食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

修道院とビールとカール大帝-中世ヨーロッパのはじまりと食(4)

2020-10-31 16:59:35 | 第三章 中世の食の革命
修道院とビールとカール大帝-中世ヨーロッパのはじまりと食(4)
日本人が飲み会でとりあえず一杯と言うと「ビール」になります。乾杯のあとは日本酒や缶酎ハイに移る人もいますが、いずれにしても日本人にとってビールはとても親しまれているお酒と言えます。

2018年に日本で飲まれたビールは510万㎘だそうで、東京ドーム4杯分に匹敵する量です。一方、世界全体のビール消費量は1億9000万㎘にのぼり、地球規模で大量のビールが飲まれていることが分かります。

このようにビールが広く普及する土台を作ったのが前回登場したカール大帝です。カール大帝と修道院や教会との強い結びつきがビール醸造を(そしてワイン醸造をも)発展させたと言えるのです。今回はこのビールの話題を取り上げます。


(Manfred RichterによるPixabayからの画像)

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ギリシア・ローマ時代にお酒というとワインになる。この理由として、ギリシアやローマが位置する地中海沿岸の気候や土壌がブドウの栽培に適していたことがあげられる。一方、ギリシアやローマはビールの原料となるムギ類の栽培には適していなかった。

もともとビールは、ムギ類の栽培が盛んだったメソポタミアのシュメール文明で作られ始め、大穀倉地帯を有するエジプトでも盛んに醸造が行われた。

一方、北ヨーロッパに住んでいた古代ゲルマン人も、移動を繰り返しながら狩猟と採集以外にオオムギの栽培を行っており、これを原料にしてビールを作っていたようだ。ローマ帝国時代の政治家・歴史家のタキトゥス(55年頃~120年頃)は『ゲルマーニア』において、ゲルマン人が低級な酒のビールを節操もなく飲んでいることを記述している。ローマ人にとってオオムギは家畜のエサであり、それから作った酒を飲んで酔っ払うのは野蛮人の行いだったのだろう。また、ローマが征服したガリア(現代のフランス)に住んでいたケルト人もビールの醸造を古くから行っていた。

ゲルマン民族の大移動が起こり西ローマ帝国が滅亡すると、西ヨーロッパはビール好きのゲルマン人によって支配されるようになる。「ヨーロッパの父」と呼ばれるカール大帝(742年~814年)も大のビール好きだったらしく、大きな盃で大量のビールを飲んでいたそうだ。

カール大帝は、イギリスやスペインを除くヨーロッパの主要地域を支配下に置いた(下図参照)。とは言っても、国内情勢はまだまだ不安定で、たえず各地におもむいて皇帝としての威厳を示す必要があった。このような不安定な政治的基盤を強化・維持する上で重要な役割を果たしたのが修道院や教会だった。つまり、カールのヨーロッパ支配を支えたのは修道院と教会だったのだ。



彼は、ケルンの西にある首都のアーヘンに教育施設を備えた教会を設立するとともに、国内の各地に修道院や教会を建て、信頼できる人物を修道院長や司祭として送り込んだ。修道院と教会には領地が与えられ、前回お話しした大領主となるものも出てくる。

各地で開かれる統治会議である「王国会議」には、現地の貴族とともにこのような司教や修道院長も参加した。会議では政治だけでなく、キリスト教関係の事項についても協議が行われ、政府とローマ・カトリックが協力することで政治と宗教活動が行われていたと言える。

なお、会議録の作成や他の地域との文書のやり取りを行っていたのはラテン語ができる宮廷司祭などのキリスト教関係者であった。つまり、教会関係者のインテリとしての能力とローマ教皇・大司教・司教というヒエラルキーを軸に構成されたローマ・カトリックのネットワークが統治システムの一翼を担っていたのである。

さて、各地を視察するために巡行を行ったカール大帝であるが、現地で身の回りの世話を行ったのが修道院であった。快適な寝室と美味しい食事だけでなく、ビール大好きのカール大帝のために美味しいビールの準備はとても重要だった。こうして各修道院はビール醸造に精を出すようになる。

修道院には教育・研究施設としての学校が作られており、文化レベルも高かった。修道士たちは古典文献を読み込み、実際に醸造実験を繰り返すことで次第に高品質のビールを作ることができるようになった。そしてビールの醸造技術を体系化し、弟子たちに学ばせた。

こうしてあまりにも美味しいビールができるようになったので、飲み過ぎてしまう修道士も多くなったようだ。その結果、「聖歌を歌う時に舌がもつれたら12日間パンと水だけで過ごさなければならない」などの戒律も作られたという。

ところで、カール大帝の時代のビールにはまだホップは入っていなかった(ホップの使用は12世初めにドイツの女子修道院が始めた)。当時は「グルート」と呼ばれるハーブなどの薬草が入れられていた。ホップもグルートも、ビールに独特の苦みを加えるとともに、雑菌などが繁殖するのを防ぐ役割がある。このため、良質のビールを造る上で高品質のグルートを確保する必要があり、グルートをめぐる激しい争奪戦が修道院を中心に起こることもあったらしい。

修道院が造るビールは高品質のため次第に市場で高い価格で取引されるようになった。そしてこれが修道院の重要な財源の一つとなって行くのである。

修道院と中世ヨーロッパ前期の食-中世ヨーロッパのはじまりと食(3)

2020-10-28 23:24:31 | 第三章 中世の食の革命
修道院と中世ヨーロッパ前期の食-中世ヨーロッパのはじまりと食(3)
キリスト教には修道院という施設があります。教会が広く民衆に開かれた施設であるのに対して、修道院は修道士が厳しい修行を行う場です。この修道院がゲルマン民族とキリスト教が受容される上で大きな役割を果たしました。また、農業や食の世界にも大きな影響を与えました。今回は修道院と中世の食の関係について見て行きましょう。

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キリスト教で苦行僧のように厳しい修行を行う者は4世紀頃のエジプトやシリアで見られたが、彼らは最初は一人だけで活動していた。それが次第に集団生活をしながら修行するようになり、修道院が生まれる。

最初の完成された形の修道院は、529年にベネディクトゥス(480年頃~547年)によってイタリアのローマとナポリの間にあるモンテ・カッシーノという町に作られた。彼は「ベネディクトゥス会則(戒律)」と呼ばれる生活規範を作成した。この会則はその後13世紀頃までほとんどの修道院で採用されるようになる。

この会則では、修道士一人に毎日パン1ポンド(約450グラム)とワイン1ヘミナ(約270ミリリットル)を割り当てられることになっていた。この会則を実践しようとすると、パンを焼くためのコムギとワインを醸造するためのブドウが必要になる。そのために修道院の周りには畑が作られ、コムギとブドウが育てられるようになった。

ところで、ベネディクトゥスが修道院をイタリアに開いた頃は、ゲルマン民族の一部族のランゴバルドがイタリアを支配していた。もともとゲルマン民族はアリウス派のキリスト教(イエスと神は同質でないとする教派)を信仰していた。一方、ローマ帝国はイエスと神と精霊は同質であるとするカトリックだった。

このような状況に危機感を感じたローマ教皇(法王)はゲルマン民族に対してカトリックの布教活動を開始する。その伝道の大役を担ったのがベネディクト派の修道士たちである。実質的な最初のローマ教皇と言われているグレゴリウス1世(在位590~604年)は、若いころにベネディクト派の修道士として修業を行った経験があった。彼は伝道のためにベネディクト派の修道士をヨーロッパ各地に派遣した。この布教活動はブリテン島を皮切りに、西ヨーロッパで広く大成功をおさめ、ローマ・カトリックの教会とベネディクト派修道院は西ヨーロッパに定着していくことになる。

西ヨーロッパにおけるローマ・カトリックの繁栄は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)との力関係の上でもとても重要だった。ローマ教皇はローマ皇帝によって任命される。西ローマ帝国が滅亡した後は、東ローマ皇帝に任命権があったのだ。しかし、東ローマ帝国と西ヨーロッパでは国内の状況が全く異なってしまった。その結果、ローマ教皇は独自の道を模索せざるを得なくなったのだ。そして、新たな保護者としてフランク王国と結びつて行くことになる。

しかし、メロヴィング朝(481~751年)の時代には、ローマ・カトリックの受容はまだまだ進んでいなかった。王侯貴族が名目上カトリックになったというだけだった。この頃にはフランク王はローマ教皇と直接のつながりはなかった。

それがカロリング朝(751~987年)になると一変する。

フランク王国の宮宰の一つであったカロリング家の当主カール・マルテル(686~741年)はトゥール・ポワティエ間の戦いなどでイスラム勢力の侵入を食い止めたことよって名声を高めたことは先にお話しした。王になりたかった息子のピピン3世(714~768年)は、ローマ教皇ザカリアスに「実力はないが王の称号を持つ者と、王ではないが王権を行使する者のどちらが王であるべきか」と尋ね、「実権を持つものが王となるべき」という回答を得ると、メロヴィング朝の国王を追放し王位についた。

カロリング朝が始まるとともに、フランク王国がローマ・カトリックの守護者となった。こうして、フランク王国の保護のもとで西ヨーロッパにローマ・カトリックが定着し、ローマ教皇の権力が確立していくことになったのだ。
なお、ピピンは大司教と教皇から「塗油」を受けた。塗油はもともと聖職者を一般人と区別するための儀式であり、塗油を受けたことによって国王が聖なる存在になったことを意味していたのだ。これ以降、国王が即位するときに塗油を受けるのが一般的になる。

ピピンの息子のカール(742年~814年)は領土を広げ、フランク王国の最盛期を作ったことから「カール大帝」と呼ばれる。800年にローマに招かれたカールは、教皇のレオ3世によってローマ皇帝として戴冠された。カール大帝は、ゲルマン民族と古典古代文化とキリスト教の融合を体現したことから、中世以降のキリスト教ヨーロッパを作り上げた「ヨーロッパの父」と呼ばれることがある。


ヨーロッパの父カール大帝

以上のようなメロヴィング朝からカロリング朝への移り変わりにともない、農業形態も大きく変化した。

メロヴィング朝時代の農業はとても貧弱だった。この時代には開墾はほとんど行われずに、それまでの農地を利用していた。世の中が安定していなかったため、農民は自分の土地を有力者に譲渡する代わりに身の安全を保護してもらった。そして、同じ土地で農耕を行い、作物の一部を税として納めたのだ。と言っても生産性は非常に低く、わずかに麦類が栽培されるだけだった。カロリーの多くは牧畜や狩猟で得られる肉や乳製品から得ていたと考えられている。

カロリング朝時代になると農村は大きく発展する。気候が温暖化したことや、世の中も安定したことで大規模な農村が出現するようになったのだ。特に修道院は多くの農民の土地を集めることで大所領を有するようになった。所領は、8世紀から9世紀にかけて1000ヘクタールを越える規模になったという。パリのサン・ジェルマン・デ・プレ修道院の場合は、9世紀の初めに36000ヘクタールの所領を有していた。

所領内の農民は独自に耕作する菜園地と耕地をもっていて、家もそこに建てられていた。このほかに複数の農民が共同で利用する放牧地があり、牧畜が行われたり、共同の森林で採集・狩猟が行われたりしていた。また、週の半分ほどは修道院の直営地に出かけ、賦役として農作業を行った。これ以外に、パン、ワイン、ビールの製造や、屋敷の建築と修復、警備なども行ったという。修道院での生活に必要なパンやワインはこうして作られていた。

カロリング朝時代には、コムギ、オオムギ、ライムギ、エンバク、ソラマメ、エンドウマメ、ニンジン、リンゴ、亜麻など、多種類の作物を作るようになった。ブドウ栽培が西ヨーロッパに定着するのも9世紀頃のことである。

と言っても、まだまだ生産性は低く、ムギの種をまいても多い時でも3倍程度にしかならなかったそうだ。中世の農業革命が起こるのは次の時代である。

中世ヨーロッパの人口と食とペスト-中世ヨーロッパのはじまりと食(2)

2020-10-26 23:02:05 | 第三章 中世の食の革命
中世ヨーロッパの人口と食とペスト-中世ヨーロッパのはじまりと食(2)
動物は、食べ物が増えるなどして生活している環境が良くなると数が増えます。逆に環境が悪くなると数が減ります。人の場合も同じで、人口の変化は環境の変化に連関していることがほとんどです。今回は、中世ヨーロッパの人口の推移を見て行きましょう。

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下の図は紀元前400年から西暦1600年までのヨーロッパの人口の推移をグラフ化したものだ。



紀元前500年から線を右にたどっていくと、西暦200年までは人口は徐々に増えているが、それ以降は一転人口が減り始める。この人口減少の原因は、本ブログでも何度かお話しした北半球の寒冷化と考えられている。つまり、200年頃から400年頃にかけて北半球の広い範囲で寒冷化が起こり、食料生産が減少したため人口を維持することができなくなったのだ。

そして、食料を求めての民族の大移動が起こる。フン族に押し出されるように、ゲルマン民族がローマ帝国内になだれ込むのだ。これが要因の一つとなって476年に西ローマ帝国が滅亡した。その後も争いが続いたため、西暦600年頃まで人口が減少したと考えられる(ペストなどの感染症の流行も原因の一つとしてある)。

西暦700年代から1200年になる頃までの期間は気候はおおよそ温暖化する。それに呼応して人口も上昇に転じた。この期間の中世前期には、ゲルマン民族がそれまでの狩猟や採集、牧畜を主とした生活から農耕を主にした生活に変化したと考えられている。

西暦1000年以降の中世盛期になると、人口の増加がそれまでよりも大きくなる。この要因となったのが温暖な気候に加えて、「中世農業革命」と呼ばれる農耕技術の発達だ。

1000年頃から西ヨーロッパで鉄の農機具が用いられるようになり、耕地をより深く耕すことができるようになった。そうすることで農産物の生産量を増やすことができたのだ。この鉄製農機具の使用が12世紀頃までにヨーロッパ全体に広がり、より大きくて重いものが作られるようになる。

さらに、11世紀頃に「三圃制(三圃式)」と呼ばれる耕地の利用法が開発された。これは、耕地を三つに分け、春耕地(春に蒔いて秋に収穫)・秋耕地(秋に蒔いて春に収穫)・休耕地を年ごとに替えていくもので、地力の低下を防ぐことができる。三圃制も広くヨーロッパ全体に普及して行った。

この鉄の農機具と三圃制の普及によってヨーロッパの農村の姿が作られて行くことになる。

次の中世後期でひときわ目を引くのが、1350年から1400年にかけての人口の大幅な減少だ。これは感染病の「ペスト」が原因だ。14世紀にはヨーロッパだけでなく世界的に流行し、世界人口の4億5千万人のうち1億人が死亡したと言われている。

ペストに感染すると一週間以内に発熱や頭痛などの症状が現れる。そして、皮膚には内出血による黒紫色の斑点ができることから「黒死病」と恐れられた。治療を行わないと6割以上の人が死に至るという恐怖の伝染病だった。

このペストは、モンゴル軍の移動とともに運ばれてきたネズミとノミによってヨーロッパにもたらされたという説がある。また、この頃に北半球では大干ばつが起きており、食べ物を求めたネズミがアジアから西へ大移動を行ったためという説もある。さらに、大干ばつなどの影響によって世界的に食料が不足しており、栄養状態が悪化して免疫能力が落ちたこともペストの大流行を引き起こす原因になったとも言われている。

なお、ペスト菌は、1894年に北里柴三郎とフランスのアレクサンドル・イェルサンの2人によって、それぞれ独立に発見されることになる。

ゲルマン民族と古典古代文化とキリスト教-中世ヨーロッパのはじまりと食(1)

2020-10-24 23:06:00 | 第三章 中世の食の革命
3・3 中世ヨーロッパのはじまりと食
ゲルマン民族と古典古代文化とキリスト教-中世ヨーロッパのはじまりと食(1)
今回からしばらく中世前期のヨーロッパにおける食を見て行きます。この中世前期とは5世紀頃から10世紀頃までの時代を言います。最初は中世前期ヨーロッパの概要について簡単にお話ししましょう。

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ヨーロッパの中世になる前の時代は「ローマ時代」と呼んでも差し支えないだろう。

その頃のヨーロッパはローマを中心に回っており、ヨーロッパはローマ本国とローマの属州だったガリア地域(現在のフランスなど)、そして蛮族であったゲルマン民族が生活していた地域に漠然と分けることができた。

この3つがゲルマン民族の大移動によって混合され、再統合されて行くのがヨーロッパの中世である。

その後のヨーロッパを作る上で重要な要素となったのが「ゲルマン民族」と「古典古代文化」と「キリスト教」である。つまり、ゲルマン民族が進んだ古代ローマの文化とキリスト教に接触し、それらを取り込んで、新たな文化を作り上げて行くのである。ちなみに、現在はヨーロッパの中心は北部であるが、これはもともとゲルマン民族が北部にいたからである。

ゲルマン民族がヨーロッパの支配者になることによって、彼らの食生活も変化して行くことになる。

ローマ帝国時代の政治家・歴史家のタキトゥス(55年頃~120年頃)が著した『ゲルマーニア』によると、ゲルマン人は「野生の果実や新しい獣肉、凝乳」が主食だった。穀物は補助的なものに過ぎず、農業は肥料をやらないので地力が衰えるため毎年耕地を変える必要があり、遊牧民に近い生活をしていた。

それがヨーロッパを支配することになって定住を余儀なくされた。その結果、農耕の重要性が高くなるのである。とは言っても、ゲルマン人にとって「肉」は依然としてとても重要な食品で、「肉を食べざる者は貴族にあらず」という暗黙のルールがあった。王侯貴族は毎日肉を食べていたという。そして、貴族に「肉を食べることを禁ずる」ことは、貴族の称号をはく奪することを意味していたのだ。

さて、ゲルマン民族によって複数の国家が興るが、その中でも他を圧倒したのがフランク王国である。5世紀末にクロヴィス1世がフランク王国を建設し、キリスト教に改宗する。そしてフランク王国はイベリア半島とブリテン島を除く、西ヨーロッパの全域を支配する王国を打ち立てていくのである。



最初にフランク王国を率いたのはクロヴィス1世のメロヴィング朝(481~751年)であった。しかし、フランク王国はクロヴィスの死後に複数の国に分裂して内乱が続くようになる。ゲルマン民族の伝統では財産は子供に分配されることが普通だったので、国も同じように分割譲渡されたのだ。まだまだローマの文化は受け入れられていなかったのである。この結果、王族の力が低下して豪族の力が大きくなり、各地に割拠するようになる。

キリスト教の受容もまだまだ不十分だった。一夫一婦制はなかなか受け入れられず、女性にうつつを抜かす王が相次いだ。このような状況も王の力を弱め、「宮宰(マヨル・ドムス)」と呼ばれた王の執事が実権を握るようになる。

つまり、メロヴィング朝の時代には「ゲルマン民族」「古典古代文化」「キリスト教」の融合は全く進んでいなかったと言える。

こうした停滞を打開したのがカロリング朝(751~987年)である。この王朝は宮宰の一つであったカロリング家が興したものだ。カロリング家はカール・マルテル(686~741年)がフランク王国の貴族を動員して732年のトゥール・ポワティエ間の戦いなどでイスラム勢力の侵入を食い止めたことよって名声を高めた。そして、その息子のピピン3世(714~768年)がローマ教皇の承認のもとで王位を簒奪した。このカロリング朝の時代になって、「ゲルマン民族」「古典古代文化」「キリスト教」の融合が始まると言われている。


カロリング朝フランク王国国王ピピン

ところで、ゲルマン民族の移動後も地中海貿易は存続していた。そして、ゲルマン民族の生活もこの貿易からもたらされる様々な品々に依存していた。多くのワインや油、香辛料も地中海貿易でヨーロッパに持ち込まれていた。この地中海貿易がイスラム勢力の勃興によって崩壊するのである。このこともヨーロッパの経済の中心が地中海から北部へ移動する要因となった。

ヨーロッパ北部と言えば、ゲルマン民族の一つのノルマン人が活動を開始するのも中世前期のことである。有名なヴァイキングはスカンジナビア半島などを本拠としたノルマン人のことである。また、第二次世界大戦のノルマンディー上陸作戦のノルマンディーもノルマン人の居住地であったことから名付けられたものだ。

このような中世前期のヨーロッパの食の世界についてこれから見て行きましょう。


イスラム世界の分裂とシシュ・ケバブ-イスラムの隆盛と食(6)

2020-10-21 18:17:12 | 第三章 中世の食の革命
イスラム世界の分裂とシシュ・ケバブ-イスラムの隆盛と食(6)
今回は日本でもおなじみになった「シシュ・ケバブ」の話です。なお、しばらく続いていたイスラムの話も今回でいったん終わりになります。なお、次回からは中世ヨーロッパの話です。

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アッバース朝(750〜1258年)は1258年まで存続するが、内部では分裂が相次いだ。初期にはイベリア半島に後ウマイヤ朝(756~1031年)が興り、北アフリカ西部にはイドリース朝(788~985年)が建国された。

さらに873年には中央アジアに、アッバース朝のカリフに認められてサーマーン朝(873~999年)が建てられる。また、北アフリカではシーア派のファーティマ朝(909~1171年)が興り、エジプトを征服してカイロを建設するなど北アフリカ一帯を支配した。

さらに、バクダードのあるイラン・イラク地方をブワイフ朝(932~1062年)が支配する。ブワイフ朝はアッバース朝のカリフを保護する代わりに一帯の支配権を獲得した。

このようにアッバース朝の支配力が弱まった要因の一つにマムルークと呼ばれるトルコ人奴隷兵の重用があると言われている。中央アジアの遊牧民だったトルコ人は騎馬の技術に優れ、馬上から自在に弓を射ることができたことから高い戦闘力を有していた。この戦闘力の高さから次第に力をつけたマムルークは政治にも介入するようになり、その結果カリフの権威が衰退したのである。しかし、イスラム教においては依然としてカリフは最高指導者であり、宗教上の権威は存続していたという。

1033年にはトルコ系のセルジューク族が中央アジアから西に移動し、セルジューク朝(1038~1308年)を興した。そして、1055年にはバクダードを占領し、アッバース朝のカリフからスルタンに任命される。スルタンとは「神に由来する権威」を意味しており、カリフから一定地域内での統治権を認められた者の称号として使用された(日本の征夷大将軍に似ている)。

さらに西に進んだセルジューク軍は1071年のマンジケルトの戦いでビザンツ軍を破り、アナトリア(小アジア)を征服する。アナトリアにはビザンツ帝国の首都であるコンスタンティノープルがあった。この地はギリシア人の植民市ビザンティオンとして始まり、ローマ帝国時代にコンスタンティノープルに改名され、やがてオスマン帝国(1299~1922年)においてイスタンブルとなる。

セルジューク朝はその後十字軍と激戦を繰り広げながらも存続するが、1308年にモンゴル帝国によって滅ぼされた。

さて、ここでセルジューク朝の食について見て行こう。実は現代のトルコ料理はセルジューク朝時代の料理が基になっているのだ。

その頃のトルコ人たちの料理は、前回見たアラブ人たちの料理に遊牧民の料理が組み合わされたものだった。遊牧民の生活習慣から、持ち運びが簡単な料理が好まれた。また、アラブ人たちのように、皆が同じ皿から料理を取って食べた。

トルコ人には羊肉が一番喜ばれたが、かなり贅沢なごちそうだった。ヒツジをつぶした時には、脳や内臓などあらゆる部位を食べ尽くしたという。ヒツジ以外には鳥の肉などが食べられた。

肉はそのまま焼くかローストしたり、油で揚げたり、鍋で煮てシチューにした。揚げ物には前回登場した脂尾羊からとった油やバターを使った。香辛料はあまり使われず、使用されてもせいぜいコショウとシナモンくらいだったと言われている。

遊牧民らしく、トルコ人には乳製品が欠かせない。特にヨーグルトとチーズが大好きだったらしい。また、アイランと呼ばれる飲み物が古くから知られている。これは、脱脂したヨーグルトに塩と水を入れてよくかき混ぜたものだ。このため、作ったばっかりのアイランはすごく泡立っている。現代のトルコでも人気で、ファーストフード店で普通に売られている。

穀物の食べ物としては、コムギだけでできた薄いパンが好まれていたようだ。パンを焼くのにはタンドーリ窯が使われていた。また、コムギをくだいてスープにしたものに、バターやヨーグルト、アイランを上にかけて食べていたという。

ところで、トルコ料理の中で日本人になじみの深いものに「シシュ・ケバブ(シシカバブ)」があるが、この料理名は違う民族の言葉が組み合わされたものだ。つまり「シシュ」はトルコ語で「串」もしくは「剣」の意味で、一方の「ケバブ」は「焼き肉」を意味するアラブ語である。アラブ人たちの料理にトルコ系遊牧民族の料理が組み合わされてトルコ料理ができたということが、この料理名からもよく分かる。


シシュ・ケバブ(Alexei ChizhovによるPixabayからの画像)