穀豊穣をつかさどる神で現代でもとてもなじみ深い神様だ。どういうことかと言うと、オオトシノカミは正月に各家にやってくる来方神であり、正月に飾る門松や鏡餅はオオトシノカミへのお供え物なのだ。また、恵方巻はオオトシノカミがその年に滞在する方角に向かって食べるようになっている。

オオトシノカミの兄妹神であるウカノミタマノカミ(宇迦之御魂神)も五穀豊穣をつかさどる神様であり、養蚕の神様としても信仰されている。『日本書紀』では、ウカノミタマノカミはイザナギとイザナミの子で、2神が飢えて気力がないときに産まれたとされている。2神の飢え癒すために五穀の神が生まれたのだろう。

なお、ウカノミタマノカミは全国各地に数万社あると言われる稲荷神社の主神とされることが多い。稲荷神のお使いがキツネなのは、キツネが農作物を荒らすネズミなどの害獣を獲ってくれるために田んぼなどの守り神とみなされていたことが理由の一つと考えられている。

このように、日本神話では穀物や農耕の重要性が強調されており、農耕を中心とした国作りを進めて行こうという意図が感じられる。

日本神話と古代の食(1)-古代日本(4)

2020-08-28 23:07:03 | 第二章 古代文明の食の革命
日本神話と古代の食(1)-古代日本(4)
今回は、『古事記』の中の食べ物について見て行こうと思う。古事記は712年に太安万侶によって編纂されたと伝えられている。『古事記』は720年に完成した『日本書紀』とともに、日本神話の基になっている。そこには神話時代のエピソードに込められた人々の食べ物に対する考え方や思いが込められていると考えられるのだ。

まずは日本の創成期のお話しである。

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日本は男神のイザナギノミコトと女神のイザナミノミコトの2神によって生み出された。2神は結婚し、協力して淡路島を始めに日本列島の島々を生み出し、また、海や山、石・木・水・風などのさまざまな神々を生んだ。ところが、イザナミが火の神を生んだところ、陰部にやけどを負って亡くなってしまう。

イザナミのことが恋しくて仕方がないイザナギは、黄泉の国(よみのくに)まで逢いに行く。すでに黄泉国の食事を口にしてしまったイザナミは一緒に戻れないと言うが、やはり愛しい夫が逢いに来てくれたのだから帰りたいと言い、黄泉の国の神々と話し合うことにする。そして「その間は決して私を見ないでください」と言って奥に引っ込んだ。

しかしいくら待ってもイザナミが戻って来ないため、イザナギは火をともして屋敷の奥を探ると、イザナミの体は腐ってうじ虫がたかり、頭、胸、腹、陰部、手足には八種の雷神がうごめいていた。その姿に恐れおののいたイザナギは逃げ出してしまう。恥をかかされたと怒ったイザナミは足の速いヨモツシコメ(黄泉醜女)に後を追わせた。追いつかれそうになるのを見たイザナギが髪飾りを投げるとブドウが育って実がなった。シコメがその実を食べているすきに逃げようとするが、また追いつかれそうになる。今度は髪のくしの刃を折って投げると、タケノコが生えてきた。シコメがそれを食べている間にイザナギは逃げ切ることができた。

ところがイザナミは、さらに自分の体についていた八種の雷神達に1500の軍勢をつけて追いかけさせた。十拳(とつか)の剣をふりながら逃げるイザナギが黄泉の国とこの世の境の黄泉比良坂(よもつひらさか)にたどり着くと、そこになっていた桃の実を3個とって投げつけた。すると、軍勢は皆引き返して行った。そこでイザナギは桃の実にこう言った。
「桃の実よ、私を助けたと同じように、この世に生きるあらゆる人々が苦しみ悲しむ時に助けてやってくれ」
そして、大いなる霊の力と言う意味の「オオカムヅミノミコト(意富加牟豆美命)」の名を与えた。



最後にイザナミが追って来た。イザナギは黄泉比良坂(よもつひらさか)を大岩で塞ぎ、イザナミに離婚を宣言した。すると、岩の向こうからイザナミが「愛おしいひとよ、こんなことをされるのならば、あなたの国の人間を、1日1000人首を絞めて殺しましよう」と言う。それにこたえてイザナギは「愛おしい妻よ、そうするのならば、私は1日に1500の産屋を建てよう」と言い返した。こうして、この世では1日に1000人が死に、必ず1500人が生まれるようになったのである。
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この黄泉の国の話では、まずヨモツシコメがブドウの実とタケノコに気を取られてイザナギノミコトを取り逃がしてしまう。このことから、ブドウとタケノコはが当時の人々に美味しい食べ物として認識されていたことがうかがえる。

このブドウとは古来日本に自生するヤマブドウの一種と考えられる。と言うのも、西アジア原産のセイヨウブドウが日本に伝えられるのは鎌倉時代初期のことだからだ。

ヤマブドウには強い酸味があるが、独特の風味があって美味しい果物だ。また、抗酸化物質のポリフェノールや鉄分がセイヨウブドウよりもずっと多く含まれており、最近では健康増進効果を狙ってヤマブドウの商品化が進められている。

なお、ヤマブドウが手に入って焼酎などに漬け込んで果実酒にしてしまうと、酒税法に引っかかるので注意が必要だ。酒税法では、穀物やブドウを酒に入れてしまうと家庭内のみで飲んだとしても無免許製造となる。

日本でタケノコとして食べられるのはマダケとモウソウチクである。マダケは日本に自生していたとも言われており、古くから食べられていた。一方、モウソウチクは801年に僧侶の道雄上人が唐から持ち帰ったとされていることから、古事記のタケノコはマダケと考えられる。採りたてのマダケのタケノコは、そのまま生で食べても美味しい。

黄泉の国の話で際立っているのがモモの存在感だ。モモは雷神たちを追い払うほどの霊力を有する果物として描かれている。モモは縄文時代に中国から伝えられたと考えられているが、中国においてもモモは仙果(神仙に力を与える果実)と呼ばれ、邪気を追い払って不老長寿を与える果物と考えられていた。おそらくモモが日本に持ち込まれた時に、モモに関する言い伝えも一緒に入ってきたのだろう。また、イザナギによってモモが黄泉の国からこの世界に持ちこまれるという話は、モモが中国から日本に伝えられたことを暗示していると考えられる。

神話の中のお話しであっても、それなりの確かな背景があるようだ。

古墳時代とコメの炊き方-古代日本(3)

2020-08-26 22:49:06 | 第二章 古代文明の食の革命
古墳時代とコメの炊き方-古代日本(3)
弥生時代の日本の様子については『漢書』に記されており、この頃の日本は倭と呼ばれ、100以上の国に分かれていたということである。2~3世紀の弥生時代後期になると、青銅器から日本は東西に大きく2つの勢力に分かれた様子がうかがえるようになる。紀元前2世紀頃に日本に伝わったとされる青銅器は主に祭祀の道具として使用されていたと考えられているが、青銅器の種類に東西の違いが見られるのだ。つまり、北九州から中国・四国の西側にかけては銅剣などの武器型の青銅器が主に使用され、中国・四国の東側と近畿、そして東海では銅鐸が主に使われていた。2つの勢力の間に争いがあったかどうかは定かではないが、国内がいくつかのグループにまとまりつつあったことは確かだろう。

『三国志』の魏志倭人伝など中国の文献によると、倭国は男子を王として70~80年を経たが、2世紀後半になると長期間にわたる大乱が起こったことが記されている。そこで、3世紀に卑弥呼を王として立たせたところ戦乱がおさまったそうだ。そして卑弥呼は239年に魏に使者を送り「親魏倭王」の印綬と銅鏡100枚を賜った。このことから、この頃には中国に使者を出すほどの力を持った連合国家が成立したと推測される。なお、2世紀後半からの大乱はこの頃に世界を襲った寒冷化によって食料不足が起こったことが原因と考えることができる。

3世紀後半になると、日本では近畿地方や瀬戸内海沿岸、九州北部に古墳が作られるようになる。以前は人が亡くなると共同の墓地に埋葬していたが、この頃になると特定の有力者だけを埋葬することになるわけである。このように古墳が盛んに作られた3世紀後半から7世紀を古墳時代と呼ぶ。この頃の政治の中心は大和地方(奈良盆地周辺)であり、「大王(おおきみ)」と呼ばれた倭国の王を中心として連合国家である「ヤマト王権」が成立した。



古墳時代には新しい水田がたくさん作られことが分かっている。水田を新たに作るには水路などの灌漑設備を作らねばならず、これには大きな労働力が必要だったが、古墳時代となり国家の体制が整ったことから、必要な労働力を集めることができるようになったのである。また、中国や朝鮮半島から進んだ灌漑技術を持った渡来人が移住してきたことも、水田の増加につながったと考えられる。

さて、古墳時代の食の世界では不思議な変化が起きたと考えられている。それがご飯の炊き方の変化だ。弥生時代には現代と同じように、コメに水を加えて炊いていたと考えられている。これを「炊き干し法」と呼ぶ。それが古墳時代になると、コメを蒸して食べるようになるのだ。そして、その後にはまた炊き干し法を使うようになる。

「炊き干し法」では、コメに対して決まった量の水を加えてそのまま最後まで炊き上げる。弥生時代の遺跡からは、炊き出し法で炊いた時にできる吹きこぼれの跡が見つかっていることから、この時代の一般的な炊飯法だったと考えられている。それが古墳時代には「蒸し」に変化したことが遺跡の調査から見えてくるのだ。

「蒸し」は現代でも赤飯などを炊く時に使う調理法だ。コメを水につけて十分に水を吸わせた後に少し乾かしてからせいろに入れて蒸すと、表面は少し硬いが中はもちもちとした独特の食感が味わえる。3世紀から4世紀にかけて、せいろのようにコメを蒸すための大型の「甑(こしき)」と呼ばれる土器が朝鮮半島から伝えられた。甑は底に複数の蒸気孔が開けられた円筒形ないし鉢形の土器のことで、沸騰したお湯の上に乗せて蒸しの作業を行う。小型の甑は弥生時代から使われていたが、大型のものが古墳時代中頃に伝わり、5世紀には広く普及して多くの家庭で使われるようになる。そして8世紀あたりまでよく使われた。8世紀に活躍した山上億良が万葉集で「甑には蜘蛛の巣かきて飯炊く(かしく)ことも忘れて」と歌っており、甑が当時のありふれた台所用品だったことがうかがえる。

それが古墳時代を過ぎると、だんだんと炊き干し法に回帰してゆくのだが、なぜ古墳時代だけ蒸してご飯を炊いていたのかについてはよく分かっていないとのことである。

なお、モチゴメについてはずっと蒸して炊いていた。これは、モチゴメのデンプンのすべてがアミロペクチンと呼ばれる成分でできているからだ。アミロペクチンを加熱するとねばねばした糊になる。このため、炊き出し法でモチゴメを炊くと、ご飯全体が糊状になってくっついてしまい、うまく炊けないのだ。

ちなみに、ご飯に使うウルチ米のデンプンは約80%がアミロペクチンで、インディカ米にはアミロペクチンがほとんど含まれていない。インディカ米の炊き方は「湯取り法」と呼ばれるもので、これはコメを大量の湯で煮た後でザルに上げて湯を切り、それを再び鍋に移して蒸らす方法だ。こうするとあっさりとした風味になり、いろいろなおかずに合うそうだ。それぞれのコメに適した炊飯法が存在しているのである。

弥生時代と新しい食の世界-古代日本(2)

2020-08-24 18:59:59 | 第二章 古代文明の食の革命
弥生時代と新しい食の世界-古代日本(2)
日本の主食となるコメの栽培は縄文時代の終わり頃に中国大陸から伝わったとされる説が有力である。このルートとしては、中国の長江あるいは淮河流域から朝鮮半島南部を経由したのち日本に入るルートと、中国から直接日本に入るルートの2つが考えられているが、稲作と同時に伝わったとされる高倉式の貯蔵庫が朝鮮半島には見られないことから、中国から直接日本に入ったルートの方が可能性が高いと考えられる。なお、このルート使って、同時期にウリやモモも伝えられたと考えられている。一方、朝鮮半島からはアズキやオオムギなどが伝えられたとされる。



稲作が本格的に行われるようになるのは紀元前900年頃から始まる弥生時代(紀元前900年頃~西暦200年頃)からであり、水田をともなう初期の弥生時代の遺跡は北九州に集中して見られる。その後稲作は近畿地方まで伝わるが、しばらくの間はそれ以上東には伝播しなかった。これは縄文人の生活と関係がある。

当時の日本列島では、クリやドングリなどの実をつける広葉樹林は中部から東日本に集中していたため、大部分の縄文人はこの地域で生活していたと推測されている。一方、九州や西日本には縄文人がまばらにしか住んでいなかった。ここに、大陸から稲作文化を持った人々が移住してきたと考えられるのだ。イネは温暖で湿潤な気候を好むため、九州や西日本には適した農作物だったのだろう。一方、中部から東には縄文人がいて食料には困っていなかったため、稲作は広まらなかったと考えられる。

しかし、紀元前後になると、稲作は関東地方や東北南部でも広く行われるようになり、2世紀頃には現在の青森まで広まった。この稲作の広まりには、寒さに強いイネの品種が生み出されたことも関係していると考えられている。

さて、弥生時代の特徴は稲作以外に鉄器の使用がある。鉄器は朝鮮半島を経由して日本に伝えられたと考えられており、紀元前100年頃までには北九州で主に農具として使用されるようになった。ところで、中国では鉄の鍛造と鋳造の二つの製造法が確立していたが(「鉄の時代の始まりと諸子百家」を参照)、日本に伝えられたのは鍛造法だけであり、これは鋳造を行うほどの高温状態を作り出す技術が無かったからだと考えられる。
(鉄の時代の始まりと諸子百家⇒こちら

鉄器の使用によってコメの生産量は高くなったと考えられるが、現代と比べると極めて低い生産性しかなかったと考えられている。このため、弥生時代の食の中でコメが占める割合はそれほど高くなく、コメ以外にオオムギやコムギ、アワ、ヒエ、マメ類もよく食べられていた。東日本では縄文時代と同じように、クリやドングリも主要な食べ物だったと考えられている。また、大陸から伝わったウリやモモ、スイカ、カボチャ、アンズなども弥生時代から食卓に上るようになる。

さらに、大陸からニワトリやブタも伝えられ、これらの骨が弥生時代の遺跡からたくさん見つかっている。ブタは平安時代になると日本の仏教が肉食を禁じることから食べられなくなるが、それまでは貴重な栄養源であったと考えられている。また、縄文時代と変わらずに魚介類もよく食べられており、面白いことにタコを捕るためのタコツボが弥生時代から使われるようになる。

以上のような食生活の向上によって、弥生時代にはさらに人口が増え、紀元前後には縄文時代の2~3倍の60万人が暮らしていたと推定されている。特に西日本での人口増加が著しく、縄文時代の20倍程度に増えたと見積もられている。


原始日本と縄文時代の食の世界-古代日本(1)

2020-08-21 17:46:24 | 第二章 古代文明の食の革命
2・5 古代日本の食
原始日本と縄文時代の食の世界-古代日本(1)
ホモサピエンスがアフリカに誕生したのは今から10~20万年前とされている。そのうちの一つの集団が6万年前にアフリカを飛び出し、子孫を増やしながら世界各地に散らばって行った。その頃の地球は寒冷期で、海水面が今よりも下がっていた。このため、日本列島の四つの島(北海道・本州・四国・九州)は一続きで、北海道はシベリアとつながっており、また、九州も朝鮮半島とつながっていた。この大陸と地続きの日本には5万年前までには人類がたどり着き、生活を始めていたことが遺跡の発掘調査から分かっている。

この頃の遺跡からは、マンモス・ナウマンゾウ・ウシ・ウマ・シカ・イノシシ・トナカイなどの哺乳類の骨や魚の骨などが見つかっている。遺跡からは動物性の有機物が焦げたものが火で焼かれた石に付着しているのが発見されていることから、熱した石の上に動物の肉を乗せて焼いて食べていたと考えられる。このような石焼きの跡はヨーロッパの石器時代の遺跡からも見つかっている。このような調理の仕方は後の縄文時代にも行われていたことが分かっている。

約1万年前になると氷期が終わりを迎え、気候は次第に温暖で湿潤なものに変わっていった。それにともなって海水面が徐々に上昇し、現在のような日本列島の姿になったと考えられる。植生も変化し、針葉樹林は列島の北方や高山に追いやられ、代わって温帯性の植物が列島を覆うようになる。この結果、クリやドングリ、クルミなどの広葉樹の木の実や温帯性のイモ類がよく食べられるようになった。また、マンモス・ナウマンゾウ・ウシ・ウマ・トナカイなどの大型の動物は姿を消し、それ以外のシカやイノシシ、ウサギ、野鳥が増えて良い獲物となった。一方、日本列島に沿って寒流と暖流が流れるようになり、ハマグリ、アサリ、カキなどの貝類やイワシ、サバ、マグロなどの魚類、そして海藻もよく食べられるようになる。

この時代は「縄文時代」と呼ばれ、縄文土器(写真)と弓矢を使い、竪穴式住居に居住することを特徴としている。縄文時代の時期については諸説あるが、おおよそ紀元前10000年頃に始まり紀元前1000年頃に終わるとされている。



縄文土器は主に食べ物を煮るために使用されていたと考えられている。木の実やイモはそのまま食べるには固く、また、毒や苦み・渋みが含まれているものもある。しかし、煮るとやわらかくなり、毒や苦み・渋みも抜ける。また、殺菌効果もある。そして、デンプンも消化しやすい形に変化するのだ。こうして煮炊きができるようになって古代人の食のレパートリーが増え、栄養状態も向上したと考えられる。

このように土器の発達は植物性の食物と関係が深い。世界的には、土器がよく使われるようになるのは農耕の開始とだいたい一致する。穀物などはそのまま食べるのにはかたいため、煮る必要があったからだ。

日本で稲作が始まるのは縄文時代の終わり頃だが、農作物の栽培はそれ以前から行われていた。縄文時代前期(紀元前4000年頃)には、大陸から栽培化されたマメ類やエゴマが伝わって栽培が行われていたと考えられている。また、縄文人が森の木を切り倒して、クリやクルミの木を植えなおしていた痕跡も残っている。縄文土器はこのような食物を食べるために発達したと考えることができるのだ。

日々の食事に困らないようにするためには、食料を保存しておく必要がある。各地の遺跡からはクリやドングリなどの保存に使っていた直径50㎝から1mで、深さが1mほどの穴が見つかっている。こうして、食べ物が手に入らない時の準備をしていたのだ。穴の中には食料のほかに抗菌効果のある木の皮や葉が詰められており、古代人の知恵が感じられる。

食の革命は人口増加につながることが多い。いくつかの研究から、縄文時代に入ると人口が10倍程度の2万人から20万人まで増えたと推測されている。

(今回から古代日本シリーズが始まります)