食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

ミラノのヴィスコンティ-ルネサンスと食の革命(5)

2021-05-29 20:31:18 | 第四章 近世の食の革命
ミラノのヴィスコンティ-ルネサンスと食の革命(5)
『ベニスに死す』という映画をご存知でしょうか?

静養のためベニス(ヴェネツィア)を訪れた初老の音楽家が、とある貴族の美少年に恋をしてしまうというお話です。音楽家は少年の姿を追って日々ベニスの街をさまよいます。しかし、この時ベニスではコレラがはやり始めていました。それでも音楽家は少年から離れることができません。やがて音楽家もコレラにかかってしまい、死んでしまいます。彼は老いをかくすために髪を黒く染め、顔には白い化粧をしていたのですが、それが死化粧となったのでした。

本作は全編にわたって美しい映像があふれる傑作ですが、ラストシーンは特に秀逸です。きらきら輝く海辺で遊ぶ美少年。それを見ながらベンチに座る音楽家。少年に手を伸ばすも届くわけもなく、満たされない想いを抱きながら力尽き、ひとり寂しく死んでいきます。

この映画の監督はルキノ・ヴィスコンティというイタリア人ですが、彼の作品はどれも「映像の美術」と呼ぶにふさわしいものです。

実はルキノ・ヴィスコンティは、ルネサンス期前半にイタリアのミラノを支配していた貴族ヴィスコンティ家の末裔です(彼自身も伯爵)。このヴィスコンティ家はミラノで芸術・文化の振興に大きな貢献をしたことで知られています。ルキノの映像美術も血のなせる業と言えるでしょう。

今回はヴィスコンティ家を取り上げながら、ルネサンス期のミラノの食について見て行きます。

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ミラノはスイスとの国境にほど近い北イタリアに位置し、ローマに次ぐ人口を有する大都市だ。古くから商工業と文化・芸術の中心として栄えてきたが、現在ではミラノ・コレクションなどで知られるように「ファッションの都」と呼ばれることもある。

ミラノの近くにはポー川が流れており、その流域一帯は古くからロンバルディアと呼ばれている。この地域はイタリアでもっとも農業生産力が高く、また人々の独立心も旺盛だった。このため11世紀からミラノを始めとする自治都市が建設されて行った。12世紀に神聖ローマ帝国の侵略を受けた際には自治都市はロンバルディア同盟を結成し、帝国軍を打ち破っている。

ヴィスコンティ家は元は小貴族だったが、十字軍遠征で武功を上げて勢力を拡大したと言われている。この頃から使用し始めたのがイスラム教徒を飲み込む大蛇の家紋だ。


ヴィスコンティ家の家紋(https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1580049)

1262年には一族のオットーネ・ヴィスコンティがミラノ大司教に任命され、さらに1271年にはテオバルド・ヴィスコンティがローマ教皇グレオリウス10世(在位:1271~1276年)に即位し、ヴィスコンティ家は躍進を始める。

そして14世紀初めにはミラノの支配権を獲得する。さらにジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ(1378~1402年)の代にはロンバルディア全域とその周辺地を含む広大な地域を支配するようになった。この地域は、神聖ローマ皇帝から「ミラノ公国」として認められ、ジャン・ガレアッツォは初代ミラノ公となる。ヴィスコンティ家最盛期の到来だ。

ジャン・ガレアッツォは領地から得られる莫大な資金を文化・芸術事業に投じた。有名なミラノ大聖堂(ドゥオーモ)は、世界最大・最高の聖堂にしようとジャン・ガレアッツォが特に力を入れた建造物だ。ミラノ大聖堂の完成までに5世紀の期間が費やされたが、その壮大な姿は圧巻だ。ジャン・ガレアッツォは資金を提供するだけでなく、彼自身も古典文学に造詣が深かったと言われている。


ミラノ大聖堂(Dorinel NedelcuによるPixabayからの画像)

一方、ジャン・ガレアッツォは残虐性でも知られている人物で、敵対する貴族を牝牛の皮に包んで生きたまま城壁に塗り込めたという逸話が残っている。ちなみに、『羊たちの沈黙』の主人公「人喰いレクター」はヴィスコンティ家の末裔という設定で、学術・芸術に通じながらも残虐性を有するというところがジャン・ガレアッツォに似ている。

ジャン・ガレアッツォは領地拡大のための戦いを死ぬまで続けた。フィレンツェのメディチ家は長年のライバルで、トスカーナ地方に攻め入りフィレンツェを陥落寸前まで追い詰めたが、悲願達成の目前で病死してしまった。そして息子の代になると領土は解体される。それでもヴィスコンティ家は1447年までミラノを支配した。



その後、ヴィスコンティ家の娘婿だったフランチェスコ・スフォルツァが権力を握り、1535年までスフォルツァ家がミラノ公を受け継いだ。なお、レオナルド・ダ・ヴィンチはスフォルツァ家のルドヴィーコ・スフォルツァによってミラノに迎えられ、1482年から1499年までこの地で活動したが、その間に有名な『最後の晩餐』をサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁に描いている。


さて、ここでルネサンス期のミラノの食を見て行こう。

ミラノの料理には黄色もしくは黄金食のものが多い。例えば、ミラノ風カツレツ「コトレッタ(Cotoletta alla Milanese)」も黄金色をしている。この理由は、ミラノでは経済が発展したことから「金」の黄色が好まれたためと言われている。

ルネサンス期に成立したとされているミラノの名物料理の一つに、サフランを贅沢に使用した「リゾットミラネーゼ(Risotto alla Milanese)」がある。これは、コメをバターで炒め、スープと大量のサフランを加えて作る料理だ。


リゾットミラネーゼ

ロンバルディアのポー川流域では15世紀から盛んに稲作が行われていて、コメはありふれた食材だった。言い伝えでは、結婚式の食事会で、色彩豊かな食器に負けないように黄色を強調するためにサフランを大量に使用したのが始まりとされる。また、結婚を反対した人が料理をダメにするためサフランを大量に投入したが、反対にとても美味しくなってしまったとも言われている。

レオナルド・ダ・ヴィンチの手記にも記されているルネサンス期の料理の一つが「ミネストローネ(Minestrone)」だ。ミネステローネは「具だくさんの野菜スープ」という意味で、ミラノでは野菜をじっくり煮込んだ最後にコメを入れて仕上げるのが特徴だ。

現代のミネステローネにはトマトが使われているが、ルネサンス期にはトマトは食材として使用されておらず、ミネステローネの色も黄色に近かった。

次はお菓子だ。ミラノと言えば「ティラミス(Tiramisu)」だが、これは1960年代に考案されたもので、まだまだ新しいデザートだ。

ルネサンス期のミラノで誕生したお菓子としては「パネットーネ(Panettone)」がある。パネットーネはスフォルツァ家が支配した頃のミラノで、クリスマスに欠かせないものとして作られるようになったと言われている。

パネットーネはドライフルーツが入った発酵菓子パンだ。材料は小麦粉、砂糖、卵、バター、酵母、そして干しブドウなどのドライフルーツだ。砂糖とバターが入ると小麦粉の生地は発酵しにくくなるが、初乳を飲んだ子牛の腸から採った特殊な酵母を用いてゆっくりと発酵を行うことでパネットーネは作られる。


パネットーネ(CiranoTondiによるPixabayからの画像)

一方、ドライフルーツが入っていないものは「パンドーロ(Pandoro)」と言い、ロンバルディアの西にあるヴェローナの銘菓だ。現代ではパネットーネとパンドーロはイタリア中でクリスマスに食べるお菓子の定番となっている。また、パネットーネはイタリア移民によって南米に伝えられ、そこでもクリスマスに欠かせないお菓子となった。

ローマ教皇の料理番スカッピ -ルネサンスと食の革命(4)

2021-05-27 17:17:39 | 第四章 近世の食の革命
ローマ教皇の料理番スカッピ -ルネサンスと食の革命(4)
前回はルネサンス期のイタリア・フェラーラで活躍した天才料理人メッシスブーゴのお話をしましたが、今回はもう一人の天才料理人バルトロメオ・スカッピ(Bartolomeo Scappi)のお話です。

スカッピはメッシスブーゴと同じルネサンス期にローマで活躍した料理人です。そして、彼の名を有名にしたのもメッシスブーゴと同じようにスカッピ自身が書いた料理本でした。

ルネサンス期にはヨハネス・グーテンベルグ(1398年頃~1468年)が開発した活版印刷技術が普及してきており、良い本が出版されるとまたたく間にヨーロッパ中で読まれるようになっていました。そして、その著者の名は後世まで語り継がれることになったのです。

このように新しい印刷技術は情報の伝達速度を著しく高めるとともに、著者の名を広く知らしめる役割を果たしました。ルターの宗教改革が成功したのも、彼の『95か条の提題』や『新約聖書』(ドイツ語版)が印刷され、多くの人々に読まれたからです。

ちなみに、活版印刷技術は羅針盤、火薬とともに「ルネサンス三大発明」の一つにあげられています。

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バルトロメオ・スカッピ(1500年初頭〜1570年頃)は、ルネサンス期のイタリアの料理人だ。彼はローマでさまざまな枢機卿に仕えたのち、亡くなるまで少なくとも3人のローマ教皇の料理長として働いたとされている。

スカッピがローマ教皇に仕えていたちょうどその頃、バチカンではミケランジェロ(1475~1564年)がシスティーナ礼拝堂で壁画『最後の審判』を描き、また、サン・ピエトロ大聖堂の建築にたずさわっていた。もしかしたらスカッピはミケランジェロとバチカンで話をすることがあったかもしれない。


サン・ピエトロ大聖堂(Michał LechによるPixabayからの画像)

1570年にスカッピは料理書の『オペラ(Opera dell'arte del cucinare)』を出版した。この本は大人気を博し、度重なる重版が行われるとともに、各国で翻訳された。1600年代にはオランダで盗作本が出版されるほどだったという。

オペラは次のように6巻に分かれている。

第1巻:料理全般について、料理長の義務、調理器具、良い食材を見分けて保存する方法
第2巻:動物と鳥の肉の料理とソースの作り方
第3巻:魚、卵、野菜の料理の作り方
第4巻:季節ごとの食べ物、高貴な人と一緒に旅行するために必要なアイテム
第5巻:ペイストリー(小麦粉とバターで作った焼き物)、ケーキなどの作り方
第6巻:体が弱い人のための料理

第2、3、5巻には様々な料理のレシピが掲載され、その数は1000を越える。また、28の緻密に描かれたイラストが載せられており、ルネサンス期にイタリアで使用されていた調理器具などを知ることができる。


オペラに掲載された調理器具

もっとも多いレシピはスープのもので、ほとんどの場合で具材は野菜と肉だ。また、スープの基本的な調味料としては、チーズ・砂糖・シナモンが一緒に使われることが多く、その時代の定番トリオと言っても良いだろう。ちなみにスカッピは、パルミジャーノ・レッジャーノを最高のチーズと呼んでいた。

料理の食材は中世から引き続いて使用されていたものがほとんどだが、中にはシチメンチョウのように新大陸から持ち込まれたものも記載されており、新しい食材が普及しつつあったことがうかがえる。

スカッピは典型的なルネッサンス人であり、科学的・論理的に料理を行った。例えば、煮る時には食材が浮かび上がらないように重りをつけたり、炎によるコゲを防ぐために油を塗った紙を肉に巻いたりなどの工夫をしている。また、ゼラチンを作る時に金属のスプーンを使うと苦くなるため、木のスプーンを使用するなど細かい指示も記載されている。

またスカッピは料理の見栄えにすごくこだわりがあったようで、魚でヤギなどの動物の頭を作るなど、視覚的にインパクトがある料理を好んで作った。そしてそのような料理を、ルネサンス期のイタリアで誕生した美しいマヨリカ焼の食器に盛り付けたそうだ。スカッピは教会の絵画や彫刻をいつも見ていたはずで、それらがスカッピの料理に大きな影響を与えたと思われる。


マヨリカ焼の食器

最後に、スカッピが残したレシピから「塩漬けアンチョビのタルト」を紹介しよう。

塩漬けアンチョビのタルト
(材料)
アンチョビ(カタクチイワシ)、小麦粉、バター、粉チーズ、卵、塩、コショウ

(調理の仕方)
アンチョビのはらわたを取り除き、水でよく洗ってきれいにした後、水気を切ります。
小麦粉に柔らかくしたバターと塩、そしてぬるま湯を少し加え、こねます。
生地をナプキンで包み、数時間寝かせます。
粉チーズ、卵、コショウをよく混ぜておきましょう。
型に寝かせた生地を広げ、その上にアンチョビの切り身を乗せて、さらに粉チーズ、卵、コショウを乗せます。
オーブンで焼いて、温かいまま、または冷たくしてお召し上がりください。

ルネサンスの天才料理人メッシスブーゴ-ルネサンスと食の革命(3)

2021-05-24 18:17:58 | 第四章 近世の食の革命
ルネサンスの天才料理人メッシスブーゴ-ルネサンスと食の革命(3)
ルネサンス期の絵画・建築の分野ではミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチのような「天才」と呼ばれる人物が出現しました。

料理の世界でも彼らと肩を並べると言われている天才がフェラーラというイタリア北部の都市に現れます。その名は「クリストフォロ・ディ・メッシスブーゴ(Cristoforo di Messisbugo)」と言い、彼はフェラーラを治めた貴族エステ家の料理人として腕を振るいました。

今回はメッシスブーゴの足跡をたどることで、ルネサンス期の貴族の食を見て行きます。

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フェラーラはイタリア半島の付け根あたりにある都市で、ここから北東90㎞くらいのところにはヴェネツィアがある。フェラーラはフィレンツェよりも先にルネサンスの文化が花開いたことで知られている。

13世紀からフェラーラ一帯を治めていたのがイタリアの有力貴族のエステ家だ。エステ家は先進的な貴族で、彼らが文化を保護し都市開発を進めた結果、フェラーラは「理想都市」と呼ばれるようになるまで発展した。


エステ家のエステンス城(Image par Filip Filipović de Pixabay)

今回の主人公であるクリストフォロ・ディ・メッシスブーゴ (生年不詳~1548年)は、1524年から1548年にかけてエステ家君主のアルフォンソ1世とその子エルコレ2世に仕えた使用人兼料理長だ。エステ家主催の数多くの晩餐会などを切り盛りしたが、その能力が王族・貴族から高く評価され、1533年には貴族の称号を授けられている。

メッシスブーゴは研究心が旺盛で、手に入るあらゆる食材の調理法や保存法の開発に取り組んだと言われている。例えば、パスタを料理に本格的に使用し始めたのは彼と言われているし、キャビア(オオチョウザメの卵)の調理法も残している。また、コメとサフランを使った料理のリゾットの原型を作ったとも伝えられている。

またメッシスブーゴは、ルネサンス期の料理の味付けの変化にも大きな影響を与えたと考えられている。それまでの中世の上流階級の料理は酸味が強く、大量の香辛料が使われてかなりスパイシーだった。それがルネッサンス期になると、ここに砂糖の甘さが加わるのだ。この風味の変化を促したのがメッシスブーゴらルネサンスの料理人たちだ。その頃にはフェラーラにほど近いヴェネツィアに大量の砂糖が運び込まれており、砂糖を料理に存分に使えるようになっていたのだ。

しかし後に見るように、ルネサンス期が過ぎると過剰な香辛料や砂糖の使用は食材本来の味を損なうとされ、香辛料は主にメインの料理に控えめに使用されるようになり、砂糖もメインの料理ではなく主にデザートに使われるようになる。

メッシスブーゴはエステ家では単に料理を作るだけでなく、晩餐会全体の演出も担当していた。古代ローマで食事の合間に余興が楽しまれていたように、食事の合間に音楽を流したり、道化師に曲芸を披露させたり、出席者にゲームしてもらったりと、様々な趣向を凝らしたらしい。そして晩餐会が終わると、招待客に心のこもったお土産を手渡したという。

以上のようなメッシスブーゴの功績を広く世に知らしめたのが、彼の著作の『晩餐会、料理の構成と食器・小道具一般について(Banchetti, compositioni di vivande, et apparecchio generale)』だ。この本の執筆は1539年までに終わっていたが、出版されたのはメッシスブーゴが亡くなった翌年の1549年だ。この本は多くの人に読まれるベストセラーとなり、15版まで版を重ねたと言われている。

本は三部構成で、最初のセクションでは食材とその入手方法から調理器具や食器、装飾品まで、晩餐会に必要なものがリストアップされている。続くセクションでは、彼が担当した10数回の晩餐会のコースについて説明があり、最後のセクションには、パスタ・ケーキ・スープ・ソース・スープ・乳製品の6種類にグループ分けされた323のレシピが載せられている。

ここで、1529年に開催された晩餐会に出された一部の料理を紹介しよう。

ウズラのロースト・松の実の入りオニオンスープ・子牛にパンをまぶして油で揚げて砂糖とシナモンをまぶしたもの・自家製ハトパイ・マスの卵のパイ・ロイヤルソースでローストしたヤマウズラ・砂糖とシナモンでローストした魚・松の実の砂糖漬けの甘いソースで覆われた魚のフライ・ヤツメウナギのソース焼き・ソースとマスタードで覆われた揚げイシビラメ・オレンジと砂糖を入れたイワシの揚げ物・上にオレンジを乗せた揚げスズメ・鯛のパセリとネギのグリル・梨パイ・栗のタルト・果物各種

やはり砂糖がいっぱい使われていて、現代人にはとても甘そうだ。

トスカーナ料理とフランス料理-ルネサンスと食の革命(2)

2021-05-22 19:07:30 | 第四章 近世の食の革命
トスカーナ料理とフランス料理-ルネサンスと食の革命(2)
ルネサンス期にフィレンツェは芸術や文化の中心となりましたが、食の世界でも当時の最先端の地でした。

フィレンツェを含む一帯の地域は古代ローマ時代から「トスカーナ」と呼ばれ、ここで発展したのが「トスカーナ料理」です。そして、このトスカーナ料理がフランスに伝えられることで「フランス料理」の原型が作られます。

例えば、日本で「オニオングラタンスープ」の名で有名な「スーパ・ロワニョン・グラティネ(soupe à l’oignon gratiné)」は、トスカーナのカラバッチャ(carabaccia)という料理が原型と言われています。


スーパ・ロワニョン・グラティネ(Image par RitaE de Pixabay)


カラバッチャ

今回はトスカーナ料理について見たあと、それがフランスにどのように伝えられたかを見て行きます。

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トスカーナはイタリア半島の北寄りの中西部に位置する。

トスカーナにはフィレンツェ以外に、ヴェネツィアやジェノヴァと肩を並べる湾港都市のピサが栄えていたが、ジェノヴァとの戦いに敗れたのちは衰退し、15世紀初めにはフィレンツェ共和国に征服された。こうしてフィレンツェ共和国はトスカーナの大部分を支配することとなった。



トスカーナの内陸部は大部分が丘陵地帯で、夏は暑く冬は非常に寒い。一方、海岸部は温暖で雨が少ない地中海性気候となっている。このように変化に富んだ気候のため、ここではたくさんの種類の作物を手に入れることができ、トスカーナは食材の宝庫と言われてきた。

トスカーナの農作物として重要なものがマメ類だ。「豆食いのトスカーナ人」と言われるほどインゲンマメやレンズマメなどの豆類をよく食べる。また、カーヴォロ・ネーロという黒キャベツが冬野菜の定番となっている。そのほかには、地中海気候で良く育つオリーブやタマネギ、キュウリ、レタスなどが良く栽培されてきた。 

家畜としては、現代でもイタリアのブランド牛として有名な「キアニーナ牛」という白牛が筆頭にあげられる。このウシの名はトスカーナのキアーナ渓谷に由来し、イタリアでもっとも古いウシと言われている。赤身が美味しい牛肉で、フィレンツェの名物料理「ビステッカ・アッラ・フィオレンティーナ(Bistecca alla Fiorentina)」(フィレンツェ風Tボーンステーキ)に使用される。

それ以外にはヒツジもたくさん飼育され、仔羊の肉が料理によく使用された。また、ヒツジの乳を原料としたチーズ「ペコリーノ・トスカーナ」はトスカーナ料理には欠かせないものになっている。

チーズと来れば次はワインだが、トスカーナはワインの産地としても有名だ。イタリアワインでもっとも有名な「キャンティ」はトスカーナの内陸部のキャンティ地方で造られる赤ワインだ。その歴史は14世紀までさかのぼり、ルネサンス期に品質が大きく向上したと言われている。それ以外にも「モンタルチーノ」などの有名ワインがトスカーナで造られてきた。

キャンティの特長の一つが原料のブドウに「サンジョヴェーゼ種」を主に使用していることだ。このブドウは栽培が難しく、土地ごとに風味が異なると言われている。この風味の違いを守るために、メディチ家の当主コジモ3世(1642~1723年)は、キャンティなどの著名なワイン生産地の境界を定めることで原産地保護を行った最初の人として知られている。

以上のようにトスカーナでは豊富な食材が手に入るため、新しい料理を試してみるのに最適な場所だった。

元々のトスカーナの料理は貧しい農民の料理で、硬くなった古いパンを食べやすいようにスープに入れたり、サラダに入れたりしたものが多かった。冒頭のカラバッチャもタマネギスープにパンを浸したものだ。また、「パンツァネッラ」は水に浸してやわらかくしたパンを入れたサラダである。

このような素朴な料理にメディチ家が新しい食文化を導入することでトスカーナ料理が発展したと考えられている。

メディチ家は大富豪だったが、見かけの豪華さにはこだわらずに料理の品質を追い求めたと言われている。そのために良い食材をそろえ、それぞれの持ち味を生かした素朴で健康的な料理を作り出して行った。例えば、高品質の香り高いオリーブオイルで肉や野菜をソテーしたものなどを好んだそうだ。ただし、砂糖を使った菓子類には目が無かったようで、砂糖漬けの果物をよく食べていたと伝えられている。

メディチ家は「優雅に」食べるためにテーブルマナーを洗練させたことでも知られている。

中世までのヨーロッパには個人用の皿は無く、大皿の料理をめいめいが手でつかんで食べていた。ナイフは使用されていたが、大皿の肉料理などを切り分けるのに使用されていただけだ。また、フォークは11世紀の初め頃にビザンツ帝国からヴェネツィアに伝えられたが、金属製で高価であったため一般的には普及していなかった。さらにイタリアには東方世界から磁器製の皿なども伝えられていた。

メディチ家は最先端のイタリアの地にあって、食事の参加者それぞれが個人用の皿に料理を取り分けて、ナイフとフォークを使って食べるという、スマートで衛生的な食事作法を確立させた。メディチ家の遺産目録には多数のフォークの記載があり、これらが日常的に使用されていたと考えられている。また、7代目のフランチェスコ1世(1541~1587年)は自ら陶磁器の製作に取り組み、「メディチ磁器」と呼ばれたものを完成させている。

1533年にメディチ家のカトリーヌ・ド・メディシス(イタリア語: カテリーナ・デ・メディチ、1519~1589年)はフランス王アンリ2世(在位:1547~1559年)と結婚する。ちなみに、アンリ2世は馬上槍試合で頭部を負傷し死亡してしまうが、この出来事をノストラダムスが予言していたという話が残されている。

美食家であったカトリーヌは、婚姻の際に大勢の料理人をフィレンチェから連れて行ったと言われている。この時カトリーヌに付き添ってきた料理長がフランス宮廷のテーブルマナーの野蛮さに驚き、『食事作法の50則』というテーブルマナーの専門書を書いたとされる。

こうしてフランス宮廷ではメディチ家のようにナイフとフォークを使って料理を食べるようになった。ところがルイ14世(在位1643〜1715年)の時代までには、手づかみで食べる習慣に戻ったようである。そして再びフォークを使って食べるようになるのは17世紀になってからと言われている。

カトリーヌはさらに、トスカーナの食材やオニオングラタンスープなどの料理、シャーベットやアイスクリーム、マカロン、シュークリームといった菓子類をフランスに伝えたとされている。

実際にこの頃にイタリアからフランスに様々な料理や菓子類が伝えられたと考えられているが、言い伝えのようにカトリーヌ自身が関わっていたかどうかについては確証がないそうだ。どうも、とりあえずカトリーヌの名前を出しておけばそれらしいお話ができると思われたようである。

ルネサンスとは何か-ルネサンスと食の革命(1)

2021-05-20 23:17:59 | 第四章 近世の食の革命
4・5 ルネサンスと食の革命
ルネサンスとは何か-ルネサンスと食の革命(1)
「ルネサンス」は日本人になかなかインパクトのある言葉のようで、とある芸人コンビのネタとして使われたり、某会社の社名として使われたりしています。

歴史的にもルネサンスはとても重要で、近世以降にヨーロッパが大発展する先駆けとなったと考えられています。また、ルネサンスは食の世界にも重要な影響を及ぼしました。

今回は西洋の歴史を語る上で絶対にはずせないルネサンスについてざっと見て行こうと思います。

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ルネサンスとは、14世紀にイタリアから始まった「古代ギリシア・ローマの文化の復興」を目指した運動のことだ。大航海時代やプロテスタントを生み出した宗教改革とともに、ヨーロッパ近世の出発点となったと考えられている。

なぜ古代ギリシア・ローマの文化をよみがえらせようとしたのだろうか。
この問いに答えるためには、当時のヨーロッパの社会状況を知る必要がある。

中世のヨーロッパは暗黒時代と言われるように、文化が停滞していた時期だ。その頃は毎日を生き抜くのに精いっぱいで、それ以外のことに気を向ける余裕も無かったと思われる。

中世の生活環境はとても悪かった。かつて古代ローマで使われていた上下水道はゲルマン民族の侵入によって破壊され放置されたままで、自分たちの糞尿を目の前の道路に捨てるなどは当たり前で、非常に不衛生だった。

このためひとたび感染病が発生すると、またたく間に人々の間に広まって行った。14世紀にペスト(黒死病)で多数の死者を出したのも無理からぬことだった。

さらに領主や教会によって農民などの一般庶民は権利が大幅に制限され、自由がほとんどない社会でもあった。作物に重い税がかけられていたため食事も質素で、固いパンと野菜スープ、そして少しのワインを飲むだけだった。

中世の半ば頃になると、農業生産力が増大し、農村だけでは消費しきれない食料が生み出されるようになった。その結果、このような余剰品を売り歩く商人や生活必需品を作って売る手工業者が現れた。彼らは富を蓄えることで次第に力をつけて行った。そしてついに一致団結して地方領主から自治権を獲得し、自治都市を作るまでになる。

自治都市の中で特に大きく発展したのがヴェネツィアやジェノヴァ、フィレンツェなどの北イタリアの都市だった。ヴェネツィアとジェノヴァは湾港都市であり、11世紀の終わり頃から始まった十字軍遠征によって地中海における人や物の移動が活発になった結果、香辛料などの地中海貿易を行うことによって大いに発展した。一方、フィレンツェは生糸や羊毛を輸入し、美しい生地や服にして輸出することで繁栄した。

これらの都市は周辺の農村に対する支配権も領主から奪うことによって小さな国家と呼べる規模まで発展する。なお、このような自治都市はコムーネと呼ばれる。コムーネは有力な業者団体(ギルド)から選出された代表が集まって合議を行うことで運営されていた。古代ギリシアやローマの共和政に近い形態である。

ところで、十字軍遠征はイスラム勢力との戦いであったが、ヨーロッパ人はこの戦いを通してイスラムの文化にも接触することになった。イスラム社会は古代ギリシア・ローマの哲学や医学などの科学的な知識を積極的に導入し、さらにそれらを発展させていたが、ヨーロッパ人はこの古典知識に出会ったのである。そして、イスラムと同じように古代ギリシア・ローマの文化を再導入すれば、ヨーロッパ社会をさらに発展させることができると考えたのだ。特にコムーネの人々は社会体制が古代ギリシアやローマと近かったことから、積極的な導入をはかった。

北イタリアの大商人や有力なギルド、君主などは金や場所を提供するパトロンとなり、学者や芸術家を集めて古典文化の研究や議論を行わせた。コムーネの上流階級の人々にとって、このように文化を振興するのが一つのステータスとなっていた。

中でもフィレンツェのメディチ家は大口のパトロンとなることでルネサンスを大きく推し進める役割をしたことで有名だ。こうして、フィレンツェはルネサンスの中心地として栄えることとなった。

メディチ家は金融業(両替商)で巨万の富を成したが、その力を使ってフィレンツェでの実質的な支配者として君臨していた。彼らはドナテルロやボッティチェリ、ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチなどの芸術家やマルシリオ・フィチーノなどの思想家を若い頃から援助したと言われている。なお、ローマのサン・ピエトロ大聖堂の大改修を行った教皇レオ十世はメディチ家の出身であり、この大改修ではミケランジェロが主要な役割を果たした。


     ミケランジェロ

ルネサンス期の芸術家たちはそれまでの無機質な表現をやめて、陰影を用いた立体的な表現を行うことで写実性を高めた作品や、人物の感情表現を豊かにすることで高い人間性が感じられる作品を作るようになった。また、人体の理想的な比率や黄金比率などを研究し、理想的な美を追求した。

また学者たちは、古代ギリシア・ローマ・イスラムの膨大な文献をヨーロッパの言語に翻訳して行った。特に1453年の東ローマ帝国が滅亡した時に多くの優れた学者を北イタリアに招いたことから、古典文献の研究は大きく進んだ。そして、ヨハネス・グーテンベルク(1398年頃〜1468年)が生み出した革新的な印刷技術によって、古典知識はヨーロッパ全土に普及することになった。

このようなルネサンスの活動は人々自身の生き方にも影響を与えるようになる。それまでの人々は領主や教会が定めたさまざまな規制によって自由が束縛されていたが、古代の人々の自由な生活を知り、人間を中心とした生き方を追求するようになったのだ。このような人間中心の在り方を「ヒューマニズム(人文主義)」と呼ぶ。

ヒューマニズムは北イタリアからヨーロッパ全体に浸透することによって、多くの人々の考え方に大きな影響を与えることになった。例えば、シェークスピア(イギリス)の『ハムレット』やセルバンテス(スペイン)の『ドン・キホーテ』、ラブレー(フランス)の『ガルガンチュワ物語』などはヒューマニズムの立場から人間の本質を鋭くとらえた作品である。

さらにルネサンスは、近代科学が生まれるきっかけにもなった。カトリックが説いてきた世界観に対して疑いが生まれ、自らの経験や実験で確かめられた事実だけを認めようとする考えが強まったのだ。そして、このような実証主義の立場に立って研究を行う人々が次々と現れるようになった。

天文学の分野では、ポーランドのニコラウス・コペルニクス(1473〜1543年)が地動説に基づいた天文学を構築した。続いてイタリアのガリレオ・ガリレイ(1564年〜1642年)は、望遠鏡で天体を観察することで地動説を確認した。また彼は、ピサの斜塔の落下実験で質量が変わっても物体の落下速度は同じであることを見つけた。

医学の分野では、ベルギーのアンドレアス・ヴェサリウス(1514〜1564年)は死体解剖を行うことによって人体の構造を研究し、人体解剖図の『ファブリカ』を出版した。彼は血管の始まりはそれまで信じられていた肝臓ではなく、心臓であることを発見した。イギリスのウイリアム・ハーベイ(1578~1657年)は様々な観察を行うことによって、体内の血液が心臓を中心に循環しているとの説を提出した。

以上のように、北イタリアで始まったルネサンスはヨーロッパが近代化する上で重要な役割を果たしたが、北イタリアのコムーネは16世紀になると急速に衰えて行くことになる。その要因となったのが大航海時代の到来によって香辛料貿易の中心がポルトガル・スペインに移ったことや、宗教改革によるローマ教皇の権威失墜、絶対王政国家となったフランスの圧力などだ。

こうして衰えた北イタリアに代わってフランスがパトロンとなり、レオナルド・ダ・ヴィンチなどの芸術家を宮廷に招いたことから、文化の中心はフランスへと移って行く。「芸術の都パリ」と言われるように、西洋芸術と言えばフランスが筆頭に上がるのはこのためだ。