ミラノのヴィスコンティ-ルネサンスと食の革命(5)
『ベニスに死す』という映画をご存知でしょうか?
静養のためベニス(ヴェネツィア)を訪れた初老の音楽家が、とある貴族の美少年に恋をしてしまうというお話です。音楽家は少年の姿を追って日々ベニスの街をさまよいます。しかし、この時ベニスではコレラがはやり始めていました。それでも音楽家は少年から離れることができません。やがて音楽家もコレラにかかってしまい、死んでしまいます。彼は老いをかくすために髪を黒く染め、顔には白い化粧をしていたのですが、それが死化粧となったのでした。
本作は全編にわたって美しい映像があふれる傑作ですが、ラストシーンは特に秀逸です。きらきら輝く海辺で遊ぶ美少年。それを見ながらベンチに座る音楽家。少年に手を伸ばすも届くわけもなく、満たされない想いを抱きながら力尽き、ひとり寂しく死んでいきます。
この映画の監督はルキノ・ヴィスコンティというイタリア人ですが、彼の作品はどれも「映像の美術」と呼ぶにふさわしいものです。
実はルキノ・ヴィスコンティは、ルネサンス期前半にイタリアのミラノを支配していた貴族ヴィスコンティ家の末裔です(彼自身も伯爵)。このヴィスコンティ家はミラノで芸術・文化の振興に大きな貢献をしたことで知られています。ルキノの映像美術も血のなせる業と言えるでしょう。
今回はヴィスコンティ家を取り上げながら、ルネサンス期のミラノの食について見て行きます。
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ミラノはスイスとの国境にほど近い北イタリアに位置し、ローマに次ぐ人口を有する大都市だ。古くから商工業と文化・芸術の中心として栄えてきたが、現在ではミラノ・コレクションなどで知られるように「ファッションの都」と呼ばれることもある。
ミラノの近くにはポー川が流れており、その流域一帯は古くからロンバルディアと呼ばれている。この地域はイタリアでもっとも農業生産力が高く、また人々の独立心も旺盛だった。このため11世紀からミラノを始めとする自治都市が建設されて行った。12世紀に神聖ローマ帝国の侵略を受けた際には自治都市はロンバルディア同盟を結成し、帝国軍を打ち破っている。
ヴィスコンティ家は元は小貴族だったが、十字軍遠征で武功を上げて勢力を拡大したと言われている。この頃から使用し始めたのがイスラム教徒を飲み込む大蛇の家紋だ。
ヴィスコンティ家の家紋(https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1580049)
1262年には一族のオットーネ・ヴィスコンティがミラノ大司教に任命され、さらに1271年にはテオバルド・ヴィスコンティがローマ教皇グレオリウス10世(在位:1271~1276年)に即位し、ヴィスコンティ家は躍進を始める。
そして14世紀初めにはミラノの支配権を獲得する。さらにジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ(1378~1402年)の代にはロンバルディア全域とその周辺地を含む広大な地域を支配するようになった。この地域は、神聖ローマ皇帝から「ミラノ公国」として認められ、ジャン・ガレアッツォは初代ミラノ公となる。ヴィスコンティ家最盛期の到来だ。
ジャン・ガレアッツォは領地から得られる莫大な資金を文化・芸術事業に投じた。有名なミラノ大聖堂(ドゥオーモ)は、世界最大・最高の聖堂にしようとジャン・ガレアッツォが特に力を入れた建造物だ。ミラノ大聖堂の完成までに5世紀の期間が費やされたが、その壮大な姿は圧巻だ。ジャン・ガレアッツォは資金を提供するだけでなく、彼自身も古典文学に造詣が深かったと言われている。
ミラノ大聖堂(Dorinel NedelcuによるPixabayからの画像)
一方、ジャン・ガレアッツォは残虐性でも知られている人物で、敵対する貴族を牝牛の皮に包んで生きたまま城壁に塗り込めたという逸話が残っている。ちなみに、『羊たちの沈黙』の主人公「人喰いレクター」はヴィスコンティ家の末裔という設定で、学術・芸術に通じながらも残虐性を有するというところがジャン・ガレアッツォに似ている。
ジャン・ガレアッツォは領地拡大のための戦いを死ぬまで続けた。フィレンツェのメディチ家は長年のライバルで、トスカーナ地方に攻め入りフィレンツェを陥落寸前まで追い詰めたが、悲願達成の目前で病死してしまった。そして息子の代になると領土は解体される。それでもヴィスコンティ家は1447年までミラノを支配した。
その後、ヴィスコンティ家の娘婿だったフランチェスコ・スフォルツァが権力を握り、1535年までスフォルツァ家がミラノ公を受け継いだ。なお、レオナルド・ダ・ヴィンチはスフォルツァ家のルドヴィーコ・スフォルツァによってミラノに迎えられ、1482年から1499年までこの地で活動したが、その間に有名な『最後の晩餐』をサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁に描いている。
さて、ここでルネサンス期のミラノの食を見て行こう。
ミラノの料理には黄色もしくは黄金食のものが多い。例えば、ミラノ風カツレツ「コトレッタ(Cotoletta alla Milanese)」も黄金色をしている。この理由は、ミラノでは経済が発展したことから「金」の黄色が好まれたためと言われている。
ルネサンス期に成立したとされているミラノの名物料理の一つに、サフランを贅沢に使用した「リゾットミラネーゼ(Risotto alla Milanese)」がある。これは、コメをバターで炒め、スープと大量のサフランを加えて作る料理だ。
リゾットミラネーゼ
ロンバルディアのポー川流域では15世紀から盛んに稲作が行われていて、コメはありふれた食材だった。言い伝えでは、結婚式の食事会で、色彩豊かな食器に負けないように黄色を強調するためにサフランを大量に使用したのが始まりとされる。また、結婚を反対した人が料理をダメにするためサフランを大量に投入したが、反対にとても美味しくなってしまったとも言われている。
レオナルド・ダ・ヴィンチの手記にも記されているルネサンス期の料理の一つが「ミネストローネ(Minestrone)」だ。ミネステローネは「具だくさんの野菜スープ」という意味で、ミラノでは野菜をじっくり煮込んだ最後にコメを入れて仕上げるのが特徴だ。
現代のミネステローネにはトマトが使われているが、ルネサンス期にはトマトは食材として使用されておらず、ミネステローネの色も黄色に近かった。
次はお菓子だ。ミラノと言えば「ティラミス(Tiramisu)」だが、これは1960年代に考案されたもので、まだまだ新しいデザートだ。
ルネサンス期のミラノで誕生したお菓子としては「パネットーネ(Panettone)」がある。パネットーネはスフォルツァ家が支配した頃のミラノで、クリスマスに欠かせないものとして作られるようになったと言われている。
パネットーネはドライフルーツが入った発酵菓子パンだ。材料は小麦粉、砂糖、卵、バター、酵母、そして干しブドウなどのドライフルーツだ。砂糖とバターが入ると小麦粉の生地は発酵しにくくなるが、初乳を飲んだ子牛の腸から採った特殊な酵母を用いてゆっくりと発酵を行うことでパネットーネは作られる。
パネットーネ(CiranoTondiによるPixabayからの画像)
一方、ドライフルーツが入っていないものは「パンドーロ(Pandoro)」と言い、ロンバルディアの西にあるヴェローナの銘菓だ。現代ではパネットーネとパンドーロはイタリア中でクリスマスに食べるお菓子の定番となっている。また、パネットーネはイタリア移民によって南米に伝えられ、そこでもクリスマスに欠かせないお菓子となった。