食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

ポルトガルとジェノヴァと大航海時代前夜-中世後期のヨーロッパの食(6)

2020-12-30 23:24:03 | 第三章 中世の食の革命
ポルトガルとジェノヴァと大航海時代前夜-中世後期のヨーロッパの食(6)
日本人にとってポルトガルはなじみの深い国です。1543年にポルトガル人が鉄砲を伝えた話や、1549年にポルトガル宣教師「フランシスコ・ザビエル」が来日した話はとても印象深いため、ずっと記憶に残るようです。また、コンペイトウ(金平糖)やカステラなどポルトガルから伝わったとされるお菓子もよく知られています。

このように遠く離れた日本に人や物品を送ることができた海洋大国のポルトガルですが、もともとはカスティーリャ(スペイン)から何とか独立できた小さな国でした。それでは、この西の果ての小国はどのようにして海洋大国に成長して行ったのでしょうか。

今回は海洋大国への道を歩み始めたポルトガルのお話です。

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レコンキスタを進めていたカスティーリャ=レオン国王のアルフォンソ6世は1096年に、現在のポルトガルの北半分を娘婿のアンリ・ド・ブルゴーニュに治めさせた。1112年にアンリが没すると、アンリの妻アリサ陣営と息子のアフォンソ・エンリケス陣営の間で領地争いが勃発したが、アフォンソが勝利をおさめた。

その後アフォンソはレコンキスタを進めるとともにカスティーリャ=レオン国王のアルフォンソ7世と交渉を行い、1143年にアルフォンソへの臣従を条件としてポルトガル王国の建国が認められた。そして1147年に十字軍の助けを借りてリスボンを征服する。

初代国王の遺志を受け継いだアフォンソ3世は1249年にイスラム勢力を駆逐し、ポルトガル内のレコンキスタを完了させた。そして1255年、リスボンがポルトガル王国の新しい首都となった。

リスボン(ポルトガル語:Lisboa)は大西洋からテージョ川を13㎞ほどさかのぼったところに位置しており、15世紀以降海外進出の拠点となった良港を有している。また、ポルトガル北部の都市ポルトの港も大航海時代に貿易の一大拠点として活躍した。


リスボンの街並みとテージョ川

ポルトの港もリスボンの港と同じようにドウロ川の河口近くに作られた港だ。このように河口近くの港が木造船にとっては良い港とされていた。と言うのも、真水では船を破壊するフナクイムシや船を重くするフジツボなどが付かないために船を泊めておくのに最適だからだ。また、しけや外敵からも船や積み荷を守りやすいのである。

イスラム勢力を追い払ったことで地中海西部の自由な航行が可能になると、イタリアの湾口都市の商人がポルトガルにやって来るようになった。特にジェノヴァの商人はポルトガルの海外進出に大きな役割を果たすことになる。

実はこれにはジェノヴァなりの理由があった。ジェノヴァは西に進出する必要があったのだ。少し長くなるが、これについてお話ししておこう。

ジェノヴァはヴェネツィアやピサなどの他のイタリアの湾口都市とともに、東方世界から入って来る香辛料などの貿易で栄えていた。また、北アフリカのムスリム商人と金や奴隷の貿易も行っていた(中世の西ヨーロッパではローマ・カトリック以外の人間は奴隷として売買されていた)。

さらに、西ヨーロッパの商業が発達してくると、ジェノヴァはその交易にも参入するようになった。1277年にはジブラルタル海峡を越えて大西洋沿岸を進み、現在のベルギーのブルージュに船を送っている。こうしてハンザ同盟と交易を行うようになった。

ポルトガルのリスボンやポルトの商人もジェノヴァの商人たちと同じようにハンザ同盟との交易を行った。実は、これらの都市にはジェノヴァの商人たちが移住してきており、彼らの助けを借りて船を造り交易を行ったのである。

さらに14世紀半ば以降になると、オスマン・トルコが東地中海に進入を始めたことや、地中海での覇権をかけたヴェネツィアとの戦いに敗れたこと、そしてジェノヴァでの内紛などによって、ジェノヴァの資本や商人たちの多くが主にポルトガルに(そしてスペインにも)逃げてくるようになった。こうしてポルトガルは、ジェノヴァの資本と技術支援を受けて海外進出を本格的に行うようになったのだ。

1415年にポルトガル王ジョアン1世はジブラルタル海峡をはさんだ対岸のセウタを征服した。そして1419年からはセウタ征服に参加した「エンリケ航海王子(1394~1460年)」の下で西アフリカ方面の探検が始まった。そして、まずマデイラ諸島とアソーレス諸島を発見する。続いて1450年過ぎにカーボ・ヴェルデ諸島が見つかった。


リスボンの発見のモニュメント(右側先頭がエンリケ航海王子)

マデイラとカーボ・ヴェルデではサトウキビが栽培され、生産された砂糖がヨーロッパに運ばれて莫大な富を生み出した。また、アソーレスはブドウとコムギの一大産地になった。この成功によってジェノヴァ人も大きく潤ったということだ。



さらにエンリケの部下たちはアフリカ沿岸部の探検を進めて、西アフリカ地域と金や奴隷の交易を始めた。このアフリカ沿岸部と島々の探検はエンリケが没した後も続けられ、主に奴隷貿易が熱心に進められた。そして、この奴隷を用いて砂糖のプランテーション(欧米人が奴隷などの安価な労働力を利用して砂糖などの単一栽培を行う農業経営)が行われる。やがてこの経営形態が「新大陸」に持ち込まれるのである。

(これでヨーロッパの中世時代のお話は終わりになります。次回からは東の果ての「日本」の中世の食が始まります。)

レコンキスタとイベリコブタ-中世後期のヨーロッパの食(5)

2020-12-28 20:28:32 | 第三章 中世の食の革命
レコンキスタとイベリコブタ-中世後期のヨーロッパの食(5)
「レコンキスタ (Reconquista)」とはスペイン語で「再征服」という意味で、イスラム勢力によって奪われたイベリア半島をキリスト教徒の手に取り戻す「国土回復運動」のことを指します。

このレコンキスタの達成によって、大航海時代前半の主役となる「ポルトガル王国」と「スペイン王国 (帝国)」が誕生します。

今回はレコンキスタとスペインの名産品「イベリコブタ」について見て行きます。

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イスラム勢力は711年に北アフリカからジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に進入し、ゲルマン民族が建てた西ゴート王国を滅ぼした。その結果、715年までに最北部を除いてイベリア半島の全域はイスラム勢力に支配される。

そして756年にウマイヤ王家のアブド・アッラフマーンによって後ウマイヤ朝(756~1031年)が建国された。首都はコルドバであり、10世紀には西ヨーロッパ最大の都市として繁栄した。なお後ウマイヤ朝では、キリスト教徒とユダヤ教徒は税金を納めれば信仰と財産の保有が認められていた。



イスラム勢力が支配したことによって、イベリア半島にイスラムの進んだ技術が持ち込まれ、その結果イベリア半島はそれまでよりも大きな発展を遂げることになる。例えば、水車を用いた灌漑技術が導入され、荒れ地の開拓が進んだことによって農地が大きく拡大した。

新しい農地では、コメやオリーブ、レモン、オレンジ、ナツメヤシ、サフランなどが栽培された。なお、オリーブはそれより以前にギリシアから持ち込まれていたが、ムスリムがオリーブオイルの美味しさに気が付いて栽培を拡大させたのだ。

ところで、コメ・オリーブオイル・サフランはどれもスペインの国民的な料理「パエリア」の材料だ。パエリアは肉や魚介類、野菜をオリーブオイルで炒めた後、コメとサフランを加えて平たいフライパン(パエリア鍋)でスープと一緒に炊きこんだ料理だ。スペインでは日本と同じようにイカやタコ、エビ、貝などの魚介類をよく食べるが、これらはハラルであるため(イスラム法で許されているため)ムスリムも食べたのである。このようにパエリアはイスラムの食文化を起源としている。

また、ムスリムの造船や操船の技術はインド洋という外洋を航行するためヨーロッパより進歩していたが、これがイベリア半島に伝わったことで大航海時代にスペインやポルトガルが使用する船舶に利用されることになった。

さて、一時期は繁栄を極めた後ウマイヤ朝であったが、後継者争いなどによって衰退し、1031年に滅亡した。すると、イスラム勢力はタイファと呼ばれる小王国に分裂したため勢力が衰え、キリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)が勢いを増すことになった。

なお、イベリア半島の北部では718年にキリスト教国のアストゥリアス王国が建国されており、この年がレコンキスタ元年とされることが多い。その後、レオン王国やカスティーリャ王国、アラゴン王国などのキリスト教国が建国され、領地回復の戦いを続けた。

11世紀に優位に立ったキリスト教国であったが、その後は北アフリカのイスラム教国の介入などによって一進一退を繰り返した。そして12世紀の終わり頃になると、今度は北アフリカのイスラム教国ムワッヒド朝の攻勢によってキリスト教国は窮地に立たされることとなる。

これを救ったのがローマ教皇インノケンティウス3世だ。彼が西ヨーロッパ各国に「十字軍による聖戦」を呼びかけた結果、キリスト教連合軍が結成される。連合軍とムワッヒド軍は1212年に現在のアンダルシア州北部のナバス・デ・トロサで大規模な戦闘を行い、キリスト教連合軍が大勝利をおさめた。これ以降、イベリア半島ではムワッヒド朝の支配力は急速に衰え、小さなイスラム勢力の国々が残るのみとなった。

カスティーリャ王国とアラゴン王国、そしてカスティーリャから独立したポルトガル王国は次々とこれらの小国を滅ぼし国土を拡大して行った。そして、カスティーリャ王国とアラゴン王国の統合によって誕生したスペイン王国が1492年にイスラム勢力の最後の拠点グラナダを攻撃し、アルハンブラ宮殿を無血開城させてレコンキスタが完成する。ちなみに、同じ年にはスペイン王の命を受けたコロンブスが大西洋の横断に成功している。


アルハンブラ宮殿(Pablo ValerioによるPixabayからの画像)

領土を回復したスペイン王国はユダヤ教徒の財産を没収して国外に追放した。また、当初は信仰を認めていたイスラム教徒に対しても最終的に追放令が出された。スペインに留まることが許されたのは、キリスト教(ローマ・カトリック)に改宗した者だけだった。

さて、スペインは豚肉をよく食べる国である。国民1人当たりの豚肉消費量はEUの中でもトップクラスで、1年間に約40キログラムもあるそうだ(日本人は15キログラムくらい)。また、イベリア半島南西部の山間部で育てられる「イベリコブタ」はスペインの特産品で、日本人にも大人気だ。

イベリコブタの最大の特徴は肉の中に霜降りがあることだ。イベリコブタには等級があり、最高級のベジョータは樫の木の森で放牧して2ヶ月以上どんぐりの実を食べさせたものだけに与えられる等級だ。こうすることで肉質とともに赤身と霜降りのバランスが良くなり、とても美味しい豚肉になると言われている。


イベリコ生ハム(Ben KerckxによるPixabayからの画像)

ところで、スペインが豚肉好きなったのはイスラム教徒やユダヤ教徒に対する反発があったからだという説がある。豚肉はイスラム教でもユダヤ教でも食べてはいけない肉だ。その肉をたくさん食べることで「キリスト教徒」であることを誇ったというのだ。また、表面上だけキリスト教に改宗したイスラム教徒やユダヤ教徒に対する「踏み絵」という意味もあったと言われている。

しかし、一番大きな理由は自分たちが作った豚肉(特にイベリコブタの肉)がとても美味しかったからだと私は思っている。

タイユヴァンの料理書と中世のフランス料理-中世後期のヨーロッパの食(4)

2020-12-26 17:58:12 | 第三章 中世の食の革命
タイユヴァンの料理書と中世のフランス料理-中世後期のヨーロッパの食(4)
「タイユヴァン(Taillevent)」はパリにあるレストランで、30年以上にわたってミシュランの3つ星を獲得している名店です。

この「タイユヴァン」という名前は14世紀のフランスで活躍した料理人ギヨーム・ティレル(1310~1395年)の別称で、「風を切る」という意味合いだそうです。風を切るように勢いのある料理を作ったということでしょうか。

タイユヴァンがフランス料理の名店の名前として使われる理由は、彼がフランス料理の基礎を築くという大きな足跡を残したからです。彼の偉大な業績の一つに『ル・ヴィアンディエ (le Viandier)』という料理書を書いたことがあげられます。これは、ローマ帝国以降のヨーロッパで最初の本格的な料理書と言われています。そして、1651年に料理人のラ・ヴァレンヌが『フランスの料理人 (le Cuisinier français)』という料理書を出すまでの長い間、フランス料理の手引き書となりました。

今回は『ル・ヴィアンディエ』を通して中世後期のヨーロッパの料理について見て行きたいと思います。



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ギヨーム・ティレル(タイユヴァン)は少年の頃に料理の申し子と呼ばれたほどの早熟の天才だった。彼は1325年頃から宮廷の料理人として働き始め、やがてフィリップ6世やシャルル5世、シャルル6世など歴代のフランス国王の専属料理人として腕を振るった。

シャルル5世は本好きで知られており、タイユヴァンは彼から料理書を書くように命じられたと言われている。そうして出来上がったのが『ル・ヴィアンディエ (le Viandier)』である。Viandierとは本来は肉という意味だが、当時は料理という意味でも使用されており、ル・ヴィアンディエは「料理書」と訳すのが適当とされている。

本を書くと言っても印刷技術が進んでいなかった時代であり、タイユヴァンは手書きで料理のレシピなどを書き留めて行った。タイユヴァンの手稿は1373年から1380年にかけて書かれたものだと言われているが、数多くの料理人によって写本が繰り返されながら受け継がれて行った。そして1486年頃になって初めて活字本として印刷される。このため、多くの部分に他人の手が加えられていると推測されているのだ。とは言え、『ル・ヴィアンディエ』が14~15世紀のフランス料理の様子をつまびらかに伝えていることは間違いない。

ここで、『ル・ヴィアンディエ』のレシピを見る前に中世後期のヨーロッパの料理について概観してみよう。

中世後期は料理の世界に大きな変化が見られた時期である。その一つが味付けの変化だ。

中世の味付けは今よりもずっと酸味が効いていたと考えられている。ワインビネガーや未熟ブドウ果汁が料理の材料によく使用された。ここに大量の香辛料を加えた、酸っぱくて辛味のきいたものが中世の基本的な風味である。なお、香辛料はガレノスの「四体液説」で体のバランスを整えるのに有効であると考えられていたため、大量に使用されていたのだ。

中世後期になると、ここに甘味が加わるようになる。サトウキビが地中海西部地域で栽培されるようになり、ヨーロッパ全体に流通する砂糖の量が次第に増えて行ったことがこの理由の一つと考えられる。また、14世紀に砂糖の甘味が香辛料の辛さを和らげる効果があることが見つかったことも関係している。こうして、中世後期の料理は「酸っぱい」ものから「甘酸っぱい」ものへと変化して行った。

使用される香辛料にも変化が見られた。

ローマ帝国では香辛料の中でコショウが最もよく使用されていた。中世に入ってもコショウは人気であり、中世盛期でもよく使用されていた。しかし、中世後期になるとコショウの使用量が減少するのである。この理由に、ヴェネツィア商人などが行った地中海貿易によって大量のコショウが手に入るようになり、ありがたみが薄れてしまったことがあると考えられている。

コショウに代わって香辛料の王様の位置を占めたのがショウガである。ショウガは日本では生のまま使うが、欧米では乾燥させてパウダー状にしたものを使うのが一般的である。『ル・ヴィアンディエ』でも、ショウガパウダーが料理の香りづけによく使用されている。

また、それまでほとんど使用されていなかったバターが少しずつ使われるようになったことも中世後期の特徴だ。バターはもともと遊牧民が食べていたため、古代ローマでは野蛮人の食べ物とされ、整髪料や塗り薬として使われていた。それが中世後期になると主にヨーロッパ北部で食べられるようになったのである。

中世後期になると、上流階級の食事では、出される皿の数も増えて内容も豪華になった。例えば『ル・ヴィアンディエ』では、次のようなものが宴会のメニューとして記載されている。

第1サービス:去勢ニワトリのスープ、雌鳥の香草風味、新キャベツと猟獣肉
第2サービス:くじゃくのセロリ風味、去勢ニワトリのパテ、仔野ウサギのヴィネガー風味
第3サービス:甘味の山ウズラ、猟獣肉のパテ、ハトのエテュヴェ(蒸し煮)、ゼリー寄せと細切り肉
第4サービス:焼き菓子、クレーム・フリット(カスタードクリームに衣をつけて揚げたもの)、洋ナシのパテ、スイートアーモンド、クルミと洋ナシ

このように多種類の料理が出されるようになると、短時間で料理を作って皿に盛り、客に給仕することが難しくなったしまった。そこで各サービスの間に「アントルメ」と呼ばれる演じもので客を楽しませるようになった。

アントルメは現代では甘いデザートのことを言うが、中世では料理と料理の間の余興のことを指した(メは料理、アントルは間を意味する)。古代ローマで料理の間に各種の芸や音楽、劇を楽しんだのだが、これを真似て始められたとされている。アントルメでは、芸や音楽と同時に生きているように作ったツルやクジャクの料理なども出されたらしい。

それでは最後に、『ル・ヴィアンディエ』に記されているレシピをいくつか紹介しよう。

①イポクラス:タイユヴァンがヒポクラテスの処方から考案した香草や香辛料を加えたワインのこと。ルイ14世の時代まで、食前と食後に薬用酒としてよく飲まれていたという。
(作り方)ワイン1パント(930ml)に粉末のメース(ナツメグの種子のまわりの網目状の赤い皮の部分)3.8g、シナモン11.4g、丁子(クローブ)1.9g、砂糖180gを混ぜ、粉が沈んだら布でこして出来上がり。

②ガリマフレ:鶏肉もしくは羊肉を煮込んだ料理のこと。ガリマフレはフランスのピカルディ地方の方言で「がつがつ食う」という意味で、現代では「不味い料理」を意味する。
(作り方)骨ごとぶつ切りにした鶏肉をラードもしくはガチョウの脂で揚げ、ワイン、未熟ブドウ果汁、香辛料、ショウガパウダーで煮る。カムリーヌ(次参照)と塩をつけて食べる。

③カムリーヌ:香辛料と酸味の強い冷製ソースのこと。
(作り方)パンをキツネ色になるまで焼き、赤ワインにひたして裏ごしする。酢、シナモン、しょうが、丁子、メース、コショウを加えて裏ごしして出来上がり。

④中世のウナギの煮込み料理
(作り方)内臓を取ったウナギをゆがいて皮をむき、筒切り(背骨がついたまま輪切りすること)にする。これを鍋に入れ、輪切りにして揚げたタマネギ、ローストしたパン粉、マメのピュレ、水、ワインと一緒に沸騰させる。さらに、ショウガパウダー、シナモン、丁子、サフラン、未熟ブドウ果汁を加え煮込む。酸味を強くするのが美味しくいただくコツ。

⑤カモの白いドディーヌがけ:ドディーヌは中世で最も好まれたカモ料理用ソースの1つ。
(作り方)カモを下処理し、大串に刺してローストする。牛乳とショウガパウダーを少々入れた鍋をローストしているカモの下に置いて、脂と焼き汁を受け止める。その後、卵黄と塩を加えてよく混ぜ、布ごしする。好みで砂糖を加えて混ぜながら沸騰させる。肉に火が通ったら上からかけて出来上がり。

どれも美味しそうな感じがするが、現代人の舌にはなかなか合わないもののようだ。

ニシンとハンザ同盟とオランダ-中世後期のヨーロッパの食(3)

2020-12-24 23:19:34 | 第三章 中世の食の革命
ニシンとハンザ同盟とオランダ-中世後期のヨーロッパの食(3)
もう少しで今年も終わりますね。大みそかには年越しそばを食べる人も多いと思いますが、年越しそばも地域によって様々に変化するようです。ちなみに、私は京都出身なので、年越しそばは「にしんそば」になります。京都南座の松屋が明治15年に始めた「にしんそば」が大評判になり、いつしか京都では年越しそばとして食べられるようになったということです。

さて、ニシンですが、中世の庶民にとって魚と言えばニシンだったと言われています。その理由は、北の海でニシンがたくさん獲れたからです。

中世ヨーロッパでニシンの加工や輸送に活躍したのが「ハンザ同盟」とオランダでした。今回はこのニシンとハンザ同盟、そしてオランダのお話です。



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ニシン(鰊)は寒い海に生息し、大きな群れを作って回遊しながら一生を過ごす魚だ。多い時には一つの群れに30億匹以上がいる場合もあると言われている。

ニシンは春先の産卵期には海岸近くにやってきて、一帯の海を埋め尽くすこともある。北海道では海岸にやって来たニシンの大群が産卵・放精することで海がミルクを流したように白く濁ることがあり、この様子を「群来(くき)」と呼んでいる。

唐太の 天ぞ垂れたり 鰊群来(山口誓子)

このようにニシンは大群を作って行動することから、群れを見つけることができれば大量に捕まえることができるのである。

中世盛期以降にキリスト教がヨーロッパ全域に広まると、多くの人が断食を行うようになった。もともとは断食日には肉や魚を食べてはいけなかったが、やがて魚を食べても良い日となり、さらに積極的に魚を食べる日へと変化して行った。特に、2月から3月にかけて始まる46日間の四旬節(しじゅんせつ)の断食期間には人々は大量の魚を食べたのである。

このような魚の需要を満たしたのがニシンであり、のちほど話題に挙げるタラだった。

ところで、ニシンは油が多い魚で、すぐに酸化して悪くなってしまう。言い伝えによると、1350年頃にオランダのヴィレム・ブッケルゾーンがニシンを樽詰めにする方法を発見したとされる。これは、ニシンを釣ったらすぐに内臓を取り除き塩水につけ、干さないでそのまま樽に詰めて保存するというものだ。こうすることで1年以上の保存が可能となった。

しかし、ヨーロッパの人々の大量の需要にこたえるためには、大規模な加工処理と輸送手段が必要だった。これを担ったのが「ハンザ同盟」である。

ハンザ同盟とはバルト海沿岸や北ドイツの商業都市による同盟のことで、この同盟の中心となるリューベックとハンブルグが1241年に結んだ商業同盟が始まりとされている。この商業同盟に他の商業都市が加わることでハンザ同盟は拡大してゆき、14世紀の全盛期には加盟都市が200を越えるまでになる。ただし、同盟と言っても強固なものではなく、困った時にお互いに助け合うといったゆるいつながりだったらしい。



リューベックはニシンの樽詰めを作るには絶好の位置にあった。すぐ近くのバルト海にニシンの大群が押し寄せて来るし、加工に必要な塩を産出するリューネブルクという町がすぐ近くにあったのだ(と言っても80km離れている)。リューベックはリューネブルクからバルト海方面に輸出される塩を独占し、一帯のニシンの加工と交易を掌握した。ちなみに、ニシン漁をしたのはデンマークの漁師であり、リューベックのドイツ人はそれを受け取って加工と輸送を行ったのである。

やがて他のハンザ同盟の海岸都市もリューベックにならってニシンの樽詰め作りに精を出すようになる。こうしてハンザ同盟はニシンの交易を独占するようになったのだ。

ハンザ同盟はニシン以外にも多くの物品の交易を行ったが、穀物や蜂蜜、塩、ワイン、木材、毛皮などの生活必需品が多かった。前回お話ししたドイツ東方地域で生産された穀物の交易を独占していたのもハンザ同盟で、13世紀後半からイングランドやノルウェーなどの冷涼な地域では、このドイツ東方地域の穀物が無くてはならないものになった。

生活必需品は価格の低さの割にかさばるものだ。このため、儲けを増やすためには大量の物品を運ぶ必要がある。ハンザ同盟の交易で活躍したのがコグ船と呼ばれる船で、この船の中間部分の船底は平らになっていて、荷物をたくさん積むことができる。また、マストが1本で帆が1枚しか無いため少人数で操船が可能だった。

14世紀になるとハンザ同盟の商人たちはドイツから離れたスカンジディナビア半島のスウェーデンに移住してニシンの大量確保を行った。この移住によってストックホルムなどの都市が発展したと言われている。

ちなみに、「世界一臭い食べ物」と言われる塩漬けニシンの缶詰「シュールストレミング (surströmming)」はスウェーデンのものだ。この塩漬けニシンは、塩が高価だったため少なめの塩を使って作られた。その結果、発酵が止まらず異臭を発生するようになるのだ。

さて、理由は不明だが、ニシンは時折回遊ルートを大きく変えることがある。9世紀頃に活発になるヴァイキングの襲来は、ちょうどその頃にニシンの回遊ルートが変わって漁獲量が落ちたからだという説がある。

1420年頃になると、それまでハンザ同盟がニシンを得ていたバルト海でニシンの産卵が減少し始めるのである。そして16世紀になるとニシンの群れは完全に北海に移動してしまった。北海はオランダの目の先で、歓喜したオランダ人はニシンを獲りまくるようになる。

バルト海では沿岸部にやって来たニシンを捕まえて浜で加工を行っていたが、オランダ人は沖でニシンを捕まえて船の上で樽詰めの加工を行った。そのために平らなデッキのついた船を使ったと言われている。

このように獲れたニシンを新鮮なままで素早く加工すると、高品質の樽詰めニシンができる。さらにオランダでは政府主導で樽詰めニシンの徹底した品質管理が行われたため、諸外国に比べて圧倒的に高品質の商品を生産できるようになった。

このオランダのニシン産業の興隆がハンザ同盟の衰退の一因になったとされている。

多様化する農業-中世後期のヨーロッパの食(2)

2020-12-22 23:13:14 | 第三章 中世の食の革命
多様化する農業-中世後期のヨーロッパの食(2)
前回は14世紀に起きた食料不足や百年戦争、ペストの大流行によって多くの人々が亡くなったというお話をしました。そして、このように人口が急激に減少した後は、食料不足も解消され、足りなくなっていた農地も残った人口を養うには十分なものになりました。

今回は、このような悲惨な時代が過ぎ去った後の農業のお話です。

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中世後期はそれぞれの地域に合った市場価値の高い農作物が作られるようになって、農業が多様化して行った時期だ。また、以前よりも牧畜が盛んになった。これは人口が減り食料が余ってきたために穀物価格が下がったことが原因だ。穀物より儲かる作物を作るようになったということである。

中世盛期では耕地を三つに分け、春耕地(春に蒔いて秋に収穫)・秋耕地(秋に蒔いて春に収穫)・休耕地を年ごとに替えていく三圃制で農業が行われており、主にムギが栽培されていた。それが中世後期になると、春耕地でムギ以外の作物を育てることが多くなったのだ。

実は、春にムギを蒔くと気温が高いため早く育ってしまって実が小さくなり、単位面積当たりの収穫量が少なくなってしまうのだ。このため、春蒔きの商品価値の高い作物が植えられるようになったのである。ちなみに、現代でも世界のコムギの大部分が冬に蒔く冬小麦として栽培されている。

こうして春蒔きのムギに代わって育てられるようになったのが、マメ類やキャベツなどの野菜類、そして布を作るための亜麻などだ。また、クローバーやカブなどの家畜の飼料となる作物の栽培も盛んになった。

さらに、三圃制での休耕地が三年に一度から数年に一度と頻度が下がったり、休耕地を完全になくしてコムギと他の作物を交互に栽培する輪作も行われたりするようになった。

一方、都市の周りでは、都市で高く売れるセロリやアスパラガス、ホウレンソウなどの野菜などの作物を重点的に作るようになった。

さらに中世後期の農業の大きな特徴として、ヨーロッパのそれぞれの地域が特定の作物を大規模に栽培するようになったことがあげられる。例えば、ブドウはフランスのブルゴーニュ地方とロワール地方、そしてドイツのライン川流域が一大産地に成長した。また、ドイツ東部はコムギやライムギを大量に生産し、西ヨーロッパ各地へと輸出するようになる。

このほかにも、オリーブやサフラン、オレンジなどが地中海沿岸でよく栽培された。そして、布を作る亜麻はオランダ・ベルギー・フランスにまたがるフランドル地方(フランダース地方)の主要な産物となった。

なお、亜麻から作られる繊維は英語で「リネン(linen)」と呼ばれ、中東やヨーロッパでは古代から使われているものだ。古代エジプトではミイラを巻く布として使用された。ヨーロッパではリネンはありふれた布であったため、日本のホテルで使用するシーツやタオルなどをいつしかリネンと呼ぶようになったと言われている。

話を戻して、次に牧畜について見てみよう。

14世紀頃になると人々の嗜好が変化して、現代人のように料理に使う油としてはバターが好まれるようになった。その結果、北欧やフランス北部ではウシの飼育が拡大する(それまではヒツジやブタの飼育が一般的だった)。

また、イングランドやスペインでは毛織物産業が急速に発展していたため、大量のヒツジが飼育されるようになった。イングランドでは四方を石垣で囲んだ広大な放牧地で牧羊を行った(これは「囲い込み(エンクロージャー)」と呼ばれる)。一方スペインでは、繊細な毛質の「メリノ種」が開発され、王室の所有物として大規模な飼育が行われるようになった。なお、メリノ種は紆余曲折を経て、現在は主にオーストラリアと南アフリカ共和国で飼育されている。



以上のように地域ごとに特色のある農業が中世後期に発達して行ったが、これは現代まで受け継がれていくことになる。