食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

アルゼンチンの焼肉とマテ茶-中南米の植民地の変遷(7)

2021-10-31 13:13:17 | 第四章 近世の食の革命
アルゼンチンの焼肉とマテ茶-中南米の植民地の変遷(7)
アルゼンチンは南米ではブラジルに次いで広い面積を有する国で、世界では第8位に位置します。国土は南北に約3700㎞と非常に長く伸びていて、南は南米のほぼ南端に達します。

このように、アルゼンチンの領土は南北に長いため、気候は地域によってかなり異なっています。そして、手に入る食材も違うことから、地域ごとに独自の食文化が形成されたと言われています。

それでも、アルゼンチンのほとんどの地域では、牛肉をよく使う点で共通しています。アルゼンチンの牛肉消費量は世界トップクラスで、国民1人が1年間に約40kgの牛肉を食べています。ちなみに、日本人の消費量は年間約7kgで、アメリカ人でも約25㎏なので、アルゼンチンの牛肉好きは際立っています。

近年では、アルゼンチンから輸出される牛肉量が増えた結果、国内の牛肉価格が高騰したため、国民の不満が噴出するという事態が生じています。それに対して政府は、輸出を禁止することで国内価格を下げようとしていますが、なかなか思い通りには行かないようです。

ところで、ウシはヨーロッパ人がアメリカ大陸を植民地化した時に導入された動物で、アルゼンチンで牛肉を食べる文化はそれ以降に始まりました。今回は、このようにアルゼンチンで牛肉を食べる文化が始まったいきさつについて見て行きます。

また、もう一点、アルゼンチンでよく飲まれているマテ茶についても見て行きます。

なお、現代のアルゼンチン料理は、19世紀末にスペインとイタリアからやって来た大量の移民の影響を大きく受けています。この点については後ほど改めてお話する予定です。


(Nat AggiatoによるPixabayからの画像)

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ヨーロッパ人が到着するよりもずっと前から、アルゼンチンには人類が生活してきた。北西部では農耕民族(グアラニー族)がカボチャやメロン、サツマイモなどが栽培していたし、北東部には狩猟採集民族(チャルーア族)がいた。

スペイン人は1536年に現在のアルゼンチンを中心としたラ・プラタ地方を植民地化した。この地には広大な草原(パンパ)が広がっていたが、スペイン人がウマウシをパンパに放したところ、自然に大繁殖したという。そして19世紀初頭には、野生化したウシが約2000万頭まで増えていたと言われている。ちなみに、同時期のラ・プラタ地方の人口は100万人ほどだった。

ラ・プラタ地方はスペイン本国との航路が開拓されておらず、ペルーもしくはブラジルを経由するしか行き来ができない過疎地だった。ところが、18世紀後半になると、増えたウシから取った牛皮が大量に輸出されるようになった。また、牛肉を塩漬けにして遠隔地に輸出することも行われるようになった。
このようなウシの扱いに活躍していたのがガウチョたちだ。

ガウチョとは、17世紀から19世紀半ばにかけて主として牧畜に従事していた遊牧民のことで、通常はスペイン人と原住民の混血であるメスティーソだったが、中には黒人との混血であるムラートもいたと言われている。

ガウチョが使った道具は、投げ縄とナイフ、そしてボレアドラだ。ボレアドラとは、革ひもと3つの鉄球または石でできた道具で、ウシの足に投げつけてからめ取り、動けなくするものだ。

ガウチョたちは野生のウマを捕まえて乗り物とし、ウシを捕まえて皮と肉をとり、それを売って生計を立てた。そして、毎食のように牛肉を食べていたという。

牛肉は「アサード」と呼ばれる、熾火(おきび)で長時間かけて焼き上げる焼肉で食べられることが多かった。ガウチョたちは十字架のような形をした支持体に動物をくくり付け、それを火の近くに刺して焼いていた。そうすることで肉は柔らかく、ジューシーで味わい深いものになる。

このような牛肉の焼肉料理がガウチョ以外の人々にも広がり、アルゼンチンで牛肉を食べる文化が根付いたのである。なお、町中では金網の上で焼く方法の方が好まれ、これは「パリージャ」と呼ばれて現代でもメインの焼き方になっている。

肉の味付けは塩をふりかけるだけのシンプルなものが一般的だったが、「チミチュリ」と言うオリーブオイルとビネガーにパセリ、オレガノ、ニンニク、塩、コショウを加えたソースも使われている。

次は「マテ茶」の話だ。

ラ・プラタ地方では古くからマテ茶を飲む習慣があった。これは南米を原産地とするイェルバ・マテの茶葉を水や湯で抽出した飲み物だ。茶やコーヒーのようにカフェインを含むとともに、ビタミンやミネラルも多く含有するため、健康飲料として飲まれることが多かった。

ラ・プラタ地方を植民地化したスペイン人も、16世紀後半にはマテ茶をよく飲むようになったと言われている。そして17世紀になると、イエズス会が栽培を促進したことでマテ茶は主要な輸出品となり、砂糖やタバコと肩を並べるようになる。そして、マテ茶を飲む習慣はチリやペルーにも広がって行った。

なお、イェルバ・マテは野生に生えているものが古くから使用されていたが、17世紀半ばにはイエズス会が栽培化に成功し、マテ茶のプランテーションが作られた。ところが、1767年にイエズス会がスペインの植民地から追放されると、マテ茶のプランテーションは放棄され、栽培化された株も失われた。

19世紀末から20世紀初頭にかけて、ブラジルとアルゼンチンのプロジェクトにより、マテ茶は再び栽培化された。現在ではこの2つの国がマテ茶生産の中心となっている。

近世ブラジルの食-中南米の植民地の変遷(6)

2021-10-28 18:03:30 | 第四章 近世の食の革命
近世ブラジルの食-中南米の植民地の変遷(6)
ブラジルの面積は世界5位の広さを誇り、総人口も2億人を越えて世界6位となっており、ラテンアメリカでは最大の領土と人口を擁する大国です。

1600年にポルトガル人のカブラルがブラジルに到達して以降、1822年に独立するまで、ブラジルはポルトガルの植民地でした。ポルトガルの植民地になると、原住民の多くが重労働のために逃げ出したり、病気で亡くなったりしたため、労働力が著しく不足しました。そこでポルトガルは西アフリカから大勢の黒人を運んできて、奴隷として働かせました。

こうして、ブラジルでは原住民とポルトガル人、そして黒人が生活することとなり、近世のブラジルの食文化も、三者の食文化が融合することで作られて行ったのです。

今回は、このような近世ブラジルの食について見て行きます。

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アフリカを出発した人類(ホモサピエンス)は、中東・アジアを横断後、ベーリング陸峡を渡り、北アメリカ大陸を南下して、今から約1万1千年前にブラジルに到達したと考えられている。

ブラジルにやってきた人類は、長い年月をかけて、安全に食べられる植物や栄養価の高い動物を見つけて行ったと考えられている。その中の代表的な食材がブラジル西部を原産地とするキャッサバで、約1万年前に栽培が開始されたと推測されている。そして、ヨーロッパ人がアメリカ大陸にやって来た時には、ブラジルなどの南アメリカ北部に加えて、中央アメリカやカリブ海の島々でも主食としてよく食べられていた。

ブラジルの先住民はキャッサバ以外に、カカオ豆、カシューナッツ、パイナップル、パッションフルーツ、ガラナ、マテ茶、グァバなどを食用としていた。なお、トウモロコシは優れた穀物であったが、高温多湿のブラジルではキャッサバの方が適していたため、主食にはならなかった。

ブラジルを植民地にしたポルトガル人は、いろいろな作物を持ちこんで栽培を始めた。その結果、タマネギやニンニク、サトウキビなどの栽培には成功したが、コムギやオオムギなどの主食となるような作物は気候の違いから育たなかった。そこで、原住民と同じようにキャッサバを食べるようになったという。

こうして、現在でもブラジルでは、小麦粉の代用品としてキャッサバ粉が広く使われている。例えば、キャッサバ粉は、パンやクッキー、ビスケット、あるいはトルティーヤなどの材料として使われる。また、キャッサバ粉をタマネギやベーコンなどとバターで炒めた「ファロファ」が料理の付け合わせとして日常的によく食べられている。


ファロファ(Ryan Joyによるflickrからの画像)

また、キャッサバは栽培が容易なため、ポルトガル人によってアフリカなどに持ちこまれて栽培され、奴隷を運ぶ輸送船内の食糧としても利用された。

ポルトガル人はウシやブタ、ニワトリなどの家畜や、ソーセージ・バターなどの肉製品・乳製品の作り方もブラジルに持ちこんだ。また、ポルトガル人の大好物のタラもブラジル料理に導入され、ブラジルの定番料理の一つである「ボリーニョ・デ・バカリャウ(ブラジル風タラのコロッケ)」などとして現代でも広く食べられている。

次は、アフリカ人が持ち込んだ食文化だ。

西アフリカの気候はヨーロッパに比べてブラジルの気候に近いため、黒人奴隷は祖国の食べ物や食文化をブラジルに適応させることが容易だった。こうして、アフリカからパーム油を採るためのアブラヤシやココナッツができるココヤシ、バナナ、コメ、オクラ、黒目豆(ササゲ)などがブラジルに持ちこまれた。

ブラジルの代表的な料理で、黒人奴隷の料理が始まりとされるものに「フェジョアーダ」がある。これは、料理名の由来となったフェイジャオン(インゲンマメ)と豚の脂身、干し肉または燻製肉、豚の内蔵などを煮込んだ料理だ。


フェジョアーダ(Gilmar KoizumiによるPixabayからの画像)

フェジョアーダは一般的に、黒人奴隷たちが残り物のくず肉を豆と一緒に煮たのが始まりとされることが多い。しかし最近では、この説に異議を唱える学者もいて、彼らによるとフェジョアーダの起源はヨーロッパからの入植者という。手に入りやすいマメと肉で簡単に作れたため、重宝されたということだ。

起源はともかく、今ではフェジョアーダはブラジル全土で楽しまれている真のブラジル国民食となっている。

メキシコ料理の変遷-中南米の植民地の変遷(5)

2021-10-26 22:21:02 | 第四章 近世の食の革命
メキシコ料理の変遷-中南米の植民地の変遷(5)
アメリカ大陸のスペイン植民地の中では、現在のメキシコが最も栄えていたと言われています。その繁栄を支えていたのがです。メキシコでは16世紀中ごろのサカテサス銀山の開発を皮切りに、17世紀以降にも次々と新しい銀鉱脈が見つかりました。この銀を輸出することでメキシコは永らく栄えることになったのです。

それにともなってメキシコの人口も増え、スペインの植民地の中では最大の人口を誇るようになりました。18世紀末のアメリカのスペイン植民地における総人口は約1300万人と見積もられていますが、メキシコには約600万人もの人が暮らしていました。同じ時期のスペイン本国の人口は500万人から600万人と言われていますが、それに匹敵する数です。

この約600万人のメキシコ人の内訳を見ると、両親がスペイン人のクリオーリョと呼ばれる人たちが100万人ほどを占め、社会の中心となっていました。また、ヨーロッパ人と原住民との混血であるメスティーソも100万人ほどいて、中間層として社会的地位が徐々に向上して行きました。そして、残りの400万人ほどが原住民であり、社会を支える労働力の担い手でした(16世紀から17世紀にかけて感染症によって多くの原住民が亡くなりましたが、次第に免疫力が高まったのか、17世紀半ばごろから人口増加に転じました)。

さて、現在のメキシコの料理の基礎は、原住民の食文化にスペインなどの外国の食文化が融合することで生まれました。今回は、このようなメキシコの食の変遷について見て行きます。



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メキシコ料理の最も古いルーツとなっているものが、紀元前から16世紀までメキシコ南東部のユカタン半島で栄えたマヤ文明の食生活だ。彼らは遊牧民族であり、狩猟を行うことでアライグマ、シカ、ウサギ、アルマジロ、ガラガラヘビ、イグアナ、ハト、カメ、カエル、七面鳥などの動物や、いくつかの昆虫を基本的な食材としていた。また、トウモロコシマメ、野生の果実なども食べていた。

メキシコ中央部では、1428年からアステカ帝国が栄えたが、この帝国ではトウモロコシマメなどとともに、トウガラシトマトカカオなども食材として使用された。また、七面鳥やアヒルなどの野生動物が家畜化されていた。

マヤやアステカなどではトウモロコシは主に植物の灰汁につけてから調理を行った。アルカリ性の灰汁につけることですり潰しやすくなるとともに、タンパク質などの栄養素が吸収しやすい形状に変わるし、灰汁中のミネラルが補充されたりもするのだ。また、防腐効果もあったとされている。灰汁につけたトウモロコシは粥か少しすり潰して蒸し団子(タマルという)にするか、しっかりとすり潰してから薄く延ばして焼いた「トルティーヤ」にして食べた。このような食べ方は現代でも受け継がれている。

1519年にスペイン人がメキシコに侵攻し、1521年にはアステカ帝国が滅亡した。その結果、これ以降しばらくの間、スペイン料理がメキシコ料理に最も影響を与えることとなった。

スペイン人は、ヒツジブタウシなどの新しい家畜を持ちこんだため、それらの肉と乳製品がメキシコ料理に取り入れられた。また、ムギ類やコメ、ニンニク、タマネギ、さまざまなハーブ、スパイスなどもメキシコ料理に導入された。

こうして、スペインの影響を受けて、ロモ・エン・アドボ(豚のロース肉をスパイシーな漬け汁でマリネした料理)、ケサディーヤ(トウモロコシの皮にチーズをはさんだもの)やワカモレ(アボカド、トウガラシ、トマト、タマネギ、コリアンダーなどで作るサルサ)などの料理が登場し、現在も伝統的なメキシコ料理の一品となっている。

スペインはアメリカ大陸以外にも植民地を持っており、メキシコ料理はその影響も受けた。その一つがフィリピンだ。

1565年にアンドレス・デ・ウルダネーダというスペイン修道士がフィリピンからメキシコに向かう新しい航路を発見した。すなわち、フィリピンの北側を流れる偏西風に乗ることでアメリカ大陸西岸に至るコースである。一方、メキシコからフィリピンへはその南を逆方向に流れる貿易風に乗ることで楽にたどり着ける。

こうして、フィリピンとメキシコを結ぶ貿易航路が確立され、19世紀の初めまで様々な物資の輸送に利用された。フィリピンからは主に中国で作られた絹や陶磁器などがメキシコに運ばれた。一方、メキシコからは銀が運ばれた。このような物資の行き来にともなって人の移動も盛んになり、様々な食材や料理が二つの地域を行き来した。

フィリピンからメキシコへはマンゴーヤシの木が運ばれたという。また、ヤシを原料にした蒸留酒の製造に関わっていた人たちが移住することで、メキシコ特産の蒸留酒であるメスカルテキーラはメスカルの1つ)が誕生したという説もある。

一方、その逆もしかりで、フィリピンにはメキシコ料理が流入し、タコスなどが今でもよく食べられている。

さて、近世から外れるが、その後の話も少しだけ紹介しよう。

メキシコは1810年より独立戦争を開始し、1821年に独立を果たした。しかし、1862年に借金の返済の不履行をきっかけにフランス軍がメキシコに侵攻した。そして1866年に撤退するまでフランス軍がメキシコに駐留した。この時にフランス人はさまざまな料理やパン、焼き菓子をメキシコに持ち込んだ。

カボチャアボカドといったメキシコの食材は、フランス料理のムースやクレープ、スープなどによく合ったため、それらを使った新しい料理がたくさん誕生した。また、メキシコでよく食べられているパンのボリージョが、フランスパンの製造をまねて作られるようになった。そして、クリームチーズを使って作られるメキシコ風プディングもフランス菓子の影響を受けて考案されたものの一例である。

このようにメキシコ料理は、様々な国の料理が組み合わされることででき上って行ったのである。

カリブ料理カラルーのはじまり-中南米の植民地の変遷(4)

2021-10-22 17:23:49 | 第四章 近世の食の革命
カリブ料理カラルーのはじまり-中南米の植民地の変遷(4)
カラルー(callaloo)は、カリブ海の島々やカリブ海に面した地域の伝統的な野菜料理で、この地域のソウルフードと呼んでも良いものです。カラルーは、それぞれの土地で手に入る葉野菜と、オクラやカボチャ、タマネギ、ピーマンなどを油で炒めた後、煮込んで作ります。最近では、ココナッツミルクやトウガラシで味付けされたり、豚肉やカニなどの具材が入れられたりすることがあります。

なお、カラルーと言う料理はカリブ海の人々にはとてもなじみ深い料理であることから、カラルーに入れる葉野菜のことも、それぞれの土地でカラルーと呼ばれることがあります。例えば、トリニダード・トバゴでは、タロイモの葉をカラルーに使用しますが、この葉のことをカラルーと呼ぶことがあります。また、ジャマイカでは、カラルーに入れるアマランサスという植物の葉をカラルーと呼びます。

今回は、このカラルーと言う料理がカリブ海で生み出された歴史について見て行きます。


カラルー

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カラルーは、西アフリカから連れて来られた黒人奴隷が西アフリカの料理をアレンジして作り出したと考えられている。

黒人奴隷たちは、西アフリカから運ばれてくる時に一緒にいくつかの作物も持ってきたと考えられている。その一つがタロイモであり、オクラだった。それらを使って作ったのがカラルーだ。

奴隷たちの生活環境は過酷で、農場主から与えられる食事も十分なものでは無かった。彼らが生き延びるためには、空き地で自分たちが食べるものを作らなければならなかった。そうして育てられたのがタロイモやオクラだった。もともと西アフリカではカラルーにはホウレンソウが使われていたが、カリブ海の島には存在しなかったため、持ってきたタロイモの葉とオクラが使用されたと考えられている。

なお、タロイモはサトイモの仲間の総称で、地中や地表部の茎に養分がたまった部分を食用とする植物のことだ。アジアが起源地で、早い時期に人の移動とともにアメリカ大陸を除く世界各地に広がったと考えられている。

カラルーに使用する油にも西アフリカとカリブ海の違いがあった。西アフリカのカラルーにはパーム油が使用されていたが、カリブ海にはアブラヤシ(パームの木)が無かったため、代わりにココナッツオイルを使用した(ちなみに、ポルトガルは15世紀にアブラヤシをブラジルに持ちこんでいたので、ブラジルではパーム油が利用できた)。

カラルーの栄養価を高めるために、奴隷たちはタンパク性の具材を加えようとした。トリニダードなどのカリブの島々は海がすぐ近くにあるため、海岸にいるカニを簡単に捕まえることができた。このように、最初の頃のカラルーにはカニが入れられていたという。

しかし、プランテーションから逃亡する奴隷が頻出するようになったため、1500年代半ばには移動の自由が完全に奪われ、海岸には近づけなくなってしまった。その結果、カニを入れることができなくなってしまったのだ(現在では、カニが再び入れられたカラルーが名物料理になっている島がある)。

その代わりになったのがだった。魚は畑の肥料として使用されていたが、農場主の目を盗んでカラルーに入れられるようになったという(もちろん見つかれば厳罰に処された)。農場主はこれを防止するために、肥料に塩漬けの魚を使うようになった。高温のカリブ海では、塩魚を食べて塩を摂り過ぎてしまうと水分が不足して脱水症状が出てしまうからだ。

それでも奴隷たちは、塩魚を何とか塩抜きしてカラルーに入れて食べたという。そうでもしなければ、すぐにタンパク質不足に陥り、生きて行けなかったからだろう。

また、炭水化物不足を補うために団子をカラルーと一緒に食べることが多かった。団子は現在では小麦粉で作られることがほとんどだが、植民地時代には奴隷がコムギを栽培することは難しかったので、代わりに中南米原産のキャッサバを使用した。キャッサバには毒が含まれていることが多いので、すりつぶしたものを1日ほど置いて毒を分解させる。そして団子状にこねたものをゆでるか油で揚げるかして食べるのだ。

こうしてトリニダードやジャマイカなどでは、カラルーに塩魚(主にタラ)を入れ、それに団子を添える「Callaloo, Saltfish and Dumplings(カラルーの塩魚と団子添え)」という伝統料理が食べられ続けている。


Callaloo, Saltfish and Dumplings(Kevinによるflickrからの画像)

カカオ・プランテーションのはじまり-中南米の植民地の変遷(3)

2021-10-19 20:22:35 | 第四章 近世の食の革命
カカオ・プランテーションのはじまり-中南米の植民地の変遷(3)
日本人は1年間に約2.1㎏のチョコレートを食べているそうです。かなり多く見えますが、消費量1位のスイスでは8.8 kgだそうで、日本人の4倍も食べています。

消費量2位以下には、オーストリア・ドイツ・アイルランド・イギリス・スウェーデンといずれもヨーロッパの国々が続きます。ちなみに、日本は25位となっています。

歴史を眺めてみると、ヨーロッパの国々は17世紀頃からチョコレート(カカオ)の虜になったことが分かります。そして、その需要を支えていたのが、ラテンアメリカでのカカオの大農園だったのです。

今回は、このようなラテンアメリカにおけるカカオ・プランテーションの展開について見て行きます。


カカオ(Stana54によるPixabayからの画像)

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1502年に第4回目のアメリカへの航海で、コロンブスは現在のニカラグアに上陸した。そして、カカオ豆が通貨として使われていることをヨーロッパ人として初めて発見した。また、1513年にアメリカに渡った探検隊は、カカオ豆100粒で奴隷を買ったと報告している。さらに、カカオ豆10粒で売春婦を、カカオ豆4粒でディナーためのウサギを買ったらしい。

1519年に現在のメキシコの一部を征服したエルナン・コルテスは、カカオ豆の通貨としての価値に将来性を見出し、最初のカカオ・プランテーションを設立した。なお、1528年にコルテスはスペイン国王にカカオ豆を贈ったという話があるが、これについては確かな根拠はないそうだ。

メキシコなどのラテンアメリカでは、スペインからの移住者たちも次第にカカオ飲料を飲むようになった。ただし、スペイン人たちの好みに合わせて、アステカの原住民が入れていたトウガラシの代わりに、シナモンやコショウ、アニスなどが入れられるようになった(バニラはそのまま使われた)。また、アステカのカカオ飲料は冷たかったのに対して、スペイン人たちは温かいカカオ飲料を好んで飲んだという。

ヨーロッパの記録にカカオが最初に登場するのは1544年のことだ。キリスト教修道士にともなわれてスペインにやって来たマヤ族の貴族が、スペイン皇太子のフェリペに泡立てたカカオ飲料を献上したとされている。そして17世紀なると、スペイン宮廷を中心に上流社会でカカオ飲料が大流行するとともに、一般国民も大きな催事でカカオ飲料を楽しむようになった。また、カカオ飲料は、スペインが支配していたポルトガルやイタリア南部に遅くとも17世紀の初めには伝わったと考えられている。

一方、フランスには17世紀の半ばまでにカカオ飲料が伝わったと考えられているが、本格的に広まるきっかけとなったのは、1660年のスペインのマリア・テレジア王女とフランスのルイ14世との結婚だ。彼女が王宮にカカオ飲料を持ちこみ、それ以降、上流階級の女性に好んで飲まれるようになった。そして宮廷の公的行事では、常にカカオ飲料がふるまわれるようになったという。

イギリスでは、1657年にフランス人がロンドン初のチョコレートショップをオープンしたという記録がある。そして1674年には、ロンドンのとある先進的なコーヒーショップで、カカオの入ったケーキが作られた。

また、ドイツやオーストリアには1700年代の前半にカカオ飲料が伝えられ、広く飲まれるようになった。

このように、カカオ飲料はヨーロッパの各地で広く飲まれるようになり、カカオの消費量が増大して行った。それを供給していたのが、ラテンアメリカのカカオ農園だったのだ。

メキシコ南端のソコヌスコ地方はアステカの王家にカカオ豆を献上していた歴史を有するが、スペインが占領してからは1820年までスペイン王室のための最高級のカカオ豆の生産地となった。この地域では、伝統的なカカオ農園が現在でも続いている。

ソコヌスコに加えて、その南に位置する現在のグアテマラは、16世紀中はカカオの中心的な生産地となっていた。ところが17世紀に入ると、両地方でのカカオの生産量が減少するとともに、ヨーロッパでの消費量が増えて来た。その結果、カカオの価格が高騰したのである。

うまい儲け話には人が群がるのは今も昔も同じで、この状況を受けて他の地域での大規模なカカオ・プランテーションが始まったのだ。その最初となったのがエクアドルのグアヤキルベネズエラだった。



グアヤキルには野生のカカオ(フォラステロ種)が生えていて、それ以外の木や草を刈るだけで大きな農園を作ることができた。なお、フォラステロ種はメキシコ原産のクリオロ種に比べて味は落ちるが、育てやすくて多くの実をつける。これを黒人奴隷を用いて大規模栽培したため、価格を低く抑えることができたのだ。

一方のベネズエラではクリオロ種が育てられており、そのカカオは「カラカス」と呼ばれて質の良さで高く評価されたという。ここでもアフリカの黒人奴隷が用いたプランテーションが営まれた。

こうしてグアヤキルとベネズエラは、17世紀から18世紀にかけてヨーロッパ向けのカカオの主要な輸出国となった。

ベネズエラの北側60㎞の位置にするキュラソー島は1620年代にオランダ人が征服し、海軍基地を作った島だ。また、海外貿易の拠点としても重用された。オランダはカカオをベネズエラからキュラソー島に集め、主要な貿易品として船で運び出した。日本には18世紀末の江戸時代にオランダ商人の手を通じてチョコレートが伝わったと言われているが、そのチョコレートもキュラソー島から運ばれたものと考えられている。

フランスは1635年にマルティニーク島を植民地化した。そして1660年頃に黒人奴隷を使ってクリオロ種のプランテーションを始めた。その栽培はグアドループ島やフランス領ギアナにも広がり、18世紀の間、これらの植民地で採れるカカオだけでフランス本国の需要をまかなうことができたと言われている。

ブラジルではイエズス会の修道士が初期のカカオ産業に関わった。修道士たちはアマゾン川流域にフォラステロ種の群生地を見つけたので、布教を行うという名目で原住民を集めて村を作り、野生のカカオを集めさせたのだ。こうして17世紀から18世紀にかけて、カカオはアマゾン川流域の主要な輸出品となった。

ところが、1740年代と1750年代に感染症が流行して多くの原住民が亡くなったため、この事業は中断を余儀なくされた。さらに、1759年にイエズス会はポルトガルの指導者との不仲から、ブラジルから追放される。また、1767年にはスペインからも追放され、1773年にはローマ教皇によって事実上の解散に追い込まれた。

最後に、カカオ第3の品種である「トリニタリオ種」が誕生したいきさつを見ておこう。

トリニタリオ種が生まれたのはコロンブスが1498年に発見したトリニダード島だ。この島には1525年頃にスペイン人によってクリオロ種が持ち込まれ、カカオがこの島の主要な生産品の一つとなった。ところが1727年までに、何らかの理由によってそのほとんどが枯れてしまったという。

島を復興するために、30年後の1757年に、今度はフォラステロ種の苗木が持ち込まれた。そして、この木と、残っていたクリオロ種の木が交雑することで、トリニタリオ種が誕生したのだ。トリニタリオ種はクリオロ種のように味が良く、フォラステロ種のように丈夫で、たくさんの実をつけたという。

トリニダード島はその後、フランス・オランダ・イギリスによる争奪戦に巻き込まれ、1802年にイギリスの領土となったが、トリニタリオ種は今でもトリニダード島の名産品として栽培されている。